この親に生まれて

最近TVで放映された松本清張の「砂の器」で、主人公は原作のハンセン病患者の家族ではなく、凶悪犯の家族として描かれていた。
刑事事件において、親が子の罪を謝罪するという場面はよく見るが、当の親が罪を犯したとなると、子が未成年の場合、その重みは心を縛り続けることになる。
芥川賞の「苦役列車」には、作家の西村賢太とおぼしき主人公が、卑劣な事件を犯した人物の子として体験した小学生時代が描かれている。
父親が犯した事件が面白おかしく報道されるや家族は離散し、クラスメートとの別れの際、先生が「賢太君が悪いわけではない」と慰めにもならない言葉をくれた時の居たたまれなさは、いかばかりか。
地下鉄の駅で女の子に会うと、親ともども目をそらして足早に通り過ぎたことなど、小学生の体験としてはあまりにもつらすぎる。
その後、母親の姓になって過去を隠しても、結局は"あの事件"の子として仕事先でそのことがわかって職場にいられなくなる。
それは、永遠の苦役のようにのしかかってくる。
ただ、この小説「苦役列車」は不思議なユーモアがあって、笑いさえ誘うのは作家の生来の性格なのかもしれない。
さて、日本中が震撼した大事件の犯罪者の家族達は、一体どんな運命をたどったのか。
最近テレビや週刊誌に自ら露出され、彼らが自らの心境を語る場面に出会うことがあった。
そこに至るには大変な心の葛藤があったであろうが、彼らの言葉に案外と”救い”のようなものを感じる。
それは、人は多かれ少なかれ「十字架」というものを背負っていきているからにちがいない。
例えば、オウム真理教教祖の麻原彰晃の四女は、親と自分とを明確に区別する姿勢を見せ「なぜ自分は麻原彰晃の子として生まれたのか」という本を出版し、2017年には、父母に対する推定相続人の廃除を横浜家裁に申し立て、認められた。
親から子ではなく、子から親に対して申し立て、また認められるケースは非常に異例である。

政府によれば、元号「令和」の英訳は「beautiful harmony」であるらしいが、”令和”の奥行に対して凡庸すぎる気がする。
岡本太郎は、大阪万博で「太陽の塔」の制作を依頼されたとき、万博のテーマが「進歩と調和」と聞いて、そのテーマに抗う(あらがう)ような塔を作った。
岡本太郎の芸術は、調和を旨とするものではなく、むしろ「はみ出す」ことにあるからだ。
無政府主義者・大杉栄は、「美」は統制されない不調和の中に現われ出るという独自の美学を持っていた。
つまり「調和」を保障する機構としての国家に疑いをもち、それに反逆した大杉栄ならではの表現が「美は乱調にあり」である。
「美は乱調にあり」は瀬戸内寂聴が、大杉栄と伊藤野枝夫妻の生涯を描いた小説のタイトルとなる。
このタイトルの「乱調」にはどんな英訳がつくのか、本屋でこの小説の「英訳本」に出会いタイトルをみると「乱調」という言葉に「disarray」という英語があてられていた。
この言葉、着物の乱れの「乱れ」などを表す際につかう言葉で、なるほどと感心した。
さて福岡市西部の今宿海岸にはかつて無政府主義・大杉栄の"戒名のない墓石"があった。
大杉栄は香川県で生まれたが、大杉の妻・伊藤野枝がこの今宿出身であった。
現在、今宿海岸に面してある野江の実家からわずか100mの地点には今宿バスセンターがあり、その隣には今宿派出所がある。
瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」の冒頭で、この派出所(当時は見張り小屋)のお巡りさんが、大杉の妻・伊藤野枝に絶えず監視の目を光らせていたことがわかる。
1923年、大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。
この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦からとって「甘粕事件」という。
甘粕事件後、大杉栄・伊藤野枝夫妻の死後には4人の幼子が残され、今宿海岸にあった伊藤野枝の実家に引きとられた。魔子・エマ・ルイ(ルイズに改名)・ネストルの四子である。
松下竜一の著書「伊藤ルイズ」を読むと、四女の伊藤ルイが大杉・野枝の娘として苦難の人生を歩んだことがわかる。
両親が殺されたとき1歳3カ月だったルイは、ひとつ違いの姉のエマと今宿の野枝の実家で祖父母に育てられた。
祖父母の愛は深かったが、軍国主義の時代にあって、姉妹は天皇に反抗した親の子供として周囲の冷たい視線を浴びて成長した。
姉妹は心の傷をそれぞれの胸におさめ、蒲団を被って泣く夜もあったという。
ちなみに、伊藤ルイズは博多人形師としての道を歩まれた。
時代は違うが、この4人の子供と同じように社会から冷たい視線を浴びながら生きたのが、林真須美死刑囚の4人の子である。
林真須美は、1998年に発生した「和歌山毒物カレー事件」の犯人として逮捕され、殺人罪などで死刑判決が確定している。
