人馬一体

1959年4月、皇太子と美智子さまとの世紀の御成婚パレードを、漆塗りの車体に、美しい装飾が施された「儀装馬車」の馬車列で演出した人々がいる。
彼らは、憲法に定められた国事行為のひとつ「信任状奉呈式」においても大事な役割を果たしている。
天皇が新たに日本に赴任した外国の大使と会う際の東京駅と皇居との往復において、ほとんどの大使が宮内庁の用意した馬車を利用する。
「信任状奉呈式」に使用される馬車は1913年製造で、もはや新規製造は不可能と言われ、修理を繰り返しながら100年以上にわたり大切に使用されてきた、いわば「走る美術品」である。
「宮内庁車馬課主馬班」総勢21人こそは、この馬車を曳く馬や乗馬用の馬たちを飼育・調教し、騎乗する人々である。
皇居の一角に厩舎やパドックなどがあり、24時間体制で33頭の馬の世話にあたる彼らは皆宮内庁の職員で国家公務員である。
さて、昭和天皇の乗馬姿を写真で見ることがあるが、平成天皇は8歳から乗馬を習われ、高校時代は馬術部の主将として活躍された。
その昭和天皇と皇太子(平成天皇)に、宮内省にて乗馬の指導にあたったのが城戸俊三である。
城戸は、1932年ロサンゼルス大会馬術競技に出場し、日本代表チーム6人の主将も務めた。
城戸は無念の途中棄権になったものの、メンバーの一人、西竹一陸軍・騎兵隊中尉は愛馬ウラヌスを駆って堂々の「金メダル」を獲得している。
西中尉が乗馬したウラヌスはこの2年前にイタリアから買ったもので、西中尉は馬術の「大障害」種目に出場しての快挙だった。
西中尉がイタリアでウラヌスに初めて会ったとき、ウラヌスは普段は気性が荒い馬だったが、すぐにブルルッ・ブルルルッと鼻を鳴らしながら西中尉の目の前に歩み寄り、すぐになついたという。
そしてすぐに西中尉の背中を鼻先でコスッタリ軽く食んだりして親愛の情を見せた。
西中尉とウラヌス号はお互いに「一目惚れ」したのである。
優勝インタビューの際の西の言葉、「We won!」に、西中尉の馬への気持ちが伝わって米国民にも深い感銘を与えた。
ところが、ロサンゼルス大会から13年間を経た1945年3月、西竹一中尉は、栗林忠道陸軍大将指揮下、硫黄島で第26戦車連隊長として、アメリカ軍の「総攻撃」に対峙していた。
西竹一は「男爵」であり、海外では「バロン西」の名前で知られていた。この時アメリカ軍は「バロン・西」の存在を知って投降を呼びかけた。
しかし西隊長は”玉砕”の道を選んだのである。
西中尉はこの時42歳、愛馬ウラヌスは、主人の死を知ってか知らずか、その1週間後に東京で亡くなっている。
その一方、前述の城戸俊三も途中棄権となるも、日本人の「愛馬精神」を世界に示した。
城戸俊三は愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに「総合馬術競技」に出場した。
これは山野を32キロ以上も走る「耐久持久レース」で、コースの途中には50個の障碍が設置され、これを飛び越しながら全力疾走するというハードなものであった。
鞍上の城戸は、全コースのほとんどを順調に走り終え、あと1障害と2キロメートル弱を残すだけの所にサシかかっていた。
全コースの99%を走破したこの時点で、城戸はかなりの上位入賞が予想されていた。
ところが観客は、信じられない光景に目を見張った。城戸は突然に「久軍号」から飛び下り、愛馬と一緒に歩きながらタテガミをたたいて労をねぎらったのである。
つまり城戸は、栄光を目前にしながら棄権したのだった。
城戸は、「久軍号」がこの時鼻孔は開ききり全身から汗が吹き出ており、すでに全力を出し切っていたものと体感していた。
様々な「威信」のかかった試合で、ムチをあてれば「久軍号」は余力を振り絞って、最後の障害を乗り越えていたかもしれない。
しかし城戸は「久軍号」の体の方を気遣った。
審査員の中には静かに退場する人馬の姿に、思わずもらい泣きした人もいたという。
その2年後、アメリカ人道協会は「愛馬精神」に徹した城戸選手の行為を讃えて、二枚の記念碑を鋳造した。
一枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、もう一枚は1964年に日本へ贈られた。
この銅版には横書きの英文と、縦書きの日本語「情は武士の道」という文字が刻まれている。
英文の方を和訳すると、「第10回オリンピック馬術競技で城戸俊三中佐は愛馬を救うため栄光を捨てて下馬した。彼はそのとき、怒涛のような喝采ではなく、静かなあわれみと慈しみの声を聞いたのだ」と記されている。

オリンピックの西選手や城戸選手のエピソードに「人馬一体」という言葉を思い浮かべるが、近年、馬を相手に、マネジメントやリーダーシップなどを学ぶという企業研修がおこなわれているという。
