聖書の人物から(アブラハム)

風景は失われてはじめてその価値に気づくもののようだ。大阪の人々は通天閣が失われて、はじめてその価値を知った。
戦前から存在した通天閣は近隣からの延焼で焼失してしまい、"喪失感"を抱いた再建の発起人たちが立ちあがった。
当初は笑いものにされつつも、賛同した多くの市民達の募金によって今ある姿に復元されたのである。
大阪人の通天閣への思いは、歌謡曲にも歌われている。通天閣ののたもとには大阪の棋士・阪田三吉を記念して「王将」歌碑がある。
その歌詞の中には、「明日は東京へでていくからには、何がなんでも勝たねばならぬ 空に灯がつく通天閣に 俺の闘志がまた燃える」とある。
通天閣はまさに大阪人の心の拠り所であった。
ひとつの「風景」との出会いが決定的な意味をもつこともある。
日本文学研究家のドナルド・キーンは、太平洋戦争の終結後「翻訳将校」として「源氏物語」の国として憧れを抱いてやってきた。
敵対国・日本に憧れを抱いてやってきたのは、キーンぐらいであったろう。
当初、キーンはヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
ちなみに、タイムズ・スクウェアは、DA・PUMPのヒット曲「USA」に「交叉するルーツ」と表現されている。
キーンによると、ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の暗雲漂う中、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった、ということだった。
そしてキーンは、なによりも光源氏の人物像にひかれたという。
「主人公の光源氏は多くの情事を重ねるが、それは何もドン・ファンのように自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではない。
光源氏は、深い哀しみを知った人間であったということだ。それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからではない。
彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだ」と書いている。
「源氏物語」で開眼したキーンは日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、アメリカで「日本学」の草分け的存在であった。群馬県生まれで東京専門学校(早稲田大学)を卒業している。
キーンの述懐によれば、日本学の受講者がキ-ンたった一人であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだそうだ。
ただ、キーンにとって日本語を勉強することが将来どんな意味があるかは全く不透明であったが、1941年キーンはハイキング先で真珠湾攻撃のニュースを知り、これが氏の人生を大きく変える事になる。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
「海軍語学将校」ドナルド・キーンが乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけ九死に一生を得るが、キーンにとってそんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の平和主義とは結びつきにくいものがあった。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせることにしていたのであるが、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、他の米兵とは全く違う思いで日本を見つめた。
キーンはグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
キーンは中国の青島に派遣されるが、ハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。
キーンの「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た富士山の美しさに涙が出そうになり、再来日を心に誓ったという。
「私は旅立ちの感傷に浸っていた。すると舟尾の地平線に雪をかぶった富士山が突然、浮かび上がった。緩やかな稜線が朝日に照らされ桃色に輝く。まるで葛飾北斎の版画だ。光の加減で色が刻々と変わり、私は感動で目を潤ませていた」。
キーンにとって、この時の「富士」は間違いなく生涯焼き付いた光景であろう。
