脇道の効用

TBS系「消えた天才」に出演した元Jリーガーの森崎嘉之氏(42)は、1994年度の高校選手権で8得点を挙げて得点王に輝き、優勝に貢献。帝京との決勝戦ではハットトリックの離れ業を成し遂げた。「市船史上ナンバー1エースストライカー」といわれ、将来の日本代表入りを期待されながら市原に入団したものの、なぜかリーグ戦出場なしで引退した。
入団後の練習で、個人技で難易度の高いゴールを決めたところ「なぜパスをしない。自分勝手なプレーをするな」と叱られた。思い通りのプレーを許された高校時代と違い、将棋の駒のようだと感じ、サッカーへの楽しさを持てなくなった。
入団前の期待が大きかった分、サポーターからのヤジは大きく、サッカーの面白さ、楽しさが感じられなくなり、モチベーションが完全になくなったという。
連日、六本木での夜遊びでストレスを発散し、戦力外通告となった。
それから約20年の時をへて、ワールドカップ3連敗でファンに水を浴びせられた市原の先輩・城彰二の態度をTVで見て、自分はなんと小さなことにこだわっていたのかと、再びサッカーと関わる道を選んだ。
この森崎と幾分似た体験をしたサッカー選手がいる。ただし、こちらは「消えなかった天才」。
大阪セレッソの少年リーグに「10年か20年に1人」といわれた逸材・柿谷曜一朗である。
現在ヨーロッパで活躍する香川真司は、17歳のときその柿谷がいるセレッソ大阪に加入した。
その香川でさえ、ひとつ年下の天才・柿谷の存在は一目おかざるをえない存在だった。
しかし両者は対照的な歩みをしていく。
コツコツと弛まぬ努力を続けて実績を残す香川と、俗にいうところの天狗になったのか、練習に遅刻するし態度も悪い柿谷は、ほとんど結果を出せずチームからも孤立していく。
07年、1歳年上の香川真司にポジションを奪われ、翌年には、横浜F・マリノスから移籍してきた乾貴士の台頭で、シーズン後半はベンチ外にまで追いやられてしまった」。
天狗の鼻をへし折られ、ふてくされた柿谷は、練習への遅刻を繰り返すように。ついには、徳島ヴォルティスに「レンタル移籍」を言い渡されてしまう。
そして柿谷が徳島で出会ったのは、香川をいちいち引き合いに出してチクリと柿谷を挑発する監督であった。
ところが、その柿谷が徳島でもっとも愛される選手として成長していく。
徳島で人々は、柿谷をあたたかくむかえてくれた。例えば、徳島で柿谷が通っていたうどん屋では柿谷がゴールしたらうどんを無料にするなど、もうひとつの出会いが「阿波踊り」であった。
徳島ヴォルティスには、サポーターとの交流を深めるために阿波踊りに参加するイベントがあった。
まだ10代で尖っていた柿谷は当然、同イベントに否定的だった。
しかし、新参者のため断れず、嫌々ながらも参加。初めは身を隠すように踊っていた柿谷だったが、翌年には少しずつ前に出ていくようになり、3年目には最前列で踊り狂っていた。
"同じアホなら踊らにゃ損々"という言葉が素直に受け入れられるようになった柿谷は、阿波踊りで前に出るにつれ、サッカーでも結果を出すようになった。
チームの慣例で最前列でこの踊りをするうちに、柿谷は皆でやる踊りの高揚感を味わった。
してそれがキカッケになって、柿谷は個人プレーに走っていた自分に気がつき、チームプレーに徹するようになったという。
そして柿谷の人間的な成長につれ、徳島ヴォルティスも変わり、チームの躍進にもつながった。
そして柿谷はセレッソ大阪に戻り、4年間という長い時間を無駄にしずいぶんと遠回りをしたようだが、ついに覚醒した感がある。
その後、柿谷は、不調に陥ると練習ではなく、"阿波踊り"が不足しているとささやかれた。

1988年のソウル五輪のシンクロナイズドスイミングでソロ、デュエットともに銅メダルを獲得し、日本のシンクロ界を世界のトップレベルに押し上げた小谷実可子。
小学生のときにシンクロを始め、12歳のときに日本代表に選ばれ、高校1年生のときに米国のノースゲート・ハイスクールにシンクロ留学した。
米ナショナルチームを指導したコーチに学んだが故に、帰国後も周囲からの期待は大きく、日本一の選手になることを当たり前のように言われ続けていた。
しかし、なかなか全日本選手権で優勝することができず、周囲からのプレッシャーとも闘いながら20歳になってようやくソロで全日本チャンピオンになることができた。
その時、うまくいかないことがたくさんあってそれを乗り越えられたからこそ、心底からうれしいと思えた。
だから、神様は自分を遠回りさせたと、「起こることには、必ず意味がある」と悟った。
その後も決して順風満帆な競技人生とはいえず、選手人生最後の五輪となったバルセロナでは代表ではあるものの補欠。そして結局出番がなく、五輪の舞台に立つことができなかった。
選手としての最後のキャリアが補欠とは、シンクロ界で、あなたはいらないと宣告されたような気がした。
