遺骨収集と「戦後」

近世以降の日本人は、死者の遺体を火葬したうえで、その遺骨を大事に保存して敬意を払うということを基本にしてきた。しかしそれは、「遺体損壊」を意味し、ヨーロッパ人の目には奇異に映るようだ。
明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は1割程度だったとされる。
それも京都などの既成の大都市や、"真宗"地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。
日本では700年に道昭という僧を火葬にしたのが第1号で、最初に火葬となった天皇は持統天皇である。
だが火葬は、大方上流の人々の間に行われるにとどまり、一般の民衆にはなかなか広がらなかった。
戦後ようやく、急速に火葬が世間一般に普及する。
これには、都市化に伴い従来の大家族制度が解体し、ミニ家族を単位にした「家族墓」が普及したことによるところが大きい。
1965年ころには、火葬の普及率は30数パーセントになり、今日では実に99パーセントを超えるほどに進んだ。
ちなみに、韓国での火葬率は10パーセント未満にとどまっており、日本は火葬における超先進国であるといっていい。
これは、戦後に整備された「墓地・埋葬法令」が、火葬の普及を助けたという事情があったにせよ、これだけ火葬が普及したのは国民の意識のなかにそれを受け入れる素地があったということである。
古来、日本人にとって、霊魂というものは、身体とは別個の存在であるという意識がある。
人が生まれるということは、霊魂がある者の身体に宿るということであり、人が死ぬということは、霊魂が身体を去るということだった。
ということで、身体は霊魂の仮の宿りという意識もあり、また、キリスト教のような復活のような信仰もなく、遺体を火葬することに対してそれほど抵抗を感ずることもなかったということであろう。
ところで、日本では今なおミャンマーや、ソロモン群島へと「遺骨収集団」が出かけている。
かつての戦地に遺族などが遺骨を集めに行くというような行為は、外国ではみあたらず、身体が”仮”のものなら、そこまで”骨”に執着するのは不思議な気がする。
寺院にある「仏舎利」はブッダの骨ということになっており、それなら聖なる骨として尊崇されるというのもわからぬではないが、亡くなった一般人の骨をここまで大切にしようという気持ちの強さは、日本人特有のものだろう。
それを何より表すのが、2016年に議員立法で成立した「戦没者遺骨収集推進に関する法」で、なんとその第三条で遺骨収集を「国の責務」としており、当然に国の予算もついているのだ。
この法律は、今でもおよそ110万を超える人々の遺骨がかつての戦地に残されたままになっていて、その中の60万に近い遺骨が現在、”収集可能”な地域に残されており、終戦から80年の節目となる2025年まで”集中的”に遺骨の収集を行うとするもの。
施行にあたり、まず海外からの情報収集や戦地から帰ってきた人などへの聞き取り調査を行った。
また、アメリカなどの国立公文書館が所蔵する戦闘日誌などを重点的に調べた結果、持ち帰った12万を超える資料を分析している。
しかし、当時のことを知る現地の人も高齢化し、資料が見つかったとしても現地の地形が当時と変わって、遺骨収集は困難をきわめる。
2019年8月、ソ連シベリア抑留者の遺骨として、厚生労働省の収集団が持ち帰ったものの中に日本人以外の骨が含まれていたことが判明した。
第2次世界大戦後、旧ソ連によって約60万人の日本兵らが満州からシベリアなどに連行され、過酷な労働や食糧不足で約5万4千人が死亡したとされる。
遺骨収集は1991年度から始まり、今年6月までに約2万1900柱が日本に戻ったが、問題となったのは、2014年8月に東シベリアのザバイカル地方で発掘された16柱である。
ボルジガンタイ村にはかつて抑留された日本人の収容所があり、派遣団はロシア政府から提供された地図や現地住民の証言などを根拠に埋葬場所を特定したというが、現場に日本人の遺骨かどうかを判断する日本側の鑑定人は同行していなかった。
そんな状況の遺骨収集で間違いが起きやすいことは分かるが、国の予算がついた仕事であり、遺族にとっては由々しき問題であることには違いない。
NPO等と連携して「遺骨収集」の人材を確保することも急務となっている。

「過去を水に流す」傾向のある日本人が、なぜそこまで遺骨収集への思いが強いのか。
日本人の遺骨への強い思いを示している物語としては「ビルマの竪琴」がある。
世界戦史上で最も愚劣といわれたインパール作戦において、慰問や戦意高揚のための「うたう部隊」と呼ばれた部隊があった。
インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで構成され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
そして、イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になり、兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
そんな緊迫した状況の中、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生(はにゅう)の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所に入れられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、そのまま行方不明になってしまう。
実は水島はその道中、ビルマの高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人である僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとした。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれたほどだった。
そうした中、僧になりすました水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという目撃情報が寄せられる。
そして皆は、あのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、同じくイギリス起源の「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の葛藤を次のように綴っている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。
いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。
死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか?
おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。
ところで、「成仏(じょうぶつ)」という言葉があるが、これは日本独自の観念で、仏教が日本に来る前からあり、神道の死生観からきている。
古代の日本人は、死んで肉体は土に還かえっても、その霊魂はどこかへ行ってしまうのではなく、自分の家に帰ってくるという死生観を持っていた。
そしてそのときには、祖霊を迎えるための火をたいたり、ご馳走(ちそう)を供えてもてなすという儀礼をともなった。
仏教では、「極楽浄土」のように死後に現世とは異なる世界に赴くとされているが、日本の民間信仰では、先祖は亡くなった後に"神"となって子孫を見守るとされ、正月や季節の節目に自分の家に帰ってくる。
生命は、祖神の神霊を受け継いで誕生するものと考えられているので、死後はまた"祖神"の元に還るわけである。
ただ、「古事記」にもあるとおり死は忌み嫌われ亡くなって直ぐに"神"となるのではなく、一定期間を過ぎた後に"神"なると考えられている。
つまり、死者の霊は”御霊祭”を重ねていくにつれて浄化され、やがては"祖神"の列に入れられ、子孫を守護されるものとされている。
こういう思想が仏教と融合し「成仏」の観念となったのである。
重要なことは、人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうるという伝統的な世界観に基づいたものである。
それは、中原中也の「骨」という詩にもみてとることができる。
「ホラホラ、これが僕の骨
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?」
この詩は、死者からのメーセージではないが、霊魂が遺骨があるその所に留まっているという世界観を示している。従って、遺骨を故郷に戻してこそ、遺族と共にあることができるということだ。

前述の「戦没者遺骨収集推進に関する法」は議員立法で、この法律の制定に影響を与えたのは、意外にも日本の歌謡界に大きな足跡を残した人物である。
川内康範(かわうち やすのり)は、遺骨収集においても、文字通り”足跡を残している。
川内は、南方戦役を「病気除隊」して生き残り、多くの戦友が死んだことに対する罪責感が、玉砕した英霊たちの遺骨収集活動に向かったとされている。
川内康範は、1920年、青森県青柳町で生まれで、実家は法華宗の住職ながら、寺院を持たず生活は苦しかった。
尋常高等小学校を卒業後、家具屋の住み込み店員に始まり、製氷工場、映画館のフィルム運び、さらには夕張での坑夫など職業を転々とした。
映画会社で大道具だった兄を頼って上京し、土工や新聞配達をしながら、映画のシナリオを書き始め、やがて日活の企画部長に認められて1938年、日活撮影所に入社する。
次いで東宝演劇部へ移り、やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当する。
その傍ら舞台の脚本なども執筆し、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動を開始する。
戦後、作家・脚本家として活躍するかたわら、私財を投じて沖縄や南方で遺骨収集をするようになる。
この活動に対し元陸軍大尉で戦後厚生大臣になった園田直(そのだすなお)の知遇をえる。
園田に川内は「本来は国家の責任でやるべきなのですが」と直接感謝され、川内が政界との関係を深めるきっかけとなったという。
1945年から10年間、太平洋戦争の戦没者の遺骨引き揚げ運動を行い、並行して海外の日本人抑留者の帰国運動も行っている。
そうこうするうちにテレビ放送が始まり、アメリカ製ドラマ「スーパーマン」がヒットし、日本でもこういう番組を作ろうと川内に原作・脚本の白羽の矢が立った。
そうして出来たのが1958年TV放送開始の「月光仮面」である。
川内はここで初めて主題歌を作詩し、ドラマとともに大ヒットしたことから、以後続々と歌謡曲の作詩・プロデュースを手がけるようになる。
さて、主題歌「月光仮面は誰でしょう」の中に、「月光仮面のおじさんは 正義の味方よ善い人よ」というフレーズあり、川内が”正義の味方”という言葉を使った最初の人である。
しかし、”正義そのもの”と「正義の味方」とは微妙に違う。そのことにつき川内は、月光仮面は”月光菩薩”という仏に由来し、月光菩薩というのは脇仏で決して主役ではない。この世に真の正義があるとすれば、それは神か仏。したがって「月光仮面」は神でも仏でもない、まさに人間なのだと語っている。
