儒教と香水

香水は人肌のヌクモリによって変化するそうだ。
最初に飛び出すつけてから匂いだす揮発性の高いトップノート、次に30分くらいかかってもっとっもバランスのよいカオリが出るハートノート。
最後に、約3時間以降に持続するように残るラストノートで、「残り香」といわれるものである。
ここで「ノート」とは”~調”ぐらいの意味であるが、一つの香水に「いくつも表情」が隠されているということである。
そんな香水には、凡庸なイメージの名前は似つかわしくないのか、「矛盾」「妄想」「羨望」「強情っぱり」「 禁断」「 阿片」「 爆薬」「優しい毒」 あげく「強迫観念」「阿片」など過激で挑発的な意味をもつものまである。
そして「令和」の幕開けで感じた、儒教の香水との共通点。儒教は、香水のように幾つもの表情をもって染み渡っているということ。
天皇の名前にも、裕仁や明仁のように儒教の中心徳目である「仁」という名がついているし、"元号"も中国の儒教の書「四書五教」からとっている。
また、皇室典範にいて「男系天皇」のみを認めるというのも、女性国会議員の比率が極端に少ないのも、それと関係するであろう。
我々の日常を顧みても、男が上座に座って、女性がお酌するのが普通という感覚があったり、母親が外出したら旦那の機嫌が悪くなったりする。
誰も儒教を習ったわけではないのに、儒教は繰り返されるうちに日本人に染みついたラストノートのようなもの。
儒教的な要素は日本では幾分緩和されているが、儒教の本場中国には"劇薬"に近いトップノートもある。
それが中国の近代まであった「纏足」(てんそく)という悪習。「纏足」とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし「纏足」は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできた悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
周恩来首相は、当時"卓球世界一"の日本からコーチを招いた際に、卓球というスポーツを通じて「纏足」という悪習をなくしたいと語っている。
さて、日本人の大半は、先祖供養は仏教本来のものであり「シャカの教え」であると信じているが、先祖供養もお寺にある墓も、毎年定期的に行われる「お盆」の行事も、シャカの教えとは無関係である。
さらに、死者の遺影や位牌やお棺に向かって手に合わせているのは、実は仏教ではなく儒教のマナー。
本来のインド仏教には、墓石(墓標)を立てることや墓参りなどはせず、仏像でさえ作らない。
実は、日本の家庭に見られる「仏壇」は、仏教本来のものではなく、儒教における「祠堂」がミニチュアとして取り入れられたものなのである。
また仏壇や寺に安置される「位牌」も、儒教の「招魂儀式」で呼び寄せた祖先の霊を憑かせる「神主依代」を模倣したもの。
儒教では子孫が絶えることを何よりも嫌う。その理由は、自分を祀ってくれるものがいなくなると困るからである。
しかも祀るものは「男系」でなければならない。したがって「女性の役割」は男の子を産むことであり、それができない場合は他に”第二夫人”を作ってもいいことにもなる。
仏教はシャカの悟りから出発した「シャカの教え」であることはいうまでもないが、本来の仏教は「輪廻思想」を大前提としている。
シャカは、生・老・病・死という「四苦(しく)」は人間の宿命であり、この世に生まれて生きること自体を苦しみだとした。
仏教が目指す最終目的は「悟り」を得て輪廻のサイクルから抜け出すことで、それにより本当の幸せになれると考える。
仏教におけるさまざまな修行は「輪廻」から抜け出すことを目的としたもので、少なくとも「生者のための仏教」である。
シャカの教えでは「死とともに肉体は単なる抜け殻になる」として、死体は無用のものだから「火葬」にして捨ててもよいということになる。
仏教では、死後は「中有(ちゅうう)」という時間に入ると考える。その長さは49日とされ、その間に次に生まれる場所が決められる。
そこで少しでもよい所に生まれ変われるように、僧を通じて供養する。
供養は初七日に始まり、7日毎に行われ、49日目に、本人の生前の行為・善悪に応じて生まれ変わる所が決まることになる。
そして生まれ変わる処というと、6つの候補となる世界がある。
すなわち「天上界」「人間界」「修羅界」「畜生界」「餓鬼界」「地獄界」である。
いずれの世界に生まれ変わるにせよ、輪廻のサイクル内にとどまる以上は、苦しみの生活が続くことには変わりない。
「解脱」して仏とならないかぎり、すなわち「成仏」しないかぎり、いつまでも輪廻のサイクルを抜け出すことはできない。
シャカは解脱した「仏」のひとつにすぎない。
