あの人も日本に

第一次世界大戦の発端となった「サラエボの銃声」。その悲劇の主人公は、オーストリア帝国帝位継承者、皇太子フェルディナント。
1892年12月25日、イタリアのトリエステ港からオーストリア・ハンガリー帝国海軍防護巡洋艦「カイザリン・エリーザベト」に乗船し、世界一周の旅に出た。
一行は、スエズ運河~セイロン~ボンベイ~カルカッタ~オランダ領東インド諸島~シドニー南西太平洋諸島~シンガポール~香港とめぐり、長崎に到着した。
フェルディナントが日本で旅したのは、 長崎―熊本―下関―宮島―京都―大阪―奈良―大津―岐阜―名古屋―宮ノ下―東京―日光―横浜―東京である。
1893年10月18日にウィーンに帰還するが、それから約20年後、サラエボで暗殺され、それが第一次世界大戦の火蓋をきる出来事になろうとは、この時誰が想像できたであろう。
彼が書き残した旅行記の内容は、地理や軍事、農工業、文化など、非常に多岐にわたる。
例えば、熊本でみた日本庭園について、「 園内は無数の提灯がまるで妖精のようにきらきらと輝き、真昼のような光に満ちあふれていた。日本人というのは、まことに照明の達人だ。簡素きわまりない装置を巧みに用い、すばらしい効果を生み出す術をじつによく心得ている」などと克明に書いている。
このフェルディナントの旅で興味深いのは、彼がこれから辿る運命と、この旅に随行した人々の数奇な運命が交叉するからである。
フェルディナント大公が東京に到着する前、1892年2月に日本に赴任したオーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が、神奈川県の国府津(こうづ)から同行している。
クーデンホーフ家は、ハプスブルク王家に仕える名門旧家で、カルレギーの父・オーストリア・ハンガリー帝国代理公使でハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵が日本を訪問れ、東京牛込の油商の娘・青山光子を見初め1892年に結婚する。
このクーデンホーフ伯爵と青山光子の間にうまれた次男が、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーで、日本名を「栄ニ郎」といった。ちなみに長男がハンス光太郎である。
リヒャルトは母・光子の反対をおしきって14歳年上の女優と結婚するが、このリヒャルトこそは、近代のヨーロッパ連合の構想者である。
さて、第一次世界大戦後に、国際連盟を唱えたウイルソンは同時に「民族自決の原則」を唱えたが、民族対立によるヨーロッパの分裂とあまたの弱小独立国家の存在に、ある種のきな臭さを感じたようだ。
そこでリヒャルトが唱えた「パン(汎)ヨーロッパ」思想は、国家同士が「連邦」を形づくることで国の乱立に統一を与え、生産や販売をその連邦内で調整するといった構想だった。
これこそが欧州連合の構想であり、リヒャルトはパン・ヨーロッパ思想を普及させる為に、雑誌を創刊したり、パン・ヨーロッパ連合会議を開催したりして、このビジョンは着実に拡がっていく、かに思えた。
しかしヒットラー率いるナチスが台頭し、1938年には強力な軍事力を背景にオーストリアを併合し、ウイルソンの「民族自決の原則」はゲルマン民族の優位の思想としてヒットラーに悪用された感がある。
ナチスの思想と汎ヨーロッパ思想はまったく正反対のものだから、リヒャルトにナチスの魔手が及ぶのは時間の問題だった。
そこで身の危険を感じたリヒャルトはすんでのところでスイスに亡命する。
その際、恋人の女優も一緒だったのだが、このシチュエーションが映画「カサブランカ」のラストシーンに使われたともいわれている。
映画「カサブランカ」でイングリッドバーグマン扮するイルザの恋人で反ナチスのリーダー・「ラズロ」のモデルが、リヒャルトということである。
我々日本人にとって驚きは、現代のヨーロッパ連合の構想を唱えたリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが日本名「栄次郎」であったこと、オーストリアの名門クーデンホーフ家の血の中には佐賀県生まれの青山光子の血がはいっていたということである。
クーデンホーフ家の領土はボヘミア地方にあり、夫とともに光子は十数人の使用人のいるロスンベルク城 で7人の子供とに囲まれ幸福な日々を送った。
ところが1906年、夫ハインリッヒの突然亡くなり、庇護者を失った彼女は、異国の地で一人で生きて いく他はなくなる。
それでもミツコは後にヨーロッパ社交界の「花」と謳われ、香水「MITUKO」までもが販売されている。

オーストリア皇位継承者のフェルディナンドの旅に随行したもう一人が、日本人になじみ深いシーボルトである。
とはいっても、日本史で学ぶシーボルトの次男で、オーストリア・ハンガリー帝国公使館に勤務していた。
日本史で学ぶフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツ人で、1823年年6月に長崎の出島のオランダ商館医となり、1828年に帰国する際「シーボルト事件」により国外追放となった。
