スタルヒンと大鵬

2021年12月、福岡市民にとっては思い出の多い香椎花園が閉園した。ここに隣接して「香椎球場」があったことは、あまり語られることはなかった。
香椎球場が出来たのは1939年で、香椎チューリップ園(後の香椎花園)と共にオープンした。
1950年代の初頭の西鉄ライオンズ黄金時代の「二軍施設」として使用されいた。
1954年には、メジャーリーグの大スターであるジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行を兼ねて来日し、この球場で野球指導を行っている。
香椎花園では、その内野スタンドの一部が「土手」として現存しているらしい。
1970年代始めに、香椎球場は廃止された。
現在は香椎浜MOTOWNになっている場所で、香椎球場は、そのジェットコースターの辺り。
香椎球場同様、その存在さえ知られていない地方球場でも、意外な「伝説」を秘めている。
たとえば埼玉県の大宮球場は、長島茂雄が千葉県の佐倉一高校時代に公式戦でたった一本放ったホームランの場所である。
それは、1953年8月1日のこと。この特大のホームランが当時の新聞を飾った。また偶然にも、この球場には立教大学の野球部関係者が見に来ていた。
無名の高校球児だった長島の運命は、この「一本」によって大きく展開していく。
逆にいうと、この「一本」がなければ、長島茂雄は存在しなかったともいえる。
また、戦前の巨人軍の名投手スタルヒンも、この大宮球場でプロデビューを果たしている。
さて、我が福岡市にはソフトバンクが本拠地とする福岡ドームがあるが、それ以前は平和台球場であった。
今は解体され、現在「鴻臚館跡地」として整備されている。
戦後この平和台球場が出来る前、福岡市には「香椎球場」と並んで「春日原球場」があった。
現在、春日公園にある「春日球場」でなく、春日原(かすがばる)球場で1920年代から60年代まで存在した。
もともとマツタケが自生するような原野だったが、九州鉄道(後の西日本鉄道)が開設・運営していて、収容人員1万人であった。
戦後すぐに、東京巨人軍もキャンプを張ったが、1949年に西鉄クリッパースがプロ野球に新規参入すると、平和台野球場との併用の形で本拠地として使用されるようになった。
板付飛行場(現福岡空港)も近く春日原には米軍キャンプがあったため、米軍の暮らしの風景の中にあった。その暮らしは、陸上自衛隊福岡駐屯地に近接した「奴国の丘歴史資料館」で見ることができる。
春日原球場は「アマチュア野球」を中心に開催され、西鉄ライオンズの若手合同練習場として使われるようになった。
西鉄の若手選手たちは、米兵から親善試合を申し込まれ、同僚にひそかに声をかけて対戦に応じ、勝てばステーキをごちそうになり、野球用具をもらったりしたという。
あくる1951年に西鉄クリッパースが西日本パイレーツと合併し「西鉄ライオンズ」になると、本拠地は平和台球場一本に絞られた。
春日原球場のセントラルリーグ唯一の試合は1950年の「阪神」対「大洋」(現在のDeNA)戦で、1953年10月11日の「西鉄ライオンズ」対「東急フライヤーズ」戦が、プロ野球公式戦の最後の試合となっている。
現在、JR春日駅と西鉄春日原駅の間に「竜神池」という池があるが、そのあたりが「春日原球場」があったところ。「春日原停留所運動場道」と記された石碑が、幽かにその面影を伝えている。
北九州「八幡駅前」の商店街を抜け、緩い坂道を上ると、皿倉山のロープウエイに到着する。その皿倉山の麓に長い歴史を誇る「大谷球場」が今でも存在する。
ここは当時の社会人野球の雄「八幡製鉄」が本拠とした場所である。
そしてこの球場で八幡製鉄チームが、プロ野球草創期の「伝説的な右腕」と一戦を交えた記憶がある。
1935年10月6日、前年末に産声を上げた東京巨人軍(現読売巨人軍)が、日本製鉄(現新日鉄)八幡製鉄所と対戦することになった。
他のプロ球団の誕生はもう少し後であるため、巨人軍は「対戦相手」を求めて5か月の米国遠征を終え、アマチュア強豪と40試合を重ねる「国内遠征中」であった。
八幡製鉄所野球部は、同年の都市対抗で「準優勝」し、地元で絶大な人気を誇っていた。
巨人の先発は、当時注目を集めていた18歳の沢村栄治であった。
結局、延長十二回に巨人が3―2でサヨナラ勝ちし、沢村はこの試合で完投した。
八幡製鉄は敗れたもののプロと対等に戦い、ノンプロの強さを存分に示した。

日本でヒーローになった 「ロシア系」といえばスタルヒンと大鵬が思い浮かぶが、何かと共通点が多い。
スタルヒンはロマノフ王朝将軍、大鵬はウクライナ出身コサック隊長という血筋の、いわゆる「白系ロシア人」ある。
スタルヒンには沢村栄治、大鵬には柏戸というライバルがいて、しのぎをけずった点でも共通している。
スタルヒンは、沢村栄治と並ぶ日本プロ野球黎明期の大投手で、巨人軍の第一期黄金時代の中心投手として活躍し、1937年春から1940年まで5シーズン連続で最多勝を獲得。特に1939年の42勝は日本プロ野球史上最多タイ記録、また1955年に通算300勝を達成している。
1916年に帝政時代のロシアのニジニ・タギルに、ロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エウドキアの一人息子として誕生。
1917年のロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)から迫害される。
一家は革命軍に追われながらウラル山脈から広大なシベリアを横断し、国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。
1925年に日本に亡命をはかって、北海道の旭川市へ入った。
日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。
旭川市立日章小学校へ入学し、成績優秀かつ運動神経も抜群であった。
大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んであり、スタルヒンも学校のチームで活躍した。
旧制旭川中学校(現在の北海道旭川東高等学校)3年生の1934年11月25日、当時日米野球のため来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する。
その時、スタルヒンは全日本チームに半ば強引に引き抜かれそうになる。
