福岡から被災地へ

国税庁では、1952年より全国の中学校と高等学校の生徒を対象に「税に関する高校生(or中学生)の作文」の募集している。
昨年は、優秀作品12編が「国税庁長官賞」を受けている。少々気になって、その作品群をよむと、税制の問題点を指摘するというより、納税の意味につき、国のサービスとの兼ね合いを視点に論じているものが多く、「納税意識」を高めようという役所の意図が感じられる。
ところで最近、「ふるさと納税」において、自治体ごとの昨年度の収支が、全国の自治体の約6割で悪化しているという新聞記事に目が留まった。
「ふるさと納税」は、2008年から始まったもので、応援したい自治体に納税すると、居住地で治める税が一定額控除される制度だった。
ふるさとから離れてくらす人の多い大都市から地方への税収移転を狙った制度だが、「返礼品競争」の過熱で特定の自治体に寄付が集中している。
そして本来、恩恵を得られるはずの地方の町村でも、住民がよそへ寄付することによる「税収流出」に苦しんでいるという。
総務省が公表する自治体ごとの〈1〉寄付受け入れ額〈2〉返礼品などの経費〈3〉住民の寄付に伴う税控除額のデータをもとに、〈1〉を収入、〈2〉と〈3〉を支出とみなして2016、17年度の収支を計算したところ、赤字が拡大または黒字が縮小したのは約60%にも及んでいる。
総務省が15年度に寄付額の上限を約2倍に拡充したこともあり、「勝ち組」に寄付が集中したまま税収流出の規模が拡大した結果、多くの自治体で収支が悪化したのだ。
「ふるさと納税」は、ふるさとへの思いや災害に見舞われた地域への思いを具体化するという趣旨があったが、寄付という「善意」がいつのまにか人々の「欲望」の仕組みへと転じているのは、もはや明白である。
そして最近の自然災害の被災地を思いめぐらせた時、我が地元・福岡と歴史上繋がりが深い地域が多いことに気がついた。

2018年7月西日本豪雨川の堤防の決壊などにより死者は51人にものぼった岡山県倉敷市真備町(まびちょう)。
そもそも福岡の名前自体が岡山の地名から来たものなのだが、「真備町」という名前は、奈良時代に遣唐使となりのち右大臣まで昇進した吉備真備(まきび)の名が由来で、福岡と縁が深い人物である。
さて、福岡の大名といえば黒田氏。その源流は近江源氏の佐々木氏の流れと伝えられ、滋賀県伊香郡木之本町の「黒田郷」からでている。
黒田家6代・高政(官兵衛の曽祖父)のときに、佐々木氏のもとで岡山に出て戦っていたが、「軍令」に叛いて功名をたてようとしたため足利義植の怒りをかい近江を追われ、流浪の末に備前国(岡山県)「福岡郷」に落ち着いた。
「一遍上人絵伝」で有名な「備前福岡の市」はあまりにも有名である。
黒田氏は、いわば流托の身でこの地に身を寄せたのだが、黒田氏の復興のキッカケは「武の力」ではなく、眼薬の販売という「商い」であった。
ここで黒田家は「家運」を盛り返し、姫路に進出することになる。
ところで黒田官兵衛以外に、福岡と備前岡山とを結ぶもう一人の人物こそが、吉備真備である。
吉備真備は23歳で唐の長安に留学し、猛勉強の日々を送った。その多方面にわたる秀才ぶりが日本では伝説の形で伝えられてきた。
平安時代に作られた「吉備大臣入唐絵巻」では、真備が唐の人々の仕掛ける罠を知恵と不思議な力で切り抜ける活躍が描かれている。
持ち帰った文物や帰国後の業績等から、真備は中国語はもちろん儒教や律令制度、天文学、軍事学、音楽まで幅広くマスターしていたと考えられる。
吉備真備は、その後、大宰大弐(大宰府の次官)の地位にあり、福岡の糸島に地に怡土城を築いた。
吉備真備が怡土城を築城する時の構想・設計に携わったことに興味をそそられるが、なぜ高祖山山麓に築城したのか。
「魏志倭人伝」の記述では、「女王国より北には、特別に一つの大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている」とある。
西晋の陳寿という人物が書いた三国志「魏志倭人伝」だけに、「一大卒」の記述を知った吉備真備は、糸島の地を意識していたのかもしれない。
ところで姫路の地には、吉備真備が広嶺山山頂に創建した広峰神社がある。興味深いことは、黒田官兵衛の祖父・重隆はこの神社の「護符」と目薬をセット販売して財をなしたのだ。
黒田官兵衛にとって備前の地は「起死回生の地」であり、秀吉に命じられで博多にやってきた時に、「福岡」の地名をつけたのは、わかるような気がする。