1950年から10年間が川内の最盛期で、多くの映画の原作脚本を手がける一方、歌謡曲の作詩家として名を成している。
「誰よりも君を愛す」「君こそわが命」など数多くのヒット曲を世に送り出している。
いずれも、命をあずけるほどの思いが描かれているが、特に「骨まで愛して」(1966年城卓矢歌)などは川内以外に書くことのできないフレーズであった。
また、1975から監修として携わったテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」は、20年近くにわたる長寿番組となった。
「川内康範とは誰でしょう?」と思うくらい、いくつもの顔を持った川内康範は、2008年4月、入院先の青森県八戸市内の病院で亡くなった。享年88。
故郷の松風町のグリーンプラザに「憎むな、殺すな、赦しましょう」と台座に刻まれ、拳銃を持った月光仮面の像がひっそりと建っている。

戦後70年という節目を迎えた2015年、"戦後"は一体いつまで続くのか、という議論があがった。
というのも、世界の常識では、「戦後」とはせいぜい10年程度だし、実際、日本でも1956年にでた「経済白書」には"戦後は終わった"と記されてある。
この年、石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞をとったが、そこには戦争の影さえもない裕福な家庭の若者達がテニスやヨットで享楽的に遊ぶ群像を描いていた。
それでも日本で相変わらず「戦後○年」という言い方がまかりとおるのは、ある思想家によると、戦後の新憲法制定以来「憲法改正」が一度も行われておらず、日本が終戦後につくられた国際秩序「戦後体制」に収まっているからだという。
しかし、「戦後○」年という言い方がいまだに続くのは、日本人の古来からの精神的特性に基づくものではないだろうか。
日本には、奈良時代以来の「鎮護国家」思想があり、仏法により国家安泰を祈るというものであった。
仏僧が関わることの多い「遺骨収集活動」は、仏教というよりも、前述のような日本古来の信仰にもとづいて行われたものである。
何といっても法律で、遺骨収集を「国の責務」とまで位置づけていること。それは、遺族の要望が最大の理由であろうが、異国に放置された戦没者の遺骨を故郷に戻し慰霊することが、”国家安泰”に繋がるという意識の表れではなかろうか。
海外での"遺骨収集"は長くて遠い道のりである。
それでも、戦後70年以上たっても戦没者の鎮魂(慰霊)は絶えることなく今なお続いている。
それは、天皇のパラオ訪問、首相や閣僚の靖国神社参拝や、全国各地の鎮魂碑や慰霊碑に今なお手向けられる花束によっても知ることができる。
”戦後○年”が続くのも、日本人の心の中の「戦後」が終結しないことを物語っている。

いうのも、火葬とは「遺体損壊」の究極の方法であるとの見方が前提にあるからだ。
火葬の本家たるインドでは、遺骨は川の水に流されて、保存されることはない。遺体にこだわることは全くないのである。
これに対して、遺体にこだわる文化では、キリスト教圏を含めて、形を残したままで埋葬するのが普通である。
そもそも日本には、「洗骨」の風習に象徴されるような、遺骨を尊重する文化が存在したという事実もある。
洗骨は、沖縄や奄美などで、近年まで行われていた風習で、二次葬あるいは複葬と呼ばれる。一時的な埋葬の結果白骨化した遺体の骨を洗い、それを本格的な墓に埋葬するというものであるが、これが「遺骨」尊重の原点だと考えることには、それなりの理由があるといえる。
山折はまた、遺骨尊重は、古代において行われていたもがり(風葬)の儀礼に原点があるのではないかとする五来重の説を紹介している。もがりにおいては、死者を一定期間風葬し、その遺体が白骨化した後で、それを埋葬するということが行われた。この儀式の精神が仏教化したもの、それが遺骨尊重だとするのである。
日本で火葬が導入されたのは文武天皇の時代、700年のことである。その後持統天皇が、天皇としては初めて火葬され、それを契機にして皇族や貴族たちの間で火葬が広まっていったとされる。
その際、遺骨がどのように取り扱われたかが問題となるが、初期の火葬においては、遺骨は必ずしも大事に扱われなかったと推論している。
遺骨が尊重されるようになるのは、藤原道長の時代の前後で、道長自身藤原氏の墓地であった木幡の地に浄妙寺を建立し、一族の諸亡霊を弔うために、その遺骨を丁寧に埋葬した。
一条天皇は1011年に火葬されたうえで、その火葬骨が円城寺に安置されたといい、その御骨所に詣でるものが多くなったとある。
このように、11世紀を境にして、遺体を火葬したうえで、その骨を寺の墓地に安置して詣でるという、今日と同じような遺骨尊重の葬送文化が、庶民の間でも定着していったとされる。
