日本のゾラ、ネヘミヤ

天才どうしの同居といえば、画家のゴッホとゴーギャンを思い浮かべるが、作家のゾラと画家セザンヌも同居生活を送っている。
ゾラとセザンヌは、中等学校時代からの親友で、それぞれ小説家と画家としてパリで同居生活をした。
ゾラは貧しいながら書店に就職して結婚する。
ゴーギャンがゴッホの自画像を描いたように、ゾラはセザンヌをモデルとした小説『クロードの告白』を出版。しかし、「クロードの告白」は「社会に悪影響を与える」と警察から警告を受け、書店を辞職して作家として生きる。
それでもゾラは警官に追われて逃げてきた娼婦「ナナ」を匿ったことから、その身の上話をもとに小説「ナナ」を発表した。
この「ナナ」と、彼女の母親を描いた小説「居酒屋」は大ヒット作となり、パリ郊外のメダンに別荘を買い優雅に暮らすようになった。
1870年7月、フランスがプロイセンに対して宣戦布告を行い普仏戦争が始まる。
しかし、開戦からわずか1か月半セダンの戦いでフランス軍は包囲され、ナポレオン三世は10万の将兵と共に投降して、捕虜となる。
これに怒ったフランス市民たちは、ナポレオン三世の廃位を宣言し、「臨時政府」を作り戦いを続ける。
それに対してプロイセン軍は、パリのヴェルサイユ宮殿を占領して、そこでドイツ諸侯を統一した「ドイツ帝国」の皇帝戴冠式を行う。
結局翌年の2月26日フランス臨時政府は莫大な賠償金と、アルザス=ロレーヌを割譲する条件で講和。フランス・ロスチャイルド家が賠償金を肩代わりした。
ゾラは好戦的なナポレオン3世の下、プロイセンの挑発にのって戦争を仕掛け敗戦した軍部の責任を追及する小説「壊滅」を発表。これも大ヒットして財を築いた。
しかしゾラは軍部から危険人物とみなされ、親友のセザンヌは芸術家は貧しくあるべきで、満ち足りると創造力は細って腹だけが膨れるとゾラの元を去る。
しかしゾラは富により「腹膨れる」人間ではなかった。
フランスのアルザス地方に生まれたドレフュスというユダヤ人軍人がいた。11歳の時に普仏戦争が勃発してアルザス地方がドイツ領となってしまう。
ドレフュスは故郷アルザスを奪いとられたため、ドイツに対する敵愾心は人一倍強い優秀な軍人であった。
事件の発端は、1894年9月エステラジー少佐がドイツ大使館の武官に宛に出した1通の手紙。
この手紙が参謀本部のアンリ少佐の手に渡った。手紙の内容は現金と引き換えに手渡す「秘密情報」の一覧表であったことから犯人探しが始まった。
アンリ少佐はユダヤ人嫌いで、参謀部付きのユダヤ人砲兵大尉ドレフュスを犯人と決めつけた。
十分な証拠がなく公表されなかったが、反ユダヤ系新聞がすっぱぬき、軍部がユダヤ人売国奴を庇っていると論じた。
そしてドリフュスは軍法会議にかけられ、有罪になって、南米の仏領ギアナにある「デビルズ島(悪魔島)」に流刑となる。ここはスティーブ・マックイーン主演『パピヨン』の舞台でもある。
新たに情報部長に着任したピカール中佐は問題の「秘密情報」の筆跡から、真犯人は「エステルアジ少佐」であることを突き止め、少佐もそのことを告白するが、簡単な「軍事裁判」の結果、無罪となり釈放されてイギリスに亡命する。
ドレフュスの無実を晴らすため、ゾラの妻リュシーはゾラの元を訪れ、ピカール中佐から送られてきた書類を見せた。
ドレフュスの無罪を確信したゾラは、後の大統領・クレマンソーが主幹を務める新聞に、軍部の不正と虚偽を告発した「私は弾劾する」という統領宛の「公開質問状」を手渡した。
クレマンソーは、この記事を新聞の第1面に掲載するも、逆にゾラは名誉棄損罪で告発され、裁判ではゾラがエステラジー少佐を無罪とした「軍事裁判」を誹謗中傷した。
この裁判でドリフュス事件はフランス中に知れ渡り、ユダヤ人やそれを支援する人達への暴動が各地で発生。
長い歳月をかけ、1906年7月ドレフュスは軍事委員間によって正式に無罪となり、軍への再入隊が許される。
しかしドレフュスはゾラは無罪を見届けることなく、その4年前に亡くなっている。
この事件は普仏戦争の責任をユダヤ人(スパイ行為)に着せようとするフランス軍幹部の陰謀だが、その後のユダヤ人の「シオニズム運動」の発端となる事件ともなった。
さて、フランス人作家ゾラの「ドレフュス」弁護を思い起こさせる人物が日本にもいる。
豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代「この家系」から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件だが、線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」をそのまま信じ、広津和郎とてその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって「世論」を味方にすることあできず、「馘首」はすみやかに行われていったという経緯がある。
