聖書(アリマタヤのヨセフ)

イエスの十字架の死後、「アリマタヤのヨセフ」という人物がローマ総督ピラトに、イエスの体を下ろさせてほしいと頼んだと記してある(ヨハネ19)。
イスラエルでは律法では、「十字架の刑」について次のように定められていた。
「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。
その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」(申命記21)。
そこで、十字架刑の遺体は、城壁の外にあるヒノムの谷に投げ捨てられたという。
イエスをローマに売り、首を吊って死んだイスカリオテ・ユダの遺体について、「谷に捨てられはらわたが出た」(マタイ24)と書いてあるは、ヒノムの谷に投げ捨てられた後の状況だと推測される。
ところで、罪人として谷に投げ捨てられるべきイエスの遺体の引き取り手が現れたのだから、関係者の中には驚きもあっただろうが、そればかりかアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体に香料をにぬり亜麻布に包み、岩で掘って造った自分の新しい墓に葬ったのである(ヨハネ19)。
これは当時のユダヤの社会情勢からして、並大抵のことではない。
そして占領軍たるローマ総督ピラトは、それを認めたのである。
では、このアリマタヤのヨセフとは、一体どのような人物なのか。
アリマタヤとは、彼の出身地であるユダヤの町のことで、それ以上の意味はない。
実は、イエスの埋葬を行った勇気あるもう一人の人物が、イエスの生まれ変わるとはどういうことかを訊ねた「夜の訪問者」ニコデモでイエスの遺体に塗る、乳香・没薬を用意したのである。
実は、二人は共にユダヤ議会(サンヘドリン議会)のメンバーで、自らがイエスの信奉者であることを公表することは、自らの身を危険にさらしかねないという覚悟があったはずだ。
​イエスには次のような言葉がある。「人の前でわたしとの結びつきを告白する者はみな、わたしも天におられるわたしの父の前でその者との結びつきを告白します。しかし、誰でも人の前でわたしのことを否認する者は、わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」(マタイ10)。
ヨセフはイエスのことを否認したわけではないが、イエスとの結びつきを勇気はなかったのに違いない。
それは、「彼は勇気を出してピラトの前に行き、イエスの体を頂きたいと願いでた」(マルコ15​章)という言葉でもわかる。
この点につき推測をすれば、イエスの十字架刑に対して、議会の一員でありながら何ひとつできなかったことに対して、不甲斐なさを覚えたのかもしれない。
その一方で、イエスを裁いた総督ピラトがヨセフの申し出に応じたのは、ピラトが自ら「この人にはいかなる罪も見いだせない」といっていたことをみれば、自然な態度だといえるだろう。

福岡市西区の今宿海岸にはかつて「無政府主義者」大杉栄の「戒名のない墓石」があった。
大杉栄は香川県で生まれたが、大杉の妻・伊藤野枝がこの今宿出身であった。
今宿バスセンターのすぐ裏が伊藤の実家で、瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」の冒頭で、見張り小屋の警察官が、大杉の妻・伊藤野枝に絶えず監視の目を光らせていたことがわかる。
1923年、大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。
この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦からとって「甘粕事件」という。
甘粕事件後、大杉栄・伊藤野枝夫妻の死後には4人の幼子が残され、今宿海岸にあった伊藤野枝の実家に引きとられた。
ところで、今宿海岸を西端とする糸島半島の前原市に、福岡県立糸島高等学校がある。
この高校の校長室には、学校の校訓を示す額縁入りの「自主積極」の揮毫が掲げてあるのだが、この文字を書いたのは戦後初の文部大臣・森戸辰男である。
森戸は戦後初の文部大臣に就任するが、1950年強く嘆願されて初代広島大学学長に就任し、広島大学(当時高等師範学校)の卒業生である糸島高校の瓜生校長に、校長就任を祝って「揮毫」を送られたということである。
森戸は戦前、ロシアのクロポトキンの「無政府主義」紹介し、その思想をを鼓吹するものとして批判され、東京大学を休職処分となっている。
世に言う「森戸事件」だが、森戸は大杉栄とも交流があり、森戸が前述の「揮毫」を送ったのは、自分の教え子の糸島高校校長に向けたばかりではなく、関東大震災のドサクサで殺害された大杉夫妻や糸島高校に学んだ「遺児たち」にも向けられたにちがいない。
ともあれ「戒名のない墓」は、国家権力に抗したものが、その墓でさえも居場所を失うことを物語っている。
さて、福岡出身の政治家・中野正剛と緒方竹虎の二人は小学校から高校まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に移り、さらに同じ朝日新聞に入社する。
二人は規を一にして歩むものの、政治の世界にはいってからは、それぞれが異なる政治意識をもち袂を分かった。時に会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
中野正剛は、1932年4月政治結社「東方会」から立候補し当選している。
