アカデミズム対アンラーン

陸上の世界大会でメダルを獲得し、いまも日本記録を保持する為末大が、陸上競技から学んだこと。
それは、目標を立て計画通り行うことであり、自分の力でやり切ること。
ところが陸上競技の世界を引退し、ビジネスの世界に転身すると、「陸上の学び」が通用しない。
陸上競技のルールと違い、社会状況は日々変わる。だから計画を立てても、その通りには進められない。
チームワークでは他者に頼ることも大事なのに、自分だけの力でやってしまおうとする。
なぜ自分はうまくできないのか、相当の時間を経て、為末は何が原因なのか分かるようになったという。
前の世界の学びを引きずり過ぎていたのだ。とくに陸上競技では成功し自信もあった分だけ、「変化」できなかったのだ。
そこで出てくるキーワードが、「アンラーン」。
文字通りの解釈では「学ばないこと」だが、ここでは「身につけた思考のクセを取り除くこと」。
為末の場合は、緻密に計画を立て行動することや、自分の力だけで問題を解決しようとすることが「思考のクセ」であった。
それらは陸上競技という環境に適応したパターン化した思考である。
「成功体験」こそが、適応を阻害する大きな要因となるということは、日本の産業社会においてそのまま当てはまる。いつまでも大量生産の時代を引きずっているからだ。
そこで「以前はこうだった」「こういう時はこうするものだ」という思考のくせが生じやすい。
「そんなこと当たり前」と、事態の変化に気がつかないままスルーする。
現代では、情報の価値が物量の力に優ることが多い。
現在起きているウクライナの戦場でも、戦車が脆さを露呈している。人工衛星によるGPS機能で位置情報を得て、個人が装備して使用する携帯砲ジャベリンやドローン攻撃によって、ロシアの戦車部隊が次々に破壊されている。
一方でロシアは「遠隔戦」では勝てても、市街戦で勝つのは難しいことをアメリカの失敗から学習しており、市街戦の経験が豊富なシリア兵を雇っている。
人生は今や100年時代、学び続けることは不可欠だが、いったん頭を空っぽにして、自分をニュートラルにすることがあってもよい。
しかし、どうすればそれが出来るか。案外と経験豊かな専門家よりも、アマチュアや素人の話の中にヒントがあるのかもしれない。
為末らは、人の話を最後までよく聞くこと、読書などによって自分とは異なる世界の考え方にふれることをすすめる。
そもそも、素人が専門家に劣ると思うこと自体が「思考のクセ」といえる。素人なりのメリットは、既成の枠に捉われない自由な見方ができること。
ひとつのパラドクスをあげると、ある分野で評価が高まれば高まるほど、ある種のギルドの世界に生きることになる。
ギルドにおいては、秩序を乱すようなことをしてはならない。「秩序を乱す」とは、「新しい価値」や発見をすることも含まれている。
それはアカデミズムのある分野でありがちなことで、業績をあげるのは実力者の息がかかったものに限られるといった世界である。
そこに専門家の弱点があり、ギルドフリーな素人の勝ち目があるといえる。
アルベルト・アインシュタインは、ニュートン以来の時空の概念を根本的にかえるような理論をうちたてたが、彼が驚愕の理論を発表したのは、いわばアマチュア時代であった。
アインシュタインは1896年にチューリヒ工科大学に学ぶが、卒業後大学に職探しがうまくいかず、友人の紹介でスイス・ベルンの特許局に就職する。
ところが、特許局にはアカデミックな空間がどこにもないことを思い知らされ、勤務時間後に自宅で自分の理論研究をこつこつと行った。
また時間を無駄にしないように人との接触をさけ、休み時間でも思索にふけった。
自然、ぱっとしない役所勤めの男と思われていた。
1905年、研究の成果を3つの論文に発表した。
第一の論文は「光電効果」に関するもので1922年にノーベル物理学賞を受賞する。
第二の論文は特殊相対性理論に関するもので、この論文が「一般相対性理論」とともに、物理学の革命をもたらす。
第三の論文は、統計力学に関するもので原子の実在を明確にするものであった。
1908年、特許局に勤務するかたわらベルン大学の私講師のポストにつくことになり、これがアカデミズムの場での最初の仕事であった。
我が地元・福岡には、素人の「アンラーン」がものいった場面がある。
その一人が久留米の有馬家に仕えた儒家をルーツとする小説家・広津和郎である。
1948年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
まず、事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による無実の訴え「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のかげりもないと直感したからだ。
