科学者達の命運

福岡県と大分県の県境に近い下筌ダムの反対闘争で知られた室原知幸だが、室原のルーツは、室町時代の豪族の末裔とも言われている。
この辺りの有力な山林地主でもうひとつの家が、北里柴三郎を生んだ北里家である。
北里柴三郎はこのたび千円札の顔となるが、千円札の野口英雄、5千円札の湯川秀樹に続いて科学者としては3人目となる。
、 北里家は、肥後国小国郷北里に依拠した中世から続く小土豪、地侍の一族。1633年小国郷の惣庄屋に任命された。
その一族は熊本県阿蘇郡小国町を中心に繁栄し、地方議員・自治体首長・弁護士・医師などを輩出して、現在も地域の指導的役割を担ってきた。
北里柴三郎は、1874年、東京医学校(のちの東京大学医学部)に入学し、在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、「予防医学」を生涯の仕事にすることを決意し、その志を実践するため、1883)年に大学を卒業すると、内務省衛生局に奉職した。
1886年からの6年間、ドイツに留学し、当時、病原微生物学研究の第一人者であったローベルト・コッホに師事し、留学中の1889年に「破傷風菌」の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見して、それを応用した「血清療法」を確立し、この功績により一躍世界的な研究者としての名声を博した。
1892年に帰国し、その翌年には後の「北里研究所病院」を設立して、結核予防と治療に尽力。また、1894年、ペストの蔓延している香港に政府から派遣された北里は、病原菌である「ペスト」菌を発見するなど、予防医学の先駆者としても活躍した。
ところで東大でアンケート人気1位の人気の科学者といえば、植物学・細菌学における世界的な発見で知られる南方熊楠(みなみがた くまぐす)である。
ただ南方に人々が魅了されるのは、学問の業績以上にその「自由奔放」な生き方である。
そこにはトラブル・メーカーというご愛嬌も加わるが、それが許されるたのは、それでけの財力があったともえる。
南方家も北里家に似て地元の名士といわれる家であった。
学位なし官位なしのいわば「無位無官」であったが、アカデミズムの牙城に果敢に挑んだのも、ある意味で怖いもの知らずの「坊ちゃん育ち」の故なのかもしれない。
南方は1867年、和歌山市で金物商の家に生まれている。小さい頃より新聞がすらすらと読める神童ぶりを発揮して評判になるが、好きな勉強以外には見向きもしない性格のため、学校の成績はふるわなかった。
東京に出て共立学校に進学し、若き高橋是清に英語を学んだ。
南方はその後、東京大学予備門にはいり、中学の頃より熱中した「菌類」の研究に没頭し、頻繁に小石川植物園に通った。
しだいに学校の勉強の方はおろそかになり、試験には落第して病にかかり、ついに親も放ってはおけず南方を故郷・和歌山に連れ帰っている。
帰郷して、故郷の山野で菌類集めをしているうちに健康が回復。そのうち、世界を駆けまわって「宇宙の神秘」を究めたいという思いが抑えようもなく膨らんでいった。
親をなんとか説得し、1887年アメリカに旅たつ。
南方の乗った船には新島襄が「密航者」としてもぐりこんでいたのもめぐりあわせだ。
南方が到着したサンフランシスコは、日本の自由民権運動の関係者が潜入し、いわば運動の「海外拠点」になっていた。
南方もその発刊誌「新日本」を購読しているが、このことが後の神社合祀反対運動を主導することと多少関係があるやもしれない。
しかし南方はミシガン州の農学校で学ぶが喧嘩の巻き添えとなり、自分がその責任を負って退校する。
この頃から資金も途絶えがちになるが、どうにか金を工面して菌類を求めてフロリダに行き、サーカス団でアルバイトなどをして生活を繋いだ。
その間、日本にはない欧米の本を貪るように読み、珍しい「菌類」を見つけては採集し、標本とした。
その後、南方と同じ和歌山出身で横浜正金銀行ロンドン支店長と手紙のやりとりをしたことがきっかけで、ロンドンに渡る決意をする。
そのロンドンでサーカス団の片岡という男との出会いが新たな道を開くことになる。
片岡は南方の博学ぶりに感心して、彼を知人である大英博物館の中世美術部長に紹介。
南方は大英博物館にいわば嘱託として自由に出入りできるようになり、研究の成果をイギリスの一流科学雑誌「Nature」に寄稿するようになる。
するとその内容が反響をよび、当代一流の学者を唸らせた。新聞でも大きくとりあげられ、学者らを論破していく。
そして激しやすい南方は、日本人を蔑視するイギリス人と喧嘩するなどのトラブルを引き起こしている。
その頃、南方の和歌山の実家の家業にも翳りりが見え、資金面でも苦しくなり帰国を余儀なくされる。
帰国後には郷里・田辺において、西園寺内閣による「神社合祀令」反対運動の先頭に立った。
南方が直接的に戦ったのは、奇しくも大学予備門で同期であり、当時内務省神社局局長となっていた水野という男であった。
そして神社合祀を推進する県使の講演会で、南方はまたもや乱闘事件を引き起こして、警察にしばらく収監されている。
南方の晩年は柳田国男との出会いなどもあり郷土田辺で学問の世界に没頭していくが、太平洋戦争勃発後まもなく、75年の生涯を閉じている。

