血のなせること

1970年代、「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンと重なるように、横溝正史ブームが起きた。
「犬神家の一族」のおどろおどろしい世界から感じられたのは、人間は自分の意思で行動しているようで、実はその人に流れる「血」が、それをなさしめているということ。~そうした世界観。
豊臣秀吉による島津征伐の昔、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、"矢"が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久の血筋で何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代この儒者の家系から広津柳朗という作家が生まれた。
日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能のおもむくままに犯罪を犯す人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
ただ、広津はもともと作家ではなく、文芸評論家として執筆活動を始めているので、検事調書が創作ならば、広津のそれは文芸批判の一環ということになる。
その際、広津の戦う道具はペンであり、最大の武器は言葉に対する鋭い感性であった。
日本がGHQに占領されていた1949年、鉄道に関わる不可解な事件が相次いだ。~~下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月の松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって工作したことは明らかであった。
こうした謎に満ちた三事件に共通した点は二つ。
第一は事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたこと。
実際に鉄道における定員法による大量馘首問題があったため、国民の大半は共産党の仕業という政府談話を信じた。
第二の共通点は、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる英語文字が刻んであった。
とはいえ、その広津自身は一般民衆と同じように、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による無実の訴えの文集「真実は壁を透して」を読んで、この文章には、一片のカゲリもないと直感したことからである。この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その陰りのない透明さに、犯罪者とはどうしても思えなかったことにはじまる。
しかし広津はあくまで小説家であり、「刑事事件」の専門家ではない。当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「おいぼれ作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津は松川裁判の虚偽性を暴くために、新しい証拠を見つけたり、極秘資料を探したりしたわけではない。公開された資料自体は極めて少ないものであった。
広津はあくまでも「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の虚偽性を追及していったのである。
だから、広津の最大の武器は、論理的思考と文学者としての「言葉」に対する嗅覚あったといえる。
裁判記録は、文学者が使うような想像をかきたてるような言葉ではなく、かなり乾いたものだが、言葉であることに変りはない。
広津は言葉の端々を吟味しながら、その乾ききった「言葉」の背後にある生々しい真実を暴いていった。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から架空の組合員による「共同謀議」にもっていこうというプロセスを浮彫にしていった。
特筆すべきは、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を明らかにした点。
ところで、広津の処女作は「神経病時代」という作品で、アイデンティティ(自己同一性)を保つことのできない青年を描いている。
広津はそういう作家的な関心をバックに、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより”自己喪失”していった青年心理を見抜いたのである。
被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的根拠に基づくものではないこと。
同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
後に、広津の「松川裁判」は文庫版で三冊におよぶ大著として出版された。
これにより、最初に結論ありきの「国策捜査」であったことを明らかにした。
第一審、第二審でそれぞれ死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津自身の言論活動にかかっていたのである。
