自分のオキテにて

中国の秦国の政治家・商鞅は、徳治を唱える儒家と対照的に、厳格な法による統治を説く「法家」の一人で、秦の孝公に仕えた人物である。
国政改革では法にもとづく信賞必罰を徹底した「法家」が主体となったが、孝公が没するヤ商鞅は「政敵」たちから激しい追及を受ける。
彼は都を脱出して函谷関で宿に泊まろうとしたが、宿屋の主人は彼の正体を知らずに「通行手形をもたない者を泊めては商鞅の法で罰せられる」と断ったという。
つまり、自分の作ったオキテで裁かれたのだ。
自民党は、小泉政権時代に「100年安心年金計画」をスローガンに掲げた。
そして最近、金融庁に人生100年を前提に、どれくらいの資力が必要かと数字を出させたら「65歳以上夫婦で2000万円の貯蓄必要」という試算がでた。
そんな貯金が作れそうもないという不安が噴出。 麻生大臣は従来の「政府のスタンス」とは違うという理由で報告書を受け取らず、「もっと丁寧に仕事をしてほしい」という苦言までだした。
選挙前に出す数字として不適切と判断したのだろうが、この場合の”丁寧な仕事”とは、「ちゃんと忖度しろよ」というように聞こえる。
だがこの試算は厚生省自身がだした「年金だけでは5万円不足する」という数字から算出したものだとわかった。
唐突に韓国の「ナッツ・リターン姫」を思い出した。
飛行機でのナッツの出し方が悪いと飛行機ごとを退きかえらせた。ところが客室乗務員はマニュアルどおりにやっていたことが判明。
マニュアルを読んでいないのはナッツ姫の方だった。
政府が作成を命じた「報告書」はそのまま政策に生かすのが慣例で、中身を見ずに「突き返す」など前代未聞、ナッツ・リターン姫にまさる横暴さ。
麻生大臣を、「エア・リポート大臣」とでもよぶべきか。(注:エア「空気」)
厚生省試算の「月額5万円不足」を受け入れれば、65歳で2000万円の貯蓄が必要というのは、ごく自然な数字である。
だから報告書は「働いて稼ぐなり、若いときから蓄えを持つべく自助努力も必要だ」ということだ。
政府がすべきことは、報告書の数字が人々の不安を助長するなら、国民の不安を少しでも軽減することだった。
例えば、試算のモデル世帯はあくまで「夫一人働きの夫婦」であることなどである。
野党の質問の中に、政府はいつ「公助」から「自助」に代わったののかという質問がでた。
野党だって、国民はすべて「公助」で賄えるとまでは思ってはいないだろう。
、 今日の未来予想図の中で、30年後に、AIの能力が人間の能力に勝る時代、いわゆる「シンギユラリティー」で多くの雇用が失われる可能性があるにもかかわらず、100歳までも安心な年金プランなどというなど誰も信じていない。
むしろ政府は、金融庁の報告書を国民の前に提示して、しっかりと「未来への備え」を説明してほしかった。
昔、地域にあった共同体は壊れているので、このICT社会の共同体はシェアすることが大きな手段となっていく。
少しの隙間も、所有物でも、空いてる時は、他者と貸し借りをしつつ生きていくということだ。
そういう場合、遠方からの貸し借りはできないので、駐車場でも押入れでも、やはり比較的近い範囲で緩やかなコミュニティができていきそうな気配である。
つまり人々は「公」はとてもたよりにならず、「共」に切り替えて生きようようとする時代なのだ。
「新学習指導要領」で、社会科に「公共」という科目ができるそうだが、なかなかシンボリックである。
「物価上昇率2%実現」同様に「100年安心年金計画」のスローガンが、オキテ化するとかえって政権の命取りになりうる。

、 ソフトバンクの孫正義が19歳の時に立てた、次のような「人生50年計画」が思い浮かぶ。
それは、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1千億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、 60代で事業を後継者に引き継ぐ」というものである。
現在70歳の孫氏は、後継者選び以外は、ほぼスケジュールどおり進んでいるのは驚きだ。
ただ、これは個人の将来設計なので何の問題はない。
中国の習近平のように終身で権力が維持できるように法を変える権力者もいるくらいで、権力を後進に譲ることは、それほど容易なことではないようだ。
引き際の潔さを称賛されたアノ本田宗一郎でさえも、である。
本田技研工業創業者・本田宗一郎には、血族を会社にいれないという自分のオキテに従い後継を社員から選んだ。
1973年60代で45歳だった河島喜好に社長の座を譲っている。
しかも退任後は会長ではなく、実権のない名誉職・最高顧問に就任している。
本田は社長を引いた後、役員会に顔を出すこともなく、みずからが創業したホンダという会社を、若い経営者に完全に任せている。