そして、自身のワークと魂のよって立つところが、「源氏物語」によって教えられた「日本人の心」であったことをあらためて再確認させられたことであろう。
そして、コロンビア大学の角田教授の下で再び日本語を学んだ後、キーンはイギリスのケンブリッジ大学で日本語の研究を続けることになった。
ケンブリッジでは数人の学生と共に日本の古典文学を学んだが、そのせいで日常の会話でも日本の「古文調」で行われた。
たとえば「ジョンは真面目な男」というのを「ジョンはひたすらなをのこ」といった会話がイギリス人の間でかわされていたというから、世にも珍妙な会話がそこに繰り広げられていたのだ。
その後キーンはアメリカに帰国し1953年、研究奨学金をもらって、ついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーンは1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。
キーンが戦時に語学将校として戦場で収集された手紙と手記と格闘して以来、手記(日記)こそが日本人が世界をどう見ているかを直接的に知ることができるヨスガであった。
ここにその年ノンフィクションの最高賞をとった「百代の過客」の原点があった。
敵軍としてやってきたキーンは、日本人の心に少しでも寄り添おうとされてきた。
しかし東北大震災を機に帰化して「日本人」になることを決意された。
東北の震災による瓦礫の跡に、終戦直後の東京に見た自身の原点、つまり「焼け跡」の風景が蘇ったことであろう。

歌の「風景」が、予想だにしない歴史的な場所であったりする。
1960年代後半、ひとりの作曲家が沖縄を初めて訪れた。抜けるような青い空の下、背丈より高くうねるように続くサトウキビが風に揺れていた。
畑の間を歩いていた時、地元案内者がいきなり、さとうきび畑の下に多くの戦死者が埋まっていると語った。
その時、作曲家は立ちすくみ、周囲の風景が一瞬モノクロームと化した。
そして、吹き抜ける風の中に、戦没者たちの怒号と嗚咽を確かに聴いたという。
これが、「ざわわ ざわわ」と繰り返される「さとうきび畑の唄」誕生の瞬間である。
昔懐かしいダークダックスの名曲「銀色の道」は、♪遠い遠い はるかな道は~♪ではじまる。
しかし、「銀色のはるかな道」とは一体どんな道であろう。
作曲者の宮川泰は小学生の頃、北海道紋別市の住友金属鉱山鴻之舞鉱山(1973年閉山)に一時期在住した。
そこで見た土木技術者の父親が建設に携わった専用軌道「鴻紋軌道」(鴻之舞元山 ~ 紋別間)の光景を下敷きに作曲したものであった。
また、倍賞千恵子の歌声で懐かしい「月の沙漠」(1923年)という曲がある。
♪月の砂漠をはるばると 旅のらくだが行きました♪で始まる、あの沙漠とはどこの風景なのだろうか。
この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く情景を描いており、異国を連想させる。
しかしその舞台とは意外なことに、千葉県の御宿(おんじゅく)であった。
歌のタイトルをよく見ると「月の砂漠」でなく「沙漠」となっていることに注意したい。
つまり「月の沙漠」の風景は「すな浜」なのである。
作詞家の加藤まさをが学生時代に結核を患い、保養のために訪れた御宿海岸の風景から抱いた幻想から生まれた。
御宿と同じくサーフィンのメッカに、桑田圭祐の生まれた茅ヶ崎がある。
桑田は鎌倉高校に通ったため、その歌詞の中に歴史的な地名が頻繁に登場する。
サザンの曲において一番頻繁に登場する地といえば、茅ヶ崎の海に浮かぶ「エボシ岩」である。
それは、茅ヶ崎の砂浜から2キロmほど先に唐突に突き出た5~6mの高さの烏帽子の形状の岩である。 昔、公家や武士などが用いた帽子である「烏帽子(えぼし)」に似ていることからこの名が付けられた。
1923年9月1日の関東大震災で、マグニチュード7・9の大地震は、茅ヶ崎と大島との中間点の海底を震源地として起こった。
これにより茅ヶ崎には烏帽子状の岩が隆起し、いつしか「エボシ岩」として茅ヶ崎名物となる。
ただ、誕生時のエボシ岩と今日ののエボシ岩とでは随分と形状が異なる。
実は1951年、アメリカ進駐軍による「砲撃の的」とされカタチが変わったのである。
浜にはずらりと米軍機関砲搭載機甲車が並び「エボシ岩」を砲撃練習の標的として実弾訓練をし、この演習は1年間続けられた。
当時、岩の中腹にあった八大竜王の社は無くなり、左に傾いていた烏帽子は、現在の右斜へと姿を変えたという。
エボシ岩は、カコの海岸物語の舞台なのだ。
歌謡曲ばかりか、和歌の「風景探し」から劇的な真実が明らかになった。
中山平次郎という一人の九州大学の医学部教授が「歌に読み込まれた風景」を元にに古代の迎賓館であった鴻臚館の位置の推定をし、その場所が後年の発掘によってその推定の正しさが見事に立証された。
