フレディの狂詩曲

1975年4月4日、ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻が来日し、4月9日まで日本に滞在した。
そして、昭和天皇(4月4日)、三木武夫首相(当時)(4月5日)と会談している。
自分が、この訪問をよく覚えているのは、この年に自分が大学に入学し、東京暮らしを始めたばかりの頃、幸運にも赤坂の迎賓館に入ろうとするチャウシェスク大統領の馬車の隊列に遭遇したためである。
ただこの時、東欧民主化革命で夫妻ともども14年後の1989年のクリスマスの日に処刑になるなど、夢想だにすることはできなかった。
その日からわずか数日の4月17日、イギリスのロックバンド・クイーンが同じ羽田空港に降り立った。
クイーンは、羽田空港には3000人を超す若い女性が彼らを一目見ようと押しかけ彼ら自身を驚かせたほどだった。
そして5月1日に武道館日にて初ライブが行われているが、このことについては全く知らなかった。
当時、世界的にはそれほど知られていなかったクイーンの代表曲「ボヘミアン・ラプソディー」をタイトルにした映画が、それから40年以上もの歳月を経て、日本でロングラン上映されている。
最近、このチャウシェスク大統領とロックバンド・クイーンの来日のタイミングに、”奇しくも”という形容詞をつけたくなった。
というのも、ルーマニアこそが、現在”ボヘミアン”といわれる人々の最大居留地だからである。
そのルーマニアと日本のJ・POPには、ちょっとした接点がある。
第二次世界大戦中、ルーマニア・ブカレスト駐在武官に野村三郎という人物がいた。
陸士ー陸大時代、瀬島龍三と同期である。
5・15事件で首相官邸を襲撃して連座するが、当時はまだ現役の陸大生だったため、処刑を免れ「無期懲役」となり、8年で下獄し釈放後、東欧でスパイ活動に従事した。
ブカレスト駐在武官時代に旧ソ連(現モルドバ共和国)より亡命したボリソビーナ・タチアナ(当時ブカレスト大学物理学科の学生)と知り合い結婚した。
野村タチアナは、早稲田大学でルーマニア語の講座を1970年代半ばに先駆的に担当し、1990年まで教鞭をとった。
野村タチアナ女史は日本における「ルーマニア語教育」の先駆者であっただけでなく、「ロシア語教育」においても多くの功績を遺した。
日本を代表するロシア関係の学者で、女史からロシア語を学んだ者も多い。
さて野村三郎とタチアナの間の息子がジョニー野村という人物で、音楽の世界ではよく知られていて、日本のバンド「ゴダイゴ」のプロデューサーをやった人物である。
ジョニー野村は、横浜のセント・ジョセフ・スクールに通いながらバンドを結成し、米軍キャンプに出入りして演奏していた。
その後、国際キリスト教大学に進み、東京オリンピックや大阪万博の通訳を経て音楽出版の社長となり、タケカワユキヒデを見出した。
そして、横浜のミュージシャンであるミッキー吉野とタケカワユキヒデを結びつけ、「ゴダイゴ」というグループを作り、そのプロデューサーとなったのである。
さてジョニー野村の父・野村三郎は戦後「公職追放」されるがその情報網は生きており、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻をいちはやくキャッチして、日米両政府に伝えた世界で最初の西側の人間だったといわれている。
また、ジョニー野村が見出したゴダイゴのヴォーカルのタケカワユキヒデの家系も由緒ある歴史を誇っている。
タケカワの母方・曽祖父が国産バイオリンメーカー鈴木バイオリン創業者の鈴木政吉である。
母方大叔父に、バイオリン教育の「スズキメソッド」で名高い鈴木鎮一がいる。
またタケカワの父・武川寛海は「ベートーヴェン研究家」として著名であり、音楽評論家としてもよく知られている。
タケカワは音大には進まず、東京外国語大学・英米語学科に進んだ。
というわけで、タケカワユキヒデは、ゴダイゴのメンバーである横浜の音楽狂いの青年達とはカナリ遠い存在ではあった。
そしてソレを結びつけたのがジョニー野村であった。
ゴダイゴのリーダーであっったミッキー吉野は、1974年バークリー音楽院卒業後に帰国し「ミッキー吉野グループ」を結成し、ジョニー野村の紹介でタケカワユキヒデのレコーディングに参加している。