好きなことしかやらないという宗一郎だけに、その欠けた部分を補う人物を必要とした。
それが藤澤武夫で一度会っただけで常務に迎え、経理や販売について全権委任した。
この点を聞かれた時に本田は、藤澤は自分にないものを持っている。考え方は違うけれど、違うからこそ組む価値があるといっている。
引退を決めたのも、この藤澤の助言だった。
本田はホンダの創業者であり、誰もが認める天才技術者でもある。
スーパーカブ(バイク)による大成功を収めたホンダはそれを足がかりに四輪事業にも参入しN360を皮切りに成功を収める。
当時「マスキー法」という非常に厳しい「排ガス規制強化」が行われると決まったとき、宗一郎は「千載一遇のチャンスだ」と社員に言って聞かせた。
当時その規制をクリア出来る車は一台も無かったからだ。
それは後発メーカーであるホンダがトヨタやフォードといった老舗メーカーと同じスタートラインに立つ事になるからである。
結果的にCVCCエンジンの開発により何処よりも早く解決し世界から絶賛された。
社長とはいえ、ホンダを「実質的」に支えていたのは宗一郎ではなく若手技術者達。
その筆頭として挙げられるのが中村良夫(初代ホンダF1チーム監督)、久米是志(後の三代目社長)、桜井淑敏(後のホンダF1優勝時の開発責任者)の三人であった。
その若手技術者と宗一郎の考えの違いが決定的になる局面こそがCVCCエンジンの開発であった。
「空冷には限界がある。これからは水冷の時代だから水冷エンジンに移行すべきだ」と説得されるが宗一郎はこれを頑なに拒否。
「ホンダの独創性は"空冷エンジン"にある」との信念を抱き続けてきた本田宗一郎。
研究所で陣頭指揮に立つ本田は、その空冷エンジンを搭載する市販車開発において、エンジニアに何度も設計変更を指示する。
現場はその都度、仕事が滞って混乱してしまうということが起こった。
若手技術者には「空冷は時代遅れ」という認識があり、「空冷水冷論争」が起こる。
過去にすごい成功体験を持っている強力な創業者が技術のトップに立っていると、行くところまで行かないととても止められない企業体質が生じることはどこでも起きることだ。
手段であるはずの”技術”が目的になり、新しい空冷技術を商品化した新車「H1300」は大衆にアピールせず、販売は不振をきわめた。
聞き入れてくれない宗一郎に対し、若い久米は宗一郎と唯一対等なホンダのナンバー2である藤澤や一番弟子である河島に直訴し、宗一郎が改めるまで「出社拒否」をすることにした。
若手の技術者が集まって、本田にどう反省してもらうかを議論するが、その場に本田の朋友で副社長の藤澤武彦も招かれた。
藤澤は研究所の幹部からもじっくり話を聞いて「水冷に分がある」と再認識した。
かつて、藤澤は本田から「技術については口出ししないでくれ。その代わり、俺はカネのことは口出ししない」と言われ、ずっとそれを守ってきた仲であった。
それでも藤澤は、初めて聖域に踏み込む。
見かねた藤澤が”お互いのやる事に口出しをしない”という約束を初めて破った。
トヨタやフォードにも勝てると喜んでいた宗一郎に対し桜井が言い放った。
「排ガス問題は人類全ての問題であり、一企業が利益を生むために利用する問題じゃない」。
「会社のために働くな、社会のために働け」といっていただけに宗一郎は返す言葉も無かったという。
藤澤は、「貴方は技術者でいるべきか?それとも社長でいるべきか?」と問うた。
それに対し、本田は「社長でいるべきだろう」と応え、元々引退を考えていた宗一郎は第一線からの引退を決意する。それを受け創業当初から一緒にやってきた藤澤武夫も身を引く。

池井戸潤の「倍返し」という言葉が有名になったドラマ「半沢直樹」で描かれた、金融庁の抜き打ち検査にまつわる人間ドラマは面白いものがあった。
ちなみに、「下町ロケット」で町工場で働く職人達の姿を描き直木賞を受賞した池井戸潤氏は三菱銀行出身だけに、工場の経営実態をハダで感じうる立場にあったことが大きいであろう。
ところが、金融庁で顧問をし、日本振興銀行を設立した木村剛会長逮捕の実際の顛末はドラマ並みに面白い。
なにしろこの会長は、自分が作ったオキテで逮捕されたのだから。
木村剛は、あの「小泉・竹中」時代に、金融庁顧問として金融の「再生プログラム」(竹中プラン)や「検査マニュアル」の策定を主導した人物。
日本振興銀行は、日本史上「ペイオフ」が発動された第1号として名を残すこととなった。
思い浮かべるのは江藤新平で、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
自らが整備した警察の「写真手配制度」によって逮捕された第1号こそが江藤新平であった。
さて第一号の「ペイオフ」発動で、全預金者12万6799人中3423人の人々が、1000万円以上の分は保護されなかったということになる。