中山平次郎は、まず鴻臚館を訪れた遣新羅使が故郷・新羅を思い詠んだいくつかの歌に注目した。
例えば「万葉集巻15」の736年の遣新羅使の詠唱する歌「山松かげにひぐらし鳴きぬや志賀の海人」の中の「志賀の浦」などに注目した。
この歌から鴻臚館(筑紫館)は、志賀島と荒津浜を同時に見渡せ荒津の波呂が同時に聞こえる小高い丘にあったことがわかる。
この歌は鴻臚館から朝鮮の故郷を望んだ歌とされるものであることから、志賀島が眺望できて山松のかげの蝉声が詠まれる条件を満たす場所が福岡城内において外に求められないとその所在を推定したのである。
1950年代の終わりから60年代のはじめの福岡城跡内の平和台球場は、西鉄ライオンズの黄金時代に燃えていた。
その半世紀後、平和台球場の下に多くの陶磁器が出土し、大宰府の迎賓館にあたる鴻臚館があったことが判明したのである。
鴻臚館の発掘は平和台球場のとり壊しの際に行われたものであるが、この場所の発掘により中山平次郎博士の予測の正しが証明されたのである。
1956年に亡くなった中山平次郎博士の死後約40年めのことであった。
現在、平和台球場跡には遣新羅使の作った歌をしるした万葉歌碑が立っている。1950年代に福岡の人々を熱狂の渦に巻き込んだ舞台のその下に、こうしたロマンを秘めた遺跡が眠っていたとは驚きである。
この地に生きた古人達の声が届いたのか、平和台を拠点とするホ-クスの拠点は百道の福岡ドームに移転した。

人間が風景によって住む場所や活動拠点を選ぶというのはよくあることだ。それが国や民族の歴史に決定的な影響を与えることもある。
徳川家康は、秀吉の関東行きを命じられた時、関東の風景に何を見たであろう。
とても江戸期250年を通じての天下一の城下町、ひいては現在の世界有数の巨大都市・東京の雄姿からは想像もできなかったに違いない。
徳川家康が、秀吉の勧めを受け入れ江戸を新たな本拠として定めて、江戸に入府する。
それまで江戸の地は、戦国初期の名将・太田道灌によって築城された小規模の城砦であった江戸城があった。
しかし、隅田川・荒川、そして当時は利根川といった大河川が江戸から江戸湾に流れ込み、大雨などが降るとそれらの河川が氾濫する。
江戸をはじめとする関東平野は農業や町割には不適切な湿地帯に覆われている状態であった。
家康は江戸の町割も大坂の町づくりを見本として、家康は江戸に入府した早々の1590年7月、神田山などを削り、湿地帯の埋立作業を実施し城下町を整えた。
もちろん家康や徳川家臣団のみの独自アイデアや実力で成し遂げたものも多い。
家康が秀吉死後、豊臣氏を差し置き、天下人となったことにより、江戸が政治の中心地となって更なる発展を遂げ、大坂を越えて全国の中心地となる。
豊臣秀吉の勧めを意外とあっさりと受け入れて江戸入府をおこなった徳川家康であるが、旧約聖書の 中に、多少似た話がある。
旧約聖書にアブラハムという人物がいる。
アブラハムは、メソポタミアのカルデアの地ウルよりパレスチナのカナンの地に住むが、カナンの地にはいるころ一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか良いほうをロトに選択させるのである。
つまりロトに優先権を与えるが、ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが、その風景も時の経過とともに変化する。
年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、ロトも神の使いを守るために自分の娘達を獣のような男達に差し出すという悲嘆をナメさせられている。
そしてついに神の怒りが発せられ、ソドム・ゴモラの町は滅ぼされる。
神の怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりアブラハムの親族・ロトの一族のみが助け出される。
その時、ロトの妻は神の命に反して焼き尽くされる町を振り返ったために「塩の柱」となったとされる。
ちなみに、ロトの長女がモアブでモアブ人の祖となっている。
一方、アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。
アブラハムは、住むべき土地を選択する際に「優先権」を与えているので、ロトからすれば皮肉な結末となったわけだ。
実は、アブラハムに現れた神との間で、「あなたの子孫はその星の数ほどになる」という約束があった。
「信仰の父」ともよばれることになるアブラハムは、この約束に対する信仰を土台として、「土地の選択権」をロトに与える(創世記15章)、つまり”神に委ねる”ことにしたということである。
神はアブラハムのそうした一貫した「信仰」の姿勢に、約束の実現をもって応えたといえよう。