人生劇場「ホテル」

消費社会とは、持ち物で自分をアピールする社会であり、どんなCDや書籍を所有するかが自身をあらわす手段だった。
だから友人に一度は自分の部屋に連れてきたりしていた。今は「場面」をインスタグラムでネットにアップしたりしている。
バブル期には、消費社会を「記号論」で分析しようという論説が花盛りだったし、ブランドをカタログにしたような田中康夫の小説「なんとなくクリスタル」(1980年)が評判になった。
しかし、最近ではCDや本は売れない。そのせいか、広告が街角やウエブ空間を埋め、人に欠乏感を植え付けようとしているかのようだ。
その一方で、モノの豊かさよりモノのなさを楽しむ主義、つまり「最小限主義者(ミニマリスト)」と呼ばれる人々がいる。
ミニマリストは物欲を否定しないまでも、身の回りに色々あり過ぎると、そちらにエネルギーを吸い取られると感じるのかもしれない。
彼らは、本当に欲しいと思えるものでないと買わないし、身の回りにモノ置かない。
そうすれば心身ともに軽やかになるし、心地よく「モノ・フリー」を楽しむことができる。
彼らは、まずモノに囲まれて生きることが豊かという固定観念を捨てて、出来るだけ身軽になって、モノのない空間を楽しんでいる。
とはいえ、こうした「ミニマリスト」的暮らしができるのも、ある面モノが豊かにあるからである。
コンビニや自動販売機がすぐ近くにあるし、スーパーにいけば惣菜も充実している。
ネットさえあれば、音楽が聴けるし、本も読める。
ただ、ミニマリストの数少ない持ち物のリストの中に共通するものがある。
それは、デジタル関係が多く、充電ケーブル、収納ケース、アダプターなどで、モノから離れたかわりに「データ」には結構執着しているようだ。
こう見てくると、ミニマリストとは、「貧しさ」に処すより「豊かさ」に処する生き方のようである。
ネットを使えば、自分が欲しいモノのが何で、どうすれば手に入れられるかを、即座に知ることができる。
こうしたミニマリストは、「ノマド」的生き方に通じる。
ノマドは「遊牧民」の意味でモノがなければ移動も楽。自宅や会社のオフィスではなく、カフェでパソコン広げて仕事する人など、好きな時に好きな場所で仕事をする。
ただ、「遊牧民」といっても実際、自由気ままに好きな場所へあちこち移動してるわけではなく、家畜の世話をしながら、飼育に最適な牧草のある土地から土地へと移動している。
ノマドワーカーとは、自分に最適な居場所を何ヶ所か定めておいて、人生の時期によってライフスタイルに合わせて移動して暮らすという人のこと。
ところで、1970年代にイザヤ・ベンタソンが書いた「日本人とユダヤ人」に、ユダヤ人の金持ちは「ホテル」を常宿としているという話があったと記憶している。
ベンタソンはその中で、「日本は水と安全はタダ」という観点から、ユニークな文化論を展開した。
現在の日本人は水と安全にお金をかけるようになり、特に資産家らしいというだけで自宅を賊に襲撃されるほど物騒な世の中だから、「ホテル暮らし」は日本人金持ちのオプションのひとつとなりうるかもしれない。
ところで、「水と安全」は別としても、日本人でも家をすて故郷をすて、ホテル暮らしをした方々が、昔からいる。
もちろん圧倒的にお金持ちなのだが、生き方としてノマド的でありミニマリスト的でもある。
一流ホテルの常宿となると、ホテルの場所と彼らの仕事との関係があるかと思う面もある。
古くは全日空ホテルに暮らした映画評論家の淀川長治で、日曜洋画劇場の収録を行っていたテレビ朝日放送センターと同じアークヒルズ内にある東京全日空ホテル34階のスイートルームで暮らしていた。
また帝国ホテルに「住んでいた」オペラ歌手の藤原義江、山田五十鈴、田中絹代、などがそうであった。
帝国ホテルの近くの帝国劇場に出演するため、常宿したということから、次第に住むようになったと推測できる。
特に山田五十鈴は、ホテル内を熟知し顔がわからないように日比谷公園を散歩コースとした。
ただ、ホテル暮らした人々の共通点として家族の影の薄さが浮かぶが、「ひとりリスク対応」という面もあるのかもしれない。
藤原義江は、1898年山口県下関市で貿易商(ホーム・リンガー商会)を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リードと、同地で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に大阪で生まれた。
キクは、その後、九州各地を転々とする。義江が7歳程の時、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、またはじめて日本国籍を得ることとなった。
その後、大阪市北新地へ移った母につき従い、学校にも通わず給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れる。
オペラとの出会いは、新国劇を抜け浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団して注目され、後に「藤原歌劇団」を結成するまでになる。
