日本人は「空気族」ともいえるほど空気を読む国民。多少の空気の入れかえならヨシとしても、空気に逆らうと、相当なバッシングがくる。
野球の世界で、それを覚悟の上、勇断をくだした”空気”抵抗の人々(監督・審判・校長)が思い浮かぶ。
2019年、回全国高校野球選手権岩手大会の決勝が、岩手県営野球場で行われ、大船渡が2―12で花巻東に敗戦。
「令和の怪物」こと佐々木朗希投手(3年)は投手としても野手としても出場することのないまま、最後の夏が終わった。
試合後、スタンドからは「甲子園に行く気あんのか! やめちまえ!」と厳しいヤジが飛ぶなど、騒然とした空気となった。
甲子園へ王手をかけた試合に、日本中が注目しているエースで4番を出場させなかったことに、苦情が殺到。~国保監督はなぜそのような判断を下したのか。
監督も選手も3年間の野球生活の集大成として甲子園に行きたいのはヤマヤマ。佐々木を出場させなかった理由について、監督はインタビューで「故障を防ぐため。投げられる状態ではあったが、3年間で一番壊れる可能性の高い試合だった」と応えている。
さらに「選手には佐々木が出場する予定がないことを伝えていなかった」と語り、「納得しているかはまだわからない。それが何年後になるかも。心の中まではわかりません。生徒たちにとって重大な決断、とても大きな、一生心に残る決断は僕が引き受けようと思った」と語った。
その後控室に入ると監督は選手を前にひと言「死ぬなよ」とショッキングな言葉を口にしたという。
選手によれば、「今日の試合やこれから起こるかもしれないことも含めて事故や病気はともかく、自分で命を絶つようなことは絶対にするな」といわれ、監督も相当の覚悟なのだと驚いたという。
さらに選手は、「佐々木が投げずに負けて、納得できてるかと言ったらウソになる。でも、監督が導き出した答えなら仕方がない」と恩師をおもんぱかった。
ただ、こういう投手交代の選択が正しかったか否かは、それぞれの観点が違うことなので誰も決定的なことはいえない。
さて、バッシングといえば、1992年星陵対明徳義塾戦が記憶に残る。星陵の4番松井秀樹が「五連続敬遠四球」で打たせてもらえず、勝利した明徳義塾の監督は大バッシングをうけた。
そして、それにも増して異様だったのは、審判への1球の判定をめぐる大バッシング。それも”判定が正しい”かどうかが問題ではないというのだから、今のフェイクの風潮「真実はつくるもの」にも通じる話だ。
それは1998年8月16日、全国高校野球大会2回戦の「宇部商(山口)ー豊田大谷(愛知)」戦。
炎天下の中始まったその試合は、「2-2」のまま延長に入ったが、なかなか決着がつかなかった。
迎えた延長15回裏、豊田大谷はヒットと相手のエラーで無死一、三塁と、一打サヨナラのチャンスとした。
ここで宇部商は次打者を敬遠し、満塁策をとる。
ここまでひとりで投げ続けてきたのは、宇部商の左腕のエース藤田修平。細身の2年生投手は無死満塁の絶体絶命のピンチ。
それでも、ボールカウントを「2ストライク1ボール」として、追い込んだ。
そして次の勝負の211球目、キャッチャーのサインを確認しセットポジションに入ろうと、腰部分に構えていた左手を下ろし、右手のグラブに収めかけた。
ところが、藤田はその左手を再び腰へと戻した。左足はプレートから外されてはおらず、明らかな投球モーションの中断である。
「ボーク!」球審の林が両手をあげると、甲子園の空気が一変した。
5万人が見つめる中、林球審はスススッとマウンドに向かって歩を進め、ピッチャーとキャッチャーの間に入って三塁走者を指した。そして、生還を促すジェスチャーを2度、繰り返した。
延長15回、3時間半を超える大熱戦は、あっけなく終止符が打たれた。
この「延長15回サヨナラボーク」は、多くの高校野球ファンには悲劇と映り、300通もの激励の手紙が宇部商に届いた。
試合後、林審判は記者に囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。
ほとんどが、藤田投手に同情を寄せるような内容で、「注意でも良かったのでは?」という記者もいたが、林球審は、「我々はルールの番人ですから、それはできません」という言葉以外に何も語ることはできなかった。
試合後、藤田投手はずっと球審のことが気になっていた。自分は、ボークでサヨナラ負けしたが、そのことで一度も責められたことはない。しかし球審の林があのボークの判定で責められていることを知っていたからだ。
なぜなら、世間では「悲劇の藤田投手」とは対照的にまるで"悪人扱い"される林球審がいた。
そして、林球審の「野球人生」について知るものは、観客・視聴者の中にほとんどなかった。
林審判は1955年東京都生まれ。小学5年の時に、友人らと「調布リトルリーグ」を結成。6年時には近隣4市の選抜チームで全国優勝を達成し、同年米国で行われた世界大会でも優勝する。