しかし広津は小説家であり、刑事事件の専門家ではない。いわば「素人」である。
当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「老作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津は新しい証拠を見つけたり極秘資料を探したりしたわけではない。
広津はもともと少ない「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していった。
広津の唯一の武器は、作家としての言語感覚で、最高裁にける被告の「全員無罪」判決獲得の最大の功労者となった。
前述のようにアカデミズムの世界で「ギルド化」の傾向がみられるのが、考古学学会である。
そのアカデミズムの世界に楔を打ち込んだのが、アマチュア考古学者の相沢忠洋であった。
従来日本では「旧石器時代」は存在しないと、関東ローム層より下層の発掘は行わなかった。
しかし相沢は行商の途中、関東ローム層に石器をみつけ、日本の「旧石器時代」の存在を証明して、先史時代の新たな扉を開いた。
また、考古学者が考えも付かなかった発想で、古代遺跡の場所をピタリとあてた医者がいる。
中山平次郎という一人の九州大学の医学部教授が「歌に読み込まれた」少しばかりのデータをヒントに古代の迎賓館であった鴻臚館の位置の推定をし、その場所が後年の発掘によってその推定の正しさが見事に「立証」されたことに、いたく感動した。
中山平次郎は、まず鴻臚館を訪れた遣新羅使が故郷・新羅を思い詠んだいくつかの歌に注目した。
例えば「万葉集巻15」の736年の遣新羅使の詠唱する歌「山松かげにひぐらし鳴きぬや志賀の海人」の中の「志賀の浦」などに注目した。
この歌から鴻臚館(筑紫館)は、志賀島と荒津浜を同時に見渡せ荒津の波呂が同時に聞こえる小高い丘にあったことがわかる。
この歌は鴻臚館から朝鮮の故郷を望んだ歌とされるものであることから、志賀島が眺望できて山松のかげの蝉声が詠まれる条件を満たす場所が福岡城内において外に求められないとその所在を推定したのである。
鴻臚館の発掘は平和台球場のとり壊しの際に行われたものであるが、この場所の発掘により中山平次郎博士の予測の正しが証明されたのである。
1956年に亡くなった中山平次郎博士の死後約40年めのことであった。

経済学の古典派は、「アダム・スミス→リカード→マルサス」という系譜ある。
アカデミズムに属するアダムスミスが「予定調和」の世界観を示したのに対し、リカードはポルトガル系ユダヤ人で富豪となり、いわば野の人として「政策提言」を行った。
その点で、後のケインズとネイサン・ロスチャイルドを合わせたような人物である。
ところでイギリスで最初に「金本位制」が停止されるのは、ナポレオンの軍隊がウエールズの海岸に上陸した時である。
人々はパニックに陥り、安全資産としての金貨を求めて地方銀行に殺到し、あるいは大陸への遠征軍や同盟国への送金のために金貨を調達しようとした。
当時、民間銀行でしかないイングランド銀行には自らの準備金を防衛しようとする誘因が働くのは当然のこと。
反面、地方銀行が頼ってきているときに貸し出しを拒否しては、パニックは広がるばかり。
そこでイングランド銀行は自然と「中央銀行」としての役割を期待されるようになるが、イギリス銀行がその役割を充分には果たしていないと批判し、「国立化」を主張したのがリカードである。
そして生まれたのが「信用創造」の仕組みである。
1815年、ナポレオンがワーテルローで破れて平和が訪れると、「金本位制への復帰」が議論されるようになった。
この時、リカードは、もうひとつ重要な提言をしている。それは戦後不況のなかでの「金本位制復帰」には、国内経済にデフレ圧力がかかることにも懸念を示したのである。
なぜかといえば、戦時下では、金(きん)の量に制約されては「いくさ」はできない。
そこで金本位制を離脱するが、通貨量拡大のインフレによって金本位制下の固定相場に比べて、金に対するポンドの価値は下がる。
そこで以前の平価(旧平価)で復帰するためには、ポンドの価値を大幅に「切り上げ」なければならない。
つまり「金の価値と紙幣の額面価値」を等しくすることが求められるが、通貨縮小によるデフレーションが生じる。
そこでリカードは「ポンド安」の現状にみあった「新平価」での金本位制復帰を提言した。
しかし政府は「旧平価」で復帰を行ったため戦後不況は長引き、第一次世界大戦の勃発とともに「再離脱」することになる。
