奇妙な友情

この世には、奇妙な友情が生まれることがある。
思いつくのは、国家の首脳同士、戦場における敵・味方、国境をマタいだ警備隊どうし、看守と囚人、テロリストと人質、家主と張り込み刑事など。
福岡の糸島沖の姫島に軟禁された幕末の勤王の歌人であった野村望東尼と島民との友情の証は、現在も島民に送った短冊や揮毫として残っている。
南アフリカの港町ケープタウン沖に、外周12キロのロベン島がある。
アパルトヘイト(人種隔離)政策に抵抗し、国家反逆罪で終身刑となったネルソン・マンデラ氏は1964年から18年間、この島の刑務所で服役した。
27年に及んだ獄中生活の3分の2にあたる。
刑務所だった建物群は博物館になっているが、鉄格子がはまった2メートル四方の32の独房が並び、中庭に面した5号房にマンデラ氏はいた。
マンデラ氏が2013年に亡くなるまで交流を続けた"白人の元看守"がいる。
元看守(59)は、高校を卒業した78年に採用され、ロベン島に赴いた。
上司は黒人の囚人を極悪人と呼んでいたが、会ってみるとみんな謙虚で、元看守にも敬意をもって接してくれ肌の色で人を判断する愚かさに気づかされた。
マンデラ氏の妻が面会に来た時、生後4カ月の孫娘を連れていた。
子どもと囚人の面会は禁止だったため、妻は孫娘を別室に預けて面会室に入った。
その話を聞いたマンデラ氏は、後ろで見張る白人看守に「会わせてくれないか」と懇願した。
看守は「NO」と答えたが、どうしても情を抑えることはできず、面会後別室に戻った妻に、再び面会室に入るよう伝えた。
孫娘を預かると囚人用の通路に行き、マンデラ氏に30秒だけ抱かせる機会を与えた。
マンデラ氏は涙を流しつつ、孫娘に2度キスをした。
以来、2人はさらに親しくなり、看守と囚人の会話は禁じられていたが、人目を忍んで言葉を交わした。
マンデラ氏が1994年に黒人初の大統領となり、有色人種と白人の融和を訴えた。
元看守は制憲議会の職員としてマンデラ氏を支えることになる。
アパルトヘイトの時代には、あらゆる場面で白人と黒人とは隔離された。
そんな時代に白人の看守と友情を育んだマンデラ氏は著書「自由への長い道」の中で語っている。
「肌の色や育ちや信仰のちがう他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことが学べるのなら、愛することだって学べるだろう」と。
日本でも、国籍を超えた看守と囚人の友情の話がある。それは、日本の朝鮮植民地支配の下で起きた。
1909年、安重根は日本による植民地統治下、前韓国統監の伊藤博文をハルビン駅構内で暗殺した。
朝鮮では豊臣秀吉の朝鮮出兵を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ「二大英傑」とされている。
植民地支配の下とはいえテロリストを国家的な英雄とすることには幾分違和感を覚えるが、安重根の人物像を物語るエピソードがある。
安重根は事件後逮捕されて「旅順監獄」に収監されたが、その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えたという。
安重根が正義感に富んだ高潔な人物であることを知り、日本人が獄中の安重根に「揮毫」を依頼し、その数が約200点に及んだ事実がそれを物語っている。
特に、看守の一人であった千葉十七は安重根の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図った。
そして、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、「為國獻身軍人本分」と揮毫し、千葉に与えた。
韓国総督府での勤務を終え故郷の宮城県に帰った千葉十七は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し、アジアの平和の実現を祈り続けた。
1979年安重根生誕100年に際し、密かに守られてきた「遺墨」が韓国に返還されている。
さらには宮城県の若柳町大琳寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年、遺墨の返還を記念して、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立された。
安重根に感銘を受けたのは千葉ばかりではなく、当時の旅順監獄の典獄(刑務所長)の栗原貞吉もその一人である。
栗原は安重根の国を思う純真さに魅せられ、煙草などの差し入れをしたり高等法院長や裁判長に会って助命嘆願をするなどしていた。
栗原が安重根の処刑の前日に何かできることはないかと尋ねると、安重根は「国の礼服である白絹を死装束としたい」と言った。そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安重根に差し出された。
そして安重根は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となった。
栗原は安重根を救えなかった慙愧の思いからか職を辞して故郷の広島に帰った。