早稲田実業高校に進学し、投手として活躍。2年春には関東大会で優勝した。
3年夏はエースとして期待されるも、肩を故障し、外野手として出場するが、都大会決勝で敗れ、甲子園出場はかなわなかった。
早稲田大学、大昭和製紙では打撃投手、マネジャーとしてチームを支えた。いわば「野球エリート」への道から、裏方へと余儀なくされた苦労人。
31歳で父親が経営する建設会社に入社後、知人からの依頼で審判員を務めた。
東京六大学野球リーグ、高校野球、社会人野球と27年間にわたる審判員生活で約1200試合を判定した。
2004年には日本人で唯一「アテネ五輪」の審判員を務めたという。
ところで林審判をバッシングから救ったのは、NHKの解説をしていた元巨人の原辰徳であった。
原は、テレビのスポーツ番組に出演した際、「あれは完全なボークです。的確にジャッジした審判員を、私は称えます」と語った。この言葉で林への世間の見方が変わった。
、
ところで、高校野球を愛した作詞家、故・阿久悠は藤田修平に「敗戦投手への手紙」という詩をおくり、その詩は今も大切に自宅に飾られている。
アノ試合から15年後、明治大学「阿久悠記念館」の来館者3万人を記念して行なわれたトークイベントで、宇部商の元球児・藤田修平は、ボークを宣告した球審の林清一と再会を果たした。
そこで観客の誰も知らない、あの試合での2人の秘密が明かされた。
あの日ボークを宣告された藤田は試合後、持っていたボールを球審の林に渡そうとした。
勝利チームに記念として渡されるのが通例だからだ。
だが、林は「そのまま持っておきなさい」と受け取らなかったという。林も甲子園を目指した高校球児として、藤田の気持ちは痛いほどわかっていた。
だからこそ、投げることを許されなかった211球目のボールを藤田から受け取ることはできなかった。
それが球審林が唯一できた”情け”の慣例ヤブリだった。
2007年の日本シリーズに進出した中日は北海道日本ハムファイターズと対戦。シリーズ第5戦で巻き起こった「消えた完全試合」騒動。
多くの野球ファンがいまだに心にひっかっている場面であるに違いないが、最近ようやくその真相があるテレビ番組で明らかになった。
番組にはゲストに当時中日の落合監督はじめ当事者が登場し、アノ出来事を語った。
中日がパ・リーグ覇者の日本ハムを下して、53年ぶりの日本一に輝いた07年日本シリーズ。
3勝1敗で迎えた第5戦、日本一へ王手をかけた中日の先発・山井は8回まで1人の走者も許さない快投を披露していた。
日本シリーズ史上初の完全試合達成に期待がふくらみ、ナゴヤドームが「山井コール」に沸く9回、当時中日監督だった落合が突然に「投手交代」を告げた。
それはすべての観客の期待を裏切るようような選択だった。
まさかの采配に戸惑いを隠せないファン。それ以上に9回を引き継いだ岩瀬投手こそプレッシャーだったようだ。
この時自分も、本人の記録よりも勝負を優先する落合監督の非情さを感じた一人だが、そのことは、2番手の岩瀬仁紀投手が9回をピシャリと抑えたがゆえにかえって増し加わって印象に残った。
実際に試合後、2投手継投による完全試合は達成されたものの、山井の”偉業達成”を阻んだかにみえる落合に対して「空気が読めない」などと大バッシングを受けた。
落合は山井について、年に1度とてつもないピッチングをすると、身体に変調をきたすと残り試合登板できなくなること。この日の試合では、山井が試合中盤でマメを潰れていたことも明かした。
とはいえ素人目にも、山井の8回までの完璧な投球から見て、9回になって崩れるとは思えなかった。
山井は当時を振り返って「もちろん投げたかったですよ」と当時を回顧。交代を希望したきっかけは、落合監督から投手起用の全権を委任されていた森コーチからかけられた「どうする?」であった。
実は、森コーチの証言によれば、山井のケガを心配して「どうする?」と声をかけたまでで、それはけして交代を促すという意図はなかったという。
山井によれば森コーチは1回から8回までは(自分のところに)1回も来なかったのに、8回(終了時)に限ってすぐに来た。そこで「どうする?」という言葉は、監督・コーチから見て自分の代え時だと判断されたと思い込んだ。
続投させるつもりだったら森コーチは来なかった。代えたかったから来たのだと、コーチの何気ない言葉の意味を”深読み”しすぎたことを告白した。つまり、山井は過剰に忖度したことになる。
そして山井は、日頃相手の気持ちを考えすぎて正直な自分を出せずに苦しむ性格で、そのことがシンドイということも語った。
ただ、森コーチは「山井がマメをつぶしたことに気がついた時点で完全試合ペースでもリリーフを送る可能性が高い」と判断してリリーフの準備を進めていたというのも事実。