結果的にリカードの懸念は裏付けられたことになる。
日本も、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を「禁止」したため、それに追随した。
大戦後、欧米諸国は相次いで「金本位制」に復帰、日本もこれに続き復帰しようとした。金本位制への復帰(金解禁)の主な目的は「為替相場」の安定と、「輸出拡大」による国内産業の活性化である。
しかし、関東大震災や金融恐慌といった混乱のためそれが遅れ、貿易も著しく停滞した。
しかし1930年1月、浜口内閣はようやく政策の目玉である「金解禁」を断行した。
しかし問題なのは「新平価」(現状に見合う円安)ではなく、「旧平価」(金本位制停止以前の平価)で金解禁を行ったことである。
その結果、事実上の「円の切り上げ」になり、「輸出拡大」による景気浮揚効果が期待できなくなった。
しかし浜口内閣は、英国が債務国に転落する一方で、第一次世界大戦でアメリカは好景気にわいており、円が多少上がったところで、それほどに輸出に影響は出ないだろうと考えていた。
実際「金解禁」は、国民に「不景気打開策」として売り込まれていたのだ。
なぜなら金解禁に備え「円切り上げ」でも輸出が伸びるように「緊縮財政」を進めて物価を下げた上での「金解禁」であったからだ。
国民の株価もあがり、浜口内閣は得意の絶頂にあり、「衆議院」を解散し総選挙を行い、その思惑通り、選挙において浜口率いる立憲民政党の圧勝となった。
ところがその頃アメリカは、「恐慌」という底なし沼に足を踏み入れており、日本が期待した輸出はまったく伸びなかったのである。
他の国々も為替レートを米ドルに対して固定的に維持しなけならず、経済を引き締め的に運営せざるをえなくなる。
そして、金本位制を通じてデフレ圧力が世界経済を伝播されていき、1929年の10月ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、「暗黒の木曜日」となったのである。
イギリスが金本位制を離脱し、ヨーロッパの金融恐慌が深刻化し、日本で金輸出が「再禁止」になるのは時間の問題だった。
その前にアメリカのナショナルシティ銀行は日本から金貨を輸入しまくり、他の銀行もこれに追随した。紙きれになったようなドルでも、金との相場は固定されているからだ。
蔵相の井上準之助は、金の流出は物価下落により輸出が増えていく前兆だと強気だったが、日本の輸出が増えるはずもなく、株価や物価が下落し、中小企業が次々と倒産、完全失業率も増えていった。
ところでイギリスでの「金本位復帰」の際に「通貨切り下げ」(新平価)という現実路線はどうして退けられたのか。
冒頭に述べた政府当局者の「思考のくせ」のようなものを感じる。
歴史的にみて貨幣の発行券は王にある、王にそれが集中することで近代国家が成立する。イギリス硬貨にはエリザベス女王が彫られ、いわば貨幣が対内的にも対外的にも、「王の広告」の役割を果たす。
イギリス政府が「ポンド切り下げ」(新平価復帰)を躊躇したのは、大英帝国の「面子」があったことが大きいであろう。
あるいは「予定調和観」に基づく、伝統的な市場メカニズムへの信奉のせいか。
では等しく「旧平価解禁」を行った日本はどうか、国体(天皇制)対する「不敬意識」があったのではなかろうか。
しかしそれよりも重大なのは、血も涙もある不調和な世界に、予定調和という「思考のクセ」をもちこんだことである。
通常、デフレ政策を行う場合は、それなりの福祉対策や失業対策を十分に用意しておくのが常識だが、そんな意識は働いたのだろうか。
現状から「旧平価」に戻すというのは、経済の自動調整機能を過信したためでもある。
背景にあったのは、「不良企業は退場すべし」という残酷な清算意識である。
政府当局は、第一次世界大戦期の好景気を「空(カラ)景気」とみなし、不景気によって不良は淘汰され「健全な経済」がもたされると考えたフシさえある。
それに対してジャーナリスト石橋湛山は「アンラーン」の視点で現状に見合った「新平価解禁」を主張するも、リカード同様に少数派にとどまった。
現実の経済を見つめてきたリカードにとって、必ずしも予定調和の世界ではなかった。リカードが経済学に目覚めたのは、豪邸を建てて引退し、保養地でアダムスミスの「国富論」を読んでからであった。
作家の城山三郎は「男子の本懐」という本で、昭和の時代に軍部と戦い「予算削減」を断行した浜口雄幸首相と井上準之助蔵相コンビ を信念を貫いたものとして評価している。
しかし「旧平価」での「金解禁」が昭和恐慌から「軍部」台頭をまねいたことを鑑みれば、東京駅構内で射殺された際に浜口が発した「男子の本懐」なんていう悠長なこといっている場合ではなかった。