ハンコとリンギ

職場において多くの人が、「決裁」という言葉に遭遇する。初めて聞いた時は、商取引の際の同音異議語の「決済」と混同したりする。
「決裁」は、上司や責任者が、部下などが提出した案を採用するか、却下するかを決めることを指す。
このとき、上司から決済が「下りる」、上司に決裁するよう求めることを示す「決裁を仰ぐ」といった表現をする。
そして日本的な慣行は、決裁は「稟議(りんぎ)」を通じて行われるということである。
「稟議」とは、会議を開くほど重要でない事項について、主管者が決定案を作って関係者に回し、承認を求めることである。
この文書を「稟議書」と言うが、複数の人の「承認」を必要とするが、稟議書へのハンコを各人が押していくというカタチをとる。
この稟議制度は「起案」「回議」「決裁」「承認」「実施」「記録」から構成される。
下位者が稟議書を起案し、回議していき、上位者は、普段の行動を知らない下位者が何を考えているのかを知るいい機会となる。
遠回りでも一つ一つをじっくり考え、コミュニケーションを交えながら作り上げていく、日本のものづくりの基本がうかがえる「ボトムアップ型」の意思決定方式である。
最大のメリットは、問題提起を多くの人々がシェアすることができる点である。
一方、何人もの承認が必要で、時間を要する事や、責任の所在が曖昧になるなど、官僚組織的な弊害を生むことがデメリットとしてあげられる。
日本ではこの稟議制度と密接に関わるモノでいえば「印鑑」、そして行為でいえば「押印」。
印鑑は、今から5000年以上前のメソポタミア地方に、その起源があるとされている。
数年前に、九州国立博物館で「大英博物館展100のモノが語る世界の歴史」で実際にみた印鑑は、円筒形の外周部分に絵や文字を刻み、これを粘土板の上に"転がす"というもの。
その後、世界各地に広まり、東は中国経て、日本へ西はギリシア、エジプト、ローマを経て欧州各地に影響を与えた。
日本は明治になって、公の印はすべて法律の規定に従って、管理・使用されることになり、個人の印は「印鑑登録制度」が導入され現在に至っている。
ただ、以上のような稟議制度と押印文化は時代遅れのものとしてみなされつつある。
企業では社内回覧版から報告書、起案書、稟議書まで多くのシーンで押印作業が発生する。
印鑑は、原則的に担当者本人が押さなければならないため、ハンコを押すために書類がたらい回しになり、タイムリミットの下では、まるで”スタンプラリー”の様相を呈する。
これらの目的は、承認者が「承認するという意思を記録として残すこと」。承認の意思を残すこと目的であれば、その形式は “ハンコ”にこだわらなくてもよいのではという意見もでてくる。
現在の承認作業自体がそもそも本当に必要なものなのか、ペーパーレス化、テレワークなどの多様化するワークスタイルの中で、別の”承認スタイル”を検討する余地はありそうだ。
電子化された書類は、承認印を押すために一度プリントアウトし、押印。それをスキャンし、再度電子化して保存。さらに、「念のため」と紙書類をオフィス内に保管するなどと、手間とコストのオンパレードである。
書類のやり取りに膨大な手間と時間がかかる「はんこ文化」は、電話重視や現金支払偏重などと同じく、日本の生産性の低さの象徴だという意見が増している。
社内システムに自宅からアクセス出来る環境を作ってるのに、書類に印鑑捺しなければならないでは出社せざるをえず、「働き方改革」とも、ペーパレス化の流れともソグわない。
そうした背景から登場したのが「電子印鑑」で、その名の通りデータ化されたハンコのこと。
PDFなどの電子書類をプリントアウトせずに押印することが可能なため、ハンコを持ち歩いたり都度取り出したりする必要がなく、作業効率の向上を期待される。
[電子印鑑」を押した書類は、印刷せずにそのままメールでの送信も可能。紙書類をやりとりする手間が省けるため、大幅な作業効率アップにつながるうえ、コストの削減も期待できる。
2005年から施行されている「e-文書法」では、契約書を含む一部文書の電子化が法律で認められている。
そのため、紙で契約書を作成せず、電子化した文書のみでやり取りをしたとしてもその契約は有効となる。もちろん、「電子印鑑」があれば電子化した契約書への捺印つまりハリツケも可能である。
書面の電子化は徐々に広まりを見せており、今後は書面の電子化と併せて[電子印鑑]もビジネスの場でスタンダードになっていくと予想できる。
茨城県や福岡市では、業務を電子決裁にして「ハンコ」を廃止する動きが起きている。
特に、茨城県庁が全国に先駆けて進めた電子決裁で、担当課は電子決裁率がほぼ100%近くに達したことを「庁内改革の成果」とアピールしている。
しかし、この数字は少々大げさなようだ。
茨城県本庁の職員はパソコン上の作業は「承認」のクリックだけで済むが、端末上での確認が難しいのは、決裁書類に添付される資料が多い場合。
