公共事業の迷走

日本のサラリーマンが「税金に弱い」といわれるのは、 給料から税金を先取り天引きする「源泉徴収制度」が大きい。 実は、「源泉徴収制度」は戦争税制として発足したものだ。
もともと、イギリスで考え出された徴収制度で、所得税が導入されたとき、イギリスの労働者階級は、ひどい労働条件で働かされていた。
賃金は、日給か週休で支払われていて、年間所得をいちいち計算することはなかったため、取りはぐれのないように、賃金を支払う時に、使用者に税金の天引きをやらせた。
そして、ドイツではナチス政権が採用し、日本ではそれがモデルとなった。
日本では、中国への戦争の拡大にともない、戦費調達の有効手段として、「戦争税制」として1940年3月31日から実施された。
この源泉徴収制度の実施によって、税制を変えずとも大幅な「税収増」があった。
戦後、アメリカは、日本の税制を改革しようとシャウプ博士を中心とする調査団を送った。
「シャウプ調査団」は、年末調整を含む「源泉徴収制度」は、納税者の関心を弱める「非民主的」な制度だと批判した。
これに対して大蔵省側は、徴税コストが安い、国民に税知識がない、誰も文句を言わないなどのことを、調査団に説明したという。
日中戦争、太平洋戦争の戦費調達にはこの源泉徴収制度に加え、1942年から実施される年金の積立金、愛国債券といわれた国債、郵便局の定期預金などが次々と戦費に使われた。
こうした戦費調達の手法は、戦後の公共事業に生きており、それにより莫大な利益がころがりこむ仕組みなど、戦争と公共事業とはよく似ている。
もっといえば、戦争とは「破壊する公共事業」とみなすこともできる。
ちょうど公害が、外部経済の観点から「マイナスの公共財」とみなすことができるように。

安倍首相が「悪夢のような」と表現する民主党の時代、マニフェストの中に「コンクリートから人へ」をスローガンとして、「公共事業の見直し」というものがあった。
そのシンボルとしてやり玉にあがったのが「八ツ馬ダム」で、その建設が中止となった。
八ッ場ダムは、国土交通省が群前県長野原町に建設中の多目的ダムで、利根川の洪水調節と首都圏の水道用水・工業用水の開発を目的としている。
建設構想が生れたのは、戦後間もない1947年に襲来したカスリーン台風が、利根川流域で死者約1100名、浸水家屋約38万戸という甚大な被害をもたらしたことに起因する。
そしてカスリーン台風級の再来に備え、利根川上流に洪水調節ダム群の建設が計画され、その一つとして1952年に八ッ場ダム構想が生れた。
だが、470戸が水没する計画に当然ながら強い反対運動が起こったが、国や県の切り崩し工作や、運動の長期化による疲弊、世代交代も手伝って、1985年に住民は ダム反対の旗を降ろすに至る。
そして国側が提示したダムの湖畔に造成される代替地へ"集落ごと移転する方式"や、ダムと温泉を活用した新たな観光振興に夢を託して、計画受け入れの苦渋の決断を行った。
それでも補償基準の調印にはさらに15年を要し、2011年以降やっと個別の補償交渉が始まった。
結局、移転対象470戸のうち357戸が地区外へ転出、"地域社会を壊さない"という国や県の約束は、有名無実と化している。
最大の問題は、1都5県が求めてきた治水・利水の必要性も緊急性もすでに破綻していることは明白だ。
例えば、トイレや洗濯機など節水型家電が普及し始め、水道管の漏水対策も進み、首都圏は"水余り状態"になっている。
そもそも、総理大臣を4人も輩出した群馬県で、なぜ60年近くもダムができなかったのか。本当に必要なダムならこんなにも時間をかけずにできたはずなのにである。つまりムダなダムということ。
ところで、莫大な事業費がかかるダム事業には、夥しい関連事業とそれを請け負う測量会社、設計会社、コンサルタント会社、地元の中小の建設会社、県内や大手のゼネコンなどが群がり、談合が繰り返される。
町議会から県議会まで、ダム関連事業を受注する土建会社のオーナーや役員が"族議員"として暗躍する。そればかりか、 国土交通省や県の職員が天下りしている会社も多く、公共事業をめぐる利権構造がすっかり出来上っている。
驚いたことに、八ッ場ダム工事事務所の歴代所長は本省のキャリア組で、所長の後はダム関係法人、そこからダム関係業者へと天下る。
つまりダム利権は、「政・官・業の癒着構造」そのものであり、自民党政治と結びついているのである。
民主党政権がそのシンボル的存在をくずそうとした意図は、それなりによく理解できる。
しかし、ダム建設を中止撤退することがいかに困難かは、地元の反対で2年後に再開されたことでもわかる。