また、海外ではココ・シャネルがフランスのホテルリッツのスイートルームを住まいとしていたことは有名である。
戦時中、ドイツ将校と交際していたことから「売国奴」ともよばれたシャネルは孤独による不安や恐怖などの症状と不眠症に悩まされ、1日1本のモルヒネ注射が欠かせなくなっていた。
1971年、ホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で没した。
さらに富豪で知られるハワード・ヒューズは、1966年にラスベガスのデザート・イン・ホテルを買収し、このホテルの2フロアを占有し、それから4年間一度も外に出ることはなかった。
ヒューズはテキサスのヒューストン出身。父親は弁護士資格を持っていたものの、一攫千金を夢見て鉱物の掘削に取り組みシャープ・ヒューズ・ツール社を設した。
この会社が製造したビットは、それまでのものとは桁違いの掘削能力を発揮し、それらの需要はヒューズ家に大金をもたらした。
とはいえヒューズは父親の不在、父方の遺伝による難聴、母親の異常なまでの潔癖症などが要因で内向的性格になっていった。
ヒューズは学業にほとんど興味を示さず、飛行機、レーシングカー、アマチュア無線に魅力を感じるようになった。
ヒューズが16歳のとき母が病死し、その2年後に父が急死し18歳で孤児となったが、遺産としヒューズ・ツール社の株の75%と当時、ほとんどのメーカーの石油・ガスの掘削機が使用していたドリルビットの特許を受け継いだ。
1925年、ヒューズはカリフォルニア州に移り、1927年かねてからの夢であった映画製作と飛行家業に莫大な遺産を投じている。
外見的には豪快な生き方にも見えるが、ヒューズは母親から受け継いだ潔癖症等により強迫性障害のような病状を呈し、1976年2月ラスベガスからメキシコのアカプルコに本拠地を移したが、同年4月治療のためメキシコからアメリカに戻る飛行機の中で死亡している。
個人的にハワード・ヒューズで思い浮かべるのは、「アラビアのロレンス」のロレンス大佐の風貌。
第一次世界大戦が始まる前アラブ地方はオスマン・トルコに支配されていた。
大戦が始まると、オスマントルコはドイツ側につき、英仏と戦う。
この時、アラブの反乱軍に加わり烏合の衆に近い諸部族を組織して率い、イギリスとの連絡にあたったのが、トーマス・ロレンス大佐である。
ロレンスはもともと考古学者として、アラブ人と早くから交流し、現地の情報に通じていたため、イギリス軍は彼の存在を見逃さず情報将校として用いたのだ。
目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年。
そればかりか、アラブの人々の感情を不気味なまでに感じ取る能力をもち、彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力を有していたとされている。
映画で「ロレンス大佐、あなたを砂漠にひきつけているのは何です?」という質問に対して、「清潔だからだ」と応えた場面である。
このセリフから、詳細は省くが、彼の出生にまつわる「影」のようなものを感じる。

東京・紀尾井町のホテルニューオータニは、様々な映画やドラマの舞台となっている。
ホテル横の紀尾井坂を降りると、今「大久保利通殉難碑」が立っているが、そこが森村の出世作「人間の証明」の殺人現場として設定された清水谷公園である。
ニューオータニおよび四谷を通る丸の内線は、唯一日本を舞台とした007シリーズの「007は二度死ぬ」の舞台となった。
ちなみに「二度死ぬ」でボンドガールとなった若林映子・浜美枝はそれぞれ「スキヤキ」「テリヤキ」などという「コード・ネーム」が使われていたのが気になったが、映画のタイトルは、いっそ「007は二度焼く」がよかったかもしれない。
近年、ニューオータニ隣の「赤坂プリンスホテル」が55年の歴史を閉じたと報じられたが、もともと朝鮮王家・李垠宅を改装して建てた由緒ただしきホテルであった。
李垠は幼少期に当時日韓併合による半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。
西武の堤康次郎は皇族の土地つまり超一等地を買い取り赤坂・芝・品川などに「プリンスホテル」と銘うって建てている。
さて、ホテル・ニューオータニのフロントには、後に推理作家となる森村誠一が働いていて、ホテルマンの仕事を「題材」として生かして1970~80年代の流行作家となった。
ホテルはなにしろ、冠婚・葬祭・睡眠・休養・会議・商談・発表会・展示会・密会など様々な目的をもった人々が集まる場所であり、また仕事・勉学・受験・就眠・食事など人間の様々な局面に対しての対応を要求される場であるからだ。
三谷幸喜監督の「有頂天ホテル」は、大晦日の24時間をリアルタイムで描いたもので、色んな人々の色んな人生が、ホテルという一点で交錯するし、2019年の東野圭吾作の「マスカレード・ホテル」(木村拓哉主演)も出入りする人の多様さが、犯人捜しを難しく、そして面白くした。
