クリミアと沖縄

ウクライナに対し、ロシア軍が軍事侵攻に踏み切るのではないかと、緊迫した状況が続いている。それも情報戦・神経戦の様相を呈しており、双方とも「意図せざる」ことがおきても不思議ではない。
ロシアは、NATOの東方拡大をウクライナまで及ぶのは許し難いところがある。
歴史を遡るとその起源のひとつが、ノルマン人が9世紀頃、現在のウクライナの首都キエフを中心とした「キエフ公国」で、ウラジミール1世がキリスト教に改宗して発展した。モスクワもその領内にあった。
プーチン大統領は、ウクライナはロシアとのパートナーシップを築いてのみ、主権を実現できると主張している。
また、不凍港が欲しいロシアにとって、ウクライナの地政学的重要性は死活的。
今からちょうど60年前に、冷戦時代の米ソの軍事的な緊張が一気に高まった「キューバ危機」が思い浮かぶ。それはまさに「心理戦」だったからだ。
1962年8月、アメリカのU2機が、そのドテッ腹の社会主義国家キューバに、ソ連のミサイル基地が建設されているのを発見する。
当時のアメリカ大統領ケネディは、ソビエトによるキューバへのミサイル配備に海上封鎖で対抗する一方、キューバを攻撃しないと約束し、さらにトルコに配備したミサイルの撤去なども密かに提案した。
当時の米ソ双方は相互不信による相手の意図の読み違いがあり、核戦争の一歩手前までいった。
2005年のNHK・BSの番組「ケネディ~愛と死」では、「キューバ危機」を米ソリーダーの心理面に焦点をあて、人間ドラマとして読み解いていた。
結論を先にいうと、キューバ危機を救ったのは、ケネディの勇断というより、フルシチョフとの間でひそかに築かれた「共感」というべきものだった。
それは、両者とも好戦的な軍の圧力下で重大決断を下さねばならないという、同じような境遇から生じたものだった。
二人は1961年6月3日、オーストリアのウイーンでの米ソ首脳会談で最初に会っている。
核実験停止問題とベルリン問題について、双方の主張を繰り返す事に終始し、結局何の進展も成果も無く終わった。
しかしこの会談で、親子ぐらいの年齢差のある二人の間に生じた「奇妙な睦まじさ」に気づいたものは少なかった。
両首脳は再び会うことはなかったものの、「書簡の交換」を通じての接触は、ケネディ暗殺直前まで続けられていたという。
キューバ危機13日間のハイライトは、フルシチョフが出した「アメリカがトルコからミサイルを撤去しない限り、キューバから核施設を撤去することはない」という文書を読んだ時のケネディの反応である。
ケネディは「この手紙には心がこもっていない」と感じとった。つまりフルシチョフが本心で書いたものではないと判じたのである。
そしてケネディは「フルシチョフは、けして戦争を望んでいない。軍の圧力に苦しんでいる」と見抜いたのである。
ケネディは、「海上封鎖」まではしたものの「キューバ侵攻」に踏み込むのをを思いとどまった。それゆえケネディは、軍からみて「弱腰」とみられたのである。
当然ケネディは、キューバ侵攻が「人類の終局」に至る道であることを思い描いていた。
そして1962年10月27日、フルシチョフは突然、キューバからの「核撤去」を発表し、人類最悪の危機は去った。
巷間では、ケネディの勇気がキューバ危機から世界を救ったといわれる。しかしその勇気は「弱腰とみられること」を克服したもので、それが危機に打ち克ったともいえる。

今日のウクライナの情勢は、天然ガス及び石油の値上がりに拍車をかけそうだが、それ以上に、後述するように将来の日本の安全保障にも深く影響する。
アメリカは冷戦後も、様々な口実をつけてイランやイラクやアフガニスタンをはじめ中東諸国で軍事力を展開しているが、その本当の狙いは「石油資源」の安定確保に他ならない。
今から20年ほど前、ウクライナ共和国のすぐ東方に位置する「グルジア共和国」という国が注目されたことがあった。