地域の夏祭りで出されたカレーを食べた住民4人が死亡、63人が急性ヒ素中毒になった凶悪犯罪は、事件そのものの衝撃はもちろん、テレビインタビューに冗舌に応じたり、自宅前で待ち構える報道陣にホースで水をかけたりした林死刑囚の強烈なキャラクターと相まってメディアを席巻。
ワイドショーが林死刑囚の一挙手一投足を追い続ける「カレー狂想曲」が繰り広げられた。
両親が保険金詐欺で逮捕後、親戚さえも引き受けてもらえず、4人の子どもは養護施設に預けられた。
最近、林死刑囚の長男がテレビ出演して、死刑囚の息子という重い十字架を背負っていきる人生を語った。
幼いころは、おもちゃでも何でも、欲しい物は百貨店の外商で買ってもらえたし、ふざけて札束を積み木のようにして遊ぶこともあったという。
長男は、事件をきっかけに、収入のからくりは両親が繰り返してきた保険金詐欺だということを知る。
父親は以前、シロアリ駆除の仕事をしていたことから薬剤の知識があり、1988年ごろ、自らヒ素を口にして2億円もの保険金を受領した。
その後も元保険外交員だった林死刑囚とともに、詐欺を繰り返し、金庫には多いときで5億円近くが保管されていたという。
長男によれば、両親はお金にとりつかれていたと語る。
しかし、小学4年の夏に発生したカレー事件とともに、そんな生活も一転する。
長男は、大勢の記者やカメラマンが大挙して押し寄せたのを、お祭り騒ぎのようだったと振り返る。
だが、次第に報道陣は「林家」を集中的に取材するようになり、幼心に自分の家が疑われるのを感じていた。
このころから、林家では毎夜、「本当はどうなんだ」とカレー事件への関与を問いただす父親と林死刑囚の口論が繰り返された。
長男も母親に「ママがやったん?」と問いかけたことがあった。母親は「やるはずがない」ときっぱりを否定された。
しかし、事件から約2カ月後、両親は「保険金詐欺」容疑で和歌山県警に逮捕された。
その日は小学生だった長男は運動会だった。前日に、来てくれるかどうかを尋ねる長男に、林死刑囚が「絶対行ってあげる」と応じたのが、逮捕前の最後の会話だった。
林死刑囚は同年12月、カレー事件に関与したとして殺人などの容疑で「再逮捕」。殺人犯の息子という重い十字架を背負うことになった。
長男を待っていたのは、預けられた養護施設でのいじめだった。
同じ施設に入所していた少年らから日常的な暴力を受けたといい、顔に傷ができれば職員らにいじめが発覚することから主に体を狙われ、生傷が絶えなかった。
「カエルの子はカエル」。施設にいたころ、言われた言葉の悔しさから万引一つでもすれば死刑囚の息子だからと後ろ指を指されると道を踏み外さないように生きてきた。
少年らから「ポイズン(毒)」というあだ名で呼ばれることもあった。
給食のカレーに乾燥剤を入れられ、気付かずに食べておう吐したこともある。
何不自由なく暮らしてきた自分の身に、なぜこのようなことが起きているのか、信じられなかった。
数年後に施設を出てからも重くのしかかった。
生計を立てるため飲食店でアルバイトをしていたとき、林死刑囚の家族だと分かると「衛生的に良くない」と言われ、その日のうちに解雇されたという。
長男は現在、運送会社に勤務。保険金詐欺の刑期を終えて出所した後に脳出血で倒れ、車いす生活となった父親の自宅にも頻繁に行き来している。
林死刑囚と面会するのは年に1回程度。気丈にふるまうのは子供たちの前だけ。
父親には「死刑台に連れて行かれる夢を見る」と弱音を漏らしたこともあったという。
林死刑囚は死刑確定後も無罪主張を変えておらず、21年には和歌山地裁に再審請求を申し立てた。自宅などから見つかったヒ素と、現場に残されたヒ素は別物と主張したが、請求は今年3月、棄却された。
林死刑囚の弁護団は大阪高裁に即時抗告しており、今後も無実を訴え続ける構えだ。
そんな林死刑囚も、長男にとっては子煩悩で優しい母だった。
国内外の観光地に頻繁に連れていってくれたり、長男や兄弟の成長ぶりを写真に撮ってはアルバムを作ってくれたという。
長男は事件から19年もの歳月が経過した今でも、そんな母とメディアから希代の犯罪者と指弾され続けてきた林死刑囚が重ならずにいる。
母は本当にカレー事件の犯人なのか。
長男は身を隠すこともできたが、それをしないのは、身を隠せば母親が犯人であることを認めることになるからだという。
長男は、家族として母を信じたい思いがあるが、一方では事件で被害に遭った多くの人がいるのも事実。何度も葛藤を繰り返したという。

スナック・ホステス福田和子は、周囲に「裕福な家の出身だ」と見栄を張っていた。
その嘘を繕うため、店のナンバーワンホステスの部屋にあった高価な家具に目を付けたという。
和子はそのナンバーワンホステスの部屋で酒を飲み、着物の帯締めで首を絞めて殺害。
