近代民主主義の成果たる「フランス人権宣言」では、基本的人権として「自由・平等・所有(財産)」の保証をかかげたが、「アメリカの独立宣言」では、これが「生命・自由・”幸福追求”」に読み替えられて宣言されている。
この点は、アメリカという国の本質をよく表していると思う。
アメリカにきた人々は、なんらかの意味で「幸福追求」を妨げられたが故に本国を離れたのであり、移民の為に既得財産(人間関係なども含め)をある部分放棄して来た人々なのである。
新大陸には残してきた財産以上の夢があったハズであり、幸福追求権はその夢を誰からも妨げられることなく追及できるということ、つまりアメリカンドリームが国民性の本源となっているということだ。
反対に、人々にとってアメリカンドリームが色褪せたものとなるならば、アメリカがまとまるカナメを失ってしまったことを意味する。
アメリカは、異なる文化圏や異なる地域から互いに素性も分かぬ人々が集まってきて出来上がった「人工国家」である。
したがって、人々は誰もが納得できる「正義」や「公正さ」こそが、社会形成の基準になることは容易に想像できる。
そして、アメリカ建国の父たちの間で、独立宣言にはない「平等」の意義や適用対象など、正義や公正をどう考えるかは様々な議論が湧き起こった。
たまたまTVで見た冬のスポーツから、社会形成についてのある閃きを得た。
平昌(ピョンチャン)オリンピックにて、日本女子のパシュートは、そのシンクロする動きで見事な「流線型」をつくり、風圧を最小限に抑え金メダルをとった。
女子パシュートは1チームは3人で構成され、400mリンクの内側のコースのみを使い、女子は6周でのタイムを競う。
3人目のブレードの先端がゴールした時点のタイムが記録される。つまり、チームの中でラストの順位を競うというもの。
つまり、一番弱い選手を引き上げていくという発想は、落後者をださないという意味合いもあろう。
こういう、ウインター・スポーツの在り様から思い浮かべたのが、アメリカの社会哲学者ジョンロールズの思想である。
アメリカは正義(ジャズテス)や公正(フェアネス)を重視する国であるが、ロールズは「正義とは何か」を学問的に追及した。
特に、ロールズの思想を世界的に有名にしたのが「マキシミン原理」で、ミニマム(最小)を最大にする社会制度の発想は、ラストを「最速化」するというパシュートと共通するものがある。
というわけで、ロールズの社会思想の特徴は、「底辺」にたいする意識の高さなのである。
ロールズの経歴の中に、「正義」が「底辺」と結ぶつくその淵源を見出すことがもできそうだ。
幼き日に流行病に罹病し、その結果、感染した弟2人が病死するという出来事が起こった。
病源である自分が生き残って弟2人が亡くなったことは、ロールズにとって強い心の刻印になったことは想像に難くない。
プリンストン大学に進み、花形選手だった憧れの兄を目指して、フットボールに没頭した。
大学卒業後、陸軍の士官として日本との戦いにニューギニア、フィリピンと転戦し、日本の全面降伏後は、占領軍の一員として広島・長崎の原爆の惨状を目のあたりにしている。
アメリカの世論では戦争を早く終息せしめ、多くの人命を救ったと正当化される原爆投下だったが、そうした「アメリカの正義」に疑問をもちはじめた。
そこには夥しい人命の損失と、命を奪われないまでもすべてを剥ぎ取られた人間の姿があった。
そのためか、ロールズの正義論において、人間の根源は「平等」あるという思いが色濃く反映されている。
さて、ジョン・ロールズは哲学者としての側面をもつが、カントの「純粋理性」や社会契約思想が土台にあるといってよい。
社会契約論の思想家には、「フランス人権宣言」の中にも表れる「一般意思」で知られるJJルソーがいる。
ルソーのいう「一般意思」は、単なる意思の総和ではなく、全体の利益となるのものを指している。
しかし、国民が均質ならばまだしも、今日のような格差分断の社会に「一般意思」などを見い出すことができるだろうか。
それは、自分の立場や利害をひとまず脇において社会における公正さを熟慮できる訓練された「公民」の存在が前提となる。
今日の現状は、それとはほど遠くに個人も国家もますます、”自分ファースト”の傾向が強まっているように見える。
ロールズは社会形成の初期において、基本的な人権がどのように分配されるか、皆がどんな条件でそれを受け入れることが可能かを考えてみた。
1人1人は個性も能力も違いがあり、格差がでるのは致し方方ない(格差原理)にせよ、初期の段階ではまったく平等という条件を作り出すため、自分が社会的な位置については全く予測不可能というのが「無知のベール」というものである。
「無知なベール」など非現実的だと思うかもしれないが、上述のようにアメリカ大陸に自由を求めてやってきた人々を想像するのもよい。
