クジラとコーヒー

アメリカの捕鯨にかける男たちを描いた小説に「白鯨」がある。「白鯨」は映画化され、自分が幼少の頃みたその映像はいまだに忘れがたい。
原作者のメルヴィルの原体験となったのは、21歳(1844年)のときに捕鯨船の水夫や海軍の水兵として3年におよぶ航海であった。
荒くれ男たちと人跡未踏の海と島とを波瀾万丈に巡航するこの3年間に、人間の情熱・技術そして暴力・欲望やなどをつぶさに見てきた嵐のような体験となった。
「白鯨」ではモービィ・ディックといういわば怒れる神のごときクジラと、それに対峙するクジラに取り憑かれたエイハブ(グレゴリーペック)船長のいわば狂気が印象的であった。
メルヴィルは船員たちをユダヤ・キリスト教史に登場するあらゆる人物としてそれぞれ彫塑しており、32歳で物語を書き始めたメルヴィルの驚くべき文知によって、書き上げられたものだった。
映画のラストで、エイハブ船長が自らの体を十字架にはりつけられたようにモービーデイックの巨体に結び付け、海の中に沈んでいくシーンは、今でも心に焼きついている。
さて、「白鯨」が公開されたのは1851年、日米和親条約が結ばれる3年前のことであった。
ペリーが黒船を率いて日本にやってきたのは、三浦半島の突端・浦賀沖である。
産業革命によって潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。
この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。
日本近海では伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国"東海岸"を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが通常であった。
当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の「薪・水」が必要であり、長期航海用の食料や漂流民保護を含め、太平洋での補給拠点が求められていた。
アメリカは、1846年~48年のメキシコとの戦争でカリフォルニアを獲得し、アメリカは太平洋国家となり、巨大市場である清との貿易開拓が国家的な目標となった。
そんな状況の中、1851年5月大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、ペリーに遣日特使としてその任務を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。
1854年、幕府は勅許なくしてアメリカと「日米和親条約」を結ぶ。この条約の内容をみれば、その背後に「クジラの存在」があるのがわかる。

江戸幕府初期、徳川家康に仕えたイギリス人航海士ウイリアム・アダムスは三浦半島に大きな痕跡を残し、この半島名にちなんで「三浦按針」という日本名をつけられた。
というわけで三浦半島は、航海士たち集う古い歴史が残る料亭が少なからず残っている。
ぺリーが来航した浦賀は現在、横須賀市に属するが、横須賀は言わずと知れた軍港だが、ごく最近まで「小松」とよばれた海軍料亭が存在していた。
「小松」は1885年の開業当初、白砂青松の海岸で海水浴を楽しんだ後に、入浴と食事を楽しむ「割烹旅館」にすぎなかった。
しかし、日本が海軍力の増強に努め、日清・日露戦争に勝利し、横須賀鎮守府の機能が拡大していく過程で、海軍軍人相手の「海軍料亭」となっていった。
1945年、終戦直後、「小松」はいったん閉店され、横須賀に進駐した連合軍の指定料理店となり、横須賀に進駐した主に米兵相手の飲食業を営むことなった。
日本の独立後の1952年、「小松」は横須賀海軍施設の米海軍軍人、そして海上自衛隊、旧海軍関係者らに広く利用されるようになった。
この料亭の創業者は東京・小石川関口水道町に生まれた山本悦という女性である。
山本悦は友人に誘われ浦賀へ向かい、そこで「吉川屋」という旅籠料理店に住み込みで働くようになった。
天然の良港である浦賀は江戸時代から港町として栄えており、創建間もない日本海軍の根拠地の一つとなっていた。
海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれ、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。
そんななか1875年、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4人の皇族が、浦賀沖で行なわれた「水雷発射試験」の視察のために浦賀を訪れた。
その際、海軍関係者からこれから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業してはどうかと勧められたため、山本悦は独立を決意し、1885年20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館「小松」を開業した。
そして、山本が経営する料亭に「小松」の名を与えたのは、なんと皇族の小松宮彰仁親王であった。
