クローゼットの「赤ずきん」

「あいちトリエンナーレ」での展示「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた。
SNS上で「自国ヘイト」などと批判が寄せられ、連日炎上した。
新聞やニュースに、韓国の従軍慰安婦の少女像だけが単独で写真に出ていたが、全体の展示を見通して残る印象は、違ったものではないかと推測する。
例えば前述の少女像は、「平和の少女像」という社会関与型のアートで、少女の横に座り、同じ視線で社会を見るというもので、作者は韓国社会の批判を込めたものともいっている。
問題なのは、展示の意図を知ろうともせずに、ガソリンをまくとか、大会職員にまで脅迫メールを送るなどして中止させようとした人々がいたことだ。
そういえば最近、「表現の自由」に関する出来事は色々とあった。
思い起こすのは、アメリカのワシントン州リッチモンドに留学した福岡県大牟田市の女子高生が、"原爆"をあしらった学校のロゴや、そのロゴつきの学用品まであることに違和感を感じてネットに書くと、大きな反響があったことである。
この州は長崎投下の原爆のプルトニウムの生産基地で、それが街の誇りとなっていた。
この街は日本人も多いが、「トリエンナーレの展示品」ではあれほどの不快感を示す日本人がいるのに、そのことに誰も声をあげなかったのだ。
アメリカでは、原爆が太平洋戦争の終結を早めた考える人が圧倒的多数だが、例えば浦上天主に存在する長崎被爆で顏が焼きただれた「マリア像」が、リッチモンドの街角に置かれたら、市民はどういう反応をするだろうか。
不愉快さや違和感は、人間に多面的な見方を教えてくれるから、耳ざわりのいいフェイクニュースなんかよりも、よほど意味がある場合が多い。
ただ、「表現の自由」のひとつの制約は、憲法上では「公共の福祉」となるので、その表現によってどんな人がどれだけ傷つくかということ、つまり他者の「人格の尊厳」ということになる。
人間は、ローカルなものであれユニバーサルなものであり、ある種の価値観の奴隷となって生きている。
「あいちトリエンナーレ」での展示品は、一般の展示会では”ボツ”になったものを集めて展示したもので、そうした価値観に対して”風穴”をあけるという意図があったのだと思う。
、 さて、せわしないこの世の中で、自分を「なにもしない人」と”表現”して生きている人がいる。
「レンタルなんもしない人」こと森本祥司、現在35歳。実は既婚者で一児の父親である。
森本は、一流大学大学院で物理学を専攻し、卒業後は教材系の出版社に就職した。
しかし、組織になじめず仕事を転々とするなかで「なんもしたくない」自分に気がついたという。
会社で黙々と一人で仕事をしていると、チームワークを重視しろ、もっとみんなとコミュニケーションをとれと言われ、毎日同じ人とコミュニケーションをしなくてはいけない“固定された人間関係”が苦手で、徐々に会社に居づらくなり、3年で退職した。
以後はコピーライターを目指したり、淡々と一人で仕事ができそうだと思って編集プロダクションでも働いたが、性に合わず続かない。
やろうとしていたことがことごとくダメになって、何にもできなくなる。「何もできないし、したくもない」。
そのうち、”人は働いてお金を稼がなければ生きていけない”という社会の常識にとらわれず、なんもしなくて生きていけないのか? 
今の自分を、そんな命題の実験の場と考えつつ、自分の心に素直に従っていくうち、「なんもしない自分を貸し出す」というサービスを思いついた。
「動く置物」という名前も考えたが言いにくい。そこで天から降りてきたのが「レンタルなんもしない人」であった。
そんな森本に寄せられる依頼内容はさまざまだ。
たとえば、普段は奢ってもらうことが多いという依頼人から、時には奢らせてほしいと、高級鉄板焼き店に行ったことがある。
メジャーリーグ愛好家から、野球のことをよく知っている人と観戦すると、意見がぶつかるので、野球をあまり知らない人と観戦したい、木に登りたいが一人だとおかしな人と思われるので下にいてほしい。
人がいないと片づけのやる気がおきないので、とにかく”居て”欲しい。
依頼者の要望で行った先では、そこに居て何もせず携帯をいじっているだけ。
それでも病院への同行、裁判の傍聴、試験の合格発表見届けなど1日に約20件の依頼が届き、1ヵ月先くらいまでの間で日程を調整している。
そして感じることは、自分の存在が人々の”安心感”につながっていること。
組織には馴染めず、社会から外れ気味だが、自分がこの世の中にいてもいいんだ、と思えるようになった。
そして“固定された人間関係“による生きづらさを、実は結構たくさんの人たちも抱えていたのだと気がついた。
「何もしないこと」がコンセプトなので、交通費以外の費用は受け取らない。
そして、依頼主の許可がおりれば、Twitterに依頼内容を上げたり、気が向いたときには感想をつぶやいている。
今では約11万4000人のフォロワーがこの”活動”報告を楽しみに待っていて、すでに3冊の本が出版され、その収入で生活を支えている。
夫の「レンタル何もしない人」を許した奥さんは、買い物をする時も後ろからついてくるだけの人だったと笑った。
森本は、自らその場の空気も人の心も全く読めないと語るが、テレビでその姿を見る限り、依頼主との”距離感”が絶妙だと思った。