五輪後、引退を表明し、心にぽっかりと穴が開いたかのようで、なかなか気持ちを切り替えることはできなかった。
そんなとき、バハマに行ってみようと思ったという。
実は数年前から、知らない外国人のおじさんから、バハマのイルカを見に来ないかと誘われていた。
最初は、何だか怪しいし、イルカにもまったく興味がなかったので断っていた。
しかし、あまりに熱心なので、気分転換も兼ねてバハマに飛んでみることにした。
そして中米バハマの海でイルカと並走して泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。
海と一体化し自分のちっぽけさを知り幸福感に浸り、人生観が変わった。
長くオリンピックの「代表争い」など、点数を伸ばそう、自分少しでも大きく強くしようともがいてきた。
世にあって、様々な競争やシガラミに巻きとられてきた自分を見つめなおした。
そして、まとっていた「五輪の日本人メダリスト」などといった鎧(よろい)のようなものがひとつつひとつ剥がれていった。そして、地球規模で考えると、自分はイルカと同じただの一生命体ではないかと、生まれたての赤ん坊に戻ったような気がした。
最初、イルカはすぐにどこかに行ってしまい、長く一緒に泳げなかっただが、「遊ぼう」と言うようにグルグル回っていたら、イルカが丸い目でじっとこっちを見て一緒にグルグル回りながら泳ぎ始めた。
そして、イルカはこちらの心の持ちようで親しみ方が違うのだと気がついた。
かっこよく泳ごうとか、カメラ映りをよくしようとか、こちらの気持ちに邪心があるとイルカは近寄ってさえ来ない。
自分が自然と「一体化」して、イルカとたわむれようという気持ちになったとき、イルカも近づいてくる。
だからイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったという。
結局、イルカも人も同じ生命体というレベルでどこか気持ちが通じ合うような不思議な感覚に陥った。
そして、自分を生んでくれた両親に感謝し、生かされていることに感謝し、生きているから誰かの役に立ちたいとも思った。
そして自分は何ができるんだろうと考えた時、やっぱりシンクロしかなかった。シンクロを通じて、人々がやりがいや喜びを感じられるような場をつくりたいと思うようになった。
そしてバルセロナ五輪で補欠に終わったことは、シンクロで伸び悩んでいる選手に対して、気持ちが分かるいい経験だと思った。
小谷は、ギリシアを旅した時、古代の洞窟でイルカを見たことを思い出した。
すべて、起こったことには、やはりすべてに意味があるという思いを深めた。
小谷さん以外にも、人生の脇道にそれてイルカに出会いそれを職業として関わる様になった女性がいる。そればかりか、イルカが連れてきたのは現在の御主人である。
TV番組の「ソロモン流」で、「鈴木あやの」さんが泳ぐ海中でのシルエットは、まるで人魚とイルカが泳いでいるようだった。
東京から南へ200キロ、黒潮本流の真っただ中にイルカが集まるところで知られる御蔵島がある。
波間に揺れる船から海に潜った鈴木あやのさんが、深さ5メートル付近で斜め上方向に浮き上がり、アオムケに泳ぎながらイルカの群れに近づいた。
5メートル離れた所では、夫福田克之さんがカメラを構えている。 やがて船上に戻り、二人でモニター画面で写真を確認する。
そこに鈴木さんの泳ぐ肢体と、無邪気に戯れるイルカの曲線美が「絶妙」な構図で収まっていた。
つまり、鈴木さんは「水中カメラマン」であると同時に、「被写体」でもあるわけだ。
男性でも使いこなすことが難しい「足ひれ」(長さ75センチ/重さ3キロのバラクーダ)を自在に操り、指先の形まで美にこだわる。
カメラに改良を加え、総重量は4キロとなるが、海中で捉えられた写真は、そのことを忘れさせてしまう。
鈴木さんの話を聞いて印象的なのは、あおむけでイルカにゆっくり近づくと目と目が合い、お互いににコミュニケーションをとりながら自由に泳ぐことができるのだという。
プロのスイマーでさえ脱帽させられるのは、鈴木さんが目でイルカを引き寄せる力である。
その結果、鈴木さんが映したイルカは、他のカメラマンが撮ったものに比べ、シグサや表情がとても豊かなのだという。
鈴木さんとその夫福田さんは、互いに紆余曲折を経ての出会いであった。
鈴木さんは、子供の頃から生物に興味があり、東京大学・大学院に籍を置いて研究の道を歩んだ。研究の道は楽しかった反面、続けていく自信がなく、大手化学薬品会社に就職し、「酵素」の研究に従事した。
しかし魅力的な研究テーマでも、ビジネスにならない研究はボツになる。そのことを疑問に感じると同時にヤリガイを失っていった。
その後研究の成果がカタチになる仕事がしたいと、大手食品メーカーに転職し商品開発を手がけた。
しかしそこでも同じような思いをいだき退職する。