しかし、広津の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ世論を動かしていった。
そして、ついに松川裁判の被告の「全員無罪」という最高裁判決がでる。
作家の広津和郎は、この松川事件の裁判批判を終生のテーマとした感があるのだが、何がそうさせたのであろうか。
広津自身は、「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津和夫がペンをもって国家権力と戦ったことは、たとえ敗北が決定的でも、なんとか豊臣秀吉に対して一矢報いようとした島津蔵久に通じる「血の顫動(せんどう)」のようなものを感じる。

2015年、国立科学博物館などのグループが「草の舟」を作り、およそ3万年前人類はどのように今の台湾から沖縄に渡ったのかを検証しようとした。
目的地の西表島を目指したものの舟は潮に流され、伴走船に引かれることになったのだが、2019年6月再チャレンジしてようやく渡航に成功した。
個人的に注目したのは、このグループのリーダー「海部陽介」という名前であった。
実は海部氏は伊勢神宮のルーツにあたる京都丹後の「籠(こも)神社」の創立者で、さらに伊勢神宮(三重県)と熱田神宮(愛知県)の代々宮司である。
両神社は伊勢湾を挟んで向かい合う場所に位置するが、いずれも日本の皇室の「三種の神器」のうちのひとつが収められていることに注目したい。
現在では、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されているが、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は熱田神宮に、「八咫鏡(やたのかがみ)」は伊勢神宮の皇大神宮に、それぞれ神体として奉斎されている。
したがって、海部氏は「三種の神器」の実質的な”管理人”とでもいってもよい存在なのだ。
籠神社の現神主は、初代から海部氏としての血脈を嗣ぎ82代目にあたる。また、愛知県で代々熱田神宮の宮司を務めている尾張氏は、海部氏から分家した一族である。
そして、この駕籠神社は、我々馴染みの「かごめ歌」との関連が指摘されている。
多くの人々は、「かごめかごめ」と手をつないで歌いながら、目を塞いでしゃがんでいる友達の周りを歩きまわり、最後に「後ろの正面、だーれ?」と歌って、後ろにいる人の名前を言い当てる遊びをしたことを覚えているにちがいない。
「かごめ歌」には、「夜明けの晩に」「鶴と亀がすべった」「後ろの正面」など、奇妙な表現が含まれているにも関わらず、教育にも取り入れられ親しまれているのは、かえって驚きである。
実は、この歌には、日本とははるか遠い古代イスラエルとの関連が秘められているという説さえもある。
では、遥か遠い日本とイスラエルとの間にどんな繋がりがありうるのか。
古代イスラエルは、ローマ帝国の攻撃によりAD70年に離散し、以後イスラエル12部族のうち10部族は「契約の箱」と共に行方不明で、その移動の痕跡はシルクロードに残存している。
そのシルロードの終点が奈良の正倉院で、京都「平安京」はエルサレムと同じ意味で、琵琶湖の「琵琶」は、イスラエルの「がリラヤ湖」のふるい名前「キネレテ湖」と一致している。
「かごめ歌」で、鬼に選ばれた友達を囲むというこの遊びから、「カゴメ」の語源は、「囲む」ではないかという説がある。
漢字で「籠目」とも書き、その言葉から三角形を上下逆方向に重ねた形をしたカゴメ印を想像する。
そのカゴメ印は江戸時代、籠目紋として家紋にも使われ、大正時代ではケチャップで有名なカゴメ株式会社の商標ともなった。
イスラエル国旗に描かれているダビデの紋は、カゴメ印と同じ三角形を上下反対に重ねた「六芒星」である。
さらに日本の皇室と同じく、古代ヘブライ王国も「三種の神器」が王室のシンボルとなっている点で共通している。
その三種の神器とは、「十戒の石板/マナの入った壷/アロンの杖」で、契約の箱に収められ、ソロモン王が建てた神殿の至聖所に置かれていた。
ただ、「出エジプト」の時のようにイスラエル人が移動する時は、「契約の箱」を担いで運んだ。
また、その「契約の箱」を運ぶ姿は、日本の神輿担ぎによく似ている。
また、伊勢神宮とイスラエルの神殿(幕屋=移動神殿)は、構造がよく似ていることから、古代イスラエルと日本に何らかの繋がりがあるのではないかという思いにかられる。
古代イスラエルの「幕屋」は宿営地の移動とともに建て直すのだから、伊勢神宮における「式年遷宮」のことさえも思い起こさせる。
ところで「かごめ歌」にある「籠の中の鳥」という表現が、「契約の箱」を意味しているという説もある。
箱の上にはケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の”護り神”が向き合って、聖なる箱を守護したことが聖書に記されているためである。
さて、海部陽介をリーダーとする「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、次のような趣旨で立ち上げられたものである。
最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやって来た。それは、アフリカを旅立ったホモ・サピエンスが、陸域を越えて海にも活動域を広げながら、世界中へ大拡散した壮大な歴史の一幕だった。
