人生の贈り物

生涯二人で夢を育んだ男女の話。近年、地元の福岡放送制作番組「シーナ&ザ・ロケッツ」を見て、夢を貫くことの爽やかさが印象的だった。
それは、鮎川誠が演奏していたライブハウスにやってきた副田悦子との運命的な出会い。
鮎川誠は、久留米出身で父はアメリカ人で、ハーフ。シーナ(副田悦子)は北九州若松出身で父親がダンスホール経営で、幼少の頃からダンスホールで踊ったり跳ねたりしていたという。
彼らの音楽は代表曲”You may dream”はじめ、今聞いても、古さを感じさせない。
無垢なままに夢だけを追い求めた二人だけのストーリー。♪よくある話じゃないか~♪というわけにはいかない。
そんなレアな出会いを「ボーイ・ミーツ・ガール」とよぶとしよう。
宇崎竜童と阿木燿子との出会いを、”ボーイ・ミーツ・ガール”とでもいいたいが、年齢的に多少無理があるかもしれない。
宇崎竜童は、1946年2月、京都府京都市で生まれ、生後間もなくして東京へ移り住んだ。
小さい頃は父親が釣具店を経営、とても裕福な家庭、豪邸に育った。
しかし宇崎が中学3年生の時に父親の会社が倒産、豪邸を手放して突然の借家生活になった。
一方、阿木は町工場を経営する両親と、兄、妹がいる一般的な家庭なので、環境は似通ったところがある。
宇崎が軽音楽部に入り、新入生を勧誘していた時、歩いてきた阿木を見て宇崎は「嫁が歩いてきた」と思ったそうだ。
阿木の方は大学入学初日、キャンパスに足を踏み込んだら、そこへバンカラ風な学生が飛んできて「軽音楽部に入りませんか」と声をかけた。
阿木が軽音楽部にはいるや二人の交際がはじまり、宇崎の音楽への情熱と才能はいうまでもないが、阿木は、先輩にも後輩にも分け隔てなく対応する宇崎の人間性にひかれていく。
それぞれ著名な作詞家。作曲家として、夫婦は度々ベストカップルにも選ばれた。
喧嘩をしないか尋ねた人に対し、宇崎は「だって彼女には文句のつけどころがないから」と答えている。
宇崎・阿木のコンビを一躍世に知らしめたのが、山口百恵の「横須賀ストーリー」だった。
それは、山口百恵が阿木と宇崎の作詞作曲のコンビを指名し、自らの曲を作ってくれと頼み込んだのがきっかけ。
それは晴天の霹靂だったが、山口百恵が引退するまでのおよそ5年間に、阿木と宇崎のコンビは78曲もの楽曲を提供することになる。
そして、打倒ピンクレディを旗印に、レコーディングぎりぎりまで何度も歌詞の直しを要求され、苦心の末に出来上がった曲が「プレイバック part2」。
追い詰められた阿木の本音「馬鹿にしないでよ!」が歌詞にそのまま反映された。
なにしろ楽曲の方は自然に降りてくる宇崎だったが、それまで歌詞はなかなか書けず知り合いに頼んでいたくらいだ。
そこへ、詩才溢れる女性を夫人としたことは、「人生の贈りもの」ともいえる。
妻の仕事を最大限に理解してくれる夫、宇崎との夫婦生活は今年で47年。
最近のインタビューで、男友達と飲みに行っても嫉妬しない宇崎が唯一嫉妬することは、妻が他の歌い手にいい詩を提供した時なのだそうだ。

