人生の「末達」

1990年代半ば、携帯電話とインターネットの普及でコミュニケーションの手段に革命的な変化が起きた。携帯には大量の連絡先を登録し、ネットを通じて四六時中つながれる。
相手とほどよい距離感で見しらぬ者どうしでもやりとりする。自分を分かりやすいキャラで見せつつ、相手のキャラを瞬時に見抜き、それを互いに承認する。
せいぜい「キャラいじり」で、互いの深みにに入ることはなく相互に理解しあうこともない。
遡れば1974年、いまだインターネットなき時代、慶応大の小此木啓吾教授(おこのぎけいご)が紹介した「ヤマアラシのジレンマ」と呼んだ関係を思い出す。
ヤマアラシは、温かみが欲しくて相互の距離を縮めるが、近づきすぎると互い傷つくので、程よい距離を見出す。
小此木は、「モラトリアム時代」の人間関係の結び方として「ヤマアラシのジレンマ」を分析した。
ちなみに、モラトリアムとは本来、戦争や災害などの非常事態で、混乱を避けるために国が債務の支払いを一時的に猶予することをいう。
それから50年を経て、今日のSNSの時代は、「ヤマアラシの距離」が自然な環境で意識さえされなくなり、筑波大の斉藤環(たまき)教授が「毛づくろい空間」とよんだものに近い気がする。
とはいえ、ネットは匿名の世界、残酷な言葉で人を「刺す」ということも起きる。
かつて見た映画「クライング・ゲーム」(1998年)で一人の男が面白い寓話を語ったことを思い出す。
ある時、川を渡ろうとしていたカエルとサソリがいた。サソリはカエルに背中に乗せてくれてと頼んだが、カエルは刺されては大変だと断った。
しかし、サソリが絶対に刺さないからというので、カエルはサソリを背中に乗せ、川を渡り始めた。
川の真ん中あたりに来たときに、カエルは背中に痛みを感じた。サソリが刺したのだ。
カエルは当然「なぜだ」とサソリに聞いた。
サソリは、「仕方がないんだ。これは自分の性(サガ)なんだ」と答えた。
そして、二匹は一緒に川に沈んでいく。
それは、どうしようもなく傷つけあう関係を暗示している。

「モラトリアム」(猶予期間)という経済用語が、人生に適用され「モラトリアム人間」という言葉が定着するのなら、人生に「末達」(みたつ)という言葉を適用してみたい。
「未達」とは字義に即して言えば、「未だ達しない」という意味なので色々な場面で使われていもいいはずだが、自分が聞いた範囲では、経済の専門用語ではないかという印象がある。
例えば、政府が新規国債を発行するものの、すべてを市場で引き受けてもらえない状況を「末達」という。
それは市場が政府に借金の返済能力がないと「判断」したことを意味し、金利を上げないかぎり引き受け手がいないことになる。
特に、長期金利(10年国債)の上昇は、住宅投資から設備投資まで大きな影響を与え、大きな上昇は日本経済の息の根を止めてしまうことになる。
今まで「末達」は、ほとんど起きていないが、もし「末達」という言葉が新聞紙上に頻繁に出るようになったら、日本経済の「黄色信号」がともったとみてよい。
我々はお金を別のカタチに変える時期がやってきた「シグナル」とみなしてもよいだろう。
人に対して、「未熟」ではなく、「末達」(みたつ)という言葉で表したくなるような人々がいる。
それは、運命のいたずらによって思わぬ「髙評価」を受けたがために、そこに自ら達しようともがく人生。
いわば、名声の「前借り」で、髙い利子をはらっても返済しようとする状態を「末達」と表そう。
それは、ある意味、名声に胡坐(あぐら)をかくことを拒否した真摯な人生といえる。