森村にとってホテルは、人間というものを観察しよく知るという点で、格好の場所であったのだ。
森村の推理小説「高層の死角」というホテルの密室殺人を題材にしたものが(実質)第一作であったが、森村はホテルマンという仕事の立場を利用して、もっとも直截な形で先輩作家が使用している創作材料に密かにアクセスしている。
森村がニューオータニで働いていたころ、ホテルのすぐ側に文芸春秋の新社屋ができることになったために、ニューオータニの常連客に、作家が名を連ねるようになった。
ホテルの仕事に嫌気がさして作家を目指そうとしていた森村は、フロントで二人の作家としばしば接することになったという。
その作家とは、当時のNO1流行作家の梶山季之と「木枯らし紋次郎」で人気作家となった笹沢左保である。
特に梶山の場合には、ホテル内で原稿を書いていたために、出来上がった原稿を編集者に渡す前にフロントで森村にあずけている。
そういうわけで森村が「梶山作品」の最初の読者になったが、それだけでは満足できなかった森村は、合鍵を使って梶山の部屋に入り、机に山積してある参考文献や資料を見て、自分の創作の参考にしたという。
また梶山が当時連載していた週刊誌の次回の展開を、自分でも頭に描いてみたりしたのだという。
プロ作家にはかなわないものの、時々自分の「筋書き」もなかなかイイ線いってると思えたこともあったという。
だれか著名作家に師事したわけでもない森村であるが、あえていえば合鍵を使って創作法を「密かに」教わった流行作家・梶山季之は、いわば森村の創作上の「師匠」であったといえるかもしれない。
ところで日本でVIP級の客をむかえるのが「帝国ホテル」であるが、ここを頻繁におとづれる人、常宿とする人は、ただの人ではない。
1959年、スカルノが日本を訪問した時、事前に赤坂のクラブで「顔見せ」のうえ、お気に入りの女性ということになってスカルノの宿泊先に送られたのがネモトナホコだった。
彼女はその年スカルノに呼ばれてジャカルタ入りし、結局第3夫人となった。
以上が「デヴィ夫人」誕生の経緯である。
結局、巷間で語られるようにスカルノはデヴィ夫人に一目ぼれしたというわけではなく、インドネシアに人脈のある貿易会社の社長の「計らい」が見事効を奏したものである。
この社長は彼女の説得のため様々な経済的保証を与えているし、瀬島龍三のいる伊藤忠へとビジネスをつなぐ役割を果たすことになる。
また、デヴィ夫人は、当時の池田勇人首相とスカルノをつなぐ仲介役を務めたという。
さらに、インドネシア賠償ビジネスについては、自民党元副総裁の大野伴睦、実力者の元建設相・河野一郎、右翼の児玉誉士夫らも関与しているという。
具体的にいうと、インドネシアに初のデパート「サリナ・デパート」の建設計画が持ち上がった際には、児玉誉士夫、河野一郎でこのプロジェクトをまとめ、伊藤忠商事が仕事を仕切ることになった。
建設費1279万ドルの6%がスカルノへ、5%の64万ドルが先述の貿易会社に支払われるという具合である。
要するに「インドネシア賠償利権」に日本の有力政治家が足を突っ込んだカタチだが、戦争の賠償は一体誰に払われるべきかを考えてみると、歪んだ話ではある。
インドネシア賠償の終了後は、1965年に締結した日韓基本条約で、総額5億ドルの賠償が決定し、同じような仕組で利益は分配され、伊藤忠商事はまたも大きな利益を手にした。
結局は、商売ド素人の旧日本陸軍参謀・瀬島隆の戦前からの”人脈”が大いに役立ったというわけである。
ところでデヴィ夫人はスカルノ大統領との結婚の3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデターで失脚し、代わってスハルトが大統領となった。
デヴィ夫人もフランスへと亡命したが、そこでは「東洋の真珠」とか社交界の華とも呼ばれ、美貌と教養で多くの要人らを魅了し、交友をもったという。
その後アメリカでの生活を経て、日本に帰国しバラエティ番組などに出演するに至っている。
ところで、スカルノ大統領とネモトナホコの二人が出会ったのが帝国ホテルの貴賓室の広間であった。
デヴィ夫人はあるテレビ番組でスカルノ大統領に彼女がプロポーズされた時のことを懐かしげに語った。
それによれば、スカルノ大統領は「私のインスピレーションになってほしい 私の力の源泉になってほしい 私の人生の喜びになってほしい」と告げたという。
司会者が「素晴らしい言葉ですね」と感動するとデヴィ夫人は「こんな美しい言葉のプロポーズは、100年、200年生きても二度と聞かれないだろうと思いますね。神の啓示と言うか、この方にお仕えするのは天命だと思って、しびれました」と誇らしげに語った。
しかし、ネモトナホコがインドネシアの王室に嫁いだという名誉は、必ずしもネモト家の幸福を約束するものではなかったようだ。
ところで、森村誠一の”師匠”梶山季之が当時19歳のネモトナホコをモデルとして小説を書いている。
その小説のタイトルは、「生贄(いけにえ)」。