激レアな人々

「サントリー宣伝部」といえば、数々の伝説的な広告をつくってきた。
在職中に芥川賞をとった開高健、直木賞をとった山口瞳やイラストレーター柳原良平らがいて、ひとりひとりが一筋縄ではいかない異能派集団といってよい。
サントリーがまだ「寿屋」と呼ばれていた時代、社長の佐治敬三は開高健を拾い上げ、伝説のPR雑誌「洋酒天国」の編集長として活躍する場を与えた。
とはいっても、「洋酒天国」にウイスキーの宣伝があるわけではなく、小説、ファッション、車、人とのつき合い方まで、面白いと思えるものはなんでも盛り込んだ。
要するに、社長・佐治の「やってみなはれ」精神で、自由にやらせたのである。
また、当時コマーシャルで流れた柳原良平が生みだしたキャラクター「アンクル・トリス」は、なんともコクのあるキャラで、爆発的なヒットとなった。
サラリーマンの仕事帰りは赤ちょうちんでの一杯ではなく、バーでウイスキーをたしなむという文化を生み、銀座の風景をも一変させた。
「サントリー宣伝部」をみると、企業が文化を創造するという意味がよくわかる。そこで思い浮かべるのは、「ミシュラン・ガイド」である。
さて、「ミシュラン(Michelin)」とは、フランスに本拠地を持つ世界規模のタイヤメーカーである。
世界で初めてラジアルタイヤを製品化し、長年にわたり世界最大のタイヤメーカーとして君臨した。
日産のゴーン会長も、1978年にパリ国立高等鉱業学校を卒業後にミシュランに入社する。
1985年、30歳の時に南米ミシュラン、1990年に北米ミシュランの最高経営責任者(CEO)に昇格し、1996年に、ルノーの上席副社長にヘッドハンティングされている。
そして我々がタイヤ以上に馴染んでいるのが、前述の「ミシュランガイド」である。
創設者のミシュラン兄弟がいち早くモータリーゼーションの時代が到来することを確信し、同社の製品の宣伝をかねて自動車旅行者に有益な情報を提供するためのガイドブックとして、1900年に3万5千部を無料で配布したのが「ミシュランガイド」の始まりである。
現在ではヨーロッパを中心に多種の地図やガイドブックを出版しており、年間およそ100万部におよぶ。
2007年11月にはアジア初となる東京版が発売された。これにより、日本は22カ国目の対象となった。
ガイドには、独自の調査を行ってマークを付して掲載するが、基本として「料理のみ」が判定の対象なのだという。
0から3つの「*(アスタリスク)」で示される「星」、あるいは「マカロン」と呼ばれる格付けの「影響力」は絶大なものがある。
一体、この格付けはどうやって行っているのか。
実は、「覆面」調査員による匿名調査、身分を明かしての訪問調査など、世界共通のメソッドによる調査・判定基準で付与すると発表されている。
唐突に思い浮かんだのは、映画「メンインザブラック」(1997年)の一場面。
サングラスと黒で身を固めた2人組が突然やってきてしばらく佇み、店内を見渡して何もせずに無言で去っていく。この映画の場面に幾分近いシーンが、鳥取の中古車販売店で起きた。
2018年2月、スーツ姿の外国人が突然に現れ、中古車ではなく、併設された店内で出していたラーメンを注文した。店主は、男の雰囲気にただならぬ緊張感が走ったという。
店主は最初、スーツ姿の客に「シンプルに味わってください」と、ラーメンとトッピングの具材を分けて出し、味をつける前の元スープも「お試しください」と出した。
そして食べ終えたスーツの男がおもむろに差し出した名刺には、「ミシュラン」と書かれていた。
このラーメン店・店主の吉田克己(53)は、鳥取市内の自動車販売店に勤めていた。
2002年に独立開業し、本業は中古車販売で「アルト」「ワゴンR」「スイフト」などのスズキの軽自動車などの中古車を主に販売することが本業である。
しかし本業の中古車販売の業績は振るわず、もともと料理が好きだった吉田は、子供が生まれたことをきっかけに、本格的に調理を始めた。
吉田は子どもに安全な物を食べさせたいと、人工添加物を使わずに調理をすることに熱中していく。
スープの研究を極めていく中、吉田はしだいにダシづくりに自信を深め、地元の祭りでラーメンを出品したところ、すこぶる評判になった。
それが刺激となり、中古車販売の店内になんと「厨房」を作ってしまった。
中古車の商談スペースを改修し、カウンター席やテーブル席を設置し2012年ごろから特製ラーメンを提供するようになった。
しかし、中古車販売の店内で客にだすものといえば、コーヒーや紅茶ぐらいで、ラーメンを提供するなど普通には考えない。
まして、ラーメン提供用に店舗を改装するなどは聞いたことがなく、当初ラーメンを食べに来るお客などは一人もいなかった。
それでも吉田の「絶対うまくいく」という根拠のない自信はハンパなく、ラーメンへの味への追求を怠らず、奥さんもそれに従う他はなく、店の手伝いをした。