ゴダイゴは、ジョニー野村プロデュ-スで1978年「ガンダーラ」のヒットで人気グループとなった。
なお、ゴダイゴのメンバーの一人・スティ-ブ・フォックスは音楽をキリスト教「宣教」に生かすべく1980年に脱退し、宣教師として各地を回った。
そしてキリスト教会の牧師となっている。
ちにみに、ゴダイゴの名前は、「GO DIE GO」つまり「死んでもまた生き返って進む」ということを表す。
「DIE HERD」の意味は「なかなか死なない」だから、「死んでも生きる」ゴダイゴの方がブル-ス・ウイルスの方よりもシブトイかもしれない。
実際に、1999年には3ヶ月限定で再結成され、NHK紅白歌合戦にも出場したこともある。
さて野村三郎の姓に同じ外交官で、太平洋戦争直前でギリギリまで日米交渉にあたった野村吉三郎を思い浮かべる。
ブカレスト駐在武官「野村三郎」とアメリカ駐在武官「野村吉三郎」の名は「一文字違い」なので同族かと思ったが、特に血縁関係はみられない。
ただし野村吉三郎も日本の音楽界と深い関わりをもっている。
野村吉三郎も戦後、公職追放されたが、1953年より同郷の知人・松下幸之助の要請を受けて、日本ビクターの社長に就いている。

世界を漂流する民として知られる「ジプシー(Gypsy」」とは Egyptian(エジプト人)という意味である。
言葉がサンスクリットと類似している点から、インド出身者であることは間違いない。
実は、インドと地中海は、インド洋上にふく季節風で頻繁な交流があった。
彼らは、何らかの事情でインドを逃れて、ビザンツ帝国や東欧を経て、14、5世紀ごろヨーロッパに姿を現した。
しかし、定住を拒否し、自然の中で奔放に生きる彼らを、ヨーロッパの人々は歓迎しなかった。
ドイツではチゴイネル、フランスではボヘミアン、スペインではヒターノと呼ばれ、時には激しい迫害の対象になった。
ロム(ロマ、ロマニー)は自称で、「人間」という意味なのだという。
文字も国家も持たない流浪の民ジプシー。彼らは長い間、歴史上抹殺されてきたとえいるが、激しいリズムと哀愁に満ちた彼らの音楽なくして現代音楽は語れない。
生まれながらのミュージシャンである彼らの集うところには独特の音楽的土壌が育っていった。
リストの「ハンガリー狂詩曲」はジプシーの野生味溢れるダンス音楽にインスピレーションを得たもの。ブラームスの「ハンガリー舞曲」もしかりである。
フラメンコはイベリア半島に流れ着いたジプシーによって生み出されたし、彼らの音楽やダンスを土台に、他の伝統芸能が混ざりあって、19世紀半ばに現在の形になった。
また、サラ・サーテの「チゴイネルワイゼン」(ジプシーの風習)もスペインの民俗音楽を素材にしたヴァイオリン独奏曲である。
一番の驚きは、ストラディヴァリ(イタリア人1644ー1737)は,娘マリアをジプシーの若者ミルロイに嫁がせる約束と引き替えに、この若者からバイオリンづくりの極意を教えてもらったこと。
それが、名器「ストラディヴァリウス」誕生に繋がるのである。
現在1200万人が中国と日本を除く全世界で生活していて、現在でもボヘミアンは ルーマニアに185万人、ブルガリア75万人、スペイン72万人、ハンガリー70万人、スロバキア49万人、フランス40万人、ギリシャ27万人、チェコ23万人、イタリア14万人と各国に散らばって生きている。
彼らの家はキャンピングカーの荷台部分であることが多く、パリの観光地でよくみかける。
昔は鍛冶や金属加工、民芸品販売や占いで生計を立てていたが、現代はもっぱら自動車の解体や中古車転売で生計を立てている。
さてクイーンのボーカルであるフレディ・マーキュリーもまたジプシーの音楽土壌とは無関係ではなかろう。彼の成育歴ばかりか、代表曲の「ボヘミアン・ラプソディ」のタイトルからしても推測できる。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の中で、フレディは自分には音楽以外に居場所がないと語っているが、当時イギリス領だったアフリカの東岸沖ザンジバル島に生まれた。
両親は、ペルシャ系インド人で、フレディーはインドで幼少期の大半を過ごし、父親がオフィスの会計係としてザンジバルに移ったために移転した。