グルジアといえばワインの発祥地で、独裁者「スターリンの生誕地」としても知られている。
グルジアは天然資源もない小国で化石燃料をロシアにたよっている。
そんなグルジアが世界の「資源戦略」において重要度を増したのは、バクーなどの一大油田を擁するカスピ海と黒海を結ぶ回廊上にあり、「石油パイプライン」が通ることになったためである。
現在「グルジア共和国」の名は「ジョージア共和国」となっている。ロシア語表記の「グルジア」を英語表記にしただけのことだが、その変化には深い意味合いがある。
それは、2008年にロシアと武力衝突した旧グルジア政府は、翌年からロシア語に由来する呼称を変更するよう各国に要請しており、それに応じたためだ。
現在、バクーとシリア国境付近のシェイハンを結ぶ、全長170キロメートルに及ぶパイプラインが建設された。
ただし、2021年9月にアフガニスタンから撤収したので、アメリカの壮大な「パイプライン計画」は、一部頓挫したということか。
トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」や、軍事的コストに対して、石油という資源価値の相対的な価値の低下も原因ではなかろうか。

♪西には西の正しさがあるという。東には東の正しさがあるという♪。中島みゆき「旅人のうた」2番の出だしだが、♪何も知らないのはさすらう者ばかり♪と続く。
東ウクライナの親ロシア派が、バスで避難をしている姿が映像で見られる。ロシアはこの「親ロシア派の保護」を侵攻の口実にする可能性が高い。
とはいっても、ロシアの南下政策は宿命的である。それは黒海から地中海に抜ける「不凍港」を必要としており、必然的にウクライナの黒海に面したクリミアは軍事的な要衝であった。さらに、同沿岸のヤルタ・ソチを含むロシアの保養地だ。
クリミアといえば、現在はウクライナ共和国内の、”自治共和国”という位置づけである。
モンゴル系のクリミアハン国が15世紀以来支配して、現在クリミア・タタールと呼ばれる人々が住んでいた。
ところが、ロシア帝国が18世紀に併合し、セヴァストーポリを基地とする「黒海艦隊」を創設した。
そしてソ連時代、タタール人はスターリンにより中央アジアに「強制移住」させられ虐殺されたという歴史がある。その結果、クリミアの6割はロシア系の人たちとなったのである。
クリミアは1954年にロシアからウクライナに移管された。ソビエト連邦の枠内でクリミアはウクライナ領となったのである。
一説にはウクライナ人でもあるソビエト共産党書記長のフルシチョフが、ウクライナとロシアの統合300周年の贈り物としてウクライナ共産党幹部の歓心を買うためにクリミアをウクライナに与えたともいわれる。
ところが1991年にソ連が崩壊したことから、この重要な「戦略的拠点」と艦隊を失うまいとするロシアと、ロシアの「覇権主義」を警戒するウクライナの間で対立が生じることになった。
そこで、1997年、ロシアとウクライナは艦隊と基地を分割する「協定」を締結し、ロシアは基地の使用代をウクライナに支払う形で、艦隊の維持をする。
それに対してウクライナも、この協定によってロシアに対する「エネルギー債務」を相殺するというかたちで一応落ち着いた。
しかし、ウクライナ共和国では、クリミアに近いソチ・オリンピックと前後して、ロシア寄りに転じたヤヌコービッチ大統領が辞任させられ、EU寄りの「暫定政権」ができると、クリミアのロシア系住民はロシアへの帰属を求める運動を起こした。
それにに呼応するようにロシア軍が侵攻してクリミアを事実上掌握している。
ロシアは「住民投票」の結果を受けて、クリミアの「編入」するかまえを見せているが、ウクライナの暫定政権は「住民投票」は憲法に違反し、認められないとして強く反発している。

ロシアにおける軍事的要衝がクリミアならば、アメリカの太平洋における軍事的要衝とえば「沖縄」。
軍事的要衝でありつつ保養地(観光地)という共通項もある。