「表現の自由」の問題は、「人格の尊厳」の問題ばかりではなく、人の「内なる自然」の問題でもあるのではないかと感じる。
そのう感じさせるのが、最近の「アンパンチ」論争というものである。
「アンパンチ」とは、TVの主人公・アンパンマンが繰り出す攻撃のこと。
悪さをする”ばいきんまん”を「アンパンチ」でやっつけるのが恒例だが、この場面を見た乳幼児が「暴力的になる」と心配する親の声がネット上で見られるという。
これは新聞の記事から巻き起こった議論だが、ひとりの記者が電車の中で、「アンパンチをうちの子どもがやって困る」という会話を耳にしたことがきっかけで記事にすると論争が巻き起こった。
その中で何事も暴力で解決というのは、よくないという意見の一方、アンパンチが中途半端だから、バイキンマンがいたずらを繰り返すんだという強硬な意見もあった。
このような暴力的表現が子供に悪影響を及ぼすかということもあるが、逆に暴力的なことを全く見たりふれたりしないような、いわば殺菌もしくは減菌することが「人間の自然」から遠ざけることにはならないか。
最近の起きた常磐道のあおり運転のような思わぬ「暴力」と遭遇することがありうるのだから、むしろそれとどう折り合いをつけていくのか、ということも学ぶ必要もありそうだ。
さて、「昔々あるところに」などの語り口調で伝えられる様々な教訓がこめられた昔話は、時代を超えて受け継がれるものと思っていたら、実は近年その内容は驚くほど変化している。
「桃太郎」の話は誰もがしっている。桃から生まれた男の子がたくましく成長し、犬、猿、きじを家来にし鬼が島に鬼退治に行くというストーリーである。
約30年前の「桃太郎」では「ももたろうが きびだんごを あげると、犬は よろこんで ももたろうの けらいに なりました」 というように、きびだんごという食べ物によって"主従関係"を結んだ。
しかし、現代の「桃太郎」では、「さるもやってきて「ぼくもいくよ」。「本当かい?じゃあ、力がつくきびだんごをあげるよ。なかまがふえてうれしいなあ」と書かれており、家来などという”上下関係”は存在しない。
昔話では、鬼が島へと舟で向かうシーンでは、桃太郎が犬と猿に舟をこぐという最もキツイ仕事をやらせている。
しかし、いぬとさると 桃太郎が 交代でこいだので、小ぶねは ぐんぐんすすんでいく。
つまり、現代版「桃太郎」では、動物ひとりに負荷がかからないようローテーションで舟を漕いでいるのである。
ちなみに、キジは自力で飛べるので漕ぐ義務はない。
さらに、桃太郎一行が鬼に総攻撃をしかけるシーンで、キジは問答無用で目をつつくのが必殺技でしあった。しかし、現代版「桃太郎」では目をつつくと失明の恐れがあるので攻撃は手を使用するに留めている。
また、鬼を退治する方法もずいぶんとマイルドになっているばかりか、最終場面では「ももたろうたちは たからを もちかえると、一つずつ もちぬしの ところへ かえしました」となっているのが驚きである。
それは、宝物をネコババすると横領罪にあたるため、きちんと持ち主のもとへ返しに行っているのだが、それでは「鬼退治」の物語のオチとして情けないのではないか。
また「赤ずきんちゃん」では、赤ずきんちゃんとおばあさんがオオカミに食べられ寝ているところに猟師がやってきてお腹を切り開き、2人を助けるかわりに石を大量に詰め井戸に落としてしまうというエンディングであった。
それが、現代版「赤ずきん」では、オオカミはおばあちゃんを食べずにクローゼットに監禁するのである。
結末は、赤ずきんちゃんを食べようとしたオオカミが、赤ずきんちゃんに軽くかわされてやる気を喪失し退散するというものになっている。
室町から江戸時代にこうした「昔話」作られたり出版されて世に広がったのは、絵本を通して政治的な意味合い・教訓を子どもたちに伝えたいという意図があったにちがいない。
本来の昔話は「怖いな」と感じつつ、”こんなことをしたらこんな目に合う”ということに重点があったのであろうが、「現代版」では極度にひどい思いをする事態には至っていないようだ。

