伝説のサラリーマン

1990年代ごろまで、福岡では3つの百貨店が競いあっていた。岩田屋、大丸、玉屋である。
大丸は今なお健在だが、岩田屋は三越の子会社化され、玉屋は解体、その跡には、最先端の「ゲイツビル」が立っている。
三つ巴の百貨店競争の時代、伝説となったサラリーマン達がいる。
1981年、博多大丸は地元ナンバー・ワンの岩田屋に水をあけられ、商品戦略の見直しを迫られていた。
そして、新しく生まれた商品戦略とは、百貨店業界の常識破りのものだった。
農協を中心とした農作物の流通は全ての仕組みが農協の利益のために働いており、どんな品質のいい農作物を生産しても、農協に与しない生産者は徹底的に排除された。
実は農協は生産物の味ではなく、形と大きさだけを問題にする。どんなにおいしい野菜や果物を生産しても、形が悪ったり規格外の大きさだと、農協はひきとりを拒否するのである。
生鮮食品担当の古山は、博多大丸に赴任して以来、九州各地の篤農家を訪ね歩いていた。
篤農家とは、農協の言いなりに農薬をばらまき、週末と夏休みだけ農業する兼業農家ではなく、熱心に農業を研究している、いわばプロの農家をさす。
そして古山に浮羽郡(現久留米市)田主丸で成功していたある農園の話が脳裏に浮かんだ。
地元農協には加盟せず、青果市場に直接農作物を持ちこんでいたことから、手ひどい嫌がらせにあっていた。
ところが この農家には、「いずれは誰かが分かってくれる」という信念があった。
一箱150円でトマトを出荷し続けたのである。すると消費者が、あのおいしいトマトを売ってくれと青果店に催促し始めたのである。
古山はその農家から百貨店に直接農作物を持ち込むことはできないかと考えたが、そういう物流の仕組みはなく、百貨店の担当者が生産者の家を直接まわって集荷するほかはなかった。
しかも、扱っている品物はせいぜい10品目にすぎず、「産直」を発信するには売り場面積はあまりにも小さかった。 なかでも古山は、酸もなくアクもなく渋みもないそのままサラダにして食べられるホウレンソウを見つけていた。
当時、野菜を広告にだす百貨店など聞いたことがなかった。
ところが、古山の熱い気持ちは、上司の心を動かし、新聞の全面広告がOKとなり、その内容は「ほうれん草を生で食べてみませんか」だった。
この新聞広告は、当時の流通業者や生産現場に衝撃となった。
生でホウレンソウが食べられることの驚きよりも、それを百貨店の博多大丸が”全面広告”を出してまでやったという衝撃だった。
そして、これこそが本格的な「産直運動」の広がりをもたらしたのである。
さて、かつて東中洲に大きな存在感を示していた玉屋にも、伝説のサラリーマンが生まれた。
1970年代、ロッテの韓国進出は、当時、経済建設に必死だった朴正煕大統領のたっての要請によるものだった。
そしてロッテ・ホテルは韓国で最初の高級大型ホテルとして建設されたが、ロッテ百貨店の創業に携わり、韓国の流通界に革命をもたらしたのが玉屋出身の秋山英一であった。
秋山英一は、佐賀市多布施に生まれ、父親の転勤で福岡へ。修猷館高校卒業後、早稲田大学へ進学。
1951年、大学を卒業後、三越百貨店に入社し、38歳で大阪三越の部長にまで昇進するが、1966年、知人である百貨店福岡玉屋会長の田中丸善八に誘われ、福岡玉屋に入社した。
その後、小倉玉屋に移籍し、隣に出店したダイエーとの共存共栄戦略や、藤田田と組んだダイヤモンド販売などのアイデア商法で、小倉玉屋の売り上げを大幅に増大させている。
1972年に、小倉玉屋常務営業本部長に就任。ちょうどその頃、ロッテが韓国で本格的な大型百貨店を始めるため、その計画立案から指揮を執る統括責任者を探していた。
そこで百貨店販売において抜群の実績があり、比較的年齢も若い秋山に白羽の矢が立ち、ロッテから幾度もスカウトが会いに来た。
当初乗り気ではなかった秋山は、依頼を断るつもりで直接ロッテ創業者の重光武雄に会った。
しかし、重光の強い情熱に打たれ、勧められてソウルの街を視察し、街に溢れる活気に驚いた。
その一方で、流行の先端を行くファッションリーダーが不在であること、日本とは異なる商習慣などを見て、韓国における本格的な百貨店経営に挑戦したいと考えるようになり、ついにロッテに入社することを決意する。
1977年、韓国ロッテホテル常務・百貨店事業本部長として迎えられる。
”ソウルの中心から韓国国民の生活を明るく豊かにするお手伝いをする”という目標のもと、秋山の挑戦は始まった。当時の韓国では、客が声をかけたらようやく振り返るというのが店員の当たり前の態度であった。
韓国では、家族や親戚への礼は尽くさなければならないが、他人に必要以上に親しげに振る舞わないという文化があったからである。
