ここにも「日本式」

平成天皇ご夫妻が2015年に慰霊のためにパラオ(ペリリュー島)を訪問された。ここは、第一次世界大戦後に、ドイツにかわって国際連盟による日本の「委任統治領」となった島々である。
1933年の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。
1941年 太平洋戦争開戦時のペリリュー島には、上空から見ると「4」の字に見える飛行場が完成していた。
1943年にはパラオ在住者は3万3千人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。
道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。
しかしアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラック島を、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。そしてペリリュー島は、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘戦の舞台となった。
圧倒的な米軍に対して日本軍は、要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いたが、日本軍がこの時見せた組織的な抵抗・戦術は、後の「硫黄島の戦い」へと引き継がれていく。
硫黄島に着任した栗林忠道中将はサイパンやペリリュー島で行った水際での防御を中心とする戦術よりも、内陸での持久抵抗を行い、敵の消耗を強いる作戦を採用する。
その際、この穴を掘って自在に防御と攻撃を行う戦法は、太平洋戦争で日本軍と対峙したベトナムに伝搬した可能性がある。
ともあれ「ベトコン」と呼ばれたベトナム解放軍が取り入れた「日本式」トンネルシステムは、米軍に抵抗するベトコンにとって非常に重要で、ベトナム戦争での勝利に主要な役割を果たしたという。
戦闘中のベトコンゲリラの隠れ家としてだけでなく、コミュニケーションや供給ルート、病院、食品や多数のゲリラの戦闘機の武器倉庫や家族用の宿舎としてとしても使われた。
ところで1975年制作「暁(あかつき)の七人」というアメリカ映画があった。
イギリス軍が、ナチスドイツのチェコ占領により、イギリスに亡命したチェコの若者7名を特訓して、占領軍総督の暗殺を企てた「実話」に基づく物語である。
日本とビルマ(現ミャンマー)との間で似たような話がある。
ビルマは、115年の長きにわたりイギリスの植民地であり、1942年にようやくイギリスから「独立」を果たす。
それは、太平洋戦争開戦とともに破竹の勢いで進軍する日本軍が、イギリス軍を駆逐し、首都ラングーンを陥落した時である。
当時、アジアの国々には有力な指導者もおらず、武器もなく欧米の列強支配に甘んじる他はなかった。
そこでビルマの若者達は、日露戦争における日本の勝利に曙光を見出そうとしていたのである。
鈴木敬司大佐を長とする南機関は、背後でビルマ独立に燃える若者を極秘裏に訓練していた。
鈴木敬司は偽名を「南益世」を名乗ったことから「南機関」とよばれた。
日本と英米との開戦(太平洋戦争勃発)によって事態は急変し、「南機関」は、或る国家的使命を帯びるようになる。
日本と中国と戦争した際に、アメリカやイギリスが中国・蒋介石政権へビルマの港から輸送する物資のルートを遮断する必要があった。
いわゆる「援蒋ルート」の遮断で、ビルマに「親日政権」をつくる使命である。
イギリスの物資援助を受けて中国は日本と戦ったが、ビルマはイギリスに支配されていたがゆえに、イギリスは日本とビルマの共通の敵であった。
そして南機関は、ビルマの建壮な若者30人を選んでビルマと気候のよく似た中国・海南島で「地獄の猛特訓」を施し、「ビルマ軍政」の基盤を作ったのである。
海南島の訓練は厳しいもので、志士のひとりは「ビルマがもし海南島から陸続きだったら、どんなに困難が待ち受けていようと逃げ帰った」というほどだった。
訓練の厳しさだけでなく、習慣の違いもあった。
ここでの「日本式」といえば、仏教国ビルマでは親でも子供を殴らないため、日本式の体罰(ビンタなど)にはビルマ人にとってショックであったが、独立のためと不満をエネルギーに変えていった。
イギリス人はビルマ人とどんなに親しくなっても一緒に食事したりはしない。
しかし日本兵と一緒に食事し、一緒に寝転がって喋るなどやっているうち、日本人とビルマ人との間に信頼関係が芽生え増していった。
南機関を率いた鈴木敬司大佐は、イギリスによる独立運動の弾圧の中、クーリーに変装してアモイに逃れたアウンサンらを脱出させ、故郷・浜松で匿まって絆を深め、ビルマの独立を支援することを約束した。
とはいえ、「大東亜共栄圏」という実質日本によるアジア植民地化の流れが生じ、日本軍がイギリスに変わって軍政が敷かれるにおよび、彼らは親日から反日・抗日へと変わっていく。

ベーデン=パウエル卿は、イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した英雄である。