ためしにアジア地図を上下反対に回転させると、南洋諸島を含む日本列島は、中国やロシアから太平洋への進路を弧状に「封鎖」できることがわかる。
特に沖縄は、石油の供給ルートたるインドからの南洋にも面し、その地政学的重要度は、ロシアにおける黒海から地中海にぬけるクリミアとも似ている。
また、沖縄は中国に帰属した時代もあり、クリミアと同じように複雑な歴史を歩んだ。
14世紀には、今の沖縄本島に3つの政治勢力が生まれ、大陸に成立した「明王朝」に朝貢しつつ、互いに勢力を争ったが、1429年には統一されて「琉球王国」が成立した。
この琉球王国は、自国民には貿易を禁じていた明に貿易を代行する役割を与えられ、東南アジアや室町時代の日本、朝鮮に船を送ってさかんに交易をおこない、東南アジアの香料や日本の刀剣などの品ものを朝貢と通じて中国に供給し、おおいに栄えた。
おそらくこの頃に、首里城や石畳の城下町は「金城」(カナグスク)とよばれるようになったに違いない。
しかし16世紀の半ば以降、中国人による「密貿易」がさかんになり、ポルトガルやスペインやマカオやマニラに貿易の拠点を築いて日本との貿易に乗り出すと、琉球の中継貿易は翳りをみせた。
そして1609年、薩摩の島津家は琉球に侵攻し、支配下におさめた。
ただ琉球の洗練された文化が保存されたのは、日本側の都合にもとずく意外な理由からであった。
琉球は徳川幕府から薩摩の領地の一部と認定されたが、他方では中国と日本との関係を取り結ぶため、中国への朝貢を続ける「異国」とも位置づけられた。
この「日中両属」という関係は、明が滅んで清となっても変わらなかった。
そうした微妙な関係の中で、徳川幕府と島津家は、「国内向け」に、日本が「異国を従えているよう」に見せるために琉球を利用した。
琉球の使節が島津家にともなわれて江戸に向かう時は、中国に近い「異国風」の姿をするように求め、そのためもあって日本の内地とはかなり異なる文化が保存・強化されることになったのである。
今の沖縄の人々の中国への意識はどうであろうか。前前翁長県知事は2005年、那覇市の姉妹都市である中国福建省福州市から「名誉市民」の表彰を受けているし、前知事仲井県知事もそのルーツは中国である。
さて、首里城で最も目立つ中国式の門の屋根に掲げられた額には「守禮之邦(しゅれいのくに)」という4つの文字が書かれている。
これは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味であるが、明朝第13代の皇帝・万暦帝が琉球に贈った詔書の中の文字から名付けられたものである。
さらには、首里城正殿は正面が南向きではなく、中国が位置する方向(西向き)に建てられている点。
これは建築士のミスではなく、琉球にとって当時の宗主国であった中国が西側に位置するため、中国に「敬意」を表すために、琉球王朝のすべての建築物の正面が「西向き」に建てられているのだ。
また沖縄の至る所に見るシーサー(狛犬)を置くという風習は14世紀に中国から伝わったとされる。中国と同様、沖縄の人もシーサーが魔除けの効果を持つ「守り神」だと信じていた。
1609年に薩摩藩が琉球に侵入して以来1879年まで、琉球は日本に支配されたが、福建省からの移住者で占められる久米村の住民の多くが清朝側を支持した。
「親清派」は久米村を拠点に日本による併合に反対すると同時に、琉球王朝の復活に協力するよう、清朝に願い出たりもしている。
しかし「甲午戦争」(日本名・日清戦争)で清朝が敗れ、清朝を支持していた住民の多くは、清に「亡命する」という道を選んだ。
それから1940年代前半、太平洋戦争で日本が連合軍に敗れ、沖縄はアメリカの施政下にはいる。
1966年に成立した佐藤栄作内閣は、沖縄復帰を政治的使命として、アメリカと交渉を続けてきた。
そして1972年に「核抜き・本土並み」をうたって実現した「沖縄返還」だが、その裏で様々な密約が、日米首脳の間で取り交わされていたのである。
