ミノタウロスとイカロス

戦争で敵国を爆撃する場合には、まずは敵国の軍事的拠点を攻撃するのが常道である。ただドイツ軍によるスペイン爆撃は少しばかり趣が違っていた。
スペイン内乱中の1937年4月26日ナチス・ドイツ軍がゲルニカという町を爆撃した。
しかし、この平和な都市を火の海にする相当な理由はなにひとつ見当たらなかった。
工場もなく軍事施設もない町、となると実験または見せしめということであろうか。
実際にこのとき初めて使われた「焼夷弾」は2年後、第二次世界大戦で猛威をふるうことになる。
とはいえ、この悲劇には別のニュアンスがある。
それは、日本が世界初の被爆国となったことと幾分、近いかもしれない。
イベリア半島にスペインの北東からフランス南西部のピレネー山脈周辺にかけて居住するのがバスク人。
バスク人は「系統不明」の少数民族であるが、このバスク人が住む田園都市がゲルニカなのである。
実はバスク人と日本人と関わりは深い。カトリック・イエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルもバスク人である。
サビエルは、1506年バスク地方のサビエル城に生まれたが、彼の父はナバラ王国の宰相であった。
ザビエルは家庭の恵まれた財産のおかげでパリ大学で哲学を学んでいる。
卒業後サビエルは仲間とともに「イエズス会」を結成し、そこのポルトガル人の状況を改善するためにインドのゴアへ行った。
その後マラッカで日本人のヤジロウに会い、一年間ゴアに戻って教育した後、日本へ上陸したのである。
ちなみに、ナチスがゲルニカ攻撃に使った焼夷弾は、その8年後、アメリカ軍のB29によってドイツの同盟国・日本の全土で炸裂する。
パブロ・ピカソの「ゲルニカ」、畳6畳分ぐらいあるこの画の前に立てば誰でも圧倒される。
その絵の解釈は様々である。ピカソは「ゲルニカ」を黒・白・灰という色調で描き、画の中の牡牛をファシズム、馬を抑圧された人民とする解釈。
また、戦争の無惨に対する怒りとか、平和への願いをこめて描いたとか、祖国スペインが、フランコ政権というファシスト集団によって自由を奪われたことに対する芸術家としての抗議などなど。
ピカソは、絵の中をゲルニカの町を想像させる具体的なものを取り払って、「ゲルニカ」を一つの町の惨状から「人類の惨状」へと普遍化している。
ピカソは、ただ単に人間の真実を描こうとしてしただけなのかもしれない。

テレビでギリシアの島々に残る遺跡の紹介を見て、エーゲ海の陽光の下、そうした島々で安穏と暮らす人々に羨ましさをおぼえた。
しかし歴史の真実は、そうした思いを吹っ飛ばす。平和な町並みや人々の生活は、いつでも「戦い」に転じられるメタモルフォーゼ(変異態)である。
地中海は船の通行路であり、船舶ばかりではなく海賊が拠点としようとした島々は常に海賊の「脅威」にさらされてきた。
そのため「迷路」のように街並みが形成されており、白塗りの住居のいたるところに「銃眼」の跡がなましくなましく残っている。
いざという時には屋根を伝わって逃げられるような建築上の工夫がなされている。
キリストの使徒・ヨハネはパトモス島にて人類の未来を予言した文書「ヨハネ黙示録」を筆記している。
11世紀には、このヨハネを記念して聖ヨハネ修道院が建てられた。
このパトモス島の住民たちは、聖ヨハネ教会で必要な資材や食糧を供給するために働く人々が多く、そして聖ヨハネ修道院は、修道院というよりまるで軍事要塞のような外観をしている。
人々の聖なる礼拝場でありつつも、いざという時には人々が逃げ込む要塞と化す。
そして島全体が聖ヨハネ修道院の「城下町」のような雰囲気である。
かつて海賊が来たときは、聖ヨハネ修道院には、屋根から屋根へと伝わって逃げ込めるような「屋上道」が用意しているということことであった。
ギリシアの島々を見るにつれ海賊の脅威がいかに大きかったかということを知らされる。
その一方で「海賊」として生きる他はない人々もいたであろう。
ローマ帝国に滅ぼされ行きき場のなくなった人々や難民などである。
さて我々日本人が「小泉八雲」の名で親しんでいるラフカデアィオ・ハーンの生誕地も、このパトモス島から遠くない。
1850年6月ギリシャの「レフカダ島(リューカディア)」でアイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。
そして生地レフカダ島から「ラフカディオ」という名が付いたのだ。
2歳の時、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。イングランドの神学校に在学中、16歳のときに左眼失明、父の病死、翌年に大叔母の破産など不幸が重なり退学する。その前後にフランスでも教育を受けた。
その後、アメリカの新聞記者として頭角を表し、ある出版社の「通信員」として日本にやってくる。
ハーンは、ふたたびこの島に帰ることなく、日本で生涯を終えている。