ジョン・レノンがオノ・ヨ-コと出会ったのは1966年11月9日のことである。
前衛芸術家として名前が知られつつあったヨーコはニューヨークからロンドンへと活動拠点を移したばかりの頃であった。
新しい音楽の方向を模索していたジョンが、友人より彼女のユニークな「個展」の噂をききつけ、訪れたのが二人の出会いでのきっかけであった。
それぞれの離婚を経て1969年、ジョンが28歳でヨ-コが36歳の時に正式に結婚した。
ジョンとヨーコの出会いは、遠大なる出会いの不思議さを感じるが、絵画を介した奇跡的な出会いの物語がある。
今からおよそ70年前、東京大学の学生であった柴崎育久。趣味は美術鑑賞で、その日も、上野の東京美術館で開催されていた日本美術展覧会、通称「日展」の鑑賞に訪れていた。
会場内で、柴崎は「ある絵画」の前で立ち止まって見入ってしまった。 いつもなら、様々な作品を見て回る彼だが、この日は、その作品の前で、足止めをくらうカタチとなった。
それから1年後、1952年7月13日。 大学3年になっていた柴崎は、この年の夏休み、北軽井沢において、友人たちと共に、楽しいひとときを過ごそうとしていた。
その時、友人の山下のYシャツのボタンが取れてしまい、隣から針と糸を借りてきていた。 しかも、貸してくれたのは、旅行に来ていた、彼らと同じ年くらいの女の子4人組だった。
しかも、彼女らは、津田塾大学の英文科の才女達であった。
その日、彼女たちは誕生会を開くことを予定しており、そのパーティーに柴崎たち4人を招待してくれた。
でかしたぞ山下!”と喝采采の声があった。
彼らがイロメキだつのも無理はない。当時、男女の出会いは、貴重な出来事だった。
その日の夜、ドーナツが差し出されたのだが、その日の主役・富子さんだった。
この時、柴崎は富子さんに一目惚れしてしまった。柴崎は、富子さんと以前、どこかで会ったような不思議な感覚が消えなかった。
しかしそれがなぜなのか、この時はまだ分からなかった。
翌日、東大・津田塾8人の男女は、まるで青春ドラマをジで行くように、朝霧牧場に出かけ、楽しい時間を過ごした。
東京に戻ってから、柴崎は富子さんに積極的にアプローチそ、交際がはじまり、社会人として互いに忙しくなった時期をこえて、出会ってから6年目の27歳で結婚した。
柴崎は、この頃には、富子さんとどこかで一度出会ったことがあるという、あの不思議な感覚のことを、すっかり忘れていた。
そして結婚から6年後のある日、新聞に中澤弘光画伯が亡くなったという記事が出ていた。
明治から昭和期にかけて活躍した洋画家・中澤は、洋画家であると同時にデザイナーとしても活躍。与謝野晶子の作品の表紙、さし絵も手がけるなど日本を代表する画家だった。
柴崎は富子さんに、その新聞を見ながら、中澤画伯の作品で印象に残っている絵があると語った。
すると、富子さんの方も中澤画伯と「接点」があると、一枚の絵葉書を持ってきた。
その絵葉書を見た時、柴崎の中で、眠っていた何かが目覚めた。
実は柴崎が日展の展覧会で、長く佇むほど印象に残った絵画とは、富子さんの絵葉書の中の、中澤弘光作『静聴』だったのである。
そして、富子さんの「絵葉書」は、柴崎を驚かせたばかりか、あの「感覚」の謎を解くこになる。
あの展覧会の1年前、中澤画伯のアトリエに富子さんはいた。 つまり、あの絵のモデルは妻の富子さんだったのだ。
当時、中澤は学生をモデルに作品も描こうとしていたのだが、自分が理想とするモデルになかなか巡り会うことが出来なかった。
そこで、学生たちに頼んで、高校の卒業アルバムを持ってきてもらい、理想のモデルを探したという。
そして、中澤の目に留まったのが、端正な顔立ち、美しい黒髪の富子さんだったのである。
後日、富子さんは友達に伴われ、中澤のアトリエで肖像画を描いてもらう。富子さんにとって、 絵のモデルになったのは後にも先にも、「この時」だけだったという。
柴崎は富子さんと出会う1年前、すでに絵の中の彼女と出会っていたのだ。
描かれた女性に魅入られた男子学生と、その絵のモデルになった女性が、何かに導かれるように軽井沢の別荘で出会う。
そんな2人の出会いの不思議を、結婚6年後にたった一枚の絵葉書が紐解いてくれた。
この時、柴崎はもう一度富子さんが描かれたあの肖像画を見てみたいと思った。
そこで、かつて展示されていた東京美術館に問い合わせたのだが、すでに11年も経っていたので、作品は展示されておらず、しかも、現在はどこに所蔵されているかも分からないままだった。
その後も独自に調べて見たのだが、行方不明のまま時間は過ぎていった。
さらに47年の月日が流れた2011年。すでに世は インターネットの時代となっていた。
そして、ついに富子さんがモデルになった『静聴』が、宮崎県の都城市立美術館に所蔵されている事が判明する。
2012年、柴崎夫妻は美術館を訪れ、60年ぶりに絵画、つまり60年前の富子さんと対面することとなったのである。

新聞に「人生の贈り物」と題して、歌手の高橋真梨子と現在の夫との出会いが書いてあった。副題に「決め手は風呂の湯かげん」とあった。
高橋は当時、4年も付き合った相手にふられた。ふられたのは初めてで、うちひしがれていた。
一方、プロデューサーのヘンリー広瀬は当時、離婚したばかりだった。
高橋によれば、最初に博多で出会ったときの印象は良くなかったし、いつも冷たい態度の人だった。
ただ、前妻と別れすごくつらそうな時期でもあったようだ。
神戸のコンサート後、皆で食事に行ってお酒を飲んでかなり酔って、ヘンリー広瀬と初めてダンスを踊った。
「踊ろうか」と言ったのは確かヘンリーの方だった。
ヘンリーは「このとき初めて女性として意識した」と、後に語っている。
ホテルに帰ると、ヘンリーが高橋の部屋のバスタブにお湯を張って「お風呂入ってもう寝なさいよ」と言って自室に戻って行った。
ヘンリーは、高橋は酔ってるから、とにかく脱いでザブンと入るのは推測したのだろう。
高橋からすれば、バッチリだった。
何がバッチリかといえば、ぬるくもなく熱くもない湯加減。その時高橋は、ヘンリーの行き届いた配慮に感動したという。
翌日、「昨日のお風呂の湯加減が最高だった」と伝えた。それがきっかけで、二人は仕事以外のこともいろいろ話すようになった。
高橋によれば、ヘンリーは本当はものすごく愉快で面白い人なのに、キザっぽく自分を作っていたことがわかった。
そこで高橋は、つき合っている間にヘンリーの衣をはがしてあげたのだという。
11年の交際を経て結婚。今年で25年になるという。
高橋は、何から何までつくされっぱなしで、ヘンリーがいなかったら自分は生きていないんじゃないかと語っている。

