”遺風”堂々

最近の新聞紙上で、自民党議員の「生産性発言」とか、労使懇談とか、自衛隊募集のために市町村の名簿をださせるとか、校納金は五人組で集めるなど、戦時中に遡ったようなニュースが目につく。
それに見合う戦前の事柄を具体的にいうと、戦争遂行のためスローガンが「産めよ増えよ」であったし、徴兵制において、各自治体で壮健な若者(甲種合格)が出るのを誇りにしていたし、保安や監視のための隣保制度というものがあった。
それは、江戸時代に「五人組」の連帯責任で年貢を納入していたことにもつながっている。
翻ってみれば、シェアリングエコノミーも、戦時中の「産業報国会」の理念と幾分重なるものがある。
だからといって、日本に軍国主義が蘇ったというのではなく、日本はいまだに、「戦時体制」から脱け出ていないということだ。
その意味で、「戦後○○年」とはよくいったもので、戦時の遺風が残っていることを暗示しているかのようだ。
では一体、「戦後」はいつまで続くのかという思いにかられるが、そもそも「戦時体制」とはどのように形成されたものであったか。
それは1940年、首相の近衛文麿を中心に戦時体制の確立を目指した、「新体制運動」の名のもとで形成された。
その中で「協同主義」を謳い、隣組内で炊事など家事労働を協同で行わせたり、不用品の交換会を推進したりした。
また、それを賛美する記事が当時の新聞にいくらでも出ている。
各家庭で週に1度は、「日の丸」弁当(白ご飯に梅干し)の日などがあって、現在各地で各地に子供食堂が各地でできていることを連想する。
隣組制度は、10戸内外を単位としてその地域の消防、灯火管制、警報伝達、防護の任にあたる横繋がりの組織であったが、内務省・警察の指導のもと上意下達によって国策遂行に協力させるための行政機関の補助的役割を果たすようになる。
つまり、新体制運動自体は、軍の勢力拡大に対抗して作ったつもりが、いつのまにか軍を支える翼賛体制となったのである。

日本は戦後も長く「戦時体制」を色濃く残した経済であったのだ。つまり、1940年代ぐらいに作り出された経済体制をそのまま引き継いだ部分が多いということ。
その一番の典型は、1995年にようやく廃止された食糧管理制度であり、食糧難の時代の配給制度と一体化したものであった。
1937年に「産業報国会」が作られたが、これは労使双方が参加して事業所別に作られる組織であり、労使の懇談と福利厚生を目的としたものであった。
戦時は労使の「一体化」が何より優先されたからだ。
それが日本的経営の柱の一つである「企業別組合」として結成され、現在に至っているのは、「産業報国会」などの組織が衣替えして成立したためである。
また日本の大企業は、もともとは部品に至るまで自家生産する方式をとっていた。
それが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として「下請」方式を採用するようになった。
1960年代末にトヨタに部品を納入していた子会社の40%以上は、その下請け関係を戦時期に築いていたという。
その一方で1990年代には、金融ビッグバンにより金利は自由化され、ようやく公定歩合などもなくなり、戦時体制から脱け出た部分もある。
こうした戦時経済体制には、国民経済を主体したモノつくりの時代には、プラスに作用する面もあったが、グローバル経済の中ではむしろマイナスの要素が大きくなり、それをひきずっていることが日本停滞の最大の原因なのではなかろうか。
人づくり(教育)においても、日本は戦時体制からなかなか抜け出していないのかもしれない。
類推のために極端な例をあげると、北朝鮮からの脱北者が韓国で仕事がなかなかうまくやれないことは、上から命じられたことを忠実にやることのみを教え込まれてきたからだからだという。
皆が同じことをして発展してきたのがモノづくりで、世界ですすむグローバルな分業体制の下、日本は従来の「ものづくり/人づくり」体制から離脱するべき時期がきているのではなかろうか。

我々は、現在の社会体制は自然に形成されたと思いがちだが、実は戦時体制の下で作られた特殊なもので、それが平時も続くことにより、あたり前のことのように錯覚しているのだ。
身近なところをいうと、所得税はそれ以前からあったものの、1940年の税制改正で世界ではじめて給与所得の「源泉徴収制度」が導入された。
「源泉徴収制度」は戦費調達を確実に行うために導入されたものであるが、税の捕捉率100パーセントということは、サララ-マンの自営業者などに対する不公平感を募らせ、1980年代に間接税(消費税)中心の税体系へと移行したのは周知のとうりである。
税制は、それまでの地租、営業税中心の体系から、所得税中心の体系に変わった。
1940年の「税制改革」で地方への補助金・交付税なども、中央政府が全国的な支配体制を築くために作られたものであったが、それが地方分権にむけて「三位一体改革」として本格的にメスが入り始めたのは、ようやく最近のことである。