参考として付ける前年の文書などだけで数十枚に上るケースも少なくなく、建設関係だと大型の図面が付属するため、電子化すること自体が困難という。
電子化するにはスキャナーで取り込む必要がある文書もあり、そうなると電子決裁化で、一般職員の業務量はかえって増えているという。
つまり、画面で文書を確認するには限界があり、各自で印字するのも無駄なので、紙を回しているのだという。
ただ最近、政府機関や各企業の紙で管理していた記録における改竄や管理不備などの問題が、世間を賑わせている。
そこで、電子決済の目的の一つが、改ざん防止にある。紙の決裁だと文書差し替えにより改ざんは容易。
一方、県の電子決裁システムでは決裁後に字句を変更することは不可能で、途中で変更をしてもすべて記録されるからだ。
現在、世界に普及しつつあるデジタルな本人確認手段には、「電子署名」「ID・パスワード」「フォーム入力」といった方式がある。
例えば、電子政府を推進するIT先進国のエストニアでは、「国民ID(国民識別番号)」とパスワードにより、あらゆる契約や行政機関の手続きがオンラインで完結するところまで行っている。

日本で最古の印鑑は北九州志賀島で発見された金印。「漢倭奴国王」と刻まれた印はあまりにも有名。
日本で印鑑は、政府や地方の支配者の公の印として使われ始め、701年には大宝律令の制定時に「官印」が導入されている。
平安・鎌倉時代になって、個人の印として印鑑を押す習慣が定着したといわれている。
江戸時代には武士階級は朱肉を使っていたが、庶民は黒。朱肉の赤は、縁起が良い。それは魔除けから来ており神社の鳥居が赤いのも同じ理由である。
現在、朱肉の「朱色」は硫化水銀(天然のものは辰砂(しんしゃ))により、硫化水銀を昇華させたものに希釈したアルカリ溶液を加えて、植物や和紙の繊維を混ぜ、ひまし油や木蝋、松脂を入れて練り固めたものである。
ほとんどの一般国民はまず一生目にすることがない印鑑および印影が「璽(じ)」と名の付くもの。
古代中国の秦の始皇帝のときから皇帝の印鑑のみを「璽」と呼んでいたことに倣って、日本でもその他の「印章」と区別して言うようになったといわれている。
「国璽(こくじ)」は、日本の国を表す印鑑、条約の批准や文化勲章の勲記(勲章を贈る旨を書いた文書)に用いられている。
「御璽(ぎょじ)」は、天皇陛下がお持ちの印鑑のことで、皇位を継承するときに引き継がれ、今上天皇しか持つことがない極めて特別な印鑑である。
国璽・御璽とも大きさは三寸(約9.09cm)四方の角印で、重さは約3.5kgもある。
「国璽」は明治維新後に定められ、当初は宮内省が、後に宮内省外局の内大臣府が国璽 と共に保管し、内大臣が押印した。
西洋では国璽は「グレートシール(Great Seal)」と呼ばれ、日本などの東洋の国が「朱肉」を使って押印するのに対し、西洋では溶けた封蝋の上に円盤型の印章を押し付けて印影を作る。
国璽(グレートシール)を使用している国は、イギリス、フランス、アイルランド、カナダ、アメリカ合衆国である。
ハンコ文化は時代遅れといわれつつも、日本でその電子化がなかなか進まないのは、既得権益が大きな壁となっているためである。
ところで、今会社を起業するには10日かかるが、印鑑届け出のオンライン化によって会社設立が1日でできるようになる。
実はこれアベノミスの成長戦略のひとつで、押印の書類をスキャンするなど、オンライン化を想定しているという。
政府の検討会では、新会社の定款を公証人が認証することや企業家らと面談することを不要としたが、 これに法務省が猛反発して制度は維持された。
その背後に、公証人は法務省の「天下り先」となっていることが理由にあげられる。
経済同友会の代表幹事は、「ハンコ文化がいまだにはびこっている。戦後、経済システムが変わっていない」と不満を漏らした。
一方、国のオンライン化がすすめば、全国の9千の業者が廃業に追い込まれる。
押印は日本の文化の失うことになると、印鑑業界の猛反発が起きて、国会議員の中にも「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」も発足した。

1979年、「グラマン航空機疑惑」で国会証言を求められた商社マンが、宣誓のサインをする時手の震えをどうすることもできなかったテレビのワンシ-ンは今でも記憶に残っている。
サインといえば、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」も印象的だった。
裕福な青年は貧しい相手の劣等意識につけこむかのようにヨットに誘い、自分の恋人さえも見せつける。
ドロンが演じた貧しい青年が、殺した男のサインをスライドに表示して、手で筆跡をなぞるように模倣・練習するシーンがあった。