というわけで「小松」が、海軍関係者によって繁盛するようになるのは自然の成り行きであった。
そして「小松」の増築時に鳶(トビ)の親方として活躍したのが、後に衆議院議員、逓信大臣となる「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎であった。
この人物の孫こそ総理大臣となる小泉純一郎、租孫は小泉進次郎である。
純一郎は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶は受けましたか」と尋ねられ、「いや花札しか教わらなかった」と答えている。
そして、日露戦争中の1905年、「小松」は開業20周年を迎えるが、日露戦争に勝利すると、次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ大繁盛した。
そして1906年には百畳敷の大広間が完成し、「小松」は文字通り全盛期を迎えたのである。
その後、田戸海岸の埋め立てや、第一次世界大戦後の恐慌の影響から1918年に一時期休業に追い込まれる。
しかし、多くの海軍軍人の「小松」の閉店を惜しむ声に押され、山本悦は当時景色が良かった現在地「米が浜」に土地を購入し、1923年春頃から料亭「小松」の再建工事を開始した。
建築中に関東大震災が発生するが、なんとか営業を再開したのである。
そして山本悦の後を継いだのが養女とした姪の直枝である。
直枝は期待に応え、平成に至るまで長きに渡って料亭「小松」を支えることになる。
戦況の悪化した1943年4月、「小松」の創始者である山本悦は94歳の天寿を全うした。
戦後、日米安全保障条約が結ばれ、「小松」は営業を再開し、アメリカ海軍士官らに受け入れられていった。
しかし、そこで問題となったのが「小松」の従業員に対する英語教育であった。
結局「小松」の従業員に対する英語教育は、終戦後横須賀市内の長井に隠棲していた井上成美に依頼することとなった。
井上は海軍がひとかたならぬ世話になった料亭「小松」からの依頼を快諾し、「小松」の従業員に対して手作りの教材を用い、料亭で役立つ実用的な英会話を教えている。
横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となる。
その横須賀にあって「小松」は、大正、昭和初期の近代和風建築を今に伝えるとともに、東郷平八郎、山本五十六、米内光政らの書など、多くの日本海軍関係の資料を保有し、料亭「小松」は近代日本海軍の歴史を伝える貴重な存在であった。
実は、司馬遼太郎や阿川弘之といった作家たちが日本海軍の提督たちを描くときは、この料亭「小松」から取材したもの多いという。
「小松」は、旧日本軍の海軍料亭であるばかりか、日本近代史の舞台の一つである。
しかし、2016年5月16日火災により全焼し、この国のひとつの「遺産」が失われた。

三浦半島の西岸の葉山の料亭「日蔭茶屋」は、「小松」同様に歴史に彩られた料亭で、その創業は江戸時代まで遡る。
「日蔭茶屋」の名を聞いて、無政府主義者・大杉栄の三角関係にからむ傷害事件を思い浮かべる人は、大正時代を生きた人であろう。
「日蔭茶屋」という言葉を聞いて、サザンオールスターズの「鎌倉物語」(1985年)の歌詞に登場する場所として思い浮かべる人は、主に昭和を生きた人。
そして、「日蔭茶屋」から、スターバックスを思い浮かべる人は、平成生まれのコーヒー好きの人かもしれない。
三浦半島西部に位置する神奈川県葉山町は、人口3万人程の小さな町。
皇室の「葉山御用邸」で知られるこの町は、夏は海水浴客で賑わい、海岸道路は常に渋滞する。
国内指折りのセーリング・スポットで、石原裕次郎・北原三枝の主演の映画「狂った果実」(1956年)の舞台としてもよく知られている。
数年前、海岸近くの森戸神社に「石原裕次郎記念碑」があると聞いて行ってみた。
そしてこの「記念碑」から海岸を見渡した時、「狂った果実」のモノクロームの映像がカラーで眼前に拡がるのを見て、少々感動を覚えた。
磯辺より沖合に浮かぶ小さな島があり、そこに映画のハイライト場面となった「灯台」が建っていた。
自分より二まわりほど上の世代「太陽族」にとって懐かしさを覚える灯台ではなかろうか。
三浦半島の浦賀沖に、ペリーの黒船が来航したが、平成の時代に「黒船来襲」と喧伝されてやってきたのがスターバックスである。
スターバックスの本拠地はシアトル・マリナーズのあるシアトル。
シアトルは、もともと捕鯨で栄えた町で、現在もホェール・ウオッチングが観光スポットとなっている。
スターバックスの日本進出が「黒船来襲」といわれた所以は、現在で世界65カ国に2万1000店舗以上を展開する巨大コーヒーチェーンであるからだ。
ところが、この黒船がいまだ「小船」程度のころ、その価値を見出した兄弟がいた。
その兄弟こそは、あの映画「狂った果実」の若者達に描かれたように、10代の頃には石原裕次郎や石原慎太郎と遊んでいた地元のお金持ちの子供であった。
石原慎太郎は24歳で「太陽の季節」が芥川賞を受賞したが、戦後間もない1950年代に突然現れた豊かで自由な若者風俗は、世間を驚かせる。