1963年に家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年にザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。
当時17才のフレディとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた。
そして全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う。
この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。
友人は「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る。
ところで、クイーンの人気を不動のものにした代表曲が「ボヘミアン・ラプソディー」。
しかし、その歌詞は冒頭から「人を殺した」という残忍な内容からはじまる。
ある評論家は、「この曲で彼が殺したのは、外ならぬファルーク=バルサラ(=フレディの本名)なのだと僕は考えている。イギリス生まれの白人ではないという出自を隠し、類いまれな才能の持ち主であるにもかかわらずコンプレックスめいたものを抱えながら、セクシャリティの部分での苦悩も抱えていたファルーク。その彼が自分自身のそれまでを消し去り、フレディ・マーキュリーという新たな名のもとに生きていくことを決意したことによって、この楽曲と歌詞は生まれ得たのだと思う」と語った。
この曲の特徴は、ヨーロッパ文化の多様な言葉が連続することである。
「スカラムーシュ」とは古いイタリア歌劇で、空いばりする道化役者のこと。
「ガリレオ」はいわずと知れた17世紀の天文学者・ガリレオ・ガリレイを指す。
「フィガロ」は、モーツァルトによるスペイン・セビリアを舞台にした歌劇「フィガロの結婚」の主人公を思い浮かべる。
次に出て来る「マグニフィコ」はベネチアの貴族で、ビスミッラーとは「アッラーの名のもとに」という意味で、イスラム教徒が用いるフレーズ。また突然にママミヤという間投詞までも聞こえて来る。
イタリアやスペインなどのオペラ文化圏の香りを感じさせるものという共通点が見いだせることと、醸し出されるのは、演劇性である。
特に、逃げたい主人公を、悪魔の声が阻み、それに抗議する天のとの掛け合いが繰り返されるなどによく表れている。
要するに、フレディーは、様々な文化圏を自在に横断するごとくに、オペラ風味の単語や宗教的な単語を盛ることにさえ何ら躊躇しないということがわかる。
映画を見ながら、アップルを創設したスティーブ・ジョブスと、いくつも共通点があることに思い至った。
型破りの挑戦者であったこと。アジア系の血。若くして死んだこと、仲間と対立して離脱するが、その後に戻ったことに加え、親日家であることなどだ。
また、ジョブズはインドと接点がある。インドを7ヶ月の間旅をし、サイケデリック・ドラッグを試したり、禅の修行を行ったりした。
アップル製品やアップルという会社のシンプルさへのこだわりは、ジョブズなりの「禅の解釈」によるものだったのだろうが、フレディーも複雑なものを簡単にする能力が高い人物のように思える。
ジョブス自身、自らの集中力もシンプルさに対する追求も「禅」によるものだと語っている。
禅を通じてジョブズは「直感力」を研ぎすまし、注意をソラス存在や不要なものを意識から追い出す「美的感覚」を身につけたといえる。
また、日本文化のうち、侘び寂び的/禅的なものを好んでいて、手の平にノルほどの小さな製品を指向するのも、 シンプルで機能的な画面に加え「間」を重視した美しいデザインであることも、そうした「日本的感性」と無関係ではないであろう。
晩年になって、ジョブスは「僕は出家も考え、日本の永平寺へ禅の修業に行こうと思ったけれど、仕事をつづけ、ここにとどまれと導師に諭されてやめた」と洩らしている。
ジョブズは、竜安寺の石庭強く心を動かされ、ファッションデザイナーの三宅一生との交流もある。

イギリスにおいて、「20世紀最高の歌」で1位に選ばれた「ボヘミアンラプソディー」にどんな秘密が隠されているのか、すでに多くの音楽家が語った。
ただ、クイーンの音楽には格調たかいものがある反面、いわゆる「ロック魂」は希薄な気がした。
その意味では、スエーデンのバンド「アバ」に似ているかもしれない。