1940年ごろから、金融も自由な市場での直接金融方式から統制的な銀行経由の間接金融に変質した。
また、江戸時代から継続していた地主と小作人の関係が、「食糧管理制度」の導入によって本質的な変化を遂げた。
都市における地主の地位も、「借地法・借家法」の強化によって弱体化された。
1941年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地・借家法」の改正が行われ、契約期間が終了した後でも「契約が解除しにくく」なった。
背景には、世帯主が戦地に応集したあとに残された留守家族が「借家から追い出される」のを防ぐという目的があったのである。
ところが現代、この戦時体制で出来た「借地・借家法」よって土地やビル・オフィスの回転効率が悪く、地価の高騰を招くなどの問題となっている。
また今日「働き方改革」がいわれているが、見落とされがちなのが、戦時中から残る「准看護婦制度」である。それは、看護師と准看護師の二重構造の問題にほかならない。
高卒後、3年以上の専門教育を受けるなどして国家試験に合格した「看護師」と、中卒後、養成所なら2年履修し、都道府県知事の免許を得てなるのが「准看護師」である。
保助看法では、准看護師は医師や看護師らの「指示を受けて」看護師と同じ業務ができる、となっているが、看護師と准看護師は、制服、業務が同じで見分けられない。
現在の看護の枠組みは連合国軍総司令部の公衆衛生福祉局長のサムス准将と、オルト看護課長ら専門教育を受けた女性看護師らが作ったものである。
看護師不足は続き二重構造がずっと残ったのは、短期で養成でき、給与の安い准看護師に頼る医療機関が少なくなかったからだ。
ほぼ同じ仕事をしているのに、年収はだいぶ違う。
安倍政権が働き方改革といいながら、介護士の給与の低さばかりが問題化され、准看護師の存在の注目度が低いのは、日本医師会の圧力があるからなのだろうか。
しかし、戦前の”遺風堂々”がまかりとおって、国のカタチを決定づけたのは、財政投融資といってよい。
それは、年金や郵便貯金・簡易保険などの膨大な資金が活用されて、旧大蔵省「資金運用部」とそれをとりまく公社・公団・事業団というかいう形で、高度成長期以降の自民党・官僚政治を下支えしてきたといってよい。
実は、このような財政投融資のかたちは、戦時において形成された。
日本の日中・太平洋戦争における巨額の軍事費を支えたのは、なんと郵便貯金なのだ。そのほか簡易保険・厚生年金・郵便年金を含め、日本の戦争を支えたのはこうした預金、もしくは積立金であったのだ。
したがって、日本の戦争は「財政投融資」方式で行われたのだが、ものを作るよりも破壊することに向かった点で異なる。
ただ、この預金はその後、実質的に預金者に返らなかったというに等しい。
敗戦以降のインフレや新旧紙幣の交換と使用制限で、わずか半年で5分の1、前後10年の間には300分の1となってしまった。
同時に1932年厚生年金(労働者年金保険)も、軍事費調達のための天引きであり、年金自体が銃後の家族や後の生活を保障することで、戦争に人を駆り出す制度であったともいえる。

戦時体制とは社会主義体制といってよい。ただし、左翼の社会主義ではなく、右翼の社会主義である。
理念として私有財産を否定し共有化するならば、それは今日のがシェアリング・エコノミーに近いものがある。
ただ、社会主義(共産主義)が生産手段を共有化するのに対して、今日のシェアリング・エコノミーは消費財 (特に耐久消費財)を共有する。
なにしろ、官吏を育てる東大で教えらえたのはマルクス経済学である。そして国民の輿望を担って就任した近衛文麿首相でさえも「貧乏物語」で有名な河上肇に学ぶべく、京都大学経済学部で学んでいる。
欧米では、アダムスミスの自由主義経済学という土壌があったが、日本のエリートの頭脳をいきなり支配したのは、マルクス経済学である。
ただ左翼社会主義は、コミンテルン(ソ連を中心とした国際共産主義の指導組織)と結ぶ革命思想で「国体を否定するもの」として非合法化される一方、天皇制と社会主義を結びつけた北一輝の「国家改造論」が、革新官僚や青年将校たちの心を捉えたである。
要するに、1940年代を支配していたのは「社会民主主義」的な統制色であり、それを担ったのが「革新官僚」といわれる官僚群であった。
「革新官僚」とは1937年に企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時経済統制の実現を図った官僚群をさす。
彼らは東大や京大でマルクス経済学を学び、星野直樹企画院総裁や岸信介商工次官らを代表とし、満州でそうした計画的な経済体制を実現しようとしたのだ。
岸信介などは、北一輝の思想の心酔者であったといってよい。