となると、すでに生まれ変わりを果たしているのなら、当然「先祖供養」そのものが意味をなさないし、抜け殻である肉体や骨は用のないものとなる。したがって、墓も必要ないということになる。
つまり、「輪廻」と「先祖供養」は本質的に相反する。
結局、仏教と儒教の違いは、厳しい環境のインドでは死は”解放”を意味するが、中国では現生での快楽を肯定するという出生の違いにいきつく。
儒教では、死んだ人をすぐに忘れるのではなく、生を肯定するがゆえに、祖霊もまた、現生との繋がりをもつと信じる。
さて、先祖霊への崇拝を土台とする儒教は、中国民衆の心をつかみ、外来のインド仏教と鋭く対立することになった。
やがてそうした仏儒の抗争の中で、仏教サイドが譲歩し、輪廻思想とは全く無関係な先祖霊崇拝・先祖霊信仰を取り入れるようになったのである。
その際、仏教サイドが考え出したものが「偽経(インド原典のない仏典)」だった。
インド仏教と違うことを教えとするために、新たに偽の経典をつくることを思いつく。
偽経の代表が「盂蘭盆経」と「父母恩重経」で、前者はお盆の行事の根拠となる経典で、仏教における祖先祭祀の合理化をはかったものだ。
後者は現世の「孝」を説く経典で、子供を育てた父母の恩の重いことを述べたものである。
仏教サイドから、儒教の「孝」を取り入れようとした結果つくられた偽経である。
こうしてインド仏教とは異なる中国仏教つまり「儒教化した仏教」ができあがった。
こうして儒教の「先祖霊崇拝」の影響を受けて大変身した中国仏教が、日本に伝来したのである。

魯迅の弟である周作人は1906年に日本に留学した。15・16歳の少女が裸足のまま部屋を行き来するのに驚く。
これは野蛮というより、田んぼや神社など聖なる地では靴を脱ぐ風習があるからかもしれない。
また、周作人は、温泉や銭湯で裸をみせるのをいとわない日本人の習慣を知り、儒教的な道徳観が根強い中国との違いに気づく。
儒教では、自然的世界は未開・野蛮なものであり、人間の手が加わった人工・人為的世界こそが優れたものなのである。
それに比べると、日本人は自然そのもを神として崇め、作庭や料理などにおいても、できる限り 自然の素材を生かそうとする。
日本で儒教は朱子学の形而上学的な教えではなく、体に染み込んだ習慣となっている。その一番の理由は、日本人が論理的(哲学的)であるよりも、ものごとを感覚として受け取る面がつよいからだ。
また、儒教が「武士道」といういわば「行動学」として身についたことが大きいであろう。
武士道は、君であれ臣であれ名誉のために命をかけて物事に臨むこと。つまり死を恐れぬ勇気ある精神ということだ。
武士道は中世において「兵(つわもの)の道」として始まり、「一所懸命」という言葉に集約されるが、江戸時代に太平の世となり、儒教の影響の下で戦う武士道から平時の武士道(士道)へと転換を余儀なくされた。
このような情勢の下で、山鹿素行は武士たるものは、道徳の面でも教養の面でも素養を高め礼儀を他正して、百姓・町民の模範たるべきことを説いた。
ただ「武士道」では、君主と家来との関係である「忠」に重きがあり、「孝」を重視する儒教とは幾分性格異なっている。
日本では、”藩”(現代では企業)が家族としての意味合いを含んでおり、それが「忠」に代替されているようにもみえる。
さて、儒教的社会はその皇帝に使える官吏が民間より偉くで、超難関のペーパーテスト(科挙)で選ばれたエリートである。
人間の守るべき道は儒教に示されているので、「科挙」とはどれくらい儒教を理解しているかをためす試験に他ならない。また儒教には政治的な要素も含まれているので、官吏は政治学をマスターした人間として政治に関わることができる。
そして儒教社会では「農→工→商」の身分差があるが、「士」に関していえば日本では"武士"を意味するが、中国や韓国では"官吏"を意味する。
そしてイマダに「官尊民卑」という意識が根強く残っており、職業に対する貴賤意識も強い。
それは「学歴重視」ということに表われ、日本も共通しているが、日本の教育が「知識偏重」という反省から「ゆとり教育」を行ったが、そんな悠長なことはいっていれないということだ。
儒教文化圏でも、本場に近い韓国では、皮肉なことに日本以上に少子高齢化が進んでいるという。
韓国において年齢は非常に重要な意味をもつ。したがって初対面の人には女性にも年齢を聞く。
それは全然失礼ではなく、相手の年齢を聞いたうえで、相手に対してどの程度の言葉づかいをするかを決めなけれならないからだ。
そればかりか、結婚しているのか、子供がいるのかなど踏み込んだ質問をするのもあたりまえ。
韓国では、男っぽい男性が求められ強いふりをするが、儒教的な「孝」を大切にするためか、母親の前では急に弱くなってママボーイ的になってしまうのも、特徴的である。