アメリカは核兵器の撤去を検討するが、「沖縄の基地の自由な使用を最大限求める」ということと、「有時の際には核兵器の貯蔵と通過の権利を得る」という条件を出し、日本側がこれを認めなければ「核ヌキ返還」はないと追い込んだ。
結局、アメリカは沖縄返還の見返りに、日本側から様々な「譲歩」を引き出し、この「譲歩」内容が密約として交わされたのである。
山崎豊子の「運命の人」(2009年)は、沖縄返還交渉の裏側にあった「密約」の機密漏洩という実際の出来事をモデルとして、2012年に本木雅弘、真木よう子主演でドラマ化された。
当時アメリカにとってベトナム戦争への巨額な出費が負担となっていた。そのため、アメリカ議会で返還に伴う財政負担は、日本が支払うべきだという声が大勢を占め、返還にともなう費用は「ビタ1ドル出さない」意向でまとまっていたのだ。
その一方、日本国民には知らされない巨額のお金が支払わされていた。
自民党政府は長く沖縄返還に際してアメリカとの間に「密約はない」と主張してきたが、2009年に「民主党政権」になったことが大きく、当時の岡田外務大臣がその公開を外務省に命じたことがきっかけである。
ウクライナにおいても、「密約」ではないが、反故(ほご)になった約束事がある。
ソ連崩壊時、ウクライナには176台のミサイル発射台、1240基のICBM核弾道ミサイル、3000の戦術核兵器があった。
これらの核兵器は、ソ連崩壊にともなう混乱に乗じて、拡散する恐れがあった。
そこで、それを深く憂慮したアメリカのクリントン大統領とイギリスのメイジャーが音頭をとって、ロシア共和国のイェリツィンとウクライナ共和国のクチマ大統領を抱き込み、これらの核兵器を無力化する計画を推し進めた。
その際の切り札となったのが、ウクライナは核を放棄する代わりに、将来永劫にわたって領土を始め国家の安全を保障されるという(ロシアを含めた)国際社会の約束だった。
そしてウクライナは、英米やロシアの約束を信じて核兵器を放棄することになった。
これが1994年の「ブダペスト合意」と呼ばれるもので、その「ブタペスト合意」が2014年のロシアによるクリミア半島の占領によって破られた。
ウクライナがそのまま核保有をしていれば、今の事態とは違ったはずだ。
もしもロシアのウクライナ占領となれば、1930年代に、日本軍による柳条湖事変をきっかけとした「南満州鉄道支配」(点的支配)から、満州事変における「面的支配」に及んだのに似てくる。
ともあれ、日本の安全保障に関わってくる。仮に中国が台湾に侵攻する場合、アメリカがどう反応するかを、中国は見守っているはずだからだ。
実際、中国はアメリカを念頭に「世界の一部勢力は他国の内政に干渉し、正当な権利と利益を損なっている」と批判しているが、それは将来の「台湾侵攻」を見据えたような言葉にも聞こえる。
アメリカの出方如何では、中国の「台湾併合」への動きが加速することにもなり、日本は沖縄の米軍基地を介して直接的・間接的に、関わることになる。

かつて、ニクソン時代の国務長官キッシンジャーの書斎に「シェークスピアの全集」が置いてあるのに気づき、そこにキッシンジャー外交の秘訣をみたと書いた記者がいたのを思い出す。
番組「ケネディ~愛と死」では、意外にも、ケネディに障害のある妹の存在をとりあげ、それがケネディに人の心を見抜く能力を養ったとコメントしていた。
かつてイギリスの3C政策が3つの都市(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)を海路で結び、ドイツの3B政策が3つの都市(ベルリン・ビザンティウム・バクダード)を鉄道で結んだが、アメリカは、レバノンからシリア、イラク、イラン、アフガンという「親米政権」を作って、米国企業が石油と「パイプライン」を独占するという壮大な計画をもっている。