地元の鶏ガラや煮干しなどを独自の研究で調合し、吉田にとっての理想に近いラーメンのスープが完成がしていく。
吉田の感覚で味を追求したのではなく、デジタルの温度計や計量器を使って1度単位、0・1グラム単位にこだわったという。
吉田のラーメンは徐々に評判が口コミで広がり、客が増えていき、2018年10月に発売された「ミシュランガイド京都・大阪+鳥取2019」で、ビブグルマン(価格以上の満足感が得られる料理)の店として掲載された。
吉田が「激レアさんを連れてきた」というテレビ番組に出演するに至ったのも、そこまでやるならラーメン店に専念してもいいと思われつつも、つきあいのある客のために、中古車販売店も続けているからだ。
個人的には、田舎の中古車販売店内のラーメン店が、ミシュランの権威にふさわしいかという疑問があったが、よくよく考えると、タイヤ会社が作った料理の店ガイドが世界的権威となるぐらいだから、中古車販売店併設のラーメン店が有名になっても、すこしもおかしくはない。
むしろ、ミシュランの判定基準の公正さを印象づけた料理店の紹介であった。

ワンマンバスではなく、車掌が同乗していた時代の話。車掌になったものの、周りの同僚にオマエはイケメンだから「俳優」になってみないかとすすめられた男がいた。
岐阜県のバス車掌・佐藤良次は、そんな周囲の言葉に乗っかって映画会社を受けてみたが、受験した映画会社をすべて落ちてしまった。
恥ずかしいやら憎らしいやらで、車掌の仕事にも喜びを見出せず、身が入らなくなった。
ところが或る時、ダム建設で川底に沈む村で、たまたま桜の移植を記録する写真撮影を頼まれた。
かつて国道156号線沿い御母衣(みぼろ)湖畔に移植された巨大な桜の老木があった。
ダムの底に村が沈んで、バラバラになっていた村人たちが桜の木の下に集まり「再会」を喜びあったのだ。
その時に一人の老婆が、「移植しても枯れる」と言われていた荘川桜が見事な花を咲かせるようになったことに、感極まって泣いていた。
桜の花にこれほど人の心を動かす力があると知った佐藤は、自分の乗車するバス道りを「さくら道」にしようと思いはじめた。
休日に、給料をハタイテ桜の木を植え始めた。
それどころか、「太平洋と日本海を桜でつなごう」と思い立ち、名古屋と金沢を結ぶバス路線伝いを中心に、12年間で2000本の桜を植え続けた。
佐藤の手記をまとめた「さくら道」(中村儀朋著)によれば、佐藤は俳優の試験を落ちて車掌の仕事を続けている時の気持ちを、次のように語っている。
「こんなめめしい職業がその頃はいやでいやでしかたなかった。バスがゆれていようが、網棚から物が落ちようが、車内の老人にも私はいっさいしゃべりたくなく、ただただ美人はいないか、自分のネクタイが歪んでいないか、だけを気にしていた」。
ところが、桜を植えることで、車掌としての仕事にはじめて生きる実感を感じ始めた。
自分が植えた「さくら道」をバスが走ることで、心境に大きな変化が現れた。
「こんなに世の中が楽しくていいだろうか。花のつぼみもふくらみだした。東西南北どちらに行っても、最近は面白い。あんまり楽しいので不気味だ。オレは車掌で死ぬ男。日本一の車掌になってやろう」。
「車掌とは人間が和んでゆく温かいこまかな感情を客にむかって思いださせてくれる人でなくてはならぬ」。
車掌としての佐藤は以前とは別人のように客に接するようになり、みんなに愛される「名物車掌」となっていく。
そして、ついには「バスの雰囲気は車掌できまる」なんてことまで言ってのけるようになる。
自分を作ることで「スター路線」を目指した佐藤が、桜でバス路線を飾ることに気落ちを変えることで起きた「心の奇跡」といっていい。
さて前述のTV「激レアさんを連れてきた」で、幼少の頃からのバスの運転手になるという夢をかなえた人が登場した。
その人は山本宏昭という。自宅の前がバス停だったことから4歳頃からバスに興味を持ち始めた。
その思いは変わることなく続き、大学生になりバス運転に不可欠な大型二種免許も無事に取得した。
番組のインタビューで、なぜそんなにバスが好きなのかと聞かれて「大きいこと」という答が返ってきた。
それは幼き日に目にしたバスへのイメージそのものだったに違いない。
ところが、バス会社に就職をと思った山本だが「若造は経験と腕がないからNG」などという理由から採用試験に落とされてしまう。
それでも、バスへの思いは消えることなく、個人で中古バスを購入、葬儀屋の送迎を請け負うことで、一応バスを運転する夢がかなうことにはなる。
もちろん、中古バスを購入するにもそれなりの資金が必要だが、折しも買った株があたってその利益をすべて中古バスの購入につぎ込んだのだという。
山本は自分でバスを所有することが出来た喜びで、車体の手入れをすることに夢中で、時間を過ぎても帰ってこないことさえもあったという。
そして送迎バスの仕事は赤字続きに陥ってしまう。