当時イギリスの青少年の自堕落な姿に大きな不安を感じたパウエル卿は、戦争で体験した自然の中での自発的な活動が青少年年の育成に大きな可能性を開くものであると確信した。
そして1907年に「ブラウンシー島」という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行ない、その体験を元に「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。
この本に書かれた野外活動の素晴らしさは世界の人々の心をうち、またたくまに「ボーイスカウト運動」として世界に伝播していった。
そしてパウエル卿がボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説し、たまたま東京を訪問していた時に「白虎隊」の話を聞き深く感動した。
1920年に34ヶ国が参加したボーイスカウト第1回大会がロンドン郊外で開催された時、ボーイスカウトの精神に「日本の武士道精神」を取りいれたことを明らかにしている。
実はパウエル卿はケンジントン公園の近く住んでいたのであるが、この公園はジェームズ=バリという人物が「ピーターパン」の構想をえた場所としても有名である。
パウエル卿は、たまたまこの公園近くに住んでいるというだけではなく、自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。
そんなめぐり合わせから、ピータンパンと白虎隊の精神がパウエル卿の中で融合・昇華したのが「ボーイスカウト」精神といえるかもしれない。
さて、「武士道精神」を世界に広めたのが、白虎隊のふるさと福島に隣接する岩手県生まれの新渡戸稲造(にとべ いなぞう)である。
新渡戸は、第一次世界大戦後に設立された国際連盟の事務次長として、常任理事国だった日本を代表する世界のリーダーの一人であり、日本人精神を「BUSHIDO」として世界に紹介した人物でもある。
国連事務次長であった新渡戸稲造が日本とフィンランドの1つの絆を築いた人物といえる。
北欧の観光地オーランド諸島は、もともと「スウェーデン領フィンランド」の一地方としてスウェーデン王国に帰属していた。
しかし、1809年にスウェーデンがロシアとの戦争に敗れため、オーランド諸島は「ロシア領フィンランド大公国」の一部となった。
1856年のパリ講和条約でクリミア戦争は終結し、この条約でオーランド諸島はスウェーデンとロシア間にあって中立の「非武装地帯」となった。
しかし1914年、第一次世界大戦の勃発に際し、ロシアはこの条約に違反したまま、オーランドの要塞化を図った。
そしてオーランド代表が「スウェーデンへの統合」を求める嘆願をスウェーデン王に提出する一方、フィンランドは「オーランド分離」を阻止すべく、1920年にはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させた。
するとオーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請した。
スウェーデンとフィンランドの両国間の緊張が高まったため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意した。
1921年、新渡戸稲造を中心として、オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めた「新渡戸裁定」が示された。
その内容とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
これにより、「オーランドの分断」を防ぐことができ、オーランド諸島は今や「平和モデルの島」となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになったのである。
いわゆる「新渡戸裁定」には、日本人特有の白黒をはっきりとつけない共存意識が平和的解決に向かわせた感じがする。
ところで2019年春に、埼玉県飯能(はんのう)市に本国フィンランド以外では世界初となるムーミンの世界を体験できる「ムーミンバレーパーク」がオープンした。
最初はムーミンを意識したわけではなく、「ムーミンや北欧の世界観に影響を受けて作られた公園」だったという。
しかし宮沢湖にみられる環境や雰囲気といい、まるでムーミンの世界のようだと話題になったことで、飯能市もムーミンを意識するようになる。
そのうち、飯能市とムーミンの原作者トーベ・ヤンソンの交流が始まり、今までの交流や実績が認められ、2017年6月より名前に「ムーミン」をつけることを許可された。
フィンランドは森と湖の国であり、国土の4分の1が北極圏で幻想的な白夜やオーロラがみられる。
実はフィンランドを構成する「フィン人」はアジア系で、日本人と同じくキャラクターが大好きな国民性をもつ。サンタクロースの生まれ故郷で、ここでは季節かまわず活動している。
他に日本人とフィンランドの共通点をさがせば「風呂好き」ということである。