そこで秋山は、韓国の既存の百貨店の接客態度を変えなければならないと思い、日本式の御辞儀、挨拶を導入することにした。
1979年12月、いよいよロッテ百貨店はオープンし、この開店初日の来店者数は約十万人にまで達した。
この成功によって秋山は、釜山店等の韓国各地のロッテ百貨店の開業を指導・担当していく。
秋山は会議でバレンタイン・デイを提案するが、それが何を意味するのか、誰も知らないような状況で、メディアからも「日本の悪しき消費文化が韓国の若者を毒する」などと批判された。
しかし、すぐに一般化し、1997年にはソウル本店だけで5億ウォンを売り上げるまでになった。
当初の批判にも関わらず、日本式接客はソウルの他の百貨店にも次第に広がり、現在は韓国の百貨店業界で完全に定着している。
ロッテ百貨店で秋山の薫陶を受けた数多くの人々が、後に韓国全土に広がり、現在の韓国百貨店業界を支えており、「韓国百貨店業界の父」として多くの流通担当者から慕われている。

”完全アウェイ”という言葉があるならば、雲田康夫のビジネスほどぴったりあてはまる言葉はない。
アメリカの地で英語はまったく出来ず、アメリカ人が大嫌いだった「豆腐」をアメリカ全土に普及させたのだから。
それは雲田の豆腐にまつわる成功と失敗の物語から始まった。
雲田の成功とは、保存期間の長い豆腐を開発したこと。失敗とは、売れ行き間違いなしと思っていたら、既存の豆腐屋の大反対が起こり、発売が中止になり在庫のヤマとなったこと。
会社でこの在庫の山をどう処理するか、雲田がアメリカで売ったらどうかと提案したら、なんと雲田自身が売り込み役を命じられる。
盛大な送別会でアメリカへと送り出されるが、自分の尻拭いは自分でヤレということだったのかもしれない。
1985年に渡米、現地法人を設立し豆腐の販売を開始した。
雲田は、身振り手ぶりで豆腐をアメリカ人に試食させたら、古びた靴下の匂いがすると露骨に吐き出す始末。
たまに豆腐を買う人がいて聞いてみると、ペットフードにするのだという。
一番苦しかったのは、1988年にUSA Todayの記事で「アメリカ人の嫌いな食べ物」としてトーフが一番になったこと。
当時のトーフの不人気を象徴する出来事がいくつかあり、フードショーに出展して、忙しさのあまり商品を路上に置き忘れたが、盗まれもせずに放置されていた。
ロスアンゼルスの暴動では、略奪者にも見向きされず、手つかずでそのまま残ったことなど。
簡単に豆腐が売れるとは思わなかったが、思ったよりも苦戦は長引いた。
家族を呼び寄せるも、子供達2人は学校になじめない様子で、雲田は次第に追い詰められていった。
そんな中、「救い」は一人のアメリカ人の夫人との出会いからやってきた。
大量に豆腐を買い込む夫人に、雲田はどうやって食べるのかと聞くと、豆腐とフルーツをミキサーしてシェイクにするという。
このシェイクを各地で紹介すると大好評で、ようやく雲田は手応えをえた。
そしてこのシェイクを知ったインド人のシク教徒が、豆腐シェイクという健康食を評価し、大量に買ってくれた。
これならスーパーに豆腐を置いてくれると頼みにいくと、棚に置いてもらうのにも相当な金が必要で、会社にそれを訴えると、自分でなんとかしろと冷たい返事。
渡米の際に、会社側が資金を出すので心配はいらないというのはまったく当てがはずれた。
行き詰ったかに思えた時、雲田にはひとつの考えが閃いた。
今まで買ってくれた豆腐の顧客名簿の人々に、手紙と封に10ドル札一枚をいれて、豆腐を近くのスーパーにおいてくれと頼むように依頼したのだ。
それが功を奏して、豆腐は各地のスーパーに置かれるようになっていく。
そして、クリントン大統領夫妻が豆腐をダイエットに食べているというツイードで、健康食品のトーフは全米にブレイクした。
雲田は英語力なしで、アメリカ人という他者をつき動かし、「豆腐愛好者」に変えてしまった。
売れるまで粘り続けた雲田は、自らを「豆腐馬鹿」といい、人々は雲田を「ミスター トーフ」と呼んだ。
雲田康夫は、コミュニケーション能力の極致が言葉の壁を超えて、「感動を伝えること」であることを教えてくれる。
この雲田が築いた豆腐文化をアメリカにさらに広めたのがハウス食品。当時、ハウス食品の東京本社の営業部にいた、もう一人のサラリーマンがいる。
羽子田礼秀は、雲田康夫と同じく、現地の言葉がまったく出来ずに完全アウェイの中国でカレーの販売を命じられ、孤軍奮闘の中、会社の道を切り開いた。
当時、ハウス食品はアメリカで豆腐の工場をやっていて、「カレーハウス」という直営レストランを経営し、リトルトーキョーから始まって、アメリカ西海岸沿いにいくつかの店舗をかまえていた。