一方、落合監督は「本人がいく」といえば行かせたが、本人が「代えてくれ」というのを行かせるわけにはいかなかったという。
球界を騒然とさせたアノ「消えた完全試合」事件は、3人のわずかな意思疎通の齟齬が生んだ交代劇だったといえる。
山井自身はこの番組で、あの日の「消えた完全試合」について問われると「自分に完全試合達成目前という投球をさせてくれているのは味方の力、特に守備のおかげでした」と、交代についてもわだかまりは一切ないと語った。
当時、落合監督は投手交代につき山井が語ったことは胸に秘め、監督一人がバッシングを引き受けるカタチとなったのである。
昨年の高校野球は秋田の金足農業が全国的にフィーバーを起こしたが、連投の吉田輝星投手は決勝戦では思うようなピッチングができず、準優勝に終わった。
思い起こすのは50年前、同じ東北の準優勝チームの大フィーバーのこと。
今でも鮮やかによみがえる1969年8月17日、松山商業と三沢高校の決勝戦。
延長18回の死闘で0ー0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
「あの日」の観衆は満員の5万5千人で、観客席は立錐の余地もなかった。
青森・三沢高校のエース太田幸司投手は、174センチ、74キロ。一昨日の準々決勝、京都・平安高校戦から3連投になった。
一方、愛媛・松山商業の投手は井上170センチ、65キロと体格には恵まれないが、コントロールには絶対の自信をもっていた。
さらに春センバツ2回、夏選手権3回の優勝を誇る四国の名門校としての誇りを胸に、この日戦後3回目の優勝を目指していた。
松山商は、全国制覇だけを目標に猛練習に明け暮れたといってよいチームだったのに対し、対照的に三沢高校は小学生の時から顔なじみの選手たちが集まった田舎のチームにすぎなかった。
何のイタズラか、その両校が決勝の舞台で一歩もひかない死闘を繰り広げたのである。
最も忘れがたいシーンは延長15回裏と延長16回裏におとずれた。
延長15回裏、三沢高校が一死満塁の大チャンスを迎える。
三沢の9番打者立花に対し、松山商の井上投手はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となった。
あと一球ボールがきて、三沢高校の「押しだしサヨナラ」が濃厚な場面を迎えた。
この時、「松山商業の優勝」を予想できた人は、球場にも視聴者の中に一人もいなかっただろう。
観客は固唾を呑んで試合に見入った。
そして、次に井上投手が投げた4球目はストライク。応援席の叫びにも似た声が大歓声へと変わった。
その後も何度も歓声と悲鳴を交互に聞いたような気がする。
しかし、この日で一番忘れがたいシーンは、次の5球目と6球目であった。
井上投手が投げた5球目は山なりとなり、低めに外れたかに見えたが、振る気の無い打者に大森捕手は咄嗟に前に出て捕球した。
打者や走者、そして相手ベンチの動きからウェイティングで来ると確信していた大森は、低めいっぱいに来た球にニジリヨリながら通常より50センチも前(投手寄り)でキャッチした。
打者・立花は歩きかけたが、郷司球審は一瞬の間をおいてストライクと判定し、フルカウントとなった。
そして立花は、次の6球目を強打した。
打球はワンバウンドで飛びピッチャーを強襲、井上投手はボールに飛びついたがボールを大きく弾いた。
その瞬間、本当にゲームが終わったかに思えた。しかし次の瞬間、弾いたボールを拾ったショート樋野が矢のような返球を本塁に投げ、三塁走者は間一髪本塁アウトとなった。
ボールがライナーに見えた為、三塁走者の飛び出しが遅れたこともあったが、松山商業の底知れない力を見せつけた場面であった。
そして次打者はセンターフライに打ち取り、松山商が絶対絶命のピンチをしのぎ0点に抑えた。
井上投手にとっては、まさに奇跡の25球であった。
一塁側アルプススタンドは総立ち、松山商業ナインを大歓声で迎えた。ベンチ前では笑顔の一色監督が両手を広げて選手たちを称えた。
そしてベンチに戻った時、松山商ナインは泣いてた。
ところで、引退後、郷司球審はこのシーンのビデオを見て「確かにこうしてビデオで第三者の目で見ると、外れたようには見える。だけど、私はあの現場で見て、ストライクだと思った。自分にウソはつけないからね。今でもあのボールはストライクだと思っています」と語った。
ところで、三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長は、この碑に野球部員たちの名を刻むことに反対した。
あの延長18回という試合の重荷をこれからの彼らに負わせてしまうことになるという判断からだ。
ところで、両校球児のその後を追跡した「延長十八回終わらず」(2004年田澤拓也著)は、平凡に生きることの難しさ、この時の校長の判断が"英断"であったことを、はからずも伝えている。