面白いのは、このような遺骨尊重文化の定着に、高野山が深くかかわったということである。
納髪、納骨といって、身体の一部や遺骨を高野山へ収める風習が12世紀ころから貴族社会を中心に広まった。
それは、高野山が、真言密教の根本道場であるとともに、来世往生を約束する山岳信仰の霊場であったことと関連している。
高野山へ納骨することで、極楽浄土に生まれ変わるという信仰が、こうした行為を普及させたわけである。
高野山への信仰を広く説いて回ったものに「高野聖」があったが、彼らは全国津々浦々を歩き回りながら、庶民にたいして高野山への結縁を進めて歩いた。「納骨」は結縁の象徴的な形態と考えられたのである。
12世紀の高野山納骨の一般化とあいまって、しだいに遺骨の保存ひいては遺骨の尊重という観念を生み出した。
そして第二に、そのような観念の一般化を推し進めるうえで大きな役割を果たしたのが、浄土教の信仰と来世信仰の流布であったということになる。
月光仮面の題名は、仏教に出てくる薬王菩薩の脇仏としてお仕えしている、日光、月光の2人の菩薩の中から月光菩薩(がっこうぼさつ)をもじってつけられている。
日本ミャンマー未来会議代表、メコン川流域圏農業教育開発センター (GMSAEDC) 代表、タイ日教育開発財団 (TJEDF) 最高顧問、NPO法人グレーターメコンセンター副理事長などを務める。 日本国際ボランティアセンター (JVC) などで、ソマリア、タイ・カンボジア国境の難民支援に関ってきた経験を持つ[2]。 「ビルマの竪琴」という映画は、リメイクにもかかわらず一度きりでそれ以上見る気が起きなかった。
理由は、兵士達の合唱がうますぎて、その嘘っぽさに気が引けたのだが、後にそれはとんでもない勘違いであることを知った。
世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めたインパール作戦。慰問や戦意高揚のための「うたう部隊」と呼ばれた部隊が実際にあったのだ。
したがって、歌がうまいことは自然なことだった。
インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になった。
兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
映画では、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
水島はその道中、高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人であるビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれたほどだった。
そうした中、僧になりすました水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという目撃情報が寄せられる。
そして皆は、あのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、同じくイギリス起源の「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の「葛藤」を次のように綴っている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。 いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。 死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか? おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。

ロシア政府から抑留者の名簿や埋葬場所のおおまかな地図が提供されているす。
現場は村の中心部から南東に700メートルほど離れた小高い丘の上にある共同墓地の通路の部分で、周囲にはロシア人の墓地が点在していて、厚生労働省の派遣団は地図や現地住民の証言などを根拠に日本人が埋葬されていると判断し16の遺骨を掘り返したという。
最終的にはロシア人の鑑定人が日本人の遺骨だと判断したため、DNA鑑定に必要な一部の検体を除いて遺骨を墓地の近くの草原で焼き日本に持ち帰ったという。
派遣団を現場に案内したというボルジガンタイ村の村長は「抑留者がどこに埋葬されていたのかは実際には分かっていなかったが昔の住民が埋葬場所を記憶していたためそれに従った」と話している。