広津和郎は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。その文章に、一片の翳りもないと直感した。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その「透明さ」に、犯罪者とはどうしても思えなかったことによる。
アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
実は、「松川事件」の公開された資料自体が極めて少ないものだったが、広津は新資料を探すでもなく、あくまでも「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
広津はその乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を吟味していったのである。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その調書から架空の組合員による共同謀議にもっていこうというプロセスを浮彫にしていった。
第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
広津は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と語っている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津自身の「言論」活動にかかっていたのである。
しかし、広津の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。
広津の処女作は「神経病時代」という作品だが、そのアプローチは松川事件に生かされ、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
また、被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。
検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
広津の「筆鋒」は確実に世論を喚起し、1961年最高裁は、松川裁判の被告に「全員無罪」を言い渡した。

ヘブライ人(古代イスラエル)は、BC586年に新バビロニアによってエルサレムが陥落したあとバビロンに移される(バビロン捕囚)。
その約50年後、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民のエルサレムへの帰還が許される。しかし一部のユダヤ人は優遇されていたためにそのまま残る者も多かった。
遠くペルシアの首都スサにあってネヘミヤもアルタクセルクセス1世の「献酌官」という名誉ある地位に就いていた。
しかしある日エルサレムから尋ねて来た親戚の話に心を痛める。「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」(ネヘミヤ記1章)。
BC445年、ネヘミヤは自ら志望してユダヤの総督として任命してもらう。
スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮してユダヤの民の復興を助ける。
城壁の再建だけでなく、民の中の貧富の格差が広がって、貧しい農民が借金で苦しんで、子どもを奴隷に売ったり、神殿の下級祭司が給料の遅配で逃げていたり、様々な問題が出てくる。
ネヘミヤはその一つ一つに取り組み続けて、ユダヤの復興のリーダーとなった。
さて前述のとおり「ドリュフス事件」がシオニズム運動の発端となる。この運動はシオンの丘がエルサレムに戻ることからそうよばれた。
そこにワイズマンという「現代のネヘミヤ」とよばれる化学者がいた。
1914年に第一次大戦が勃発すると、軍事物資となるアセトンの製造工程を確立し、連合国の勝利に多大の貢献をなした。
ワイスマンはイギリスの指導的政治家と密接に接触するようになり、ワイスマンが熱心な「シオニスト」と知っていた外務大臣のバルフォアが、「もしも連合国がこの戦争に勝ったら、あなたにエルサレムをさしあげましょう」と語った。
1917年、ワイズマンと当時軍需大臣として接触のあったロイドジョージ内閣のもとで「バルフォア宣言」が発表された。つまりユダヤ人の「イスラエル帰還」が承認されたのである。
しかし、パレスチナには多くのアラブ人が住み着いていたため多くの戦闘の後、1948年にユダヤ人はパレスチナに新しい国家を確立した。
彼らはこの国を「イスラエル」と名づけ、最初の議会で、ワイスマンはイスラエル国初代大統領に選ばれた。
