コトダマノミクス

最近の統計不正につき、統計部署の人員削減が原因だとか、官僚の政治家への忖度が働いたためだとか、様々に取り沙汰されている。
しかし「統計不正」は、アベノミクスが本質的にもっている性格に由来するものではないだろうか。
一般に経済における「政策変数」とは金利、税率、マネーストックなど具体的な数値を動かすことなのだが、アベノミクスの特質は、「期待(予想)」を動かすことにある。
それゆえに、期待(予想)を上向かせるためは、様々な「煙幕(えんまく)」も必要になってくる。
株の官制相場や官制春闘などもその表われなのだが、それが「統計不正」にまでいっていまうとは。
政府は「物価上昇2パーセントの実現」を旗印に、”政府はなんでもやります”という姿勢をみせつけたのだが、「統計数値の偽装」は公文書の改竄にも近いうえに実害も大きい。
また、アベノミクスはマイナスなことは口にしない日本的な「言霊信仰」とも呼応し、いわば「コトダマノミクス」とでもいいたくなる。
それゆえに、なかなか「物価上昇率2パーセント」を撤回できないでいる。
さて経済学の理論に、「期待(予想)」が導入されたのは1980年代。物価予想があらゆる経済行動の根本にあることは実感としてあったが、ようやく理論にとりこまれた。
では、物価上昇期待が好景気に繋がるとは、どういう筋道なのだろうか。
例えば、金利が5パーセントから3パーセントに下がったとしよう。しかし、これだけでは利子は本当に下がったとはいいきれない。
仮にその間、物価が3パーセント以上さがっていれば、「実質」では、金利は上がっているのだ。
こういう物価予想をしながら、人々は日々経済行動を起こしているのだ。
つまり、あらゆる経済行動を名目ではなく実質で捉えるためには「物価予想」がカギなのである。
そして政府・日銀が「物価水準」を2パーセント上昇させることを明言し、実際に出回る金の量を増やせば、経済の拡大を予想して行動をするようになり、景気にもいい影響を与えられる。
例えば、2パーセントの物価上昇予想のもとで、低金利の預金をもっていても、目減りしてしまう。
とはいえ人々は、預金をおろしてまで消費を増やそうとはしないかもしれない。
しかし、インフレで目減りする預金から物価と連動する株式にシフトするようなことは起きそうだ。
そうすると株価は上がり、企業経営にも家計の消費にも好循環がうまれる。
さらに見逃せないのは、インフレ期待が「為替」に与える影響である。
日本は「輸出主導型経済」であるから、為替相場が円高では大企業の業績は赤字続きで、裾野の中小企業も存続も危うくなる。
そこに「インフレ期待」が広がると日本製品の「輸出減少」予想から為替相場が「円安」にフレルため、景気回復効果をもつことになる。
こうした「期待(予想)」を動かす政策は、アメリカのノーベル賞経済学者クルーグマン教授らが提唱した「インフレターゲット政策」を土台としたものである。
そして、クルーグマンの考え方にしたがうエコノミストを日本では「リフレ派」とよんでいる。
では、どうして「期待」のようなとらえどころのないものが、政策変数となったのか。
それは、金利を下げるだけ下げきって、お金をこれ以上増やしても金利は下がらない。
また財政政策も、財源不足で公共投資には限界がある。
その上グローバル化におるサプライチェーンの広がりで、所得が外国に逃げる。つまり、ケインズのいう「投資の乗数効果」が働かない。
そんな手詰まり感の中、人々の「心の中」つまり期待を動かして活路を見出そうとしたのである。
とはいえ日銀は通称「通貨の番人」であり、通貨の価値を安定させるのが目的。
その日銀が自らインフレを起こすなどというのは「前代未聞」のことであり、日銀を批判したリフレ派を日銀の主流として入れる替えるなどは初めてのことであろう。
そうまでした背景には、日本経済が「失われた30年」といわれるようなデフレ・スパイラルから抜け出せないでいたからだ。
リフレ派の具体的な政策としては、日本銀行が金融機関から様々な国債などの「資産」を買いまくって市場にオカネを流す。
ここまでなら従来の「買いオペレーション」と変わらないが、「長期国債」「不動産投資信託」まで買い取るなど、これまでにないスケールでそれをやっていることだ。
それでも、「物価上昇2パーセント」が実現しそうもないのは、国民の期待が形成できないか、期待が形成されても経済がその期待どおりに動かないか、いずれかまたは両方の理由が考えられる。
さて、「金融緩和」すなわち市場にオカネを流すといっても、金融市場には「二つの市場」がある。
「インターバンク市場」とその外側(顧客相手)の市場だが、「インターバンク市場」は文字どおり、銀行同士が資金のヤリトリをしている市場で、これは一般の企業や個人は、参加できない。