、池上本門寺で修行。その後、福 神道では、人間が死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。
魂は神の分霊であり、肉体は魂の器として、大自然から授かった物と考えます。
死後、肉体はダビに付され、お骨となって、大地に還りますが、魂は神の元へ還っていきます。
神の分霊としての魂は、人となってこの世に修行のために生まれてきます。生まれた時の魂は清らかですが、長い人生を送っている内に、自分の我儘や人間関係のしがらみ等によって、神のみ心から外れてしまった分、汚れとして魂にこびりついてしまいます。
我儘が強く反省心の少ない人は、たくさんの汚れを魂につけてしまいます。死後の魂は、この世で汚れてしまったまま帰っていくのです。
その汚れを見た神様は「ずいぶん汚して帰ってきたな。霊界で修行し、汚れを落としなさい」とご命令されます。汚れの少ない魂は、修行の度合も少ないのです。
霊界での修行とは、現br世での行いや考え方を神のみ心と照し合わせて反省することです。あの一言で人を傷つけてしまった、済まなかった。<>とか、あの行動によって迷惑を掛けてしまった、悪かったな。等と反省することです。反省することによって汚れは落ちていくのです。
しかし、神のみ心を知らなければ、自分の行動や考えは一番であって、自分が良いと思っているのだから何も悪い所がないと考えてしまいます。それでは反省が生まれません。
日本では700年に道昭という坊さんを火葬にしたのが第一号で、最初の火葬の天皇は持統天皇である。
そして現代の日本では埋葬法で定められおり90パ-セント以上が火葬に付される。
ちなみにお隣の韓国での火葬率は10パ-セント未満にとどまっている。
殺人事件などがおこると死体は火葬されず土葬になるのだ。
日本では、法によって「火葬」が定められている。そこで、「私は灰になりたくない」という故人の意思は尊重されていない。
「環境に優しい技術」とか「人に優しい医療」とかよく聞くけれど、もっと多様な埋葬や葬送などがあってもよいのではないのか、と思う。
アメリカでは人工衛星で遺灰を打ち上げ永遠にカプセルが地球を回り続ける「宇宙墓地」なんかも計画されているが、日本では散骨でさえも認められていない。
石原裕次郎の海への散骨は行政当局が難局を示し、ついに実現しなかったという話は湘南あたりでは有名である。もっとも「葬送の自由をすすめる会」は死者を葬る方法は各人でいいはずと、自由化を求めて監督官庁に働きかけている。
ところで現在 管理する人がいないなどの理由から、お墓をなくす“墓じまい”を選択する人がいる。
少子高齢化、都市部への人口流入、先祖供養に対する意識の変化などを背景に、今ある墓を別の場所に移す「改葬」または散骨などによる「墓じまい」を迫られるという状況が生じているからなのだという。
欧米の場合は、遺骨よりも「遺体」の収容に重きを置いている。
パールハーバーには、日本海軍の奇襲攻撃で沈められた戦艦アリゾナが眠っているが、艦内には千人を超す将兵の遺骨もそのままになっている。
ところが乗組員の遺骨をなんとかしようという声はまったくあがらない。
そんなアメリカでも戦時における遺体収容への思いは強いようだ。敵に包囲されてヘリコプターが接近できない場合、戦死者をいったん埋めて退散して、その後で収容に戻ってくるのだ。
最近では、韓国と北朝鮮の間で朝鮮戦争の平和条約締結の可能性が取り沙汰されているが、平和条約が締結されれば、米軍にせよ韓国軍にせよ北朝鮮軍にせよ、相互の領域で遺体収容(実質は遺骨収容)がなされるであろう。
また、ところが、インドで生まれたモトモトの仏教は「輪廻」の思想があったから、人間は別の生き物として生きるので、コノ世における肉体はサホド重要なものではない。
「火葬」となり肉体を完全に失うことになるとはいえ、ソノ信仰に反するものではないからである。
その一人に、井本 勝幸(いもと かつゆき)がいる。1964年、福岡市生まれの太宰府市育ち。福岡県立筑紫丘高等学校から、東京農大・立正大学卒業。28歳で出家し、福岡県朝倉市の四恩山 報恩寺の副住職となる。
2011年1月より単独で反政府ビルマ少数民族地域に赴き、ミャンマー内戦の停戦に貢献。主要11少数民族勢力で構成されるビルマ統一民族連邦評議会 (UNFC) を創設する。
翌年、民間団体「ミャンマー/ビルマご遺骨帰国運動」を発足させ、旧日本軍兵士戦没者の遺骨収集・帰国活動を行っている。
ところで、「仏舎利」はブッダの骨ということだが、ブッダの骨なら聖なる骨として尊崇されようが、亡くなった人の骨をここまで大切にしようという気持ちの強さは、日本人特有のもので外国にはみられない。