しかし、「太陽の季節」に登場する若者達は、単なる遊び人ではなかった。
そんな若者群像の一人が湘南の老舗スーパーマーケットを営む家に生まれた鈴木陸三である。
若い時に俳優の石原裕次郎とヨットレースなどに興じる仲であった。
鈴木が高校生1年生の16歳の頃、石原裕次郎氏が25歳、石原慎太郎氏が27歳ということになる。
鈴木家は、創業100年のスーパー「スズキヤ」を営む地元の名士で、陸三はその鈴木家の三男である。
その兄(次男)の雄二は、前述の日蔭茶屋に養子に入った角田雄二である。
鈴木陸三は1972年に、株式会社サザビー(現在はサザビーリーグと改称)設立した。
設立当初は、古家具の輸入販売を目的としていたが、「ひとつ先のライフスタイル」をコンセプトに、サザビブランドで、バッグ・アクセサリー・生活雑貨・衣料品などの企画・販売、飲食店の運営などをグループで行っている。
兄の角田雄二も、学生時代は湘南ボーイとして地元では知られた存在だったが、前述の「日蔭茶屋」のオーナーの娘と結婚し、婿養子に入った。
社長の座につくと、料亭の経営を多角的なものにした。
さらに日影茶屋の経営から手を広げ、1981年からロサンゼルスでフランス料理店「チャヤ・ブラッセリー」を開業し、今はロサンゼルスの他に、サンフランシスコ、ベニスビーチ、ビバリーヒルズにも出店している。
アメリカ西海岸のベニスビーチでレストランを経営していた頃、1ブロック先にオープンしたコーヒーショップに興味を持ち、立ち寄ってみたのである。
「なんか、いいにおいがする」と、角田の商売人としての嗅覚を刺激したのは、コーヒーのいい香りだけではなかった。
その洗練された店舗デザインや、バリスタたちのフレンドリーな接客である。
角田が、このコーヒーショップ「スターバックス」と、自分たちサザビーが組めば、最高のチームになると直感した。
そして、すぐに弟の鈴木隆三に連絡を取り、ロスに呼び寄せた。
そして、米スターバックス会長のハワード・シュルツ氏に「日本で経営したい」と手紙で訴え、1996年、日本1号店をオープンさせたのである。
角田雄二CEOの下、1996年8月2日東京・銀座の松屋通りに「スターバックス」の日本1号店がオープンした。
翻って、スターバックスの日本上陸物語が始まったのは、1992年のこと。
当時、米シアトルのローカルなコーヒー会社だったスターバックスは、シカゴやポートランドなど北米の他の都市に店舗を出し始めたところであった。
ようやく100店舗を超えた頃、カリフォルニア州の最初の進出先としてロサンゼルスを選び、代表的な観光スポットであるベニスビーチに同州1号店をオープンした。
その1号店と出会い、その価値を見出したのが、鈴木(角田)兄弟というわけである。
スターバックスという、それまで日本になかった新しいコンセプトのお店を日本に根づかせために骨身を削ったかというと、むしろ鈴木兄弟の運命とか巡り合わせといったものを強く感じさせる。
鈴木陸三は、大学卒業後、三男という気軽さもあって就職をせずに欧州に26歳から29歳まで行って自分が好きな事ができるまで仕事しないと決めて、いろいろ見て回った。
その中で多くの人脈を築き、結果的に富裕層でなく普通の生活者に対してモノ、コトを広めるというビジネスモデルに行き着いた。
そして(株)「ザザビーリーグ」を立ち上げた。
「ザザビーリーグ」は”半歩先のぜいたく”をコンセプトに衣食住のカテゴリーを超えて、前向きの若者に刺激を与えるのが目的だという。
それは商品であったり、お店であったりしてもよい。
実際、サザビーリーグは、仏ファッションブランド「アニエス べー」や米「スターバックスコーヒー」に始まり、米西海岸の「ロンハーマン」、スペインの靴ブランド「カンペール」、デンマークの雑貨店「フライングタイガーコペンハーゲン」など、30以上の人気ブランドを日本で展開する。
サザビーリーグがここまでの広がりを見せたのも、スタバの成功が大きかった。
「サザビーリーグは日本のマーケットをよく”かみ砕いて”やってくれる」といった評判が広がり、他からも声がかかるようになったためである。
日本に進出するなら、サザビーリーグに相談しようとなっていったのだという。
ところで、「スターバックス」の名前は、クジラと縁がある。
アメリカの作家メルヴィルが書いた作品「白鯨」のコーヒー好きの一人の航海士が登場する。
その航海士の名前がスターバックスで、かつて捕鯨で栄えた町シアトルに本店を構える「スターバックス」の名前は、その航海士の名前である。
かつてクジラをおって浦賀にやってきた江戸末期のペリー、クジラで栄えたシアトルに本拠をおくスターバックス。
三浦半島には「流れ鯨」と呼ばれた漂着鯨が発生する場所であり、それらのクジラを「えびす」と呼んで神格視して祀ってきた風土がある。
そんなクジラの街をコーヒを通じて橋渡ししたのが、「太陽の季節」に描かれたあの若者達であったとは!

創業は1972年。ヨーロッパのユーズド家具の輸入販売から始まった。主力業態の「アフタヌーンティー」など自社ブランドに加え、海外ブランドを数多く扱い、年商は900億円を超す。日本の小売業の中で異彩を放つサザビーリーグ。創業者の鈴木陸三会長を直撃した。 ト