当時の選挙は翼賛会選挙だし、翼賛会推薦でないものは国賊のようにて、警察の圧迫を受けた状況であったにもかかわらず、非推薦しかも最高点で当選している。
東方会は46名の候補者をたてて7名当選した。非推薦で当選したのは鳩山一郎、三木武吉などで、中野は東方会を率いて、東条独裁内閣を批判した。
中野の「時局演説」はどこでも超満員であった。経済政策も統制統制で、民意の調達ではなく、上から押さえてばかりではいけない。国民がこの時局に奮起して協力する体制にもっていかなければいけないと主張した。
そして1943年元旦の朝日新聞の「戦時宰相論」の中で「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に、謹慎に、廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ」と結んだ論説が、東条首相の逆鱗(げきりん)にふれて、発売禁止になった。
さらに東条内閣はこの年に戦時刑事特別法を成立させて、言論・出版の禁止と、追い打ちをかけた。
そこで中野は、重臣たちが東条の政策を槍玉にあげて、辞職を迫る以外には方法がないと重臣工作を始めた。
そんな中、中野正剛は、警視庁と憲兵隊に拘留され、厳しい取り調べを受けた後に、自宅で自決している。
実は、それ以前に中野は家庭的な不幸が続いていた。長男を山の遭難で失い、次男が亡くなり、夫人も亡くなっていたのだ。
そればかりか、病気で片足を手術して切断するなどがあって、その中で東条内閣批判をするなど、並大抵の精神力ではできない。
中野はつねづね「人間は、精神の高揚した時に死ぬのが1番の幸せだ」と言っており、その点西郷隆盛の最期のように何か自分の生命を絶つことが、世の中への警鐘乱打になると考えられたふしがある。
この時の時勢からいって、中野の葬儀委員長を勤めるのは、小学校時代からの親友・緒方竹虎であった。
東条の代理人から「花輪をあげたいが、受け取ってもらえるか」と電話があったが、緒方さんが「あらかじめ受けるか受けぬか聞くのはおかしいじゃないか」といわれて、立消えとなったという。
中野と緒方の 二人の性格は対照的で「修猷山脈」(西日本新聞社刊)の中に次のように書いてある。「天才的な中野の感性は一時も休まることなく、常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむき、そして果てる。その一生は自刃という悲劇的な最後を完結するための傷だらけのドラマだった。人の意を受け入れ、時を知り立場をはかった緒方の一生は、中野とは逆に平穏であった。肉親、知己の愛に恵まれ、後世に名を残し、眠るように大往生をとげた」。
福岡市早良区の鳥飼八幡の近くには、太平洋戦争期に東方会を結成して東条英機内閣と対決し謎の自刃をとげた中野正剛の銅像がある。
この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、緒方竹虎の書によるものである。
緒方と中野は、政治に対する考え方は異なったが、二人の友情が失われていなかったことを物語っている。

東京・杉並区の地下鉄新高円寺駅に高い場所に日蓮宗「蓮光寺」がある。
何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にある「胸像」と出会って驚くにちがいない。
その「胸像」の主(あるじ)こそ、「インド独立の英雄」チャンドラ・ボースに他ならないからだ。
インドは19世紀より英国の植民地となっており、国民は圧政と搾取に苦しんでいたが、「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち「武力闘争」を掲げた人々がいた。
その代表者が、チャンドラ・ボースで、若くして独立運動に身を投じ国民会議派に属したものの、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム/非暴力」に固執するガンジー、ネールら「主流派」との対立を次第に深め、やがて会議派を追われた。
そんな折、チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍と協力して「独立運動」を支援しようとした一群の日本人がいた。
ちょうど、孫文の中華革命を支援した志士達とおなじように、彼らもまた西欧の列強の圧迫からアジアひいては日本の独立を守ろうとしたのだった。
ボースはそれに応え、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという「離れ技」を演じるなどして、念願の来日を果たした。
そして、チャンドラ・ボースは集まった日本人に語った。「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。日本こそは、19世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」。
チャンドラ・ボースの来日は、日本でインド独立を志す人々に新しい生命を与えた。
チャンドラ・ボースはインド国民軍の最高司令官となり、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立して独立を宣言した。
さらに1944年3月より日本軍と「インパール作戦」を行い、デリーの英軍攻略をめざした。
翌年インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、チャンドラ・ボースらが目指した独立とは違っていた。