日本振興銀行は、2004年4月に中小企業向け融資専門の銀行として開業した。
「中小企業の救世主」と同行を持ち上げる世の中の雰囲気もあった。
日本振興銀行の経営を主導してきたのは、小泉政権下で竹中平蔵金融担当相のブレーンとして金融庁顧問も務めた木村剛である。
2003年当時、銀行による「貸し渋り」や「貸しはがし」が問題視されていた。
日本振興銀行は、金繰りに悩む企業にお金を貸してくれる銀行がセーフティネットとしても必要であった。
とはいえ日本振興銀行の開業は、予備免許の申請からわずか8カ月後という異常ともいえる速さだった。
ナゼこんなことが可能になったのか。
いわゆる「竹中プラン」でなかで、「中小企業の資金ニーズに応えられるだけの経営能力と行動力を具備した新しい貸し手の参入については、銀行免許認可の迅速化を積極的に検討する」という一文が盛り込まれた。
日頃、銀行は「雨の日に傘を取り上げ、晴れた日に傘を貸す」などと揶揄されるだけに、融資を受ける側から見れば、もしも雨の日(不況時や業績悪化時など)に積極的に傘(資金)を貸し出してくれる銀行があれば、確かに理想的な話ではあった。
この「竹中プラン」を作ったプロジェクトチームの主要メンバーこそが当時金融コンサルタントだった木村である。
日本振興銀行は、設立目的が「資金繰りに悩む企業への支援」となっていることで、他の銀行には無い少し変わった特徴があった。
資金繰りに悩んでいた企業の多くが中小企業であったことから、貸出先は中小企業のみ。さらにその資金源となる預入は、定期預金のみとなっていた。
そして、その定期預金の金利がとてつもなく高かった。
一般の銀行では、10年の定期預金で金利2.0~2.2で%で、日本振興銀行の10年定期の金利は、およそ2.5倍~14倍も有利だった。
なぜそれほどまでに金利が高かったかといえば、「貸し出すリスク」が高かったということ。
銀行は「貸出金利-預金金利=銀行の利益」である。
ところが日本振興銀行の場合は、「資金繰りに悩む企業への支援」を目的に設立された。
それらの企業は、通常の銀行からは借りられなかったリスクの高い相手であるため、その分金利は上乗せするので、貸出金利が高くなる。
高金利のもう1つが資金調達手段で、資金をいつでも引き出せる普通預金と違って、定期預金は一定期間払い戻しをしないことを条件に銀行に預けている分リスクがあるからである。
日本振興銀行は、「預金」に関してもソノ理念が大きなアピールポイントになったはずだが、そうした努力は見当たらず、有利な運用(高金利)ばかりを訴えていた。
そんな高金利でも預金は思うように集まらなかった。
日振銀の経営不振の理由の1つは、日本振興銀行が進めた「中小企業」の資金貸し出しの業務に、かつて金融監督庁の委員としてシメアゲタ大手の銀行が進出してきたことがアダとなった。
そして、サラ金まがいの商法に頼ったことで、法令違反が次々に発覚し、「メール削除」などで金融庁の検査を妨害したとして、木村氏は銀行法違反(検査忌避)の疑いで逮捕されるに至った。
木村剛は、小泉首相・竹中平蔵のもとで経産省の下で「金融検査基準」を設定した当人だったのだ。
したがって、実質的に自分が策定したオキテつまり「商鞅の法」で罰せられることになったのである。
世の中には、「押し売り禁止」のフダを押し売りして逮捕されたりする人もいるが、木村が書いた本のタイトルが皮肉すぎる。
「粉飾答弁」「小説ペイオフ~通貨が堕落するとき」「退場勧告~居直り続ける経営者たちへ」など。
さて、日振銀の破綻処理にあったのは社外取締役から社長に抜擢された小畠晴喜という人物であった。
小畠は第一勧銀(現みずほ銀行)の経営刷新の実績があり、木村に誘われて日本振興銀行の社外取締役を2004年から務めてきた。
当時の木村剛会長・西野社長らの経営陣の逮捕で、それまで社外取締役であった小畠が急遽、日本振興銀行の2代目の社長に就任し、事後処理にあたった。
ところで小畠が第一勧業銀行時代の1997年、総会屋への「利益供与事件」で渦中にいた第一勧銀・元会長の宮崎邦次(67歳)が命を絶った。
宮崎は親分肌で細かいことを気にしない人柄であったが、自分が会長だった当時、次期頭取に内定していた副頭取を含む副頭取経験者3人を含む10人が逮捕されて、口数もすくなくなったという。
実は、小畠はこの時、広報部次長の地位にあって事件に関わっている。
作家の高杉良は、後に経営刷新に動いた四人組をモデル「金融腐食列島」を書いたが、その四人組のモデルの一人が小畠晴喜である。
この小畠自身も、後にビジネス小説作家「江上剛」として知られている。
ちなみに、シンガーソングラーターの小椋佳は、第一勧銀の銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長などを歴任しているが、1993年に退職している。