なにしろ彼らは、ロックミュージシャン然とした「反骨心」を持ち合わせていないインテリ集団であった。
フレディは、「グラフィックデザインかファッションの仕事に就こう」とぼんやり考えイーリング・カレッジに入学、次第に音楽の世界に入り込んでいった。
ブライアン・メイ、バンドに参加した当時は大学院で「惑星間ダストの動き」の研究をしていて、今は天文学者。
ロジャー・テイラーは歯科医から転身したドラマーで、ジョン・ディーコンは科学を学ぶ学生だった。
とはいえ「ボヘミアン・ラプソディー」には、魂に届く何かがあるのは確か。
「人を殺してしまった」と告白し、「まだ人生は始まったばかりなのに/時々、生まれてこなければ良かったのにとさえ思う」という諦観めいた心情を訴えるのも、ロック魂とは無縁である。
1974年「Killer Queen」によってクイーンはようやくトップ5入りを果たすことができた。
そのクイーンを発見し、ブレイクさせたのは日本の女の子といってよい。「ロックは汗臭さだけではない」というクイーンによる新境地が、ロックに市民権をもたらした。
日本のクイーン・ブームになった火付け役とも言えるのが、洋楽専門誌「ミュージックライフ」の東郷かおる子さんで、湯川れい子と並んで外国人ミュージシャンと交流が豊富な人物である。
ボヘミアンは様々な地を巡る人々で、土地土地の文化を受け入れて、新しい文化を生んだ人々ともいえるが、「ボヘミアン・ラプソデイー」という曲の中には、意外にもボヘミアンという言葉は一言もでてこない。
フレディ・マーキュリーの両親はペルシア系インド人で、敬虔なゾロアスター教徒であった。
そのためゾロアスター教の伝統的な葬送は鳥葬、もしくは風葬で、彼の遺体は遺族によって風の中に散骨されたという。
フレデイー・マーキュリーが「ボヘミアン・ラプソディー」が訴えたかったものは、自分の体内にある宗教性、文化性、セクシャリテイーを含めての「内面の渦巻き」だったような気がする。
それが、"ラプソディー(狂詩曲)"という形をとったことに表れている気がしますが。

その特徴は多様性。スカラムーシュとは古いイタリア歌劇で、からいばりする道化役者のこと。
転じてからいばりする臆病者やホラ吹きのやくざ者などの意味を持つようです。 ガリレオは17世紀前後に活動した著名なイタリア人天文・物理学者、ガリレオ・ガリレイの名です。
フィガロという単語は床屋や当たり屋などの意味を含んでいますが、ここではモーツァルトによるスペイン・セビリアを舞台にした歌劇『フィガロの結婚』の主人公、元理髪師フィガロを思い浮かべるのが妥当でしょう。
次に出て来るマグニフィコはベネチアの貴族といった意味。
ここまでの単語から、イタリアやスペインなどのオペラ文化圏の香りを感じさせるものばかりという共通点が見いだせます。
少なくともこれら「オペラっぽい単語」の羅列は、このヴァースのオペラ感をさらに高めているのは間違いありません。
過剰なまでの演劇性。ここでは逃げたい主人公を(悪魔?冥府の?)声が阻み、それに抗議する(天の?)声との掛け合いが繰り返されます。ビスミッラーとは「アッラーの名のもとに」という意味。イスラム教徒が用いるフレーズです。
おおママミア、ママミア、ママミア、行かせておくれよ。ベルゼブブは僕のために悪魔を集めている。僕のために、僕のために。
ママミアはイタリア語で直訳すれば「僕の母さん」ですが、英語の"Oh my God"のような間投詞でもあり、いずれにせよふたたびオペラ風味が出てきました。
次に登場するベルゼブブは、新約聖書に登場する悪霊の君主の名前です。
主人公が生死の境界で助けを求めるシチュエーション自体が歌劇的でもあり宗教的でもあります。
作者のフレディ・マーキュリーはその上で、さらにオペラ風味の単語や宗教的な単語を盛ることに躊躇しません。
この場面の演劇性が過剰なまでに高まることを選んだのです。
映画を見ながら、アップルを創設したスティーブ・ジョブスとと似ていると思った。
型破りの挑戦者。アジア系の血。若くして死んだこと、仲間と対立して離脱するが、その後に戻ったことに加え、親日家であることだ。
ジョブズはインドを7ヶ月の間旅をし、サイケデリック・ドラッグを試したり、禅の修行を行ったりした。
アップル製品やアップルという会社の「シンプル」へのこだわりは、ジョブズなりの「禅の解釈」によるものだったのだろう。