そこで、チャンドラ・ボースはソビエト軍に投降して「祖国独立」の新たな活路を模索しようと大連へと向かおうとする。
ところが、チャンドラボースを「悲劇」が襲う。台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故によって、帰らぬ人となったのだ。
チャンドラ・ボース48歳の死は、独立革命の志半ばの突然の死であった。
日本の敗戦で台湾も極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の「西本願寺」に運ばれた。
その時、参謀本部から、事故から生還した者達には「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、東京の市ヶ谷の参謀本部に到着した。
そして参謀本部にて、遺骨と遺品とが提出され、インド独立連盟日本支部長で「自由インド仮政府」駐日公使らに渡された。
実は、ボースの遺体を引き取った駐日公使らは「進駐軍(連合軍)」への敵対行動ととられないよう、「控えめ」な葬儀を計画した。
しかし、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区蓮光寺で、当時の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
葬儀のあと、駐日公使がが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。住職はあくまで「一時的」なものと思い、それをすんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
かくして、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺の地に安置されてきたのである。
しかし、1947年インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、チャンドラ・ボースらが目指した「独立」とは違った。
そして、チャンドラ・ボースはソ連軍に投降して祖国独立の新たな活路を模索しようと大連へと向かうが、「悲劇」が襲う。
その途中、台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故がもとで、帰らぬ人となる。
チャンドラ・ボース48歳の死は、独立革命の志半ばの、あまりに突然の死であった。
だが、インドではガンジーら現与党・国民会議派と対立し、ボースの立場は微妙だっただけに、いまだに事故死の「信憑性」を疑う人も多い。
日本の敗戦で台湾も極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の「西本願寺」に運ばれた。
その、時参謀本部から、事故から生還した者達には「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、日本本土に飛ぶ最後の軍用機に乗り込み、福岡・雁の巣飛行場に向かった。
そして福岡で列車に乗り換え、食事もせず、一睡もしないまま、東京の市ヶ谷の参謀本部に到着した。
そして参謀本部にて、遺骨と遺品とが提出され、それらは翌朝、インド独立連盟日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティとサイゴンから飛んできたS・A・アイヤーとに渡された。
ラマムルティらは進駐軍への敵対行動ととられないよう、「控えめ」な葬儀を計画する。
ところが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区日蓮宗・蓮光寺である。この寺は、現在も地下鉄・新高円寺の近くにあるが、何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にどうしてチャンドラ・ボースの「胸像」があるのかと驚くに違いない。
当時の蓮光寺の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
9月18日の夜、「密葬」がいとなまれ、葬儀のあと、ラマムルティが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。
住職はあくまで「一時的」なものと思い、それもすんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
というわけで、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺に安置されてきたのである。
ただ、この半世紀、寺の住職や旧日本軍関係者によって、ボースの遺骨を祖国インドに返還しようという運動が熱心に展開されてきたが、いまなお実現されていない。
インド人であればこそ、チャンドラ・ボースの遺骨をガンジス川に流すことこそが願いであろうが、ガンジーの「誉れ」とは裏腹に、ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることがいまだ許されないのだろうか。
ひとつ考えられる理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であり、積極的にはなり得なかったこと。
また、親族も含めて、インド国内にボースの死を認めたがらない人たちがいることであるという。