場所は埼玉県比企郡、美しい里山の風景の中にある牧場。
具体的に、次のような研修を行う。
例えば最も初歩的なものが、1人ずつ馬に相対し、馬のそばに近づいて、馬にふれずに自分の後をついてこさせるというセッション。
馬は犬などと違って言葉をまったく理解できないため、まず馬の警戒を解き、ついてこいというメッセージを言葉以外の方法で伝えなくてはいけない。
こちらの意図が通じない馬に向かってどのようなアプローチをするかに、その人なりのコミュニケーションスタイルが如実に表れる。
柵の外の参加者たちはそれを観察し、お互いにフィードバックをする。
研修プログラムを主催する会社の女性代表によれば、馬は接する人の姿を映す“鏡”のようなものなのだという。
そして馬には、特に研修の「先生」として次のような特質があるという。
まず、馬は特定の人を覚えてなついたりはしない。その時々に、そのときの相手のふるまいに対してストレートに反応する。
基本的に“一期一会”で生きている。
つまり犬のように、飼い主には従うがほかの人のいうことはきかない、ということがない。
指示の出し方が正しければ、相手が大人でも子どもでも同じように指示に従う。
してがってこの研修では、さまざまな人が馬を相手に、適切な指示の出し方を試すことができる。
さらに、馬には相手の意図を読み取って同調する「ミラーリング」という特性があるという。
人間同士が相手の言葉づかいやしぐさを真似するようなものだが、馬は人の心の奥深いところまで感じ取っているのではないかという。
心の裏側まで通じる「肝胆相照らす」という言葉が浮かぶが、 人間と馬が共に生活するというのは、「種付け」や「調教」など様々な形がある。
数年前、個人的に宮崎県の都井岬に旅したことがある。海岸と灯台、草原と馬のコントラストが素晴らしく、何度でも来たくなる場所だった。
帰りは、JR線で大隈半島の志布志に夜に着き、そこで宿泊した。
NHK「ファミリーストーリー」で、この志布志で生まれた假屋千尋(かりやちひろ)という人物を知った。
農家の四男で成績は優秀であったが、経済的に進学は困難で「馬の種付け」の見習いとなった。
1934年、農林省鹿児島種馬所へ入り、陸軍に徴兵され熊本へ行き、 さらに千葉県にある陸軍野戦砲兵学校へ入校した。
実際に假屋はこの学校で最優秀の成績を収め、大尉で中隊長代理だった朝鮮王族の李公の「馬番」に任命されている。
日中戦争が拡大するにともない、假屋は馬とともに戦線に送り込まれた。
分解された砲だけでも1トン、弾薬も入れると2トンを運ぶ。地面がヌカルんだ場合など、馬には相当の負担がかかった。
馬は耳に水が入るとダメなので、手で馬の頭を高く挙げて、そのままの形で泳いで対岸まで行った。
馬に鉄砲玉が当たって動けなくなった時は、泣きながら処分をした。
1932年10月、鹿児島松山村へ帰郷し25歳で結婚して二人で福岡県小倉へ出て、陸軍兵器補給廠で工員として働く。
長男が生まれたが喜ぶもつかの間で肺炎なくなり、夫婦で鹿児島県松山村へ帰郷し、農作業のかたわら「種付け師」の仕事を始めた。
しかしその妻も腹膜炎で25歳の若さで亡くなる。
生きる目標を失い意気消沈する假屋であったが、周囲の薦めで再婚することができた。そして生まれたのが美尋(よしひろ)であった。
1950年に朝鮮戦争が勃発し、假屋は警察予備隊に誘われたが断わった。
息子の美尋が小学校の頃、假屋が馬に乗って授業参観にきたため、生徒は騒然となり、それ以来美尋のあだ名は「種馬」となったという。
息子の美尋は東京の大学へは自力で行くこととなり、1969年3月25日、都城駅にて父親は息子に1万円を渡し、「いま我慢すれば、きっとよか日がくる」と励ました。
息子の美尋は大学卒業後に芸人になるが、まったく芽が出ずに司会業などをして食いつないだ。
1997年4月2日、假屋千尋は耕運機に乗っていて、耕運機ごと4mほど転落して亡くなった。
それから5年後、息子・美尋は「綾小路きみまろ」の名で爆発的にブレイクした。
ところで、松任谷由実の「中央フリーウエイ」(1976年)歌詞の中に、「右手は競馬場、左手はビール工場」というフレイズがある。
実際、松本へ向かう高速バスが調布付近にサシかかった時、見逃すまいと目を皿にしていると、まぎれもなく「右手の東京競馬場」「左手にはサントリー武蔵野ビール工場」を確認できた。
高速道路横に突然現れ出でた競馬場のスタンドは、白くて巨大な建造物で、通りすぎるのに目に焼き付けるだけの時間の余裕があった。
都会の競馬場といえば、羽田を飛び立つ飛行機を背景とした「川崎競馬場」がある。
そこは、京浜工業地帯の人たちを中心に、ささやかな娯楽の場となってきた競馬場である。