戦争で日本陸軍が海外で戦火を拡大する構図は、止められない公共事業とよく似ている。
一旦進みだした軍隊は必要がなくなっても元にはもどらない。ある目標が失われたらしたら目標をかえて進むだけである。
実は長く係争中の、「諫早湾開拓」もそんな性格をもっている。
ところで、世間では「干潟」の重要性はそれほどには知られていないようだが「海の肺」といわれるくらいに、「水質浄化作用」があるものである。
東京湾のように汚染が進んでいると思われる海でも魚がとれるのは、船橋市付近に広がる三番瀬と呼ばれる広大な「干潟」がその役割を果たしているからである。
ところで長崎県・諫早湾はここだけで国内の全干潟面積の6%を占めるくらいに広いうえに、その干潟は「生きものの宝庫」でもあった。
この地の干拓を行うにあたり、まずが海水を堰きとめる堤防を作り閉め切れば、干潟は乾燥し始める。
この堤防は別名「ギロチン」とも呼ばれているほど、干潟のすべての生物が死滅するとも言われている。
実は、諫早湾干拓事業は60年近くも前の高度成長期に計画されたものである。
簡単に言うと、干潟を干拓して、農地を広げると言うものだが、事業主体は農林水産省と、地元の自治体である長崎県と諫早市である。
計画当時は国を挙げての「食糧の増産」の時代であったが、今は時代の様相がまったく異なる。
国はごく最近まで「減反」を推進しており、これからもさらに人口減が予想されるというのに、今さらナゼ「農地拡大か」という疑問がおきる。
役所も「農地拡大」だけでは埋め立ての理由不十分と思ったらしく、高潮などから人々を守る「防災」という名目も新たに付け加えられた。
しかし、防災は事業主体である農林省の役割からはなれたものであり、結局はいっときの一部の業者の利益のために後付けされた名目といってよい。
数百・数千年の歴史と自然が人間に与えてきた自然と文化とを葬って、政治家や官僚、業者の一時的な利益を優先させている。それは、鵜飼で有名な長良川の河口堰開発と同じ構図である。
さて、この諫早湾干拓をめぐる紛争について、今なお国が裁判所が出した「確定判決」つまり開門を実施できないでいることの経緯は次のとおりである。
国と長崎県を主導に行った諫早湾の埋め立てにより、周辺の特に佐賀県の漁民の不漁が生じているため、漁民は堤防の門を開いてその被害を調査してほしいと「開門要求」をした。
一方、国がおし進めた埋立地に移住してきた農民は、門を開いたら塩害のために農作物に被害が出るので「開門」に反対したので、両者は真っ向から対立してきた。
そして、2010年12月に福岡高裁が漁民の被害を認めて「開門」を認め、その開始までの猶予期間を3年後とし、開門の期間を5年とした。
その猶予期間の意味は「潮受け堤防」が果たす洪水時の防災機能や、排水不良の改善機能などを代替するための工事のために3年間は各排水門の開放を猶予するとしたのである。
しかしその3年が過ぎても、開門はしないままの状態が続いている。
この埋め立ては、そもそも自民党が推し進めた政策だったが、福岡高裁判決が出た時期に、民主党の菅首相だったことは肝腎なところである。
菅首相は「上告」をせずに判決は「確定」してしまったのである。
なにしろ菅首相は、総理大臣就任前から諫早湾干拓事業を自然環境保全や公共事業削減の観点で批判していてきた経緯がある。
結局、国は司法の判決にのっとって開門をしなければならないのだが、今度は長崎地裁が開門による農民の被害の訴えを認め、開門期限直前の2013年11月に「開門差し止め」の仮処分を決定したのだ。
この仮処分の審理にも国は参加しているので、国が「漁業被害」をしっかり主張すれば、相矛盾するような義務を負う必要もなかったはずである。
それをしなかったのは、自民党政権下で農林省中心に計画した公共事業の「非」を認めたくなかったというのが本音のようで、国は漁業被害を主張せず「仮処分」が決定したのである。
「仮処分」は裁判所の判決が出るまでに被害が拡大するような緊急時などに行われるものだが、判決と同じ効力をもち「閉門(へいもん)派」の農民も法的な後ろ盾を得たことになる。
したがって、漁業量減少などを理由に漁業側が求める「開門」と、塩害を懸念する営農者側が求める「非開門」といういう相反する司法判断が併存する「ねじれ」状態が続いてきた。
そして開門のタイムリミットである2013年12月がむなしく過ぎてしまった。
福岡高裁の「開門」判決後に、開門の際におきるだろう農業被害がを最小限に食い止めるための工事の必要から3年間の猶予をせっかくおいたのに、拓営農者らの強い反対を理由に、国は工事を先送りしてきた。
そこで、福岡高裁で勝訴した漁業者側は、タイムリミットをすぎても開門しない国に「制裁金」を支払わせる間接強制を佐賀地裁に申し立てた。
その中身は、開門するまで1日当たり1億円を求めるもので、国の無策のために国民の税金が1日1億円に支払われることとなったのである。
さて最近の動きで注目したのは、国側は新たに「請求異議訴訟」なるものを提起したことである。
「請求異議訴訟」は、過去に確定判決後の”事情の変化”を理由に、国が開門命令に異議を申し立て、確定判決の”無効化”を求めた訴訟である。
これに対して、過去に確定判決を出した福岡高裁(控訴審)は、なんと確定判決の「無効化」を認めたのである。
国側は上告棄却を求めたのに対し、漁業者側は、「国が確定判決を守らないことを裁判所が認めるのであれば誰も判決を信じなくなる」などとして高裁判決の破棄を訴えた。
ちなみに、最高裁(小法廷)は意外にも「無効化」という高裁判決を差し戻すが、その理由というのが、”事情の変化”についてさらに審理を尽くすように求めたものだった。
そして確定判決を「あくまでも将来予測に基づくもので、暫定的な性格があって特殊だ」とし、実質的に「非開門」(つまり確定判決無効)での解決を示唆したものとみられる。
ともあれ、公共事業の迷走によって諫早周辺の漁民と農民はすっかり分断された感がある。