「スマートハウス」や「スマートシティ」という言葉をよく聞くようになった。
「スマートハウス」とは、1980年代にアメリカで提唱された住宅の概念で、家電や設備機器を情報化配線等で接続し最適制御を行うことで、生活者のニーズに応じた様々なサービスを提供しようとするものである。
2010年代にはアメリカの「スマートグリッド」の取り組みをきっかけとした、地域や家庭内のエネルギーを最適制御し、環境にも配慮した「スマートシティ」なのだが、そのスマートさとは、所詮人間の狭い世界観の中で考えられたものでしかない。
そんなことを痛感させられるのが、人間が住みやすい環境を作ればつくるほど、様々なアレルギーに悩まされるようになった点である。
アメリカの「アーミッシュ」とよばれるキリスト教徒は、田舎で自給自足の共同体生活を送るが、なぜかアレルギーの人がいないという。
ハリソンフォード主演の映画「刑事ジョンブッフ 目撃者」(1985年)で、ペンシルバニア州に住む「アーミッシュ」の存在が世に知られるようになった。
彼らがアレルギーが少ない理由は、小さなときから、家畜に触れ合う機会が多いことにあるらしい。
さてアレルギーに関して、注目される報告の一つは、赤ちゃんと微生物の関係についての研究報告だ。
赤ちゃんは誕生後、微生物にさらすと良い、母乳も含め免疫を強める要因になる。
つまり、誕生後に、微生物に触れる機会が増えると「腸内フローラ」との関係で、アレルギーになりにくい体質を作るのだというものだ。
逆からいうと、生活環境の快適さや清潔さは、アレルギー体質を増やしているということだ。
この事実は、人間の「体質」ばかりではなく、「精神」の問題を含めてもっと広い視野でとらえるべき視点ではなかろうか。
ところで最近、NHKのニューヒロイン「チコちゃん」では、「うんち」を描いた漫画がとてもよく売れる現象を解明していた。
こどもが”うんち”が好きなのは、”うんち”を自分の子供と思っているからなのだという。
この問題を解き明かすのが岡山大学の金関猛(かなさき たけし)教授は、日本のフロイト研究の第一人者といわれている。
教授によれば人は幼児期の頃、うんちをすると気持ちいいということを覚える時期である。
大人でも、トイレでうんちを出した後は、思わず声がもれるほど”気持ちのいい”。
この快感を覚えるのが、2歳から4歳ごろの”肛門期”である。さらにこの年齢は、トレーニングの時期でもある。
とにかく気持ちよく出てきたもので、そしてうまくうんちが出てくると達成感があるし、ほめてもらえる。
自分の体から出てくるものは、自分の子どもと同然。そんな愛着を感じている。
ほんとうに子どもは、”うんち”を我が子(うん子?)だと思っているのか、幼稚園の子どもに絵を描いてもらうと、およそ4人に1人の子どもが、無意識のうちに、うんちに顔を描いた。
さらに、うんちに愛称や名前をつけて我が子のように愛情を注ぐ。
それは、人間的が自らの”自然”を知る体験なのかもしれない。
スマートさの追及は、どこか人間の本質を素通りしている。また、"暴力的なもの"も、ある部分、人間の備わった自然である。
そうした人間の自然から目をそらすことが、平和な社会をつくるとは思えない。時には向き合うことも大事であるように思う。

今の世の中、「子どもに見せる・聞かせるべきではない」と感じた部分を、削除したり、変化させたりしている。
これは、社会全体で行っている”自己検閲”のごときものとのように思える。
思い浮かべるのは、ミシェル・フーコーの「監獄の時代」、もしくはベンサムの「パノプティコン」。
"監視社会"という言葉を哲学において鮮明に打ち出したのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「監獄の誕生 - 監視と処罰」(1974年)である。
フーコーはイギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」にもとづいて、近代社会のあり方を”パノプティコン社会”と見なした。
この「パノプティコン」を、フーコーは次のように説明している。
「パノプティコン」は塔の頂点からそれを囲んで円形に配置された囚人用監房を監視するといった建築で、逆光になっているので相手に見られることなく、中央から一切の状況や動きを監督できるというもの。
権力は囚人からは見えないが、存在し、囚人を監視している。たった一箇所から他のすべての場所を監視することができる。
ただ、「パノプティコン」の最も本質的なことは、中央で監視する人が仮にいなくても、囚人たちは”権力”からあたかも見られている如く、それぞれの行動を自らを規制していくのである。
今日、日本でおこなわれているごとく、「昔物語」の中のヒーローがソフト化したり、残酷な部分を柔らかくするなど、なにか権力者によって命じられたわけでもないのに、社会そのもので”自己検閲”していくのである。
この状況は、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」を思わせる。
そして、最近「○○ハラスメント」という言葉が多様化していことも、それと無関係ではないであろう。