古代、東北人が北九州の沿岸警備のために「防人」(さきもり)として派遣されたが、それは場所が離れすぎて「未知」の場所だったことが、派遣された理由である。
つまりわが福岡と大震災に見舞われた東北は遠れていて、人的・物的交流は起きにくいのだが、歴史をみると意外なカタチで関わっている。
さて、東野圭吾の推理小説「麒麟の翼」の舞台の1つが東京都中央区日本橋の水天宮である。
大都会にあって安産や子授かりの神社・水天宮は、サラリーマンの一時の憩いの場ともなっているが、水天宮といえば、わが地元福岡県久留米市にも水天宮があり、両者はどういう関係があるのだろか。
実は、久留米の方が「本社」で東京の方が「分社」で、祭神は同じ天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)である。
それではどうしてこの江戸に水天宮が祭られることになったのだろうか。
久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、1818年9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に「分霊」を勧請した。
これが江戸の水天宮の始まりであるが、その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口(駄洒落)も生まれたほどで、「財政難」であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入となっている。
その後1872年に、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。
そして有馬家との縁は現在も続いており、2013年現在の宮司・有馬頼央(よりなか)氏は、有馬家の当主である。
さて、有馬家は距離が近い肥前のキリシタン大名の有馬家と混同されやすいが、実際は播磨(兵庫県)の赤松家の分流であり、キリシタン大名と何の関係もなく、有馬温泉の地名が残る関西の有馬家と繋がっている。
はでな反幕行動も御家騒動もない地味な久留米藩であるが、外様大名としては21万石という大藩であった。
そして近代になって、その嫡流に「巨魁」ともよばれる「有馬頼寧」(よりやす)なる人物がうまれた。
有馬頼寧の母は岩倉具視の娘(五女)であったから、巨魁となる素質があったのかもしれない。
有馬頼寧は、東大農学部卒業後に農商務省に入り農政に関わるが、河上肇や賀川豊彦の影響を受け、夜間学校の開放、水平社運動、震災義捐などの社会運動に広く関わった。
赤化思想の持ち主と問題視されたこともあったが、1927年衆議院選挙に当選し、その後伯爵位を嗣ぎ、改めて貴族院議員となった。
第一次近衛内閣で農林大臣、近衛の側近として大日本翼賛会の初代事務局長に就任し、戦後A級戦犯の容疑者とされたが、無罪となった。
1955年に日本中央競馬会の第二代理事長に就任し、野球のオールスターゲームにヒントを得て、人気投票で馬を選んでのレースを開催した。
ただ、第1回レース開催後に急死し、有馬頼寧の名にちなんで「有馬記念」と名づけられた。
実は、旧久留米藩の有馬頼寧の弟の信明が、旧磐城平藩の安藤家に養子として入っている。
安藤家といえば、幕末に老中安藤信正を幕閣に送り出している家だが、「磐城平」といえば「福島第一原発」があるあたりである。
また、現在の福島県いわき市は放牧が盛んな土地で、有馬家はその名前も含めて、よくよく馬と縁がある家とみえる。
さて、福岡久留米に近い秋月の地は、東北大震災で「震度5強」に見舞われた山形県の米沢と縁がある。
米沢といえば上杉鷹山(鷹山)という名君がいるが、ケネディ大統領が就任演説後、日本人記者団に尊敬する日本人は?と聞かれて上杉鷹山と答えたら、日本人記者がその名を知らなかったというエピソードがある。
上杉家は戦国期は米どころ越後の大名であるが、関ケ原の戦いで西軍に加り敗れ、東北の米沢という小藩へと転封となった。
ところが第九代藩主・上杉鷹山はその経営才覚をもって、寒さと痩せ地の貧藩を富ませ、外国人から見て「桃源郷」のように映ったという記録が残っている。
しかしそれにしてもケネディは上杉鷹山の名前をどうして知ったのだろう。
新渡戸稲造による英文の「Bushido」(1900年)には上杉鷹山はない。
しかしその少し前1894年に英訳された内村鑑三の「代表的日本人」の中で上杉鷹山がとりあげられている。
さて、福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言した。
この遺言に基づき1623年8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、福岡の秋月で5万石の分知目録および2人の付家老と47人の付属する家臣(御付衆)の名簿が渡された。
ここに、黒田長興を藩主とする「秋月藩」設立への動きが始まった。
長興は、福岡藩の監視の目をかすめて、僅か十数人の供回りで密かに秋月を出立し、夜陰に小さな漁師船で関門海峡を渡るなどの苦労を重ねて江戸に到着する。
そして将軍・秀忠への拝謁が許され、江戸城警備や幕府普請の手伝いなどをして将軍家への忠勤に励み、ようやく1634年に秋月領5万石の「朱印状」を賜ることができたのである。
1637年島原の乱の鎮圧に幕府は、九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員するが、長興は約2000人の兵を率いて島原に出陣した。
秋月勢は戦死者35人と負傷者345人を出す奮戦を行い、秋月に帰陣後、戦死者の葬儀を盛大に執り行い、遺族や負傷者への見舞いを篤くした。
また、各人の働きに応じた褒賞が適切公平であったため藩主・長興に対する家臣たちの信頼は絶対的なものとなった。
長興の日々の暮らしは、「質素倹約」を率先すると共に武芸や学問に励んだと伝えられる。
さて、この福岡の支藩ともいえる「秋月藩」設立の動き以前、豊臣秀吉の時代に勢力のあった秋月家は日向(宮崎)に大きな痕跡を残していた。
宮崎の高鍋藩・秋月家は、秀吉の九州征伐で筑前に勢力のあった秋月種実(たねざね)が島津に反攻し、その功績で日向国串間3万石に「移封」されことに始まる。
上杉鷹山は高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸屋敷で生まれた。銘記すべきは、鷹山の母は長興が起こした筑前(福岡県)秋月藩第4代藩主・黒田長貞の娘なのだ。
上杉鷹山は、幼名は松三郎といい、16歳に元服して治憲(はるのり)と改名した。
そして、1769年に19歳の時に、高鍋・秋月家から、はるか山形の米沢へ養子として入部している。
上杉鷹山は米沢藩で反対勢力に押されながらも「大倹約令」を実行し、華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を藩の手本として生涯続けた。
鷹山は、米沢発展の基礎を築いて名君の誉れが髙いが、そこには母方の血筋である秋月藩初代藩主・黒田長興の質実剛健さを髣髴とさせるものがある。