その後、事情を知らない夫や親せきを使い、現金や家具などを運び出し、車に遺体を積むと、自宅へ戻り、夫と二人で遺体を山の中に埋めた。
夫は何度も自首を勧めたが、和子は拒み、そして逃げた。
事件から数日後、夏休みが明けた正之(仮名)は、父が逮捕され、母が逃げていたことで、学校へ行くのが憂鬱だったと振り返るが、学校での反応は違い、同級生には気遣われ、励まされた。
当時、14歳だった長男・正之は、母・和子から「当分、帰ってこれない。おばあちゃんのところに行っておいて」と言われたという。祖母の家では「テレビは禁止」と言われていたが、異変を感じた正之は夜中にこっそりテレビを見てしまった。
すると、画面には手錠をされた父親の姿が映り、逃げている母親には殺人の容疑がかかっていることを知る。
当時のことを正之は、「体の奥から叫びたい気持ちがこみ上げてきた」と振り返るが、妹や弟たちのために自分がしっかりしないと、と自身に言い聞かせたという。
その一方で、母親を恨む気持ちは欠片もなかったと話す。
しかし父方の祖母は、周囲の目も気になったのか、正之と上の妹は和子の実家へと引っ越すこととなった。
人を殺して自分たちを捨てた母親を、長男は慕い続けたという。
取材をしたノンフィクション作家が、「福田和子ってどういうお母さんですか?」と聞いたときに、長男は「尊敬できるお母さん」と応えたという。
突然、思春期の子供を放って、殺人を犯して逃げたというのに、恨んでもいいはずなのに。
和子の逃亡から数か月が経った頃、正之の元に和子から電話が掛かってきた。その後、正之と和子は月に1度電話で話すようになったという。
事件から4年経ち、正之は18歳になっていた。
その頃、正之は実の父親の家で暮らしながら定時制の高校に通っていたが、電話で和子から「近いうちに会いに行く」と告げられ、和子と再会する。
和子から「こっちに来ない?」と誘われ、母親が人を殺していることは考えないようにしながら、和子について行った。
日本海に面する穏やかな町で、和子は正之に「小野寺華世と名乗っている、正之は親戚の子」ということにして欲しいと語った。
和子はこの町のスナックで妻子ある店舗経営者と知り合っていた。ほどなくしてその男性は妻と離婚。和子は、内縁の妻として男性の家で暮らしていた。
和子が来てから店は繁盛していたようで、正之は事件のことは忘れたわけではないが、幸せだったという。
男性も和子の正体について気づいていたのかもしれないが、何も言わなかった。だが、幸せな日々は終わりに近づいていた。
1988年2月12日、警察が和子を探していることを察知すると、和子は自転車を必死に走らせて、逃げた。
1991年、正之は23歳になった。再び祖母の家へと戻った正之は、アルバイトをしながら暮らし、また電話で和子と話すようになっていた。
正之は自身の結婚相手も、和子に報告し紹介した。
1992年、和子の逃亡から10年が経ち、時効まで5年と迫る中、未解決事件を取り扱う番組などでも取り上げられ、さらに事件が注目されるようになった。
時効まで1年と迫った1996年には、警察が「日本初の懸賞金」という前代未聞の手を打つ。
さらに、警察は親族や知人に掛けてきた電話を録音した和子の声を公開。
翌1997年は時効の年。報道はさらに過熱した。潜伏先の福井で、和子が行きつけだった飲食店の店主がテレビで和子の声を聞き、通報。
時効まで21日と迫った1997年7月29日、和子は逮捕された。
その時、正之は29歳になっていた。逮捕から2年後の199年5月、松山地裁で判決公判が開かれた。
和子に下された判決は「無期懲役」。
争点となった計画性の有無については「計画性はない」と判断されたが、求刑通り、無期懲役に処された。
「身勝手で冷酷な同情の余地のない犯行で、享楽的で快楽的な逃亡生活は非難されることこそあれ、有利な事情とはなりえない。取り調べでの虚偽の供述、遺族へも積極的に謝ろうとはしない」。
以上が、無期懲役の主な理由だった。
2003年に刑は確定したが、2005年、和子は刑務所内で倒れて緊急入院した。
病名は、脳梗塞。病院に着いた正之は、和子の手を握り「ママは強いけん。大丈夫や」と語りかける。
正之はこの時37歳になっていたが、和子と触れ合うのは、結婚相手を紹介して別れて以来で14年もの月日が経っていた。
正之が「ママ、ありがとうね」と告げると、和子は静かに息を引き取ったという。
再現ドラマ化された福田和子の生涯からうける印象だが、和子の虚実ないまぜの人生の中に、一つだけ確かなことがある。
それは、子どもを思う母親の情である。長い逃亡生活の中であっても、母親の気持ちは、子供たちに伝わっていたようだ。
その一番の証拠が、「稀代の妖女」とよばれた母親をもつ長男が、立派な大人として育ったことである。

日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というものだった。太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入する作戦だった。