古代ユダヤで「ソロモンの知恵」で有名な、ソロモン王は、次のような言葉を残している。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」 (旧約聖書「箴言」30章18節)。
ところで、「ソロモン流」というテレビ番組で「鈴木あやの」という人を知った。
その海中でのシルエットは、まるで人魚とイルカが泳いでいるようだった。
東京から南へ200キロ、黒潮本流の真っただ中にイルカが集まるところで知られる御蔵島がある。
波間に揺れる船から海に潜った鈴木あやのが、深さ5メートル付近で斜め上方向に浮き上がり、アオムケに泳ぎながらイルカの群れに近づいた。
5メートル離れた所では、夫の福田克之がカメラを構えている。
やがて船上に戻り、二人でモニター画面で写真を確認する。
そこに鈴木の泳ぐ肢体と、無邪気に戯れるイルカの曲線美が「絶妙」な構図で収まっていた。
つまり、鈴木は「水中カメラマン」であると同時に、「被写体」でもあるわけだ。
男性でも使いこなすことが難しい「足ひれ」(長さ75センチ/重さ3キロのバラクーダ)を自在に操り、指先の形まで美にこだわる。
鈴木の話を聞いて印象的なのは、あおむけでイルカにゆっくり近づくと目と目が合い、お互いににコミュニケーションをとりながら自由に泳ぐことができるのだという。
プロのスイマーでさえ脱帽させられるのは、鈴木が目でイルカを引き寄せる力である。
その結果、鈴木が映したイルカは、他のカメラマンが撮ったものに比べ、シグサや表情がとても豊かなのだそうだ。
夫である福田は、水中で鈴木の魅力を引き出すため、カメラに改良を加えている。その結果総重量は4キロとなった。
また素潜りの時間を延ばそうと毎日20キロ走りこむという。
しかし、海中で捉えられた写真は、そのことを忘れさせてしまう。
さて、鈴木あやのとその夫福田とは、このイルカを通じての出会いではじまる。
鈴木は、子供の頃から生物に興味があり、東京大学・大学院に籍を置いて研究の道を歩んだ。
研究の道は楽しかった反面、続けていく自信がなく、大手化学薬品会社に就職し、酵素の研究に従事した。
しかしどんなに魅力的な研究テーマでも、ビジネスにならない研究はボツになる。そのことを疑問に感じると同時にやりがいを失っていった。
その後研究の成果がカタチになる仕事がしたいと、大手食品メーカーに転職し商品開発を手がけた。
しかしそこでも同じような思いをいだき退職する。
その後、ベンチャー企業に働くが、「本当は何をやりたいのか」ともがき続け、ついには袋小路に入り2007年に休職、自宅に引きこもってしまった。
実は、鈴木の両親は高学歴で、鈴木はあたりまえのように東京大学に進んだ。
出来て当たり前と思われ、褒められることの少ない人生だった。だから出来ない自分に悩んだ。
また、心の奥は両親の期待に沿わねばならないという思いにいつも縛られていたのだ。
結局鈴木は、仕事に行き詰まり、逃げるように結婚したのだが、その結婚は長くは続かなかった。
そんな時、たまたま行った小笠原諸島父島でイルカと出会った。
間近に寄って来る愛らしい姿を見て恋に落ち、雄大な自然と無邪気なイルカの表情を見て、心が解放されるのを感じた。
そして仕事を辞め、イルカの気持ちに近づきたいと、素潜りの練習に打ち込んだ。
2008年夏、御蔵島でイルカを見るツアーに参加し、福田と出会いお互いに写真を見せ合う中で、会話がはずんだ。
実はこの時、福田も傷心旅行中だった。
福田は半年前、乳がんで妻を失い「もう死んでもいい」といった状態であった。
しかし死ぬ前に、妻が好きだったイルカを見に行こうと決めた旅であった。
福田は、鈴木と出会って「まだ自分には人の役に立てる」と思い、気持ちが前向きになれたという。
そして二人は再婚した。仲人はいるのかいないのか、実質的には「イルカ」ということになろう。

数年前、阿木さんと宇崎さんは、百恵さんと久しぶりに再会。一緒に食事をしました。 そこで、ずっと聞けなかったことを聞いてみたそうです。「私たちに曲を依頼したのは、百恵さん自身だ、っていう噂がありますけど、本当なんですか?」 …百恵さんの答は「はい、そうです」。 改めて、それが事実だったことに驚いたという阿木さん。 「あの時代に、アイドルでありながら、事務所に自分の意見を言えたというのがすごい。結婚・引退もそうですけど、百恵さんは自分の運命を、自分で切り拓いていったんですね」 百恵さんにとっても、阿木さんにとっても、転機になったのはこのフレーズだったのです。 「これっきり これっきり もう これっきりですか」