宗像と糸島

最近、「嵐」が登場するコマーシャルで、夕暮れ時に現われる「光の道」がとても美しいと全国的に評判になったのが宮地嶽神社である。
この宮地岳神社の裏側にある宮地岳古墳は、天武天皇のお妃の一族が埋葬されており、日本史の大きな「謎」を秘めた場所なのだ。
「光の道」が伸びた海上に浮かぶ沖ノ島に見出されたひとつの「文字」が、まるで網にかかった深海魚ののように感じられる。
その文字とは、宗像三神のひとつ沖津宮にかかげられた「瀛」という文字。
実は、天武天皇の皇子当時の名は「大海人皇子」(おおあまのみこ)だが、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原”瀛”真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しくその「出自」を示しているという。
まずは、「武」は九州を出自とする天皇につけられ、大海人と「大」がつくのは、古来からの「海人族」を意味している。
「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島(しかのしま)がある博多湾は、古代海人族の拠点であった。
海人族の先駆けであるが故に「大海人」と呼ばれるようになり、「大海人皇子」が九州の海人族に関わる出自であったことが推測できる。
さて、宗像地方に人が住み始めたのは約3万年前の旧石器時代と言われ、弥生時代には釣川沿いに広がる肥沃な平野では、多くの人々が定住していた。
古代から海上ルートの拠点であった宗像地域は、「海のシルクロード」と言われていた。
古代より「道の神様」として信仰された「宗像大社」の名は、日本書紀にも記され、遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全のために必ず参拝をしていた。
「日本書紀」によれば、スサノオが、姉のアマテラスに別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思って、天の安川でスサノオに「誓約(うけい)」を強いた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、まずアマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から「三柱の女神」が生まれ、宗像大社に祀られた「三女神」である。
宗像大社は、それぞれに三女神が祀られた宗像田島の「辺津宮」、筑前大島の「中津宮」、沖ノ島の「沖津宮」三社の総称で、日本書紀には、天孫を助け奉るために「海北道中」に降ろしたと記されいる。
その中でも、沖ノ島は、宗像市の沖合約60Kmの玄界灘に浮かぶ絶海の孤島で、4世紀後半から10世紀初頭の「祭祀遺跡」が見つかっている。
この周囲4Kmほどの無人島には、宗像大社の沖津宮が置かれ、宗像三女神のひとつ「田心姫神」(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。
今でも女人禁制の島で、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされる。
また、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできないことになっている。
島の南部、標高80mに位置する「沖津宮」では、毎年5月27日の大祭に200名程が、素裸になって海水で禊(みそぎ)の後に上陸できるが、その時以外は原則上陸できない。
沖ノ島の「沖津宮」にはメッタなことではいけないのだが、それが許された人ならば、そこに「瀛津宮」(おきつみや)との名が記されていることが目に留まるであろう。
この中の「瀛」の文字こそ、大海人皇子の和号「天渟中原”瀛”真人」に見出される一文字なのだ。
滅多に見ない文字だけに、宗像氏と大海人皇子との深い関わり暗示しているように思える。
さて「日本国」の名が登場したのは、7世紀天武天皇の時代といわれる。しかし「日本書紀」では、後に「天武天皇」として即位する「大海人皇子」の正体をほとんど明かしていない。
正史(日本書紀)によれば、天智天皇死後、その子の大友皇子(近江方)と弟の大海人皇子(吉野方)の勢力争いがおき、672年の「壬申の乱」へと発展する。
この戦いにおいて大友皇子の勢力基盤がせいぜい畿内「大和国」とその周辺でしかないのに対し、大海人皇子の勢力地盤が広範囲にわたっている。
そして、壬申の乱の大海人皇子勝利の帰趨を決定的にしたのがなんと、宗像氏からの援軍だった。
実は大海人皇子の后こそ「宗像族」の后・尼子郎娘(あまこのいらつめ)であり、尼子郎女を通して宗像氏は瀬戸内海からを通って「援軍」にかけつけたのである。
では、これだけの勢力基盤をもつ大海人皇子は一体何者なのだろうか。本当に「天智天皇の弟」なのだろうか。
「歴史は勝者によって書かれる」というが、天武天皇(大海人皇子)の子「舎人親王」が「日本書紀」編纂の総裁を務めていたという事実を忘れてはならない。
さて、「神武東征」の話にみるとおり、ヤマト政権は3世紀の後半に九州から移住した集団の長によって誕生したものと考えることができる。
海人族・胸形(宗像)王の地位は、「磐井の乱」以降九州王朝内で格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結びようになり、640年頃には、胸形(宗像)系の「筑紫王」を輩出するに至る。