彼らは、自分が新しい大陸でどんな地位につくか夢は抱きつつも、自分が何らかの能力をもっているにせよ、これから出来ていく社会の中でどのように評価され、自分がどのような社会的な地位をしめるか、霧がかかった状態であるにちがいない。
無知のベールがかかっている状態では、原初状態の前提となる力と知識の平等が実現される。
ロールズは、自分の優位性をたとえ無意識にでも利用できないといことで、その時に、人々は「社会の最低」に位置した場合のことを念頭におき、仮に自分が富者になる可能性があったとしても富者に大きなハンディを課していくことに、同意するだろうという。
いま、このハンディを「累進課税制度」にあたるものとして考えてみよう。
まず第一に、所得には天与の才能や環境の報酬要素を多く含むため、累進課税制度は容認されうる制度である。
そして累進課税制度は、少なくとも理念的には所得が増えるほど貧者に多くの割合を「所得移転」していくという制度である。
ところで、人はがんばったらそれなりの報酬があることを望む。逆にいうとがんばっても報いられないならばがんばらない。
つまり頑張ったり才能を発揮したりしたことに対して何らかの「差」が生じなければ、社会全体のパイは大きくならないということである。
だから、あまりにも過度な「累進度」つまり所得があがるほど「税率」自体が大きく増していく課税制度がもたらす「結果の平等」は、人々のヤル気を摘み社会全体のパイを減らすことになりかねない。
だから才能の違いも含む努力による「差」コソが社会全体のパイを大きくし、それが「所得移転」を通じて貧者の絶対的な所得水準を上げることに繋がる。そのような格差は、底辺にとっても意味のあるもので許容されうる。
結局、ロールズの主張は最低水準にある人をもっとも有利に導くような社会制度のあり様を追求せんとしたのである。
つまり「無知のベール」のために誰が陥るかわからない「底辺」を底上げしうる最大点に、累進税率の最適点があるという考え方で、これを「マキシミン原則」とよぶ。
そして「無知のベール」が想定された社会では、この原理が受け入れいられやすいということである。
それは、ロールズのもって生まれた才能に関しての次のような「平等感」と相俟って説得力をもつ。
ロールズは、実力主義について次のような論じている。
実力主義は、ある程度は社会的条件によって定まる恣意性を是正するものの、正義とはいえない。
なぜなら、全員が同じスタートに立っているわけではなない。もって生まれた能力があり、それによって所得の分配されるからだ。
つまり、所得と分配が才能という生まれもった資産の分配によって決まるがままにしておくのは筋がとおらないというわけだ。
格差原理とは、いわば個人に分配された天賦の才を「公共財」とみなし、それらの才能が生み出した利益を分かち合うことの同意である。
天賦の才に恵まれたものは誰であれ、そのような才をもたない者の状況を改善するという条件のもとでのみ、その幸運から利益を得ることができる。
「白熱教室」でもすっかり有名になったハーバード大学サンデル教授の著書にしばしばその名が登場するのがアメリカの社会哲学者ジョン・ロールズである。
実は、サンデル教授はロールズ批判者として知られた人物なのだ。
ロールズの議論は、自分がどういう人か知らないという自己を考えているが、実はそんな自己は世の中に存在しないではないかという疑問である。
サンデルは、ロールズとは対照的に自分の能力や立場や歴史を担う存在からスタートする。
サンデルはそれを「負荷のかかる自己」というが、ロールズの「無知のベール」は学問的仮想であるにせよ、いわば物理学でいう「摩擦なき世界」で、あまりに現実の人間とは程遠く、そこから導き出される結論もそれほど有効ではないと批判する。
ロールズの思想と親和性があるリベラル派の主張は、自分で「選んだ」(もしくは同意した)わけでもないことには責任も義務も生じないことになる。
つまり、「自分の責任を負えないこと」に身を委ねることに対抗する自由を訴える立場ともいえるかもしれない。
しかし、我々は自分が合意に立ち会うはずもない様々な常識や慣習を大切にしている現実をどのように説明するのであろうか。
例えば、日本人は家の存続の墓を守ること、先祖の土地を大切にすることなど、自分は合意してもいないそんな事柄に対して大きな責務を感じてしまうことをどう説明できるだろうか。
人は生まれた時点で、家族・コミュニティ・国家といったものの一員として生まれている。
つまり人間は、生まれながらに「負荷のかかった存在」なのである。
我々の道徳的責務の中には、連帯とか忠誠の責務が歴史的記憶や信仰とともに存在しているものだ。
アメリカに最初に来た人々でさえも、完全な霧模様の中で道を切り開いたたわけではなく、ピューリタンの信仰を土台にした「神の国」の実現のビジョンを抱いてやってきた人々なのだ。