その後もヤリガイを求めた、「本当は何をやりたいのか」と「袋小路」に入り2007年に休職、自宅に引きこもってしまった。
実は、鈴木さんの両親は高学歴で、鈴木さんはアタリマエのように東京大学に進んだ。
出来て当たり前と周囲に思われ、褒められることの少ない人生で、心の奥は両親の期待に沿わねばならないという思いにいつも縛られていた。
結局鈴木さんは、仕事に行き詰まり、逃げるように結婚したが、その結婚も長くは続かなかった。
そんな時、たまたま行った小笠原諸島父島でイルカと出会った。間近に寄って来る愛らしい姿を見て「恋に落ち」、雄大な自然と無邪気なイルカの表情を見て、心が解放されるのを感じた。
そして仕事を辞めて、イルカの気持ちに近づきたいと、素潜りの練習に打ち込んだ。
2008年夏、御蔵島でイルカを見るツアーに参加し、福田さんと出会い、お互いにイルカの写真を見せ合う中で、会話がハズんだ。
実はこの時、福田さんも傷心旅行中だった。福田さんは半年前、乳がんで妻を失い、妻が好きだったイルカを見に行こうと決めた旅であったのである。
福田さんは、鈴木さんと出会って「まだ自分には人の役に立てる」と思い、気持ちが変ったのだという。
そして二人は互いに再婚した。仲人は「イルカ」ということになろうか。

映画「泣き虫しょったんの奇跡」は、プロ棋士・瀬川晶司さんの半生を描いた。
プロ棋士を目指す者が集まる、プロ棋士養成機関“奨励会”。ここに入会することすら厳しい道で、その難関を乗り越え入会すると、またさらなる試練が待っている。
それは、年齢制限。満21歳までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会という鉄の掟。
ただし、年齢制限の最後の「三段リーグ」で勝ち越せば、満29歳のリーグ終了時まで次回リーグに参加できるという。
この東西を合わせた三段リーグを年2回行い、それぞれ上位2名だけが四段に昇格することができ、そこで初めてプロ棋士となることが出来る仕組み。
ところが、2005年に「特例」として、瀬川晶司がプロ編入試験を実施し見事にプロ棋士になった。
翌年から、奨励会を経なくとも実力がある者が「プロ編入試験」の規定を設けられた。
瀬川は中学三年で奨励会に見事合格し、入会することになる。
全国から集まった猛者たちと戦いながらも上を目指す。周りには同じ目標を掲げる友人たち。しかし、ひとり、、またひとりとプロ棋士になれなかった者が奨励会を去っていく。
瀬川も最後まで粘ったが、奨励会を去ることに。追い打ちをかけるようの、ずっと優しく支えてくれた父が交通事故で他界してしまい、「もっとがんばれたのに」と後悔の涙を流す。
傷心の瀬川は幼馴染と再会し、また二人で道場に通い、アマチュアで名人となる。
その瀬川の強さを目にした周りの人々は、彼にプロ編入試験の話を持ちかける。
そして、プロ編入試験によって日本将棋界史上初めてサラリーマンからプロ棋士となった。
ところで、この瀬川が開いた道が、もうひとりの棋士に「逆転の人生」をよびおこす。
なんと41歳になったプロ棋士になった今泉健二、その名が注目されたのは、あの天才・藤井颯太を破った番狂わせを演じたからだった。
1973年、愛知県生まれ、1冊の本をきっかけに将棋に目覚め、14歳で「奨励会」に入会する。26歳の時、年齢制限により退会となり、地元・広島県福山市で将棋道場の世話役をされている方が、将棋を教える仕事をくれた。
レストランの厨房で働き始め、なんで手を傷だらけにしながら、料理作ってるのか、自分は将棋指しなのにと、一番つらい時は夢にも出てきた。
ところが瀬川晶司五段によって奨励会に編入制度ができたことで、再度プロ棋士を目指し「奨励会員」になる。しかし壁を越えられず、35歳で2度目の退会。さすがにプロは諦めた。
その後、父の勧めで介護ヘルパーの資格を取って、高齢者向けの施設で働くようになった。
介護の現場は直接「死」と向き合う現場で、もしかしたら、今日中に自分の周りの誰かがいなくなるかもしれない。
そういう環境にいたことで、 自分自身はいつも笑って生きていきたいと思うようになった。
施設で働き始めたころは、声がでかい以外本当に何もできなかった。
悩んでいる時は、先のことなんか考えないで、取りあえず 今、目の前の一点を全力でやり切る。
目の前にいる人を喜ばせる。そして自分が楽しくなる。
この2つを生き方の根っこにすると、そのためにできることがいろいろあるし、また違った視点が出てくる。
高齢者施設で働くの並行して、不思議なぐらい将棋の成績が出だした。
若いころから将棋の力はそこそこあったが、足りなかったのは、“心の部分”だった。
プロ編入試験に41歳で合格し、2015年に念願の棋士デビューを果たした。
三段リーグに2度も敗れて、奨励会を退会になり、プロになったのは今泉健二だけ、後にも先にもそんな棋士は出ないであろう。
その意味で、「不世出の凡才」といえようか。