実は、各銀行は日々資金の調整のために、日銀に預けているお金をヤリトリしているのだが、このインターバンク市場に資金を投入することが「量的緩和」政策のの中身である。
それによって、銀行間の資金の短期の貸し借りたる金利「コールレート」を下げ、それが顧客市場の金利に反映して金利が下がり、様々な投資がしやすい環境ができる。
しかし、マネーストックの量的拡大に大きな役割を果たしているのは日銀ばかりではなく、市中銀行も一役かっている。
なぜなら、お金の量は現金通貨ばかりではなく預金通貨も含むからだ。
その際、日銀が市中銀行に供給しているベースとなるお金の量を「マネタリーベース」という。
「マネタリーベース」とよばれるのは、それを核にして銀行が次々に信用創造を行って利用可能な「預金」が生み出される。
そして市中銀行から世の中に「預金通貨」として貸し出され、膨張しながら世の中に出回るお金の量こそがマネーストックなのである。
そしてマネーストックがマネタリーベースの何倍に膨張したかを示す指標が「貨幣乗数」である。
そして、日銀のリフレ政策にもかかわらす、このマネタリーベースをいくら拡大しても、顧客市場すなわち世の中に出回っているマネーストックの増加に繋がっていないということである。
その理由は、バブル崩壊後に金融機関がリスクに慎重であること、民間に投資対象となるものがないこと。さらには、少子高齢化や、政府による成長ビジョンの欠如などが考えられる。
つまりお金を使いやすい環境を作っているのに、民間においてお金を積極的に借りたいと思えるほどの「期待」が生じていないということを意味する。
「馬を水場までも連れてきても、馬に水をのませることはできない」という喩が思い浮かぶ。
そもそもの疑問は、本当に人々に「インフレ期待」を持たせ、お金を使おうと仕向けることができるかという点にある。
この点について、「リフレ派」はそれが可能だといっている。
例えば、大量の1万円札を刷って、窓からヘリコプターでばらまくとする。経済学ではこのような仮想的状況を「ヘリコプターマネー(ヘリマネ)」とよんでいる。
空から降ってきたお札を拾った国民のほとんどは、それを消費しようとするに違いない。
もちろんお札を大切に保管して将来のために貯蓄しようとする人はいるが、オカネの「増刷」で物価上昇が予想される中では、お札を貯め込めば、その実質価値は失われるので、使った方が得になるからだ。
このように「インフレマインド」が定着すると、早くオカネを借りよう、早く消費しようと、経済全体に「拡大機運」が出てくるのである。
そして、「ヘリコプターからお札をまく」というのは、日銀が市場からの国債の大規模な買い入れを行うということに対応している。
日銀の「使える手段は全部使う」という言葉、もしくは物価の上昇を目標を達成するまでヤメナイとまでいうのは異例中の異例であり、「オープン・マウス・オペレーション」(大口タタキ作戦)という造語もでたほどだ。
というわけで、アベノミクスを支えるリフレ派は自ずとコトダマイストになってしまうようだ。

芸術は爆発だ!の岡本太郎氏の母上・岡本かの子は、「或る男の恋文書式」いう実に奇抜な小説を書いている。
ある男が、自分を振り向いてくれない女性に奇妙な恋文を書く。
その恋文の内容というのは、「せめてこれくらいの内容の恋文を自分に書いて欲しい」というモデル文をそのまま書いたものであった。
その小説では、その恋文をもらった女性は思わず微笑んだと結んである。
男は女性の気をひくことには成功したかもしれないが、女性がその後どういう返事を書いたのか、また書かなかったかは書いていない。
仮に、「実はこんな返事を書くつもりだった」と、学研の赤ペンン先生のごとく赤く添削して男性の手紙をそのまま返却したりしたら、男性にとってさぞやキツイことになったであろう。
アベノミクスにおいて、政府(男性)は自らシナリオを書いて「期待」どうりの返信を待っているが、国民(女性側)は気のないない応答ばかりか、政府による公文書偽造や統計不正などの不祥事続きで、赤のバッテンをつけて送り返したい気になっている。
さらには、国民への課税や国債の発行は、多くの国民が多少でも「自分宛」の便益を期待しているが、出来上がった高速道路や、公共施設(グリーンピア計画など)などいわゆる「ハコモノ」を見ると、とても「自分宛」とはほど遠い風景ばかりが目についてしまう。
ところで統計を表す「スタティクス」という英語は、主権国家を表す「ステイト」という英語の派生語である。
近代欧州で統計はまず「政治算術」として発展した。
そのことからわかるように、もともと国家と深く結びつき、政治を動かす道具になっていたのだ。