孝を重視する儒教において、子を大切にするということにもなり、一人の子供に教育費をかけねばならず、日本以上に少子高齢化が進んでいる。
韓国では男性には大学卒業後に徴兵制があるために、女性の方が世間知が早くから身についているので、そういう面から結婚が成立しないということもあるらしい。
日本の姦通罪は、姦通した妻だけが罰せられ、男性が姦通しても罰せられなかったのは、儒教的な毒の一つであろう。
日本では1947年に日本国憲法で、姦通罪は廃止された。
実は韓国も同じスタイルをとっていたが、今も存在する姦通罪は男女双方が罰せられることになっている。

儒教は香水のように良い香りを発する。それは、人々を勤勉(忠)にし誠実(誠)にし、思いやりのある心(恕)を育てるからだ。
しかし、社会を変革するインセンティブを抑えこんでしまうのが、儒教の最大の「毒」ということがいえそうだ。
日本が19世紀に東アジアで唯一近代化に成功できたのは、儒教の「毒気」をかなり抜く作用を本来的にもった社会であったからにちがいない。
儒教の毒の要素を薄めている部分の一つが、禅的な要素である。
「毒気にあたった」部分とは、その「解毒」作用のヒトツが、日本人は何事にもひとすじの道を歩むことを大切にする「○○道」が存在することだ。
武士道はもとより、茶道や華道、柔道や剣道。そこまでならマダシモ「料理道」から「掃除道」まで存在する。
一つの道に精進して極めることが尊ばれ、「カリスマ主婦」から「掃除のカリスマ」までが生まれることになる。
道を究めることに「貴賤はない」ということだ。
「万葉集」には、天皇から貴族、防人から一農夫までの歌が収められている。「和歌」を究めることに貴賤はない証拠だ。
道を究めるのは「精進」であり、どうあれ尊敬に値するのだ。ただ、精進だけにスポーツの世界で勝利後にガッツポーズを控えたり、喜びを露わにしないなどいうのも、日本人しかないメンタリティーなのではなかろうか。
このように、何事も道を究めようと「精進」するところは、「禅」による影響が多大であろう。
禅の世界では、「身の回り」のことに関しては何でもしなければならない。
これが日本社会で「儒教的毒気」を幾分和らげたように思われる。「○○」道の存在は、身分制社会をある程度緩和するように働いたからだ。
例えば、日本では企業の新人研修などで「便所掃除」をさせることがあり、学生にも教育的意図も含めて「掃除」が課される。
しかし外国では掃除は社員や学生のする仕事ではないと嫌がられ、拒否されることもある。
特に儒教社会ではその傾向が強く、根本的に身分制社会で、それが経済発展の弊害になってきた面がある。
ただ科挙の内容は、いわば"博識さ"を問うもので、新しいことを考えたりする創造性をためすものではない。
新しいものの考え方や多様な視点からものを考えるのは、既存の秩序を破壊するものとして歓迎されなかったのである。
そして日本的社会で、儒教的な毒を打ち消していると思われる要素は、「和の精神」ではなかろうか。
とはいっても、日本で最初に「和の精神」を説いた聖徳太子の「十七条憲法」は儒教の徳目が多分に取り入れられている。
第三条は、君主(天皇)の命をに従うべきことを、第四条は礼の精神の大切さを教えている。
和の精神は、必ずしも平等の精神ではなく、主従関係の中での和である。
釈尊は、カーストを肯定するバラモン教を改革すべく平等を説いた。
ところが前述のように、中国仏教の中に「忠・孝」の儒教的要素が入り込み、特に日本では主従関係の在り方を大きく規定するようなった。
日本人にとっての"和の精神"いうものは、そういう関係を安定させ永続させることが第一義的であり、外来の思想も、その限りで受け入れるという「緩和作用」が働くということだ。
それでは和の精神は、組織の中でどう生かされるのか。
日本は話し合いを異常に重んじる社会であり、日本の組織のトップは絶対権力をもった存在ではなく、談合権力の長みたいで、決して優秀なリーダーである必要はなく協調的な人がリーダーとなることが多かった。
それどころか、誰もが反対をしない「お飾り的」な存在がリーダーに成ったりする。
というわけで、香水がひと肌で香りを変えるように、外来の宗教でさえも"ひと肌"で性格を変えるというのが、日本社会の特質なのかもしれない。
つまり、日本人は”ひと肌”の温もりを大切にし、人と人との関係が波風たつことなく潤滑に進むことを重視する。
逆にいうと日本人は、そうした関係を揺るがすような教理や指向性を持ち込むことをブロックする。
大事なのは、人から自分がどう見られるかで、その際に一番安心なのは多数がどのように思い、反応するか。
そういう傾向は、揮発性の高いビジョンしか打ち出せない現状と関係しているように思える。