ラストシーンで、完全犯罪を自ら祝うかのようにワインを傾けるアランドロンの白い手と、ヨットに絡み付いて打ち上げられた死体の黒々しい手のコントラストが描かれていた。
こうみると人間の心は「サイン」という行為に表われるが、押印という行為まして電子的なクリックではそれが現れない。
電子印鑑の問題点は、単純に印影を画像化したものを張り付けた場合、どのように管理された印影なのか、誰がどのタイミングで書面に貼り付けをしたのかが分からないことがある。
というわけで、いくら電子化が認められたと言っても、重要な契約を結ぶ際には、ほとんどの場合、取引先と対面し、目の前で「署名捺印」することが一般的である。
グローバルスタンダードの「サイン文化」では、重要書類に署名する際には、公証人が立ち会うことになっている。
公証人は、役場や会社の法務部、銀行などに配置された第三者の公務員で、署名の場に立ち会って、確かに本人のサインであることを証明するスタンプを書類に押す。
この制度には、第三者の立ち会いを必要とする煩雑さがある反面、三文判もOKな日本の実印よりは確実な制度だと言えるかもしれない。
公証人制度を脇に置いても、各々で筆跡が違うサインの方が印鑑よりも偽造が難しいとされ、サインにはなくしたり忘れたりするリスクがないという利点もある。
とはいうものの、サインに馴染みのない日本人が毎回同じサインを書くのは難しいともいわれる。
今の日本は、移民受け入れ拡大を控え、電子化以前に、ガラパゴスな「ハンコ文化」からグローバルスタンダードなサイン文化への転換も考えなければいけない時期がきている。
外国人の印鑑は漢字の当て字で作るか、カタカナで作るのが一般的だ。日本人の名字は多くても漢字4文字といったところだが、欧米の名は文字数が多い名前が多く、限られたスペースに彫る難しさがある。
逆に韓国や東南アジアの方など、極端に画数が少ない名前を彫るのも、結構難しいという。
ところがグローバルスタンダードに外れているとも思われる印鑑が、今「クールジャパン」の一つとして見直されているという予想外の展開が起きている。
日本に住んで印鑑の重要性を知ると、サインだけで済んでいた頃よりも面倒だと感じるだろうが、印鑑を押すという行為は「クール」なのだそうだ。
ある外国人は、ハンコは日本の文化を象徴するもので、ハンコを使うことは自分が日本人に近づく大切な一歩だと語る。
最近は、日本みやげに自分のハンコを作ったり、既成のハンコを買う外国人旅行者も増えている。
「日本で買うべき最もクールなもの」としてハンコを紹介している旅行情報サイトもあるほどで、観光地の土産物店には、「安(Ann)」「富夢(Tom)」などの外国人向けのハンコも並ぶようになった。
ただ「ハンコ文化」には、グローバル化の流れに反するもう一つの側面がある。
最高級の印鑑の材料と言えば、象牙である。国際社会からは、この象牙の印鑑がアフリカゾウの密漁の温床になっているという非難もある。
ただ、日本は絶滅の恐れがある野生動物の国際取引を禁止する「ワシントン条約」を批准しており、現在は象牙の輸入が全面禁止されている。
また国内に禁輸前の時点では象牙の印鑑を作ることは可能だが、使い切れば終了。今後「象牙の印鑑」という少なくとも一つの印鑑文化の終わりと、デジタル化の波は、確実に近づいているように思われる。
ちなみに「象牙の塔」という言葉は、フランスの批評家サント・ブーブが詩人ビニーの芸術姿勢を批評した「象牙の塔にこもる」という表現にはじまる。
芸術家、学者が現実逃避的態度で自己の理想にこもり、芸術または学問三昧にふけることを意味する。
もともとは「あなたの頸(くび)は象牙の塔のようである」(旧約聖書『雅歌』)に由来し、同書の「林の中の林檎」など共に、女性の美しさや可愛らしさを表現する言葉であったが、その含意は消えてしまった。
ところで、グローバル化は、日本独自の企業文化を変えた。その一つが会計制度で「原価主義」からグローバルスタンダードの「時価主義」に変わった。
そのことが「バランスシート不況」ともいわれる日本経済の低迷を招いたといわれる。
ところで日本独特の決裁システムであるリンギシステムは、自分の権限外の事項についても、決裁が得られれば、影響を与える事ができるため、日本企業の長所として欧米企業からも注目されている。
そして現代リンギシステムとして、決裁に期限を設け、時間内にアクションがなければ自動的にその上の決裁者に決裁権が移動するシステムや、否決をする場合には理由を明記するなど、課題とされてきた時間の短縮や、責任回避の問題をクリアするシステムが構築されている。
このように、グローバル化の中、時代おくれと思っていたら、日本的なものが世界で「発見」されるということもある。
例えば、「MOTTAINAI」「KAWAII」「OMOTENASHI」など「グローバルスタンダード」にせまるものがある。
そこで、「オンライン化されたリンギ・システム」というのも、スタンダードとしてアリなのかもしれない。