しかし、その次男のハインリッヒ・フォン・シーボルトが1869年に来日して、横浜総領事代理の地位にあって、フェルディナント大公の通訳を務めた。
実は、クーデンホーフ伯爵と同様に、シーボルトにも日本人女性との間に生まれた娘がいた。
したがって、その娘・楠本イネとハインリッヒは異母兄弟ということになる。
父のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1786年、ドイツはバイエルン州のヴュルツブルグの医者の家に生まれた。
ヴュルツブルグ大学卒業後、オランダの軍医となったため、当時交易のあった日本のオランダ商館の医師として長崎に派遣されてきた。
当時、日本は鎖国の時代で、オランダ・中国とのみ貿易を行い、出島という小島にのみにオランダ人の居住が許されていた。
しかし1年間の勤務で、長崎で信頼を得たシーボルトは、市内の鳴滝に家を持つ事を許され、ここに「鳴滝塾」を開設し、西洋医学を広める場所とした。
そして、全国各地から意欲旺盛な若者が集まり彼に教えを乞うとともに、シーボルト自身も、彼らから日本の事をいろいろと学んだ。
この頃、シーボルトは日本人女性・楠本滝と知り合い結婚し、娘イネも生まれたが、幸せな日々はそう長くは続かなかった。
シーボルトは1828年に任期を終えて帰国することになるが、母子をともなって帰国することは許されなかった。
また、お滝にとっても混血児である子供を女手ひとつで育てることは、当時の社会風潮のなかで苦難が予想された。
その一方でお滝には、シーボルトという人物の血を伝えることは自分にしかできないという思いもあったかもしれない。
しかしシーボルトの帰国の際に、幕政を揺るがす大事件がおきる。
シーボルトが幕府の天文方・高橋景保から送られた伊能忠敬制作の全国地図や江戸城内部の正確な地図を祖国へ持ち帰ろうとしていたことが発覚したのである。
日本地図は、最高機密の軍事情報ともいえるもので、日本地図の国外持ち出しは国禁である。
そのためシーボルトは国外追放、再渡航禁止となり、それに約50人が連座して処罰され高橋景保も切腹させられたのである。
シーボルトは二度と日本に戻る事は許されず、妻・娘とは永遠の別れとなった。
そこでシーボルトは1829年、門下生に後事を托し、お滝とイネの毛髪を胸に帰国の途についた。
この時イネはまだ3歳にも満たなかったが、イネが19歳になった頃、母はイネをシーボルトの門弟に預ける。
しかしイネが混血児としてこの間に体験したことは尋常な体験ではなかったであろうし、並みの女性では己の志を保ち続けることは困難ではなかっただろうかと想像する。
しかしイネはいつしかシーボルトの娘であることを自覚し、オランダ語を学び学問で身をたてる決心をする。
そしてシーボルト父・娘に思わぬ幸運が訪れる。
1859年、開国派が攘夷派を一掃して、幕府が開国に傾き、シーボルトは以前の罪が許され、彼は再び長崎に来ることが許されたのである。
イネが32歳になった1859年、父シーボルトが再び日本にやってきた。
実に30年ぶりの家族の再会である。イネの進んだ道、それは父と同じ医学の道で、日本初の産科医となていたのだ。
また父シーボルトも同じ道を志して立派に育つた娘をみて涙したことであろう。
シーボルトはこの2度目の来日で3年間滞在し、1862年再び日本を去った。
そしてその4年後、母国・ドイツのミュンヘンにて70歳の生涯を閉じている。
イネは長崎でポンペ・ボードインらに学び、1870年に東京築地に産科医を開業し、宮内庁御用掛の医師として晩年をまっとうした。
そいうえば、クーデンホーフ家の光子の名のついた香水「MITUKO」も王室御用達であった。
イネが産科医を開いたあたりは「江戸蘭学発祥の地」碑がたっている。

シーボルトと同じドイツ生まれで、トロイ発掘で有名なハインリヒ・シュリーマンも日本を訪れている。
シュリーマンといえば、7歳の時、クリスマスプレゼントに送られた本で、古代ギリシャの詩人ホメロスがうたった都市トロイア(トロイ)の実在を信じて発掘を始め、遺跡を見つけた立志伝中の人物。
神話にすぎないとされていたホメロスの叙事詩を基に遺跡を発掘し、当時考えられていたより千年以上も前に高度文明があったと実証した。
だが、日本を訪れた43歳の時、まだ考古学者ですらなく、旅行者に過ぎなかった。
ハインリヒ・シュリーマン(1822~90)はドイツ北部の貧しい牧師の家庭に生まれた。
貧困から脱するため1841年にベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。
1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得した。
クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得たが、30歳の時にロシア女性と結婚したが、結婚生活は行き詰まり離婚。
ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントに商社を設立などしているものの、この時期、人生の目標を失った感があった。
彼の世界旅行は、高等教育を受けていないコンプレックスを抱えていたこともあり、なんとか見聞を広げようとしたためだとも推測される。