サンデルが福祉を考えるとき、ロールズのいうように、無知のベールの中で自分が底辺に陥る可能性ではなく、「コミュニタリアン」の立場から、コミュニティが皆にとって望まれるとを考える結果として福祉の充実をうったえるのである。
なぜなら、コミュニタリアニズムは人々が共にあることに注目し、共に考え、共に行動する共通性を重要視しているからだ。
しかし「共通善」などというものは、個人の独立と選択を重視する立場とは相いれない。ロールズもしくはリベラル派は、各個人が何が正しいかを判断する多様性を重視するからだ。
サンデルは、最初にコミュニティにとっての共通なビジョンを議論していくことを重視する。
数年前に大ヒットした「女子高生がドラッカーを読んだら」という本で印象的だったのは、主人公がドッラカーが学んだことは、まずは「組織の本質」を定義することであった。
それに付随してマネージャーの資質、マーケティングから「社会に対する貢献」まで、『マネジメント』を通じて様々なことを学んでいく。
そして生み出した「ノーバント・ノーボール」作戦は、後に高校野球にイノベーションを起こすまでになる。
ところでリベラル派は多様性を重視し、その「正義観」も様々な目的や価値からの「中立」を重視したが、正しさは物事の本質を問うことによってしか答がでないケースが多い。
例えば入試で、少数民族の合格点を下げるなどの「アファーマチィブアクション」の是非は、学校の存在意義を問うことから始めなければ答えはでない。
実はコミュニティの共通善を探るとは、コミュニティの存在意義を問うことにほかならない。
例えば「世界で唯一の被爆国・日本」とか「アジアの玄関口・福岡県」だとか。
そういう共通認識や本質論から、「何が正しいか」が導きだせるのではなかろうか。
ただし「共通善」を求めることは、独立した個人が選択するものとは異なる場合もあり、そうした場合には本人の自由を奪いかねない押し付けとなる。
例えば、地球コミュニティにおける温暖化防止などの「共通善」に対して、トランプ大統領のように自国ファーストを掲げて「パリ協定」から離脱したりするケースである。
そこで、サンデルは個々の自由と共通善の矛盾を橋渡しするものとして「物語」というものを導入する。
人々は自由に行動するにせよ、それは自分が生きるコミュニティの物語の一員として行動する。
道徳的熟考とは、みずからの意思を実現することではなく、自らのの物語を解釈することに他ならない。そこには選択が生まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではないというわけだ。
コミュニティが育んだ「正さ」について、再びウインター・スポーツから学ぶことができた。
イタリア・トリノで行われたオリンピックにおける、クロスカントリー競技。
クロスカントリー チームスプリントは、1チーム2名が1周づつ交互に走り、計6週でタイムを競い合うというもの。
クロスカントリーは、滑るというよりもスキーで走る競技、その中でもチームスプリントは距離が短いゆえに勝敗がコンマ1秒で決する過酷な種目である。
カナダチームが首位に立っていた時、カナダチームのサラ選手のストックが突然折れてしまった。
サラは一瞬のうちに4位にまで後退。 代わってノルウェーチームがトップに立った。
そんな時、 誰かがストックを渡してくれたのだ。それによりカナダチームは金こそ逃したものの、見事銀メダルを獲得した。
ノルウェーはその後、まさかの失速、4位に終わりメダルを逃してしまった。
サラはゴールした後、誰がストックを渡してくれたのか映像で確認した。それは通常考えられるカナダチームのスタッフではなく、ライバルのノルウェーチームのヘッドコーチだったのだ。
サラは、彼の元にお礼を伝えに行ったところ、彼はあたりまえのことをしただけだという。
幼い頃からクロスカントリースキーを始めた彼が学んだことは 「たとえ、どんな状況であっても、共に走る者を敬い、助け合うことが重要だ」ということ。
そもそもクロスカントリースキーは、雪深い北欧で生活のための移動手段として誕生した。
当時の人々にとっては、仲間と共に助け合い、無事に目的地へ到達することが最も大切だったのだ。
このコーチが示した「フェアネス」は、北欧のコミュニティで育まれたものだ。
今日本は、韓国と徴用工問題が浮上しているが、我々は戦争責任など過去の賠償しなければならないであろうか。
ロールズ的なリベラルの立場であるならば、現政府は我々の選挙(選択)の結果なので、その政策や外交について我々が責任の一端を担うのは当然である。
しかし我々の合意や選択とは関係のない「戦争責任」を問われる筋合いはないということになる。
一方、日本というコミュニティの帰属者というサンデル的立場に立てば、それに正面から向き合う必要があるということだ。