そんな逆境に置かれても、山本の「バスを運転したい」という思いは尽きなかった。
そんな山本の情熱は「コミュニティー・バス」の運転手に応募して採用されることに繋がった。
そのうち、住民の要望で山本が運転するバス路線がついに市営のバス路線となり、念願の路線バスの運転手になることが実現する。
そんな山本は「自分の好きなことをさせていただいて、お客さんに生かされていると。皆さんに感謝しかない」と番組で語った。
路線バスは観光バスより上級な免許が必要。貧乏な一般人が大きなバックボーンもなく、路線バスの運転手の認可を受けてやるというのは、「奇跡中の奇跡」で戦後初の快挙なのだそうだ。
山本の並々ならぬ「バス愛」が引き寄せたとしかいいようのない「激レア」ケースであった。

最近、「土偶女子」という言葉が生まれるなど、何度目かの「縄文ブーム」が到来している。
その特徴は、若い世代にも広がっていて、初デートには埋蔵文化財センターにで「火おこし」するなどをするカップルもいるという。
その一人がタレントの「藤岡みなみ」で、縄文の魅力は一言でいうと、「生きている実感」なのだという。
縄文時代の土器は、必ずしも使いやすく作られていない。言い換えると、合理性へのこだわりがない。そこに、損得などを最優先で考える現代とは正反対の価値観が見てとれる。
たとえば「火焔型(かえんがた)土器」とかいうものは、祭りのために作られたとしても、実際にあれを煮炊きに使っているというのは驚きである。
藤岡が以前、火焔型土器のレプリカで作った豚汁を食べた時、「すごいものを食べた」という感じがした。
そして食べることが「祭り」、縄文土器は、日常を特別な存在にしていたのじゃないかと思ったという。
そして藤岡は、縄文の心というものは「暮らしを愛する心」だという認識をもつ。使いやすくないもの、無駄じゃないかと思うものも多いが、ああいう力強い装飾が、彼らにとっては精神的に必要だったと考えるようになる。
彼女によれば、この世代にも縄文ブームがきているのは、現代人が重きを置いているSNSやネットの世界では、「生きている」という実感が薄いからじゃないか。
その一方で、縄文時代のもたらす生活の実感は、まさにその逆だからこそ、我々の心に刺さってくる。
さて現代において、実際に縄文に近いものを生活にとりれている激レアな人がいる。
千松信也(せんまつしんや)は、1974年兵庫県伊丹市の農家に生まれた。
山のない田畑が残る町のなかの田舎だったものの、子供の頃から「狩猟」にひかれていた。
もともと、動物好きで山の中で動物たちと暮らしたいという思いもあったが、酸性雨などの環境問題に触れ、その根源が人間の仕業だという社会意識をもちはじめ、「人間嫌い」になったということもあるのだという。
現在は、京都市の北の山に近い場所での狩猟を行う。10分ほど歩けばコンビニもある、現代社会と自然のハザマに生きているという感じである。
自宅には、生活スペースのほか、狩猟した動物を解体、調理まですべて行える。
千松信也は、京都大学文学部に進学し、4年もの間、休学した。
休学中には、やりたいことを探すためにいろんなことを体験。海外へ行ったり、仕事をしたりした。
千松は、大学在籍中に狩猟免許を取得し、なんと、京都大学の寮「吉田亮」には、動物の解体場所もあったという。
バイト先で知り合った人に、伝統のワナ猟(ククリワナ猟)、網猟(無双網猟)を学んだ。
テレビで見たその猟は、鉄砲を使わず、動物を捕らえるが、独自にワナを開発し、捕まえたイノシシをひもで縛る。ワナが不完全であったり、気を抜いたりしたらほとんど命がないと思えるほどの「格闘」なのだ。
かつて本で読んだことのある「ジュゴンの捕獲法」を思い出した。
ジュゴンは海で泳いでいると「人魚」のような姿を見せるが、この肉は牛肉以上といわれるほど美味らしい。
そのジュゴンの掴まえ方がスゴイ。
まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。
さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きつき、いちはやく二つ鼻の穴に栓をして窒息死させる。
さて、千松のこだわりは、その獲った肉や食料は、自分で食べるだけで売ることはない。
そして捕ったイノシシの肉の部位は無駄にすることなくすべて食べる。
千松は、週に4日は運送会社で働いているが、狩猟を現金収入を得る手段にしようとすると、獲物がお金に見えてきたりして、狩猟が労働のように思えてきてしまう。最低限の収入を得るために別の仕事をすることで、そういったものからは解放されるからなのだという。
「食する」ということは本来、その捕獲や殺しも含めたプロセス全体を指す。
つまり本来「食す」ことは、全身全力で行うことで、それにともなう痛みも犠牲も体感した上で食らうことなのだ。だからこそ人間の食には、「祈り」がともなうのだろう。