広島では医学関係の仕事につき、役人の世界に戻ることなく、1941年に亡くなっている。
ソウルには安重根の偉業を伝える「安重根記念館」があるが、安重根が処刑の時に身につけた白装束は、栗原の家族ではなく安重根の母親が編んだと説明されている。

1968年2月、若き日にTVで知った「金嬉老(きんきろう)人質事件」は忘れがたいものがあった。
TV生中継で映し出される殺人犯が、新聞記者を装った警察官にとリおさえられるシーンは、1972年の浅間山荘事件にも劣らぬ緊迫感があったからだ。
在日韓国人の金嬉老は、静岡県で2人を射殺したあと、南アルプスの寸又峡の「ふじみや旅館」にライフル銃とダイナマイトを持ち、経営者家族4人と客13人を人質に88時間にわたり立てこもった。
その際、金は旅館に押し入り「私は今、清水でもって暴力団と問題があってそれを殺してきた。そこれからどうしても警察相手にしたいことがあるから、あなた方には危害は絶対加えないから、協力してもらいたい」と語った。
金からの電話を逆探知して出動した警官は旅館街へのルートを閉鎖し、遠巻きにして警戒した。
金はライフル銃、実弾1200発に食われダイナマイト13本を保持していたため、膠着状態が続き、近隣の住民にも避難警告を出した。
金は説得に来た刑事に対し、人質には絶対に危害を加えないと約束するとともに、前年に別の事件で清水署で取り調べを受けた際、朝鮮人差別発言をした刑事に謝罪させるよう要求した。
旅館には、警察とともに大勢の報道陣が詰めかけ、金は彼らを相手に共同記者会見を開くなどした。ちなみに元首相で当時朝日新聞記者の細川護熙もいた。
また、テレビのワイドショーに電話出演するなど、籠城中ひっきりなしにメディアに登場し、朝鮮人差別を告発するために事件を起こしたこと、自分がいかに過酷な境遇のなかで育ってきたかを懸命に訴える。
要求した清水署の刑事の謝罪はテレビを通じて行なわれたが、差別発言そのものには言及がなく、金にはとうてい受け入れられないものだった。
このため彼はあらためて謝罪を求め、籠城を続行する。
そして時間の経過とともに、コタツに入っている人質の中に加わり、雑談もし、ライフルを傍に置いて、入浴すらしていた。
籠城4日目になると、ずいぶん油断しているようにも見えたが、ダイナマイトの脅威もあるため、警察もなかなか動けなかった。
金は「ライフルを撃ってくれ」という記者の要望にも愛想良く応え、空に向かって数発乱射して見せるなどしてヒーロー気取りをするようになっていた。
そして5日目、金は旅館の玄関前で顔だけだして「記者の皆さん、今から1人出すので道を明けてください」と記者団に呼びかけ、後ろをふりむいて人質の1人柴田さんを手招きして呼んだ。
記者団の方へ解放された柴田さんの後姿を見送って、再び部屋に戻ろうと階段の上がりかけた時、記者に扮した9人の警察官がとびかかった。
この9人は記者に見えるよう35歳までで、柔剣道の達人ばかりが選ばれた。
また逮捕直前に釈放された柴田氏は次のように語っている。
「あのぐらい、力のある、頭のいい人はそういない。金さん流に言えば、もし朝鮮人でなかったら、もっと日の当たる場所に出ていられただろう。もちろん、こんな事件も起こさなかったろうにと思った。しかし、金さんの場合、ああいう事件を通してしか、訴える場所がなかったともいえる」と同情的だった。
金が篭城していた間、人質の行動は比較的自由だったという。なんと報道陣も、人質らとともに泊まり込んだりしたくらいだった。
人質が金に同情したりもして、解放されたにもかかわらず、旅館に居続け、連絡、運転役まで引き受けはじめたのは、この事件の特異さを物語っている。
それは、殺人犯と人質の”奇妙な同居生活”とでもいってよさそうである。

1997年4月、ペルーの首都リマの朝日とともに日本人大使館人質救出事件が始まり、日本人24名全員が救出された。
当初、「快挙」とも思われたが、事件後次々に明らかになる事実は、当初の印象をすっかり変えてしまった。
前年の12月17日夜、ペルーの首都・リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。
宴たけなわの午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入して、すぐさまこれを制圧・占拠した。
一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人で、その場にいた青木盛久大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を「人質」にとった。
事件の背景には1990年に日系ペルー人のフジモリ大統領が就任し、日本の経済協力もえて経済の立て直しをはかるが、貧富の格差が広がって治安は悪化していた。
社会不安が増す中、フジモリ大統領が「テロ鎮圧政策」をすすめてきた中で、ペルー日本大使館占拠事件が発生したのである。
MRTA構成員達14名のリーダー・セルパ達の要求は、収監されているの仲間の釈放、フジモリ政権の経済政策の変更であった。