「大海人」という存在も、こうした筑紫王との関わりをもちつつ、九州で生まれたのではなかろうか。
その勢力の大きさを物語るのが、宮地嶽神社すぐ裏側に存在する「宮地嶽古墳」である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)であるが、「日本書紀」ではその母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」と記されている。
この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されており、日本一の大きさを誇る巨石古墳と副葬品の豪華さは、明らかに「天皇陵」を示唆している。
そこで少々気になるのが、志賀島を本拠とする安曇氏と宗像氏との関係であるが、663年白村江の戦いに参加した安曇氏だが、その長・安曇比羅夫(あずみのひらふ)は、この戦いで戦死している。
律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官を務めた。
これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたのである。
その後、安曇氏は全国に散らばる。その代表が長野県の安曇野だが、この地の穂高神社に安曇連比羅夫が祀られている。
この内陸にあるのに「お船祭り」が行われるこの神社の「説明書き」で読んだ記憶があるが、ヤマト朝廷の移住政策によって、この地にやってきたと書いてあった。
宗像氏と関係が深い大海人皇子が天武天皇として即位したのが673年である。
仮に、天武天皇が、ライバルの安曇野氏の勢力を削ろうと、内陸部しかも東国に追いやった結果ということもありうる。
さて、宗像大社を篤く崇拝していた「海賊とよばれた男」出光佐三は、戦前の荒廃した宗像大社の姿に心を痛めて復興を誓い、私財をも投じて「昭和の御造営」を成し遂げる。
ちなみに、出光佐三の遠祖は、大分県宇佐であるが、実は宇佐は宗像氏と深い関わりがある。
宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦の後裔とされているからだ。
宮地岳神社は「光の道」が人を集めているが、歴史の本筋でもっと注目されていい場所である。

糸島半島の北部、県道54号線沿いに二見ヶ浦に進むと、海岸沿いに大きな夫婦岩と大鳥居が目につく。
伊勢を訪れた人ならば、誰もが伊勢志摩の夫婦岩を思い出すにちがいない。
糸島の「夕日の二見ケ浦」伊勢の「朝日の二見ケ浦」といわれるが、糸島半島の東部は「志摩」とよばれ、伊勢志摩と地名が一致している。
ちなみに、糸島は、伊都と志摩が合わさってできた名前である。
「二見ケ浦」を見て、観光客の多くは、糸島が伊勢の真似をしたぐらいにしか思わないかもしれない。
NHK「歴史秘話ヒストリア」(2014年)で放映された「女王卑弥呼はどこから来た?二つの都の物語」は、驚くべき内容であった。
実は、「女王の墓」といえば福岡県糸島の地にもあり、前原市の「平原遺跡」がそれにあたる。
魏志倭人伝に曰く「倭国は三十国に分かれ、争うこと七十年、八十年」だが、卑弥呼をたてたところようやくオサマったという。
。 この三十国のひとつが福岡市西部の糸島にあった伊都国で、そこに「一大卒」が置かれ周辺諸国を監視していた。
魏志倭人伝には「女王国より以北には、特に検察せしむ。諸国これを畏憚す」とあるので、邪馬台国は伊都国より南になければならないはずだ。
かつて、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は「距離」が間違っているので九州、方角が間違っているので近畿とか、導き出したい結論に合わせるような議論がなされた。
しかし、伊都国を起点にして「方角、国名、距離」の記載順序に変化が見られ、放射状に方位や日数、国名を読むことが有力な説となっていることにも、「一大卒が」周辺を監視したことの表われではないか。
さて、その伊都国の中心が2世紀の「三雲、井原遺跡」で、その規模は60ヘクタールと大きく、一般の国の支配者の住居でさえ竪穴式の時代に、ここは高床式住居が多いのが目立つ。
そしてなんといっても圧巻は「平原古墳」である。
1965年に最初に発掘され、首飾りやなどが続々と出土し、古代中国(後漢)の女性の墓からしか出土しない装身具などが発見され、伊都国の王は「女性」であることが定説となった。
平原王墓はわずか径14メートルほどの方形周溝墓だが、王墓の側には40枚もの鏡があり、一番大きな鏡は直径46.5センチ、重さが8キロあり、それが5枚も出土した。
その中央部には光の反射の絵柄と、8つの花びらと8つの葉っぱが描かれている、いわゆる「内行花文八葉鏡」である。
平安時代の書物に、伊勢神宮にある三種の神器「八咫鏡」(やたかがみ)について「8つの花弁と8つの葉っぱ」と書かれているが、それと一致しているのである。
平原遺跡の発掘で最もショッキングなことは、日本最大の「内行花紋八葉鏡」がすべて叩き割られて埋められていることである。
役割を終えた鏡を叩き割るという行為は、亡くなった女王の霊力を封じるという意味なのだろうか。
ともあれこの伊都国の女王が、当時の日本で最高クラスの巫女であったことには間違いない。