ただフィンランドで風呂といっても日本のようにザンブとはいる風呂桶などはなくシャワーとサウナであり、目の前の湖が浴槽代わりである。
さてムーミンは、意外にも日本の浮世絵の影響を受けている。
「ムーミンパパの思い出」に描かれた波の画フィンランドらしい荒々しい波。実はこれが葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」から影響受けている。
特に、線だけで迫力ある波を表現する北斎の画はヒントになっている。
トーベは、広重の「おおはしあたけの夕立」の影響うけて、雨中でのピクニックの画を描いている。
画家としての人生は険しいが、その困難を超えれば幸せがやってくるという思いをこめたかのようだ。

2006年ノーベル平和賞を受賞したのがバングラデシュの「グラミン銀行」とその創立者のムハマド・ユヌスである。
ユヌス氏は、大学で経済学を教えていたが、母国の圧倒的な飢餓と貧困に直面して、経済理論ではなく実践で貧しい人たちの生活を改善したいと考えた。
貧困の原因を突き止めようと、ダッカから北200キロのジョブラ村に入ったユヌス氏は、竹細工をしている女性達に出会った。
彼女達は技術を持ちながら、材料やオカネがなく高利貸しから借金するために貧しかったが、担保がないので銀行からの借り入れもできなかったのである。
1976年、ジョブラ村の人々に27ドル貸したのがグラミン銀行の発端となった。
ちなみに「グラミン」は「村の」「田舎の」という意味である。
無担保で融資し、5人組の「連帯責任」で返済させる。そのうち1人の返済が滞ると、全員の融資の増額ペースが落とされる。
融資後は週1回、お金の使い道や就労の取り組みについて確認できる。
こうして農村の女性たちには現金収入の道が開け、返済率は97%にものぼった。
ユヌス氏の取り組みは、貧しい村の人たちの暮らしを良くするために、電話などの通信の整備、教育のための奨学金、貧しい子どもたちの栄養改善など多岐にわたっている。
こういう地域への市場参入をはかる世界的な食品会社や日本の衣料品会社との「合弁事業」も行うまでになった。
「グラミン銀行」は1983年設立で、米国や英国などにも進出。米国ではのべ9万人に計約800億円を融資した。
そしてムハマド・ユヌスと、その協力者である日本の大学教授が2018年に「グラミン日本」の設立で合意した。
寄付や出資を募って貸金業者として登録し、10年後をめどに「預金取扱金融機関」への移行を目指すという。
ところで江戸後期、二宮尊徳は荒廃した農村を、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じてたてなおした人物として知られている。
わずかな土地でもって課せられた税の全てをまかわなわなければならず、正直に働くことさえバカバカしくなって身を持ち崩すものが増えていった。
そして望みなき生活を酒や博打で憂さを晴らすものが多くいたのである。
自ら離散した家を若くして再興した体験をもつ二宮は、どんな事業にも「元手」がいることを学んでいた。
まず再興を手がけた農村を長期の年貢の計算、一戸あたりの所有鷹、耕地面積、家族、農具、食料在庫、便所から馬の有無まで調べあげた。
皆で金を出し合い、必要な者に無利子で貸し出す基金で、もし返済できなければ仲間の9人で返す、10人の連帯責任とした。
借金のために田畑を手放していた者が、この金によって再び自分の土地を持てるようになる。
具体的には、勤勉だと見た農民には農具を与え、身利息でカネを貸した。村人が背負っていた高利の借金は立て替えて返済し、低い金利や無利息にした。また無借金の者には褒美として年貢を免除するなどした。
そして少しずつ貯めて大をなして行くことを実践させたのである。
以上のように、徳をもって徳に報いる「報徳金」によって、村全体の生産性が上がっていった。
こうして二宮は、荒れ果てた農村の復興にあたり、借りた者の生活設計を考えて、借金の返済から将来に備えた貯蓄の面倒までみた。
また「仁義礼智徳」の五つの徳目を守ることににより、借金の回収不能がおきないような精神的土台をも築きあげたのである。
1843年に二宮尊徳の思想を実践して、小田原報徳社が結成され、農村の更生をはかる結社「報徳社」として全国に広がったのである。
個人的に思うことは、グラミン銀行は報徳社をモデルにしているのではないかということだが、それを誰も指摘しない。
しかし、「二宮尊徳」が海外で知られる可能性があるのだろうか。
ユヌス氏はアメリカで経済学を学んで、バングラデシュのチッタゴン大学で教えている。
実は、JFケネディは大統領就任の際、尊敬する人はだれかと聞かれて「上杉鷹山(うえすぎ ようざん)」と応えたという。
上杉鷹山は英文で書かれた内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)の中で代表的日本人5人の1人として紹介されているので、これが情報源の可能性が髙い。
実は、二宮尊徳もその5人の中のひとり、ユヌス氏がそれを読んで「日本式」を取り入れたとしても不思議ではない。