フジモリ大統領は即時の武力行使を検討したが、日本政府の「平和的解決」の要望もあり、フジモリ大領は12月21日には「囚人の釈放要求は拒否する。しかし人質全員を解放すれば、武力行使は行わない」との声明を出した。
そしてセルパは「クリスマスの祝意」として、政府と無関係の人質を女性や老人など人質225名を解放。
残る人質の解放はMRTAメンバーの釈放が条件であるとし、最終的には1997年1月下旬までに、ペルー政府関係者と青木大使など72名の人質が残った。
この時、日本人は、駐ペルー日本大使館員、日本企業駐在員ら24名であった。
ある日、1人の大臣が差し入れたギターに仕掛けられた「盗聴器」を介した大使館内と外との無線連絡が始まった。
一方、フジモリ大統領の意を受け、大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が突入の「シミュレーション訓練」を積み重ねていた。
フジモリ大統領は地下トンネルを掘りそこから突入することを発案し、このトンネル掘削作業の音をセルパ達に気づかれないようにするため、大音量の音楽を流し続けた。
大使公邸内は、人質の72名とMRTAの14名、96名が過ごし続けているのだが、そんな中、リーダーのセルパはペルーが抱えている社会問題を切々と語り、実際に人質の心に訴えかける内容もあった。
何より訴えかけたのは、MRTA14名のうちほとんどが12歳から18歳までの少年達で、うち2人は15歳の女の子だった。
また6名はアマゾンの奥地から500ドルでアルバイト感覚で参加していた。
少年らは文字も書けず、世界地図は見たことがなく、日本がどこにあるかも知らなかった。そのような少年少女達は、人質達の知識や文化に惹かれていく。
MRTAのある少年は日本語教室の勉強会に熱心に参加し、ひらがな、かたかな全部と、漢字も少し書けるようになり、日本の写真集を拾い読みできるまでになり、「おはようございます」と挨拶するようになっていた。
そしてMRTAの少年・少女達は 「もらったお金で小型バスを買い、ミニバスの運転手になりたい」 「土地を買ってコーヒー園をしたい」「キューバでコンピュータを勉強したい」というばかりか、「日本の警察官になりたい」と、将来の夢を語るようになっていた。
一方、リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、日本から差し入れられたカップラーメンに感動して「家族の土産にする」と言うMRTAの少女がいた。
テロリストの少年達は実はジャングルで親に売られた少年にすぎず、その少年達の多くは、ペルーの大使館の人質となった日本人から初めて「人間として扱われた」という状況だった。
事件が長期化してくると、MRTAのメンバー達は、気分転換に体を動かしたくなるに違いない。
ペルー政府はそのようなメンバーたちの心理を分析、ある意図を持ってスポーツウエアやボールを差し入れた。
そして見張り役の一部のメンバー以外は、その差し入れのスポーツグッズを使い、1階の大広間でミニサッカーを日課のようにおこなうようになった。
そして、4月22日の午後人質のペルーの軍人が、2階廊下を聖書を読みながら歩いていた。
ただ、読むだけでなく、ボソボソとつぶやきながら聖書に語りかけていた。聖書には盗聴器が仕掛けられいて、大使館内の様子を克明に伝えていた。
そしてこの日も、2階にいる見張り以外のMRTAメンバー達は、1階の大広間でサッカーを始めた。
そしてフジモリ大統領は「今だ!」と突入にゴーサインを出し、1997年4月22日15時23分(日本時間4月23日5時23分)1階の床の数箇所が爆発。救出作戦が開始された。
爆発とともに、ペルー海軍特殊作戦部隊が正面玄関、地下トンネルから一斉に突入した。
1階の大広間でサッカーに興じていたMRTAのメンバーは爆風で吹き飛ばされた。
セルパは、吹き飛ばされされながらもかろうじて、銃を手に取り立ち上がろうとしたが、特殊部隊からの一斉射撃を受け、亡くなった。
そして、2階に残っていた他のMRTAのメンバーは政府が強行突入したら、人質を殺害するという方針のもと人質のいる部屋に向かい、伏せていた人質達に銃口を向ける。
発砲すれば全員を射殺できたのだが、テロリストである少年達は銃口を下ろし何もせずにその場を離れた。
この4ケ月間一緒に日本人と過ごした少年や少女達は、次第に日本人のことが大好きになっていた。
鎮圧部隊突入の際にも、彼ら少年・少女達は日本人に対して引き金をひかなかった。
この突入の結果、人質72名のうち71名が無事解放されたが、人質1人、特殊部隊2名が死亡し、セルパらMRTAメンバー14名全員が射殺された。
日本人のある人質は次のように語っている。
「テロリストの少年や少女達は、人質達との生活で将来の夢を抱き熱心に学ぼうとしていた。
少年・少女達が射殺されることなく生きて、刑期を終え、社会復帰するチャンスが与えられなかったことは、実に悲しいことであった」。
そして事後明らかになったのは、むしろペルー海軍特殊作戦部隊の「非道さ」であった。
この事件を契機に「犯人の方が人質に感化され、人質に対する態度が和らぐ現象」を、事件が発生した地名から「リマ症候群」と呼ぶようになった。