1978年、ゴダイゴの「ガンダーラ」ヒットの背景には、当時の「シルクロード・ブーム」があった。
そんなオリエンタル・ブームの中で久保田早紀の「異邦人」が140万枚を超えるメガ・ヒット曲となった。
久保田は、東京・国立(くにたち)の通訳の父に生まれ、4歳頃からピアノを習い始める。
小さい頃から教会にかよい、教会音楽特にバッハが好きだった。
子供の頃、父が仕事でイランに赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」をともなう音楽性を養うことにつながった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
高校の頃に、詩を書く文学少女がいて、彼女に曲を書いてといわれて曲を作りはじめた。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」と。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
その音楽プロデューサーは、「魅せられて」の制作スタッフの一人で、久保田の声の「哀愁」に探していたものに「出会った」と感じたという。
金子文枝は、ポルトガルの郷愁を帯びた音楽「ファドの世界」に引き込まれていて、ファドに近い曲がデキナイカと久保田にファドの女王「アマリア・ロドリゲス」のレコード数枚を渡した。
そして、レコードを聴いた久保田は、何も「恋愛」を歌う必要はないと思ったという。
一方、金子文江の中には「次はオリエンタルなもので行こう」という思いがあり、オリエンタルの雰囲気を強く出そうと、萩田光雄に「編曲」を頼んだ。
萩田光雄は、中森明菜のエスニックムードの音楽を生みだした人でシルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さらに「異邦人」ヒットには、CMタイアップの「仕掛け」もあった。
シルクロードをコンセプトとする「企画」を狙っていたプロデューサーにより、「シルクロード」を背景とした大型カラーテレビのコマーシャルソングとして使われた。
そのオリエンタルで神秘的なムードのCMソングに注目が集まり、ジワジワと売上げを伸ばしてブ大レイクする。
久保田本人によれば、自分のデビュー曲がCMにも流れ「雲の上を歩いている」感じだったという。
しかし、この「夢の中」のような物語は、久保田にとっては大きな悩みの種となった。
次も売れる曲をつくってくれ、ヒットするとはどういうことかわかってるよね、とプレッシャーをかけられた。
電車の中で作った「白い朝」が、音楽や画像の専門家集団によって「異邦人」という曲に変えられてしまったのである。
久保田自身は努力をしたわけでもなく、ナゼ曲が売れたかわからないから、次に売れるものを作ってよと言われてもわからない。
次の曲を作っても、最初の輝きを越えることはできなかった。音楽がイツシカ「音苦」になっていた。
そして久保田は自分は何者か、自分のルーツは何かと自分自身に問うようになる。
そして久保田がタドリ着いたのは、幼い頃に聞いた教会音楽であり、賛美歌であった。
1985年に結婚とともに引退し、今は「音楽宣教師」として各地の教会をまわっている。
東北の被災地の教会でも賛美歌をピアノ演奏した。
リクエストがあれば「異邦人」を演奏するという。

「1枚の写真」が人の運命を変えるというのは、「撮られた側」ばかりではなく「撮った側」にも起きることである。
「戦場カメラマン」といえば、まるで「自殺願望」でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎は、その疑問を「1枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであった。
実際に自分が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
なにしろ、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、イツ、ドコデ撃たれたのか全くわかっていない。
そして、この写真の「真偽の解明」が始動したのは、この写真が取られる直前の「連続した40枚」近い写真が見つかったことによる。
この写真はスペイン内戦の時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、「山の稜線」からアンダルシア地方と特定することができる。
そして連続した写真の解明から「驚くべき真相」が明らかになっていった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかったのである。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」を撮ったのは、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローであった可能性がきわめて高いことが明かされた。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され「帰らぬ人」となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」といってよい。
そしてそのことにより「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに「帰す」ことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線にi躍り出てシャッターを押し続けたのは、あの「1枚の写真」に追いつきたかったからかもしれない。
キャパは、あの「1枚の写真」と彼の命を道連れにするかのように、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。