経済学には「サンク・コスト」という概念がある。例えば、映画を見に行ってくだらないと思っても、高額の金をはらった以上最後までみてしまうとか、多額の金を使った相手とは別れられないなどだ。
この「サンクコスト」の大きさを印象づけたのが、1996年にお台場で行われる予定だった「世界都市博覧会」で、ほとんどそれは惨苦コストではあったには違いない。
とはいえ、残った都市博のインフラがあらたな形で活用されてお台場の発展に有効活用されているのも確かである。
「世界都市博覧会」つまり都市博の開幕日は1996年3月3日。もう開幕まで10ヶ月を切っていたタイミングで、時の都知事・青島幸男の「鶴の一声」で中止となったのである。
なにしろそれが都知事選の公約だったのだ。
とはいえ、なかには完成している施設もあり、大々的な開催周知イベントも多く開かれ、CMもよく流れ、すでにグッズは約350種類発売されていた。
しかし当時はバブル崩壊後で、開催に反対する声も沸き起こっていたのも確かで、青島都政誕生の背景ともなったのである。
都市博のテーマ曲になる予定だったのが、スティーヴィー・ワンダーの「For Your Love」。2月20日にテーマ曲であるとの表示を入れて発売された。
都市博の中核駅こそは、「東京テレポート駅」で、駅を降りてまず見えるのは「パレットタウン」。
世界都市博の予定地だった場所を10年間の暫定利用を前提として借り、1999年にオープンしたショッピングモールだ。
「パレットタウン」という名前どおり、壁には外国の風景が描かれヨーロッパの街中を歩くような不思議な世界に入った感じだ。
テレコムセンターに近いフジテレビは、都市博の中止で開発がストップし、予定した広告収入が入らずピンチに陥ったが、1997年に始まったTVドラマ「踊る大捜査線」が窮地を救った。
ドラマのなかで青島刑事は何かと「都知事と同じ青島です」と自己紹介するが、ここには青島都知事への痛烈な皮肉も込められていた。
むしろ「意地悪ばあさんと同じ青島です」の方がツボを押さえていたかもなどと思うが、「踊る大捜査線」は大ヒットし、当初は実在しなかった「湾岸署」が本当に作られるようにまでなった。
今、東京ビッグサイトは、東京都のメッセージを発信する「テーマ館」と、日本の各都市・各地域の魅力を発信する「日本の都市館」となる予定だった。
また都市博の「メインストリート」にかかる最大幅が60mもある「夢の大橋」は「江戸の文化」「東京の文化」と称したプレートがいくつも埋め込まれており、高級銭湯「大江戸物語」と調和している。
意外なことに、築地市場の豊洲移転は「都市博中止」がきっかけだった。
当時東京ガスは当時土地を持っていた豊洲にレインボーブリッジから橋をかける「マンハッタン・ベネチア構想」なるものを計画していたが、都市博中止で頓挫した。
東京ガスは同時に計画されていた豊洲の護岸強化工事などを進めていたが、都が撤退したことにより、約60億~70億円の工事費を自前で拠出しなければならなくなった。
そこで当時の東京ガス幹部が豊洲の所有地に公的な施設を誘致すれば、莫大な工事費が減免できるのではないかと考え、そこではじめて築地の「豊洲移転構想」が生まれたのだ。
ところで全国を見渡すと、公共事業に関する興味深いエピソードは枚挙にいとまがない。
大阪北港の一角にある「夢洲(ゆめしま)」は、2008年五輪誘致が北京に破れ、広大な土地は「大阪の負の遺産」となっていた。
それを、正の遺産に転換すべく、統合型リゾート(IR)の候補地としても名乗りをあげ、2025年には大阪万博が開催される。
佐賀県の神崎工業団地建設をとりやめて古代遺跡として整備された佐賀県「吉野ヶ里遺跡」、地元の桜を愛する人々が短歌の短冊を吊るして、環状道路の事業の計画を変更に導いた福岡市南区の「桧原桜」などが思い浮かぶ。
よくよく考えると、これらは大学の「文系切捨て理系偏重」の風潮にも一石を投ずる話ではあるまいか。

一度は、吾妻川の水質が強酸性であることからコ ンクリートのダムがもたないと立ち消えとなるが、1964年上流に中和工場が建設され、翌年ダム計画は復活した。