この「有人誘導爆弾」を思いついたのは、ひとりの海軍少尉だった 息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知るが、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
父親の真実と背負い続けたものとは何だったのか、それが知りたかった。
大田正一が桜花を発案した1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
軍や政府は命と引き換えに大きな戦火をあげる新兵器の登場が戦意を高揚させる切り札になると考えてきた。
そこで大田正一の新兵器に飛びついたのだった。
息子の調査では、父・大田正一は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎなかったのだ。しかも「自分が率先して乗っていく」という提案だった。
大田正一は、たかだか海軍少尉であり、上層部は簡単にその提案を一蹴できたはずである。
だが、軍上層部の口から敵の艦船に体当たりするなど言い出しにくいが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できる。
結局、多くの戦死者を出して終わった特攻作戦だったが、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。
そして、大田正一は終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。
その時の様子を目撃した隊員は、「戦闘機が古いミシンが縫うように、するすると空に舞い上がったと思ったら、いつのまにか見えなくなった。ところが後に、漁船に助けられたという連絡がはいった」と語った。そして同僚たちの中に、大田の目撃情報が寄せられるようになった。
実際、大田正一は生きていた。「横山」という偽名を使い、1951年頃から大阪でひっそりと暮らし大屋義子さんと出会い素性を隠して家庭を築いた。
義子さんは、初めて大田正一を見たとき、かっこよく頼りがいがあると思ったという。
しかし、まもなく騙されたと思うようになった。すぐに仕事をやめてしまうからである。
しかし真相は、戸籍を抹消した大田は働こうにも、必要な書類が出せなかったのである。
婚姻届は出せず、仕事はいつも不安定で20以上の職を転々とし、家計は義子さんが支えた。
義子さんは夫になぜ「偽名」なのか、「戸籍」がないのか、その理由を聞いたことがあった。
しかし、肝心なことは教えてくれず、義子さんも、子供たちのこともあり、それ以上深入りすることをためらった。
大田は、近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はおらず、一人椅子に座りずっと空を眺めていることが多かったという。大田正一は1994年12月7日に亡くなった 日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というもので、この「有人誘導爆弾」を思いついたのは、ひとりの海軍少尉だった。
大田正一が桜花を発案した1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
軍や政府は命と引き換えに大きな戦火をあげる新兵器の登場が戦意を高揚させる切り札になると考えてきた。
そこで大田正一の新兵器に飛びついたのだった。
結局、多くの戦死者を出して終わった特攻作戦だったが、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。
自殺のうわさがあったが、大田正一は「横山」という偽名を使い、1951年頃から大阪でひっそりと暮らし、素性を隠して家庭を築いて子供も生まれた。
その息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知るが、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
息子の調査では、父・大田正一は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎなかったのだ。しかも「自分が率先して乗っていく」という提案だった。
大田正一は、たかだか海軍少尉であり、上層部は簡単にその提案を一蹴できたはずである。
だが、軍上層部の口から敵の艦船に体当たりするなど言い出しにくいが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できるからで、それは上司の思惑通りであったのである。