前述の「歴史ヒストリア」の番組で、一人の考古学者が「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)が大和(纏向)で突然出現する」といった驚くべき発言をされていた。
この風習とは、太陽崇拝や銅鏡との関係にあるようだ。
纏向は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳のあるところである。
ところで、日本の初代天皇は神武天皇で、九州の「宮崎」から八咫烏に導かれて大和に移り「橿原宮」で即位したことになっている。
この「神武東征説」は、神武という「神話」上の天皇であるため、その信憑性が薄められるようにも思えるが、倭の勢力が南九州から大和奈良に移動したということは、何らかの「史実」を映しこんだものではなかろうか。
実在の可能性が見込める天皇というのが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)で、3世紀から4世紀初めにかけて実在した「大王」(おおきみ)とみられている。
さらには、日本史研究の立場からは崇神天皇と神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。
なにしろ神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」の称は、崇神天皇の称とまったく一致しているからだ。
初代天皇・崇神と皇子の垂仁一族は、ちょうど神武天皇の東征の話と重なるかのように「大倭」を率いて大和へ東征し、これにより奈良に「大和政権」が誕生したのではなかろうか。
さて、「古事記」を読むと、アマテラス以前に数々の神々が生まれたことが書いてある。
その中で天皇家が重視する十六の神々をまつる「十六天神社」というものがある。
この「十六天神社」というのは圧倒的に福岡の糸島周辺に多く、その次に鹿児島の川内や宮崎に多いという。
この事実は、数理統計学的手法で考古学の研究しておられる石井好教授の指摘しておられるところである。
石井教授は、放射性炭素年代測定の誤差から4世紀のものとして、邪馬台国近畿説つまり「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を否定しておられる。
そしてて、アマテラス以前の神々を祀る「十六天神社」の位置から「東征」以前に倭国の中心的な勢力が、中国大陸や朝鮮情勢の緊張からか、伊都国から鹿児島経由で宮崎に移住して行ったという説を唱えられている。
つまり、アジアに近い日本海側から太平洋側に移住したということだ。
足利尊氏でさえ、九州までやってきて兵力を集め「捲土重来」をはかったということを考えると、 もしも崇神の勢力が「九州内」を移動していたとするならば、それは「対外関係の緊張」ではなく、大和への東征にむけて、結果として「兵力」を集めたといこともありうる。
そして、そこに邪馬台国勢力を含んだかもしれない。
自勢力で出発したのが北九州で、日向(宮崎)に移動して、そこから「東征」したということである。
そして崇神天皇が大和にあって即位したのは、「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」で、その都こそが「纏向(まきむく)」のすぐ近くなのである。
実は箸墓古墳のある纏向遺跡で大変興味深いことがある。発掘された土器が、四国、山城、近江、吉備など九州北部から関東地方に及ぶ地域からの物が混在していて、住民が列島各地から「移住者」であることである。
「日本書紀」によると、前述の第10代崇神天皇(すじんてんのう)は、天照大神の勢いを畏れて八咫鏡(やたの)を宮中の外に祀ることにした。
この時、新たに剣と鏡の「形代」(かたしろ/複製品)が作られ、その形代が天皇の護身の御璽として宮中に祀られ、「皇位」のしるしになった。
そして第11代垂仁天皇のときに、伊勢国の五十鈴川(いすずがわ)のほとりに斎宮が建てられ、そこに八咫鏡が奉安されることになった。
これが神宮(伊勢神宮)の始まりである。
前述の歴史ヒストリア「女王卑弥呼はどこから来た?二つの都の物語」は、糸島(福岡)と纏向(奈良)の関わりを示す斬新な内容であった。
しかし、この番組の主人公を卑弥呼から崇神天皇に置き変えると、次のような経緯が浮かんでくる。
神武東征に仮託された実際の「崇神東征」によって、政治勢力が纏向の地(大和)へと移動した。
そして「崇神東征」以前に、倭の中心勢力が伊都国(糸島)から”日向(宮崎)”へ向かったという"補助線"を入れると、糸島の平原王墓と伊勢神宮の「内行花文八葉鏡」の一致、糸島および伊勢の「二見ケ浦」という地名の一致、そこにある「夫婦岩」の奇妙な一致が説明できる。
糸島の入り口にある峠を「日向(ひなた)峠」というが、糸島の”志摩”と伊勢の”志摩”という地名の符号は、糸島・伊勢の繋がりを暗示している。
2019年百舌鳥古墳群が、世界遺産に登録される。仁徳天皇陵とされているが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっている。
つまり本当の被葬者は確定できていない。
憲法で「学問の自由」(23条)をかかげながら、古墳調査では秘密主義がまかりとおる。
ともあれ、我が福岡の宗像と糸島には、歴史の真相に関わる重大秘密が隠されているように思える。