1864年に世界旅行を始め、アフリカからインドを回り、シンガポール、中国へ。中国・上海から蒸気船に乗って、1865年6月4日横浜に上陸した。
上陸したものの足止めをくったのは、攘夷論に揺れる江戸は外国人襲撃事件が頻発し、幕府が外交官以外の外国人の立ち入りを原則許さなかったためである。
そこで横浜在住のドイツ人商人の仲介で、米国代理公使の招待状を手に入れて、ようやく江戸へと向かうこととなった。
1865年6月25日、横浜から馬で東海道を走り、麻布の米国公使館(善福寺)へ到着すると、休息もそこそこに、再び馬で飛び出し、約2キロ離れた愛宕山に行った。
そして、江戸城の周囲をぐるりと回って午後7時ごろに公使館に帰っている。
外出時は常に役人が警護に張り付き、行く先々で珍しがられ、「唐人(外国人)! 唐人!」と叫ぶ群衆に囲まれた。
それでも彼は日本の風物に好意的な目を向けている。
「日本人は誰もが園芸好きなのだ。どの家もお手本になるくらい清潔だ」「提灯(ちょうちん)は安物のようで実はヨーロッパのランタンよりはるかに耐久性がある」。
こういう目線の行き方は、どこかラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を思わせる。
結局、シュリーマンは5日にわたり江戸に滞在。日本橋を渡って浅草へ行き、浅草寺に参って芝居を見物、射的を楽しみ、団子坂(文京区)、王子の茶屋(北区)、深川(富岡)八幡宮(江東区)など、時間を惜しむように朝から晩まで出歩いた。
ところでシュリーマンが訪問した愛宕山は、東京虎ノ門と芝の間辺りにあり、海抜26メートルは都内随一の高さを誇る。
「桜」と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残している。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができたという。
山頂にある愛宕神社への参道は、人呼んで「出世の石段」。シュリーマンが登ったこの急勾配の階段は、3代将軍徳川家光の命に応え、馬で上り下りに成功し名を上げた曲垣(まがき)平九郎の故事に由来する。
シュリーマンにとっても、サクセス・ステップとなる。
最近自分も行って見たが、江戸時代には高みの見物ができたこの場所も、今はまるでビルの谷間。隣にある愛宕グリーンヒルズの高層タワーが、こちらを見下ろすようにそびえている。
愛宕神社は1603年、徳川家康の命で江戸の防火の神として創建された。
さて、日本で放送が始まったのは、1925年3月22日。当初は東京・芝浦の仮放送所からラジオ放送が行われていたが、同年7月には愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”と呼ばれるようになった。
現在は、愛宕神社の隣接した地にNHK放送博物館が立っている。
NHKは現在は代々木に移転したが、愛宕山で放送されたNHK大河ドラマ第1号が「花の生涯」(1963年)で、幕末にペリー来航の際に交渉に当たり開国を決定した井伊直助の生涯を描いたものである。
ところで「人生100年」といわれ始めた今こそ、49歳から第二の人生をスタートしたシュリーマンに見習いたい気分だが、負けず劣らず日本にも同じような人物がいた。
伊能忠敬は、もともと九十九里浜近辺の村の名主の家に生まれた。家庭の複雑な事情で各地を転々とする生活だった。
苦労を重ねた忠敬の人生が変わったのは、千葉県佐原の造り酒屋、伊能家の婿養子になった17歳の時。
伊能家は資産を持つ名士で、50歳で隠居する時には資産を増やし、商才に長けていたことは間違いない。
50歳の時、まさに五十の手習いの諺を地で行くかの如く江戸に出て、天文・暦学を学び始めた。
その修業中きっかけをつかんで地図作りを始め、55歳の時から17年をかけて日本全土を実地測量し、初めての実測による日本全図「大日本沿海輿地全図」の作成という壮挙を成し遂げた。
シーボルトが国外に持ち出そうとした地図こそ、この「大日本沿海輿地全図」である。
シュリーマンと伊能忠敬は、同じように、齢(よわい)50を過ぎて壮挙を達成するが、オーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者フェルディナント大公の日本訪問から浮上した人々にも、似た運命をたどった人々がいる。
同じドイツ生まれの医学者シーボルトはオランダの軍医であり、考古学者シュリーマンはオランダの商社で仕事をし、その後日本へとやってきた。
異国または異文化の中で、孤立しながらも気丈に生きたクーデンホーフ家の伯爵夫人・青山光子と日本人初の産科医・楠本イネ。
そしてオーストリア・ハンガリー帝国公使館に勤務して、フェルディナント大公に随行して運命が交叉した、ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギーとハインリッヒ・フォン・シーボルトである。

愛宕山からの放送は、1939年に東京・内幸町の放送会館に移転するまで14年余り続き、内幸町から現在の渋谷区神南のワシントンハイツ跡に移ったのは、1964年東京オリンピック開催の年である。