ジョブス自身、自らの「集中力」も「シンプルさ」に対する追求も「禅による」ものだと語っている。
禅を通じてジョブズは「直感力」を研ぎすまし、注意をソラス存在や不要なものを意識から追い出す「美的感覚」を身につけたといえる。
彼が日本文化のうち、侘び寂び的/禅的なものを好んでいて、手の平にノルほどの小さな製品を指向するのも、 シンプルで機能的な画面に加え「間」を重視した美しいデザインであることも、そうした「日本的感性」と無関係ではないであろう。
晩年になって、ジョブスは「僕は出家も考え、日本の永平寺へ禅の修業に行こうと思ったけれど、仕事をつづけ、ここにとどまれと導師に諭されてやめた。ここにないものは向こうにもないからって。彼は正しかった」と洩らしている。
実業家というより、モノづくりのプロフェッショナルであり、アーティストでもあったジョブズは、シンプルという美学を徹底的に追求した。
竜安寺の石庭強く心を動かされ、ファッションデザイナーの三宅一生と交流する。
ジョブズが行った最後のプレゼンテーションは、ジーパンと「イッセー ミヤケ」を身にまとって行ったものである。
2003年の48歳の時、膵臓ガンが見つかった。
ABBAは1970年代半ば、「彗星」のごとく出現して受け入れなかったのに似ている。

r 来る日も来る日も、丘の上でひとりぼっち おかしな笑顔を浮かべた男は完全にひとりぼっちのまま 誰も彼のことを知りたがらない みんな彼のことを馬鹿な奴だと思っている そして、彼はまだ答えを出せていない でも愚かな彼はまだ丘の上 太陽が沈んでいく様子を見守っている 愚かなその頭についた彼に両目で見る 世界はぐるぐるとまわっている。
フィレンツェのガリレオ・ガリレイ研究所に来ています。研究所はフィレンツェの旧市街からアルノ川を越えたアルセトリの丘の上にあります。歩いて10分ぐらいのところには、ガリレオが宗教裁判によって幽閉され、1642年に亡くなった屋敷があります。
ガリレオの時代に最新科学機器として望遠鏡が登場しました。この威力は絶大で、木星の衛星、彗星、太陽の黒点、金星の喰、月面のでこぼこなど、次々と新しい観測事実が加わりました。
これらの観測事実から必然的に出てきたのが、コペルニクスの提案した新説、つまり、大地の周りを太陽や惑星、星が動いているのではなく、太陽を中心として地球や惑星が動いている、という解釈でした。地動説です。
しかし、世は激動の時代。ローマ教会が黙っているわけはありません。1633年の宗教裁判でガリレオは有罪となり、地動説の放棄を命令され、火あぶりの刑は免れたものの自宅軟禁の身となりました。1642年盲目となったガリレオは幽閉先の地アルチェトリで死にました。
 その間、数年をかけて完成させたのが最後の本「新科学対話(Two New Sciences)」です。この本が741年、ガリレオは公式に名誉回復がなされた。レオのすべての著作物の出版が許可された。 1758年、地動説の禁止が解かれた。 1992年、法王ヨハネ・パウロ二世は、ガリレオの裁判に対して遺憾の意を表した。

いずれにせよ風は吹く 当初、グループを結成しようなどという思いは全くなかったが、一緒にカバー・ソングを歌っているうちに、オリジナル曲をつくって大ヒットしたりして、ついに1972年ABBAが結成された。
「ABBA」の名は、4人の名前アグネッタ、ビヨルン、アンニ、ベニーの頭文字でてつくられた名前である。
ところが二組の夫婦で結成された幸せなファミリー・グループなんていう存在は、パンク・ロック全盛期の70年代当時には格好の「非難」の対象となった面がある。
グラム・ロックやパンク・ロックが台頭するなかで、ABBAの「幸せな家族」というイメージは、「商業主義」の生み出した幻想にすぎず、レコードを売るために作り出された「虚像」だとしか受け取られなかった。
そのため、彼らの人気が高まるにつれて、ゴシップがない分、ゴシップが捏造されることもあった。

ビートルズの名曲「フール オン ザ ヒル」は、「丘の上の愚か者」はガリレオを意味するものである。あの「ボヘミア クイーンが1975年に来日したさい。Photo by Koh Hasebe/Shinko Music/Getty Images 同記事の前編はこちらへ。