羽子田はハウス食品入社以来18年間営業畑を歩んできた。1996年42歳の時、米を食べる国は絶対、カレーが売れるはずだ。それを試したと中国行を命じられた。
ハウス食品の海外事業は、アメリカの豆腐とカレーハウス中心という時代である。
そこに 中国に事務所を持つ日本の大手商社から、豆腐だけじゃなく、カレーを世界に広げていったらどうかという誘いがあった。
当時の社長は、「いきなり中国でカレーを商売にするのは難しいだろう」ということで、テストのためにカレーの店を上海で開くことを決断した。
雲田康夫と同じように、最初は3年間だけの約束で、アメリカと同じ「カレーハウス」で行こうということになって、単身、上海に旅立った。
日本人羽子田一人しかいなかったし、 中国人がまったくカレーに馴染みがない以上、カレーを作れるコックはいないだろうと、2キロ入りのレトルトソースを鍋で湯煎にかけた。
そして1997年、上海の花園ホテルの前という一等地に中国初の「カレーハウス」がオープンした
メニューは中国人の嗜好を考えて変え、店構えには日本式を取り入れた。
中国の人は揚げ物が大好きだし、ボリュームもないと駄目だから、カレーライスにとんかつを乗せ、コロッケを乗せる。
中国人色彩を考え、カレーの横に赤い福神漬け、黄色いトウモロコシ、緑はブロッコリーを添えるとかした。
コロッケはハンバーガー店で使っている冷凍食品用のフライヤーで揚げて、ご飯の上にパッと揚げ物をのせ、カレーをかけて、野菜のトッピングを添える。これだと味のばらつきがない。
1997年当時、中国の平均賃金が800元ぐらい、日本円にして約1万2千円の時。対月給比で考えれば、日本円でカツカレーが5千円円ぐらいする。
なぜ、こんなに高かったかのかというと、材料は全部、日本から輸入だっである。
社長の言葉どおり、これは中国人がカレーを好きかを調べるテストのための店なので、利益を出す必要がない。
羽子田の仕事は、中国の人たちがどうやってカレーを食べるかを見ること、さらに、どのぐらいの頻度で来るか、子どもは来るか、お客さんは何を残したのか見ることだった。
それが、何も残さなかったし、子どもはペロペロ、お皿をなめていた。
当時の中国には丸いテーブルしかなかった。
それまで中国では一人でご飯を食べる習慣がなかったが、1人で来ても、8人で来ても座れる、これが受けた。
また、現地に溶け込むためにも、さびしさをわすれるためにも柔道教室をやったり、ぬいぐるみにもなったという。
社長命令で「きれいで清潔な店にしてほしい」と言われましたので、床はフローリング、建材をわざわざカナダから運んできて、トイレも日本のメーカーの洋式トイレにした。
要するに、女性たちが行きたくなるようなお洒落な雰囲気の店にしようとした。
ウェイトレスはピンクとグリーンの二種類のエプロンを着せたところ、客さんからは、「あのグリーンとピンクとではどちらが階級が上なのか」と聞かれたりもした。
最初は、上海駐在の日本人客が多かったが、次第に中国人の富裕層が訪れるようになった。
中国ではデートに誘うときに、自分が行って来た店の領収書を見せるようで、羽子田が何度も領収書を書かされることになった。
経営状態は1年目は真っ赤っ赤で、資金が尽きそうでしたが、2年目からは黒字になっていった。
一方で、石を持ってきて食べ物の中に入れられ、「ただにしろ」、と意地悪なことを言われたこともあった。
また、上海の道を歩いていたら、ふと看板に「カレーハウス」という店がある。真似されたのだが認知された証拠だと思い逆に闘志がわいてきたという。
職場に日本人は一人だけだから、年に一度くらいしか帰れなかった。日本の家に電話して、もう寂しくて耐えられない」というと、教師をしていた妻が「我慢しないでいつでも帰ってらっしゃい、子どもたちとあんたの一人ぐらいは食べさせるから」と言ってくれた。
その言葉に、なおさら頑張ろうと続けることができたという。
良くても悪くても3年で終わる予定が、カレーハウスは今も続いている。
1999年の中国建国50周年の頃までは、まだ人民服を着ていた中国は、急速に発展していった。
2001年にWTO中国が加盟してから、レストランも含め、日本人の独資だけで店ができるようになった。それまでは、中国の会社を巻き込まないと外国人はビジネスできなかった。
上海のカレーハウスも3年で閉店するはずが、継続して営業することになり、日本のマスコミでも、「ハウス食品の先進的な中国での取り組み」として取り上げられるようになり、注目を集めはじめた。
現在、中国の若い人たちが、お金を貯めて、カレーハウスにくるようになった
つまりカレーハウスに行くのは、ステイタスでもハレの日のでもなくなったことを意味する。
そして今や、ハウスバーモントカレーは、中国の家庭で日常食となっている。