熊本城は、2016年の震災で大被害を受けたが、熊本城の実質上の建設者といっていいのが、飯田覚兵衛という人物である。
驚いたことにその飯田覚兵衛の直系の子孫が、森友学園問題で浮上した「教育勅語」の起草者・井上毅である。
そんな意外な事実を知ったのは、福岡市の繁華街・天神のバス通りから見ることができる「大銀杏(おおいちょう)の木」の存在によってである。
実は、この「大銀杏の木」が立つ場所は、飯田覚兵衛の屋敷跡なのだ。
ではなぜ、熊本に居るはずの飯田覚兵衛の家がこんな場所にあるのか。
飯田覚兵衛は、山城国山崎にて生まれた。
若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」においても清正の先鋒として活躍した。
そしてその息子・飯田覚兵衛は、朝鮮出兵において、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。
なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田覚兵衛は、土木普請も得意とし、清正の居城となった熊本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。
加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、忠広に仕えたが、その無能を嘆いて没落は必定と予言した。
1632年に肥後熊本藩が改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)されると、他家に仕えずに京都にて隠棲し、同じ年に亡くなっている。享年70。
そして覚兵衛の子・飯田直国も、加藤清正の重臣として、一番備えの侍大将として重用されたが、加藤家は「改易」となってしまう。
その理由は諸説あるが、主君を失った覚兵衛だが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に「客分」として迎えられることになった。
そして、覚兵衛は加藤清正を偲んで、熊本城から「一本の銀杏」の苗木を持ってきて屋敷に植えたのが、天神バス通りの「大銀杏の木」である。
さて、明治憲法、皇室典範起草者井上毅(いのうえこわし)の生家である飯田家は、覚兵衛の直系の子孫にあたる。
井上毅は、肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治維新後は開成学校で学び明治政府の司法省に仕官する。
その後、1年かけた西欧視察におもむき、帰国後に大久保利通に登用され、伊藤博文派に属し、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加している。
さて、「ふるさと納税」の趣旨に、各人が「応援したい自治体へ」というものがある。
東日本大震災でも問題になったが、国が主導となった被災地の復興事業は実際に動けるまでにどうしても時間がかかるし、被災地のニーズとは違う部分にお金が使われてしまうことも少なくない。
その一方、ふるさと納税による「寄付金」は自治体へ直接送られるところが特徴である。
自治体独自の判断に基づき、復興のために寄付金を使うことができる。
自治体によっては、申込時に寄付金の使いみちを選択することもでき、自分の思いを「寄付」という形で確実に自治体へ届けることができる。
例えば、豪雨の被災地・岡山の真備町と福岡の糸島、大震災の被災地・福島と久留米、同じく米沢と秋月、福岡と熊本などの繋がりを知れば、福岡から「ふるさと納税」を申し出る人がでるかもしれない。
人々が地域の繋がりを知ることは、"エール"としての「ふるさと納税」の復活に繋がることになろう。

長興が大名として認められ秋月藩が「公認」されるためには、江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の「御朱印」を拝領することが必要である。
そのため秋月では長興の江戸参府を計画したが、福岡本藩から長興の江戸参府を「禁止」する命令が届く。
これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の「一部」であると解釈するもので、これは秋月側としては承服できない。
そこで