プロ野球が誕生しておらず、野球人気は「六大学のアマチュア」が支えていた当時、文部省は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」と通達していたため、全日本チームを母体として主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成した。
京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口で、スタルヒンを退学させてチームに入れるため旭川にスカウトを送る。
しかし、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した。
スタルヒン一家は、経済事情に加えさらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされた。
またスタルヒン自身、旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたため、旭川中を中退するのは苦渋の決断となった。
後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京。>日米野球の17戦に初登板し、3番手として1イニングを無安打無失点に抑えている。
1934年11月29日に埼玉県営大宮公園野球場で開催された試合の8回か2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。
翌年2月からのアメリカ遠征に参加することになるが、無国籍だったためパスポートが支給されず、出国の際に警視庁から「国外に行ってよい」との許可証をもらっただけであった。
サンフランシスコに到着しても、ビザが下りないため入国できず、無許可の移民として危うく収容所に送られそうになった。
しかし、知人が奔走してようやく入国の運びとなった。
そしてそのまま、大日本東京野球倶楽部の後身である「東京巨人軍」に入団する。
当初、球速はあったがコントロールが悪く評価は高くなかった。
しかし巨人軍監督に就任した藤本定義に導かれて、猛練習によって制球力を身につける。
翌年春季リーグでは、史上2人目のノーヒットノーランを達成するなどして、沢村栄治に代わってエースに台頭する。
今でも、沢村栄治と比べられることが多く、両者と対決した選手からは「スピードはほぼ同じ。沢村の方がバッターの手元へ来て伸びていたから、感覚的には沢村の方が速く見えた」との意見が多い。
ただ、スタルヒンの場合191cmの長身からさらに伸び上がって投げ下ろすことから、打者からは「二階の屋根からボールが急降下してくるようで打ちにくい」と評された。
しかし1939年に大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)が起こるなど、日ソ間の関係が悪化したことから、スタルヒンは軍部からスパイの容疑を受ける。
この状況下で、職業野球のエースであるスタルヒンが憲兵に潰されてしまうことを懸念した関係者の勧めにより、1940に「須田 博(すた ひろし)」に改名した。
反面、スタルヒンは無国籍者だったため徴兵されることはなかった。
戦況の悪化で1941年11月にはスタルヒンは無国籍者ながら「外国籍者」として、ほかの外国籍者同様に軽井沢へ転居させられた。
軽井沢では靴直しをして暮らしていたといわれている。
さらに1945年8月9日に中立国であったソビエト連邦が「日ソ中立条約」を破り日本に侵略を開始したことから、追放処分される。
終戦後スタルヒンは通訳として進駐軍のジープに乗っていたところ、偶然パシフィック監督を務めていた恩師・藤本定義と再会したことで、巨人軍の誘いを断ってパシフィックに復帰する。
1946年10月20日のゴールドスター戦で完投勝利を挙げ、日本プロ野球初の「通算200勝」を達成。1955年に現役最終球団のトンボユニオンズで通算300勝を達成している。
亡命から最期まで無国籍だった。流暢な日本語を喋り、義理人情も重んじて「日本人より日本人らしい」と言われていたが、「外人」や「亡命者」というレッテルで仲間も決して一線を越えてくれないことに悩んでいたという。
そのため白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に通い詰めて友達を探し、ついでに花嫁まで見つけた。
1957年1月12日、都内で行われた中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から自身の車で世田谷区三宿にある国道246号(玉川通り)を走っていて、前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突し死去する。享年40であった。
スタルヒンの遺体は、秋田県横手市雄物川町の妻の実家である崇念寺に葬られた。
1960年、スタルヒンの功績を称え、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された。
旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄で、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名された。
球場正面にはスタルヒンの銅像が建立されている。

昨年北海道旅行した時、稚内の宗谷岬で「大鵬上陸地点」という石碑に出会い懐かしい気持ちになった。
大学時代に、「大鵬部屋」ちかくに下宿していたせいで、喫茶店でマスターと話す姿を時折みかけたので、そんな姿を思い浮かべたからだ。
大鵬幸喜(たいほう こうき)は、北海道川上郡弟子屈町(出生地は樺太敷香郡敷香町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市)に生まれた。
出生名はイヴァーン・ボリシコで、ウクライナ人の父の血を引いている。
1940年、ウクライナ人の元コサック騎兵将校、マルキャン・ボリシコの三男として、日本の領土である樺太の敷香町(ロシアの呼び名サハリン州ポロナイスク)に生まれた。
マルキャンはロシア革命後に日本に亡命した、所謂白系ロシア人であった。
なお敷香町は日本領の南樺太に位置するため、大鵬は外国出身横綱にならない。