それは、国力の統計比較により、戦争に必要な経済力を推測するのが目的であったからだ。
さて今日、政府は意図的に経済の本当の姿を伝えないようなことが思い浮かぶ。
それは不正統計以前の話であるが、例えば、日本の財政が「不健全」であることを示す際に、1人当たり約800万円の借金を国民が背負っている事実が強調される。
これは1000兆円を超える国の借金の大きさを人々に実感させるときに用いられる数字である。
これを家計に例えると、「年収555万円に対して年間支出963万円の生活を送っている。その結果、毎年新たに300万円以上の新規借り入れを行っており、ローン残高は8400万円に達している」といった具合に説明される。
国民はこれでは破綻が確実だと財政再建つまり増税もしくは歳出カットに協力するほかはないという雰囲気が醸される。
しかし、国債などの所有者の内訳をみると、国債の8割強は個人ではなく、日銀、銀行、生損保などの「機関」が所有している。
それを国民1人あたりで割るなどというのはおかしな話で、そもそも国債をもつというのは各個人がが金融機関や生損保に預金や保険料というかたちでお金を貸しているわけだ。
政府の借金は、国の借金もしくは国民の借金であるというのなら、政府のもつ資産や債権も国民のものだということになる。
国民の借金はいずれ返さなければならにということは、国民がそれだけの「資産」の中から払うだけの余裕があるということになる。
それ以外の米国債や外貨準備というかたちで対外債権もあるのだ。日本は借金は多いが、それを返済できる資産も大きいということだ。
日本の円が比較的安定しているといわれるのは、そういう事情による。
またもうひとつ誤解を呼ぶ説明は、2050年に国民の4割が高齢者となり、1.2人の現役世代が高齢者一人を支える「肩車型」の社会が到来するというものである。
政府は今も増税見送りなどをして、給付に見合うだけの負担を国民に課しておらず、このままでは持続不可能。
そこで政府は、社会保障給付を削減し、国民の税負担を増大させなければならないことを国民に納得させようとしている。
これは誤解をまねきやすい。そもそも扶養の負担を表す指標として、65歳未満人口を65歳以上で割った値を用いるのは正しいとはいいがたい。
65歳を超えて働いている高齢者はたくさんいるからだ。むしろ人口を就業者数で割った値を用いる方が正しく実態を示しており、これまで約2で安定している。つまり1人の就業者が、1人の非就業者を支えてきたきたわけだ。
これは、高齢者一人を9.7人で支えてきた1955年も、5.9人で支えていた1985年も同じなのであった。
「高齢化」というのは、働かない者の数が増えるのではなく、就業者の高齢化にすぎないということの認識が十分にされていない。
要するに高齢化が進展し、人口構成が変わっても、定義次第では社会の扶養負担はほとんど変わらないのである。
さて、昨年末に発覚した「不正統計」は、厚労省が毎月勤労統計のデータをする際に、サンプルの入れ替えを周知せずに行い、従来のサンプルの取り方よりも、賃金が上昇したようにして、アベノミクスが功を奏しているかのような、いわば「偽装」を行った点である。
しかし、政府の統計が民間のそれとは大きく違っていることは昔から指摘されたことだ。
官庁エコノミストを抱える内閣府(旧経企庁)が算出する「経済見通し」が、民間の予測を上回ることが多く、以前から「政治的思惑」によるものではないかとの指摘が絶えない。
バブル経済が崩壊した1990年代、「財政再建」を急ぎたい大蔵省(現財務省)は財政出動の要求をかわすため、高い成長率見通しを出すよう要求する一方、経済対策を引き出したい通商産業省(現経産省)は逆に低めの見通しを出すよう求めた。
当時は大蔵省の影響力が強く、高めの数字で決着しがちで、消費や投資などを大きく見積もったとみられる。
そして2013年度ごろから再び政府見通しが民間予測より過大になっているという。
政府はその前提として、10月に予定する消費増税対策(プレミアム商品券やポイント還元など)が「効果を最大限発揮できた」と想定し、この4月にスタートする外国人労働者受け入れ制度で5年間で34・5万人の働き手の増加を見込んでいるからだという。
言霊信仰は、言葉が現実になるという信仰。アベノミクスの旗を振っている限り、「景気」の悪い話をするわけにはいかないようだ。
成長率見通しが高いと「税収」を想定でき、大規模な「財政出動」を含んだ予算を作り続けられるという実利がある。
反対に、実際の成長率が下回り続ければ、期待した税収は得られず、その分、国債の増発で国の借金がさらに積み上がることになる。
さらに、コトダマノミクスの最大の難題は、出口(撤退)へと向かうタイミングと方法を見出すことである。