また、戦時体制のモデルとなったのが、ドイツのヒットラーが創った体制である。
そしてドイツの体制を導入した一人が、厚生省の年金課長であった花澤武夫である。
ドイツでは、「年金保険」の70億ライヒスマルクを使って、ベルリンから八方に向けて戦時目的の高速道路アウトバーンを作ったし、労働者住宅をどんどん作った。
世界に突出した日本の年金制度の特徴といえば、その運用が一般の「公共事業」に回されているということである。
厚生省もやはり、特別会計や公社・公団・事業団という形で相当利益を確保してきたといってよい。
そして戦後、厚生官僚達は、「国民皆保険」を目指したが、そこに「列島改造」を謳いながら日本を作り変えようとする田中角栄の構想と響き合うものがあった。
高度成長時代に設立された公共事業関連の公団や事業団は数多くあるが、その中で一番大きなものが日本道路公団であった。
そうして年金の積立金の一部が、間接的な融資という形で、こうした公団や事業団に回ったということである。
年金の積立金がある種のハコモノと結びつくということならば、2003年12月末に、厚生労働省が大規模年金保養基地(グリーンピア)と年金住宅融資の両事業により、年金財政に約1兆3000億円の損失を与えたというニュースを思い出す。
他の先進国では、年金の運用は加入者自身が選べるものだが、日本では少しの改革はあるものの、長くそれを選ぶことができなかった。
なにしろ政府は公的年金制度により、それがどんなに不合理な運用をしようと掛け金をあげたり給付額を減らしたり、延長したり自由にできるというのはおかしな制度で、むしろ保険料は「徴税」とよぶべき感じがある。
なぜなら、同額を積み立てるとして、公的年金に阿づけるよりも個人年金にしていた方が戻る額が大きいというのは、なんとも奇妙な話である。
厚生年金病院や厚生年金会館、老人ホームなどの福利厚生施設ならまだしも使用頻度が極めて低い道路や巨大な橋、トンネルなどで自民党の票に繋がる事業をやってきたことが大きい。
ちなみに、欧米の社会では、年金のように確実に支給されねばならないものを、公共事業などというリスクのあるものに使うなどという発想はほとんどない。
積立金は本来、債権や株式等、十分に収益の見込める金融資産を中心に運用すべきであって、収益がほとんど見込めないような施設を作ることに運用すべきではなという考えである。
アメリカの場合には、せいぜい国債などの債権で運用しているのだ。
さて、アメリカの局長以上の幹部官僚は、試験任用ではなく政治任用によって職に就いている。
大統領職に就くとすぐに各省の局長以上に就くものを指名して採用する。
それまで局長ポストに就いていた者は、すべて退職することになるが、退職した幹部官僚はどうするのか。
幹部官僚たちは、官僚としての職にあるときにその職務を通じて様々な企業やコンサルタント、あるいは弁護士事務所との関係を築き、つまりコネを養い、その縁を素にして幹部官僚職に就く以前よりはるかに高い報酬を得ることができるポストに就くことになる。
これは、見ようによっては天下りともいえそうだが、彼らが行政を歪める可能性は日本ほど大きくないから問題にはならない。
二大政党だし、上層部が政治任用で幹部になっているので先輩OBと後輩というような関係はうまれにくい。
日本にも1920年代に、「二大政党」の時代があった。
政友会(立憲政友会/伊藤博文)と民政党(立憲民政党/浜口雄幸が並立した。
ところが、これら二党はそれぞれ公共事業の配分権を手段として、利権政治に走ったからで、その動きに官僚も参加したために国民の失望をまねき、その結果、軍人が力を握る道をひらくことになる。
元勲がいなくなり頭の重しがとれると、官僚たちは国益より「省益」を優先させ始めたこと、さらには、政党が自己の主張を実現するために官僚個人との結びつきを深めたために、各省の人事が分裂して省を統合して支配する力が弱まったことがあげられる。
政治任用のために、官僚の多くは地方の富裕な家の出身であったから、同じく富裕な家の出である政治家と故郷で深いつながりをもっていたことも多く、そのことが政官癒着を進めたということもある。
そして、利権政治に走る政党政治は国民から厭きられ、文官の政治家に対する自立の姿勢も失われた。
北一輝からの思想的影響を受けた革新官僚は軍人と繋がり、企画院などを拠点に国家総動員体制をつくるのである。
ところで、安倍内閣の下、2014年に新設された「内閣人事局」が、各省の局長クラスの人事に直接介入する権限を得て後、官僚は総理官邸の意向に従わざるを得ない体制ができあがった。
それは、政治家が国の政治の主導権を官僚から取り戻すことに主眼があったのだが、財務省の公文書改竄や厚労省の不正統計問題に見るごとく、官僚がここまで有力政治家におもねて行政を歪める結果になろうとは、想像を超えるものがある。