レフカダ島には、 驚くほど多彩な景観、手つかずの自然がそのまま残っているが、ハーンの作品のなかに、生まれ故郷のこの島の波音が、遠くこだましているに違いない。

古代エーゲ文明の中心のひとつがクレタ島のクノッソス宮殿である。ギリシア神話によれば、そこに「ミノタウロス」とよばれる半牛半人の怪物が閉じ込められていた。
牡牛の頭と筋骨隆々たる巨大な人間の体躯を持ち、牛頭でありながら人間を喰ったと言われる。
基本的に凶暴なイメージだが、その生い立ちと最期から、しばしば悲劇の象徴としても描かれる。
ミノースはまだ王位についていなかった頃、クレタ島の王になるべく海王ポセイドンに加護を求めた。
ポセイドンはそれを聞き入れ、その証としていずれ生贄に捧げる(神のもとに返却する)条件で白い牡牛をミノースのもとに遣わせた。
この牡牛は遣わされた島の名をとって「クレタの牡牛」と呼ばれた。
ミノースは牡牛の神威でクレタ島の王になることが出来たが、そうなると今度は牡牛を手放すのが惜しくなってしまう。
そこで他の牡牛を代わりに生贄に捧げるが、ポセイドンはこれに対して激怒。
クレタの牡牛を凶暴化させた上に、性愛の女神であるアフロディテの力を借りミノースの妻パシパエに、牡牛に対して欲情する呪いをかけたのである。
王妃パシパエは神の呪いにあらがえず、牡牛となんとかして交わりたいと苦悶する。
そして食客としてミノース王のもとにいた名工ダイダロスに助けを求める。
義理か好奇心かこの頼みを受けたダイダロスは、あろうことか牝牛の張りぼてをつくり王妃に中に入るよう促す。
嬉々として中に入った王妃は牡牛と交わり、彼の子を身ごもる。そうして生まれたのが牛頭人身の怪物、「ミノタウロス」であった。
こうして産み落とされた「ミノタウロス」は成長するに従い強靭な膂力と激しい凶暴さを身につけ、しかも好んで人間を捕らえてむさぼり食うようになった。
しかしいかに凶暴な怪物であろうと神の使いと王妃の子であり、殺せばポセイドンの更なる不興をかう可能性もある。
そのためミノース王はダイダロスに命じて地下に巨大な「ラビュリントス(迷宮)」を作らせてその中にミノタウロスを閉じこめ、子供や死罪者を与えて養っていたのである。
その後ミノース王はアテナイ人に息子を殺された報復としてアテナイを攻めて降伏させ、賠償として少年少女7人ずつを貢ぐことを約束させた。
彼らはミノタウロスへの生贄、食料としてラビュリントスに送りこまれたのである。
この非道に対し立ち上がった英雄「テーセウス」は自ら生贄となってクレタ島に乗りこみ、クレータ王ミノースと妃パーシパエーのあいだの娘アリアドネとダイダロスの助力を得て迷宮に乗りこむ。
迷宮の入り口でアリアドネから短剣と魔法の毛糸を受け取ったテーセウスは、迷宮の奥深くで待ち受けていたミノタウロスを短剣で討ち取り、アリアドネが片端を握っていた毛糸をたどってラビュリントスから生還したのである。
ところでピカソの「ゲルニカ」には、頭が牛で体が人間のイメージを見出すことができる。
「ミノタウロス」は、ダンテの「神曲」にも登場するが、特に「ゲルニカ」において子供を抱き泣き崩れる女性の上に描かれている牡牛は、強いインパクトをもって迫ってくる。
たピカソは、その他にも「夜、少女に導かれる盲目のミノタウロス」「ドラとミノタウロス」など多数の作品で主題としてミノタウロスを用いており、男を弄り女を犯す粗野で凶暴な怪物として描いている。
童話「ヘンゼルとグレーテル」で、主人公が森で迷子にならないように通り道にパンくずを置いていったというエピソードから、ウェブページの位置を、パーリンクの一覧として示すものに「パンくずリスト」がある。
これに少し似たエピソードが「アリアドネの糸」ある。
アリアドネはテーセウスに恋をし、糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えた。
テーセウスがミノタウロスを殺したあと、糸玉からの糸を伝って彼は無事、迷宮から脱出し、アリアドネは彼とともにクレタを脱出した。
迷宮脱出の逸話より「アリアドネの糸」という言葉が生まれ、難問解決の手引き・方法の意味で使われている。

伝説の迷宮「クノッソス宮殿」。この宮殿を発掘したのはイギリスのエヴァンズであるが、一部に4階建てで王の居室や政治や宗教儀式の部屋など数百の部屋が 複雑に配置されており、一度足を踏み入れたものは二度と出てはこられないという、まるで迷路のような複雑な造りだったといわれている。
それは、ギリシア神話のダイダロスが設計した迷宮をしのばせるものがある。
このダイダロスの子がロウで固めた鳥の羽を背に着けて空を飛び、太陽に近づきすぎて海へと落ちていったイカロスである。
「ラビュリントス」の攻略法をアリアドネに教えたことでダイダロスとイカロスの親子は王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉されてしまう。
彼らは蜜蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出した。
父ダイダロスはイカロスに「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。
それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。
しかし、自由自在に空を飛べるイカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘリオス(アポローン)に向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。
イカロスの神話は、人間の傲慢さが自らの破滅を導くという戒めの意味もあった。
しかし、本来の教訓とは逆に、自らの手で翼を作り飛び立ったイカロスを勇気の象徴として表している例もある。
1980年公開の映画「翔べイカロス」は、サーカスに登場するピエロの哀歓を描いた映画で、主役はさだまさしが演じ、主題歌である「道化師のソネット」はさだの代表曲のひとつとなる。
さらに、この映画が感動的なのは、草鹿宏氏が書いた「事実」を元にしたものだからである。
実はこの草鹿宏という人は、平林敏彦という今や90歳をすぎた、知る人ぞ知る「詩人」なのだという。
草鹿宏氏は、少年向けの本を多くかいておられるが、「翔べイカロス」は「キグレサーカス」(現在は倒産し、事業停止)で「ピエロ」をしていた青年(栗原徹さん)の短い生涯を描かれたものを元に制作された。
ちなみにピエロとクラウンの違いは、同じくサーカスや大道芸に登場するトリックスターだが、目に涙のマークがあるのが「ピエロ」、ないのが「クラウン」なのだという。
主人公は写真家をめざして被写体になる素材を求め、サーカスに写真を撮りにきたのだが、サーカスを見て、そこで生き生きと働く人々に魅せられ、頼み込んで働かせてもらうことにした。
そして、当時日本のサーカスではまだ幕間のツナギでしかなかった「ピエロ」という役柄に興味をもち、サーカスでお客さんを呼べる主役にピエロはなり得るのではないかと思った。
そして先輩のピエロ役教えを請うて練習をし、綱渡りや曲芸など、コミカルなだけではないピエロ像を創作し、日本のサーカスを画期的に変えた「功労者」とも言われている。
栗原さんは他のだれも真似できない後ろ向きでの綱渡りを行える方だった。
しかし栗原さんはそれほど大それたことを考えていたわけではなく、サーカス団員の誰かの子供が、いつもぐじぐじ泣いているのを見て、「キミが笑ってくれたら、ボクも楽しくなって笑える。だから泣いてないで、ボクのピエロを見て笑ってよ」という気持ちで、若い青春をサーカスに賭けているだけの青年であったようだ。
「クリちゃん」を演じたさだまさしは、実際のサーカス団員と食事を共にし、体中にアザを作って芸の練習に励んだという。
綱渡りなどの演技もみな、本当に危険な箇所以外は、さだ本人が行って文字通り「体当たり」で演じているのだから、トムクルーズもびっくりするにちがいない。
結局、さだは栗原に同化し、栗原が目指したピエロになろうとしのだ。
そしてクリちゃんは、サーカス暮らしの中で次第に芸の魅力にとりつかれ、自分が関わり動いていく過程の中で、彼はピエロという「生き方」を愛するようになる。
また、厳しい訓練を重ね、高綱渡りの曲芸に観客の拍手と歓声が贈られたとき、彼は生きていることを実感した。
そして「キグレのピエロ・クリちゃん」はいつしか大人気となり、彼はますます難しい(危険な)演技に挑戦するようになっていく。
サーカスのテントにはいつもクリちゃん見たさの子供たちがたくさん訪れ、子供たちのニコニコ顔がテント一杯にあふれる日々であった。
しかしある日、彼は非常に難度の高い綱渡りの最中に落下。テントに響き渡る観客の悲鳴。凄惨な現場を子供たちに見せないために、照明が消され暗転する。
あと数メートルでゴールだったので、下でネットを用意していた係員は直前でネットを片付けてしまっていたため、それが事故につながった。
裏に運ばれたクリちゃんは、途絶え途絶えに、こう言う。「子供に知らせるな!」。
クリちゃんの心を理解した同僚の団員が、急いでクリちゃんの扮装に着替え、メイキャップして舞台に踊りながら飛び出していく。
落ちてしまったはずのピエロが元気に出てきたので、観客は大喜び。「な~んだ演出だったのか」と。
その夜、病院で、クリちゃんは亡くなる。
翌日、子供達の間では「くりちゃん死んだの」「いや生きてるよ ちゃんと立ちあがったんだから」といった会話がかわされた。
さだが歌う「道化師のソネット」は、映画のラストシーンで流れ、この物語(実話)の感動を盛り上げる上でこのうえなく大きな役割を果たした。
♪笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために♪。