2002年、ノーベル化学賞受賞者・田中耕一の苦しみは、受賞当日から始まったという。
受賞時43歳、無名の若きサラリーマンがノーベル賞を受賞したため、そのニュースは当時日本中を熱狂させた。
授賞理由となった研究は28歳の時(入社2年目)のものである。
博士号もない現役サラリーマン初のノーベル賞とは、確かに夢物語である。
田中はタンパク質をイオンの状態にする方法がないものか試行錯誤していた。
各々のタンパク質は、細胞内で物質を運搬したり、分解したり、細胞の形を維持したりといった独自の役割を担っている。
タンパク質の「重さ」をはかるには、分子を一つずつイオンにして分析機器にかける、タンパク質はレーザーを用いてこわさないようにするには、イオン化する必要があった。
問題はタンパク質のようなたいへん大きい分子(高分子)は、レーザーの熱でバラバラに壊れてしまう。
そこで田中の研究グループは、タンパク質のような高分子に何か特別な物質を混ぜてイオン化することで分子を保護できないものかと試行錯誤していた。
そんなある日、実験中に、別々の実験で使うつもりだったグリセリンとコバルトの微粉末をまぜてしまうという失敗をしてしまう。
普通なら捨ててしまうのだが、田中は「捨てるのはもったいない」と考え、分析してみることにした。
すると、溶液中の高分子がそのままイオンの状態になったのである。
田中のグループは、さらなる解析と検討を重ね、「ソフトレーザー脱離法」としてタンパク質をイオン化させる方法を完成させた。
こうした成果がノーベル賞に繋がるのだが、田中氏は自分はノーベル賞ににふさわしい研究成果を出してはいないということだった。
田中はノーベル賞受賞の話を聞いて「初めは何かのドッキリかと思った」とほどで、受賞後はメディアの取材を遠ざけてきた。
そんな田中が再び表舞台に登場したのが、2018年2月。
アルツハイマー病の原因とされる物質の発見により「認知症発症の20年以上前に早期発見できる」という研究が英科学誌ネイチャー電子版に掲載され、世界中で注目を集めているためである。
ただ、田中が強調するのは、個人の業績ではなく、チームの勝利だった。
田中は、1959年生まれ、富山県富山市出身。 実母は田中氏が生後1ヶ月の時に病死。 叔父夫婦のもとで養子として育てられる。
小学校時代は物静かながらも将来につながる片鱗を見せていたと言う。
東北大学工学部へ進学。大学時代にはじめて自分が養子だったことを知りショックを受け1年留学。
大学卒業後、1983年に島津製作所に就職し、 妻の裕子さんとは95年にお見合い結婚した。
大学時代に幼いころ母が病死したことを知り「人の命を救いたい」という思いを抱くようになった。
現在は島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長である。
田中は、研究所に面白い研究をしている研究者を次々に招きいれて、挑戦させようととりはからった。
今や最先端の科学技術研究は、「天才」をもってしても1人では成し遂げられないのは事実。
田中が取り組む「質量分析」もそういう研究なのだが、田中が多くの研究者にチャンスを与え、チームの成果を強調する裏側には、個人として受けたノーベル賞への「末達」の思いがあるからかもしれない。

1985年、田中さんはタンパク質をイオンの状態にする方法がないものか試行錯誤していました。タンパク質は私たち生物の身体を構成する非常に重要な物質です。タンパク質は私たちの遺伝子に書かれた情報に従って細胞の中で作り出されますが、その数は約十万種にもおよぶと考えられています。各々のタンパク質は、細胞内で物質を運搬したり、分解したり、細胞の形を維持したりといった独自の役割を担っています。  タンパク質の重さをはかるには、分子を一つずつイオンにして分析機器にかける必要があります。しかし、タンパク質はレーザーを用いてこわさないでイオン化するのが非常に困難でした。問題はタンパク質のようなたいへん大きい分子(高分子)は、レーザーの熱でバラバラに壊れてしまうということでした。そこで田中さんたちの研究グループは考えました。「タンパク質のような高分子に何か特別な物質を混ぜてイオン化することで分子を保護できないものか」。  考えた末、レーザーを吸収しやすい金属微粉末を混ぜればタンパク質の破壊がくい止められるのではないか、という結論に達しました。そんなある日、実験中に、別々の実験で使うつもりだったグリセリンとコバルトの微粉末をまぜてしまうという失敗をしてしまいました。普通なら使いものにならない試料は捨ててしまうのでしょうが、田中さんは「捨てるのはもったいない」と考え、分析してみることにしました。すると、今までずっと求め続けていた結果がはじめて得られました。なんと溶液中の高分子がそのままイオンの状態になったのです。  思いもよらない成果は、タンパク質をイオンの状態にすることを可能にしてしまいました。田中さんのグループはさらなる解析と検討を重ね、「ソフトレーザー脱離法」としてタンパク質をイオン化させる方法を完成させました。そして1987年、京都工芸繊維大学で開かれた質量分析連合討論会でその成果を発表しました。日本での評価は今一つでしたが、アメリカの研究者が田中さんの成果を世界に紹介しました。そしてこの研究成果を利用した質量分析機器がはじめてアメリカに納入されました。  その後、質量分析機器を購入したいという動きはなく、田中さんはいったんその研究から離れることになりました。ところがドイツの研究者らがタンパク質に混ぜる物質を研究して質量分析機器を改良すると、市場が広がりはじめました。田中さんはイギリスの関連会社に出向して、再び研究に携わるようになりました。田中さんが開発した質量分析機器は世界各国の研究室で使われるようになり、日本国内でも「島津製作所の田中さんが開発した手法は、タンパク質の研究にはなくてはならないものだ」と評判になりました。     田中氏が2018年にNature誌に掲載された論文「血中のアミロイドβ関連ペプチドをバイオマーカーとすることで果をだすことができた。
国立長寿医療研究センターなどの共同研究)は、15年以上かけて地道に基礎研究に取り組んできた田中氏らのチームの勝利といえる。
アルツハイマー病患者の脳には発症20年以上前から異常なたんぱく質が蓄積され始めるのだという。
2月17日(日)放送の平成史スクープドキュメントでは、ノーベル賞受賞後、苦闘を続けてきた田中耕一さんに迫ります。