NHKの「小さな旅」は、馬と共に懸命に人生を歩んできた人々に出会う旅で、大都会の喧騒の中でこのような生活圏があるのかと、しばらくオアシス気分に浸ることができた。
JR川崎駅のほど近い「川崎競馬場」は、終戦間もない1950年に開設され、戦争で夫を亡くした女性を優先的に雇用するなど、貴重な"女性の働く場"でもあった。
川崎市には馬たちの暮らす小向厩舎があり、200人ほどが競走馬の世話をしているが、女性調教師として活躍する人もいる。
「小さな旅」に登場したのが女性調教師は、馬主から預かった9頭の血統や性格など全て把握している。
馬の適性を考え、どの馬をどのレースに出場させるのかを決めるのは調教師の仕事だ。
馬の特性を見てから、関東各地の地方競馬にも出場させている。
テレビで紹介された女性調教師は、19歳のとき、「川崎競馬場初」の"女性旗手"としてデビューした。
しかし、思うような成績を出せずに6年で引退したが、37歳で調教師の資格をとり、愛情深く馬の面倒を見ている。
ところで、競馬で最も有名なレースとえば、1年を締めくくる「有馬記念」だが、福岡県の久留米の殿様・有馬頼寧の功績を記念してできたものである。
久留米藩十二代・頼万(よりつむ)の子・有馬頼寧(よりやす)は、農民運動や水平社運動に理解を示した融和運動家として知られ、戦後は中央競馬会の理事を務めた。
「有馬」と「競馬」とが名前上で繋がる偶然も面白いが、有馬が創立に関わった東京セネターズ(現日本ハムファイターズ)が競走馬の産地・北海道に本拠地を移転しためぐりあわせもまた面白い。

「有馬記念」の名の由来となった藩主をもつ久留米には、青木繁と坂本繁二郎という著名な画家を輩出している。
坂本繁二郎は久留米で生まれで、「馬の画家」と呼ばれたほど多くの馬の絵を残している。
画面全体に、作者がエメラルドグリーンと呼ぶ淡い水色の世界が広がっている。
その色調の微細な変化が、光の中で変幻する馬の肌を描きだしている。
坂本繁二郎は、いつも青木繁と比べられてのきた。
天才と呼ばれ28歳で夭折した青木と同じ年で同じ久留米出身、そして同じ画塾に通った仲である。
宿命のライバルにして友人でもあった。
しかし、天才や早熟の青木とは対照的に、坂本繁二郎は朴訥そしていて、晩成の印象が強い。
坂本繁二郎は、幼い頃から「絵の虫」と呼ばれ10歳の時に洋画家の森三美が主催する画塾に入門した。
坂本の絵は評判となり、「神童」と呼ばれるようになる。
30歳の時に描いた「うすれ日」が注目となり、39歳にして絵画修業のためフランスヘ向かった。
フランス留学から戻ると、50歳にして福岡県の八女を「終(つい)の住処」と決めて、そこで坂本の生涯のモチーフとなる馬と出会う。
のびのびと、自由に生きる馬たちの姿が、繁二郎を魅了し、坂本は馬を求めて阿蘇や島原半島にも足を運んでいた。
しかし坂本は八女にアトリエを構えて以降、中央の美術団体に属さず黙々と創作を続けていた。
坂本がアトリエで黙々と描いた「馬の絵」はほとんど知られることはなかったのである。
坂本びいきの一部の批評家の賞賛もあったものの評価も充分に浸透せず、坂本は売れるあてもない画を黙々とこのアトリエで描いていたのだ。
坂本の内向的な性格に加え、戦時色を濃くしていく時代の空気も影響したかもしれない。
坂本は亡くなった青木とて比べられるのをいまだ恐れていたのかもしれない。
そしてもしも、坂本繁二郎の絵が若き画商・久我五千男(いちお)の「審美眼」との出会わなければ、坂本が世に出ることはなかったかもしれない。
久我五千男氏は北九州市若松区生まれ、関西で活躍した美術商である。
久我は大阪の同じく画商の実兄にすすめられて、1939年ごろ坂本繁二郎を福岡県八女のアトリエに訪ねている。そして目を見はった。
そこは「馬」だらけの世界、それも四角いキャンバスの中で淡い色彩で描かれた放牧馬が命をもつかのように息づいていたのだ。
孤独な坂本は、ほとんど馬と生活しているようなものだった。人馬一体の生活。
坂本の作品をアトリエで見たときに若き久我は震えるほど感動し、こんな巨匠の作品がアトリエに眠っているなど日本文化の恥で自分が売りまくってやろうと思ったという。
坂本の方でもまんざらでもなく、戦争で絵の売れ行きもとまり、久我の帰還を誰よりも待ち望んだのは坂本に他ならなかった。
坂本の作品は次第に社会的な評価を高め1954年に毎日美術賞受賞を受賞し、1956年には「文化勲章」を受章している。
なお「久我五千男記念館」は福岡県糟屋郡の須恵町にあり、黒田藩の「須惠焼き」などとともに展示されている。

坂本の愛用の手帳には、「創作は真実な自己実現以外にはあり得ない」と鉛筆で記されていたという。