旧約聖書の「ヨナ記」。人生の苦難がなぜ自分を襲うのかという「ヨブ」の神への訴えを描いた「ヨブ記」は、聖書を読まない人でも知る人は多いが、「ヨナ記」の方があまり知られていない。
しかし、10分もあれば読めるわずか5章のこの物語は、「神目線」で描かれている。
人間がこうすれば、神はこう応え、人間はそれに対してまたこうするといった人間と神様が囲碁をうっているような感じ。
そこには神様が、壊れやすい人間をゆっくりと教育しているような感じである。

その中でも、旧約聖書は、神がどのように人間をみているかその目線が短い物語に収められているという点で、旧約聖書「ヨナ記」に如(し)くものはない。
時は紀元前700ごろ、ヨナという預言者が神様の言葉を受ける。
今のシリア(アッシリア)の首都ニネベに行くように命じるところから話しが始まる。
その内容なニネベという大きな町が悪に満ちているから悔い改めるように神様の言葉を伝えなさいということであった。
しかし、ヨナは神様の言葉に従わず、背を向けたばかりか、ヨナは船に乗り込み、タルシシというところへ逃れようとする。
しかし、ヨナが乗った船は嵐に遭ってしまう。嵐の原因は誰なのか。船員たちが、くじ引きをするとくじはヨナに当たる。
そして、ヨナは自分を海に投げ入れるように人々に言い、最終的にヨナは人々によって海に投げ入れられる。
そして、海に投げ入れられたヨナは大きな魚に飲み込まれてしまう。
ヨナは次のような祈りをする。
「わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた」(ヨナ書2章6節)。
ヨナの切実な祈りを聞かれた神様はヨナを魚の中から救い出される。
その後、神様の言葉に従ってニネベの町に向かったヨナはニネベの町の人々に神様の言葉を伝える。
ニネベの町でヨナは「40日後にはこの町は滅びる」と神様の言葉を伝える。
すると、その言葉を聞いて、ニネベの王は、そこの人たちに(動物たちにも)悔い改めて、神様に助けてもらうようにお祈りすることを求める。
するとニネベの町の人々からはじまってニネベの王様までが悔い改めるという奇跡が起こった。
そして神様はこれをご覧になってニネベの町に災いを下すことを思い返された。
しかし、ヨナは神様が災いを下すことを思いかえしたことが面白くない。
それをご覧になった神様は一つの"とうごま"を通して神様の心情がどのようなものなのかをヨナに伝える。
それは人間を愛する神様の心情であった。
結果的に、ヨナの預言がはずれることになり、ヨナが神様に対して怒ってしまう。
実は、このアッシリアは後にヨナの母国であるイスラエル王国(北王国)を滅ぼしてしまう。
つまり、ある意味において、ヨナは自分たちの敵の国を助けてしまったことになる。
ヨナは怒りがおさまらず、その後のニネベの町の人々がどのような振る舞いをするか、とくと見届けようようと町に残る。
しかし、ニネベの町の日差しは日本よりもかなり暑い。50度くらいはある。そこで、神様は日差しからヨナの身を守るためにトウゴマの木を生えさせる。
ヨナは日差しから解放されて大変喜んだ。なのに、神様は次の日に虫に命令して、トウゴマの木の葉を食べさせたのである。
そこで、再び、ヨナは暑い日差しに晒されることになる。そしてヨナは神様に対して怒りをぶちまける。
そして 自分は「生きているよりも死ぬ方がましです」と。
それに対して神様は以下のように語る。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じて、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。どうしてわたしがこの大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の、右も左もわきまえない人間と、たくさんの家畜がいるのだから」(ヨナ書4.10-11)。

ちなみに、「カンパニー」の語源は後ラテン語の compāniōn で、ともに(com)パン(panis)を食べること(ion)。