ワイズマンは「ユダヤ教」を含むイスラエル再建のために尽力し、「現代のネヘミヤ」と呼ばれた。
荒廃した地域の物理的復興なら、資金があれば可能であろう。しかし精神的復興までなしとげたネヘミヤのような人物は稀である。
日本には幕末、「報徳仕法」で農村復興をはかった二宮尊徳が思い浮かぶが、分断・荒廃した大都市の復興には、強力なリーダーシップがいる。
実業の世界で「東の渋沢栄一、西の五代友厚(ごだいともあつ)」と言われるが、大阪に行くと何箇所かで五代友厚という人物の石像と出会う。
五代友厚は薩摩人だが、その五代が「大阪の父」と呼ばれているのは、五代が分裂・瓦解寸前の大阪の復興を支えた「大恩人」だったからである。
五代は薩摩にあって、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕運動を進めるなか、軍備や財政面から藩を支えた。
1863年、外国人商人の殺傷事件(生麦事件)をきっかけに薩摩藩とイギリスは激しく対立、互いに一歩もひかない戦闘を繰り広げ、双方に多数の死者を出す。
そんな中、突如イギリス艦隊に姿を現したのが五代友厚であった。
提督キューパーに対し薩摩の戦力や士気はイギリス側に匹敵するほど充実してる、争うより「和解」した方が双方にメリットがあるのではないかと提案する。
この言葉が契機になったのかイギリス艦隊は撤退し、その後、薩摩とイギリスは交渉を通じて和解し、次第に貿易を行う仲間となっていった。
イギリスとの協力は薩摩の国力を高め、幕府との戦いを有利に進めることに繋がった。
明治になると政府は当時34歳の五代友厚を「大阪府権判事」として派遣した。これが、その後17年に及ぶ「経済改革」の始まりであった。
桜の花見で有名な大阪城に隣接して「造幣局」があるが、これは五代が設立したものである。
日本最初の近代的な貨幣を作るにあたり、海外から輸入したのが圧印機で、日本で最初の「円」は五代が生み出したものだった。
五代が赴任当時の大阪は深刻な経済不況に陥っていた。大阪は「天下の台所」と言われ全国の藩の年貢米が集められる場所であったが、この制度が廃止され大阪は「物流センター」としての機能を失っていた。
また、幕末動乱のさい、幕府や全国の藩は軍備を整えるために大阪の豪商たちから多額の借金をしていたが、明治に入り幕藩体制が崩壊すると借金の踏み倒しが続出し、いわゆる「貸し倒れ」により商人の破産が相次いだ。
大阪は、豪商たちが守ってきた秩序が崩壊したことで仕事の奪い合いや潰し合いが横行し、「無法状態」と化していたのだ。
1868年、五代は横浜への転勤辞令を受けるものの、大阪のあまりの「惨状」を見て官職を辞し、実業家として大阪に留まることを決意する。
この点が「献酌官」を辞任したネヘミヤに似ている。
五代にとって、かつて敵対するイギリスとの交渉にあたった経験は大く、生き残りをかけ仕事を奪い合っていた大阪商人たちを集め、「商売敵(がたき)と力を合わせろ」と訴えた。
さらに、外国ではある人が事業を思いつくと、それに賛同した人が共同で出資、呼びかけた人は元手が増えるため大きな利益がある一方、それを分配すれば出資した人も儲かると教えた。
これは五代がイギリスで目の当たりにした「株式会社」の概念であった。
すると、錚々たる名家の主たちが五代友厚の計画に参加して設立したのが「大阪株式取引所」(現在の大阪取引所)であった。
その場所には現在、五代の大きな石像が建っているが、大阪では炭鉱や鉄道など商人同士による様々な「共同事業」が発足し、「大阪復興」の糸口となった。
しかし、五代にとってもうひとつ気になるは、大阪の「商人文化」の衰退、つまり精神面での復興であった。
かつて大阪商人が何よりも大切に考えていたのは「信用と算用」で、互いの信頼を裏切らない安心できる商取引や収支を見極める「伝統的精神」であった。
五代は、約300年にわたる伝統を新しい時代に引き継げないかと考えるなかで、恰好の事例が海外にあることを思いつく。
それは五代がヨーロッパ各国で見た「商業会議所」で、取引上の混乱や争いを防ぐためのルールを定めたり、国や政府に対し共同で提案したりするための組織であった。
五代は、この仕組みを大阪に取り込めば「商人文化」が継承できると考え、商人達を説得し1878年、「大阪商法会議所」がスタートした。
ここで定期的に開かれる会合で、公正な商取引を行うための書式づくりや適切な支払期限の設定など基本的なルールが整備され、かつての「信用第一」とした商習慣が大阪に戻ってきた。
さらに五代友厚が取り組んだのは商家が長年培ってきた商習慣を伝承する仕組みを作ることで、そこに実現したのが「大阪商業講習所」で、この学校からは野村徳七や鳥井信治郎など日本経済を支える企業家が幾人も輩出し、大阪市立大学に発展している。