通常、経済成長を遂げている国では、成長に伴い個人金融資産が増える。そのうちの何割かが預金だ。その預金の何割かが国債購入に回る。したがって経済が成長している限り国債購入の新しい原資が生まれる。しかし日本はこの10年間、個人金融資産が増えていない。これでは新しい購入原資が生まれてくるはずがない。では、なぜ今まで毎年何十兆円もの国債購入原資が生まれていたのだろうか。それは日本銀行の購入に加えて個人金融資産の配分変更によると考えられる。景気が悪かったので、金融機関が融資をはがして国債購入に回す。株式を売却して国債を買う、というようなことをやってきたのだと思う。個人が株式市場から銀行預金に切り替えるということもあったかと思う。このような配分変更では、いつかは壁にぶち当たる。そろそろ壁にぶち当たると思う。国債購入原資がない。それが未達という現象で表れるのだ。 株・債券・円のトリプル安が襲う 国債の大半は毎月の入札によって販売されている。この入札で予定額が集まらないのを未達という。入札結果は午後1時に発表となるが、国債未達のニュースが流れれば、瞬時に国債先物市場は値幅制限まで下落し、ストップ安となるだろう。このストップ安は何日も続くものと思われる。先物市場と現物市場の間は裁定が効くために現物債も急落(長期金利が急騰)する。同時に株の先物市場もストップ安をつけ、同じように値がつかぬまま数日間続くだろう。同じ理屈で株の現物市場も急落する。これに伴い円も急落すると考えられる。このような国の通貨は誰も欲しがらないからだ。こうして、とどまるところを知らない「株・債券・円」のトリプル安が私たちを襲うのだ。 ハイパーインフレと取り付け騒ぎ このニュースと同時に銀行では取り付け騒ぎが起きると考えられる。国債が暴落すれば金融機関の資産価値暴落で預金がまともに返ってくるか心配になるからだ。ゆうちょ銀行などは預金の8割を国債購入に充てているわけだから国債が暴落すれば預金の返済原資がなくなる、という発想は多くの人が共有することになるだろう。ペイオフなど一定の程度の国の保障があるといっても、国自身が危ないのだから預金引き出しに走るわけだ。こうなると政府・日銀は事態沈静化に動くだろう。入札で民間金融機関の代わりに日本銀行が購入する。そうやって、日銀は財務省に金を渡し、国は国家公務員の給与支払いや子ども手当てのお金をやっと確保する。この日銀の国債買取りは「国債引き受け」と言い、過去にハイパーインフレを引き起こした経緯から現在は法律で禁止されている。しかしこのような非常事態では法律改正が早急に行なわれ、「国債引き受け」を可能にすると思う。また取り付け騒ぎも早急に沈静化しなければならない。沈静化のために日銀が民間金融機関に資金を大量供給するだろう。これは日銀が民間金融機関保有の国債を買い取ることによって資金を大量供給する形をとるのだ。 これらの緊急処置により、銀行の取り付け騒ぎは収まると考えられる。しかし、これだけのお金が世の中にばらまかれればお金の価値は急落する。タクシーに1回乗れば100万円がなくなってしまうハイパーインフレの時代の到来だ。日銀が莫大な現金を市中にばらまいた結果だ。 ハイパーインフレの結果、国の借金は一挙に解決する。その代償として国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。そして数年後、がらがらポンの後の日本は目覚ましい経済発展を遂げているだろう。 「その日」はいつか 未達がいつ起こるかは残念ながら予測できない。次の大きな山場は「2011年度の予算案作成時期」とも考えられるが、5年後であっても驚かない。大地震の予報と同じなのだ。「起こる確率は高い。でもいつかは分からない」というところだ。