太平洋戦争末期、日本への米軍による原爆投下後、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。
最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。
小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。
こんな経緯が「大鵬上陸地点」の石碑が出来た所以なのだろう。
北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。
あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた。
再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。
中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。
入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。
後年、巡業で振る舞われた「ちゃんこ」に感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっている。
1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「二所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。
序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき、1959年に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。
その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。”タイホウ”だ」と言われた。
大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬」。その意味は「巨大な魚「鯤(コン)」は、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬」である。
漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたものであり、大鵬は期待以上の存在となったといえる。
さて北海道の北端・宗谷岬で出会った「大鵬幸喜上陸の地」記念碑は、2020年5月29日、大鵬の生誕80年を記念して、建立期成会により建立され、同日、稚内市に寄贈されたもの。
大鵬は生前、稚内に幾度も足を運び「ここ稚内で降りたことで今の自分がある。横綱になれたのも稚内が原点」と、稚内の関係者に言葉を残している。
また大鵬が生まれ育った樺太に位置する弟子屈町には「大鵬相撲記念館」がある。
大鵬の優勝額全てや化粧廻し、名勝負などを記録した写真など約400点が展示されている展示ホールと、取組などを映した記録映画を上映している映写室、および売店から構成されており、屋外には「大鵬の銅像」も建っている。

アシュケナージ系ユダヤ人とは ドイツ語圏内や東欧出身の「白人系」ユダヤ人 アシュケナージ=ヘブライ語で「ドイツ」を意味します。 スファラディ系ユダヤ人とは 地中海やアラブ圏にいる「オリエンタル系」ユダヤ人 「スファラディム」とは、ヘブライ語で「スペイン」を意味します。本来はイベリア半島のユダヤ人共同体のことを指し、アジア・アフリカ系は東洋系(オリエンタル)という ------------------------------------------------------------------------------------------------------------ スファラディ系ユダヤ人 6世紀から12世紀にかけて現在のウクライナの辺り一帯はトルコ系遊民族中心の「ハザール」という国がありました。 7世紀にイスラム教が誕生してアラブ勢がハザールの南方から勢力を伸ばしてきました。ハザールの西側にはキリスト教を国教とする東ローマ帝国があり、ハザールは世界の2大勢力に挟まれてしまいます。 ハザール王の決断 9世紀初頭、ハザールを治めていた王は国家をあげてユダヤ教に改宗するという政治決断をしました。 ハザールがキリスト教とイスラム教のどちらの味方についたとしても戦火に巻き込まれることは必至なので、両宗教の母体であるユダヤ教に改宗をすれば、ハザールが「中立」を保てると考えたからです。 こうして、世界史史上類を見ない、イスラエル以外のユダヤ教国家が誕生しました。 ハザールに集結したユダヤ人 ハザールがユダヤ教を選択するには、ユダヤ教の教育者がいなければ、そもそも改宗などなし得ません。なので、ハザールには多くのユダヤ人が流れ着いていたことが推測できます。 そして、ユダヤ教国家が誕生したという噂を聞いた世界に散らばっていたユダヤ人もハザールに集まってきました。 また国家を失うユダヤ人 ハザール・カガン国は、10世紀に入ると衰退し始め、ルス人(後のロシア)やモンゴル勢力によってユダヤ教徒となっていたハザールの民達は、各地に離散していきます。 この時ヨーロッパへ向かい白人と混血しながら生き残ったハザールの末裔こそが、「アシュケナージ系ユダヤ人」なのでしょうか? しかし、遺伝子や言語体系を調べてみても「アシュケナージ系ユダヤ人」がハザールの末裔であるという証拠は出てきていません。 どのようにユダヤの祖先が繋がっているかはミステリーですが、各地を転々として生き抜いたユダヤ人は、各地で混血を繰り返していますので、誰にユダヤの血が流れているかなんて厳密にわかりません。 現代のユダヤ人の定義とは 「ユダヤ人の母から産まれた者」や「本人がユダヤ教徒である者」 ユダヤのアイデンティティーを継承する者たちのことを、ユダヤ人と定義できるのではないでしょうか。 シオニズム 全世界に離散していったユダヤ人達が、もう一度「約束の地 カナン」に戻って自分達の国を創るという、ユダヤ人の夢のことを「シオニズム」と言います。 アラブ側による「ハザール出身の偽ユダヤ人説」 シオニズムに対するアンチテーゼとして、アラブ側は、「あいつらは元々はハザール人なんだから、エルサレムの地に帰るってのはおかしいんじゃないか?」という主張があります。