この祖先たちの海への挑戦をできる限り具体的に解き明かしたいということ。
このプロジェクトの発起人である海部陽介の視野は旧石器時代まで遡るので、古代のイスラエルを意識したかどうかはわからない。
ただ古代の”海部族”は、イスラエルの神殿(幕屋)と非常に似た形をした建造物を建て、イスラエルと似通った「三種の神器」のうち二つの守護者なのである。
さて、愛知県には県の西部に「海部郡」という地域がある。籠神社のある丹後半島あたりからやってきた海部族の人々が住み着いたためにこの名がついた。
昭和が平成へと変わった1989年、内閣総理大臣に就任したのが、愛知県出身の海部俊樹であった。
そしてプロジェクト・リーダー海部陽介の父は天文学者の海部宣男で、海部首相の従兄弟の関係にあたる。
その海部首相が1990年、奇しくも日本国憲法下での初めての行事となる平成天皇即位の礼・大嘗祭などをこなしている。
海部陽介を3万年も昔のグレート・トラバースへと駆り立てたもの、それは内なる血のさわぎによるものではなかったか。

西本智実は1970年4月大阪で生まれ、168センチの長身、彫りの深い端正な顔だち。
大阪音楽大学作曲学科卒業後、1996年にロシア国立サンクトペテルブルク音楽院に留学した西本は、イルミナート芸術監督兼首席指揮者等、名門ロシア国立響及び国立歌劇場で指揮者ポストを外国人で初めて歴任、約30か国より指揮者として招聘されるほどの世界的指揮者である。
2013年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の一角で、日本人約300人の合唱団が集まった。
西本がタクトをふりはじめると、厳かに大合唱が始まった。
その祈りの歌は、『ラウダーテ・ドミヌム』『ヌンク・ディミッティス』『オー・グロリオーザ』の3曲である。
それは、ヨーロッパのカトリック教会で古くから歌われ、クラシック音楽の原型にもなったといわれる「グレゴリオ聖歌」だった。
それがなぜか、ヨーロッパから遠く離れた日本の長崎県の小島にひっそりと残っていたのだ。
隠れキリシタンが日本語として唱えてきた祈りの歌「オラショ」として450年にわたって伝えたもの。
オラショがカトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂でよみがえったとき、枢機卿も大司教も、神父たちも口々に「これは東洋の奇跡だ!」と語った。
それは、江戸時代、キリスト教弾圧期の260年間、密かに信仰を受け継いできた潜伏キリシタンの集落に世界的な価値があったとことの表明であった。
同時に、平戸が世界遺産に認定されるために重要な役割を担ったのが、隠れキリシタンの存在であり、彼らの信仰を支えたものこそ、オラショを唱える儀式であったのだ。
平戸市の中江ノ島は、平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。
それではなぜ西本智美が、長崎県の小さな生月(いきつき)島のオラショの存在を知り、バチカンで演奏することになったのか。
実は西本のルーツは生月島にあり、曽祖母は、壱部という集落で暮らしていた隠れキリシタン一族の末裔だったという。
西本は大阪で、祖父が何度か平戸に足を運んだことや、捕鯨が盛んだった生月島のお土産にクジラのひげを買ってきてくれたこと、そして曾祖母が美しい人で琵琶をひく人であったこと等を聞いて育った。
オラショのことも祖父から聞いてはいたが、その原曲が「グレゴリオ聖歌」だとは知る由もなかった。
実は、オラショのうちの『オー・グロリオーザ』の楽譜は、音楽史家の皆川達夫氏が発見し、16世紀にイベリア半島で歌われていた「グレゴリオ聖歌」であることが突き止められていた。
バチカンからの招聘状が届いたのは、まさに西本が「オラショの起源」を知るのを待っていたかのようなタイミングだったという。
国際音楽会と枢機卿のミサでも指揮する機会を与えられ、「あなたが演奏したいミサ曲はありますか」と聞かれ、生月島のオラショのことを話した。
バチカンとしては、ヨーロッパに存在しない聖歌が、日本で残っているなどにわかには信じられないことだった。
バチカンより、それが本当に聖歌だったのか、聖地で演奏するのにふさわしい曲なのか調べてみますとの返答があった。
その数カ月後、生月島の3曲のオラショの原曲が「グレゴリオ聖歌」であったと判明したので、ミサで演奏してくださいという知らせが届いた。
なんたる光栄か、西本はサン・ピエトロ大聖堂で合唱によるオラショを披露することになったのである。
西本は、自分がめざした音楽の道には果たすべき役割があったのだと感無量であったという。
2013年の初演以降、彼女は毎年バチカンに招かれ、演奏を続けているが、この活動こそは2015年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録への布石となった。
これら一連の出来事の経緯は、西本の内なる血のなせるわざか、はたまた神の導きか。

生月島の隠れキリシタンの特徴は、仏教や神道も並行して信仰する“信仰併存”だった点です。禁教となっても、表向きは仏教や神道の葬祭をしながらオラショを唱えてきた。
宣教師は追放されていなくなったため、信者にはオラショを変えていく手だてもなく、原型そのままの形で島に残り、継承されてきた。