東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。
かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の「原爆研究」が行われていた。
研究が始まったのは戦前の1941年4月。欧米で核分裂反応を利用した「新型爆弾」が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。
核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。
懇談会では「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかったが、本格化の契機になったのは仁科が1943年6月に陸軍へ提出した報告書。
核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。
後に広島に投下された原爆に相当する威力だが、陸軍はこれに反応した。
東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。
原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。
ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。
そこで、「熱拡散法」という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。
1944年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだったが、六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。
筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが稼働せず、4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。
仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。
広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。
「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た」と、科学者としての敗北感と自責の念がにじむ言葉をのこしている。
ただ家族によれば、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味でほっとしていたという。
終戦後の1946年、理研所長、戦後初の文化勲章、1951年に死去する。
ところで、仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。
陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していたが、同盟国とはいえドイツも原爆開発を進めており、なかなか許可がおりない。
ようやく認められたのは極秘電報から1年以上もたってから。
45年3月24日、酸化ウランを積んだ独潜水艦Uボート「U234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
護衛として、欧州に駐在する2人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。
バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
当時、乗組員の間でベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒが歌 う「リリー・マルレーン」がはやっていた。
乗組員らは「大洋の底に沈んでも 一番近い岸まで 歩いていこう 君のところに」と歌詞を替え、気持ちを奮い立 たせた。
キール港をたってから1カ月余り後の5月、U234の無線通信室に「ヒトラー総統自殺」や、ドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。
動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。2人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。
5月14日の夜。艦は静かに洋上に浮かび、エンジンを止めた。2人の遺体は重しとともに漆黒の海に降ろされた。10分間の黙祷がささげられた。

高橋譲吉は1854年に越中国高岡(現・富山県高岡市)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、16歳のとき大阪医学校に学び、工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業した。
1880年から英国グラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884年にアメリカ、ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出会ったキャロライン・ヒッチと1887年に結婚する。
帰国して、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立する。米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもの)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。
渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。
しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、高峰の新しい醸造法を止めようと、夜間に高橋・キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、高峰の暗殺を試みた。
その時高峰は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは高峰の研究所に侵入、結局高峰を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。
1894年、その逆境を乗り越えるようにデンプンを分解する酵素「タカジアスターゼ」を発明し、消化薬として非常に有名となった。
高峰が最初に居住したシカゴには多数の食肉処理場が存在し、この時廃棄される家畜の内臓物を用いて「アドレナリン」の抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。
アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。
高峰は1899年に東京帝国大学から名誉工学博士号を授与された。
1913年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。
1922年7月、腎臓炎のためニューヨークにて死去している。日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られなかった。
さて、ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。
毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼるという。 このサクラは日米友好のシンボルとなっている。
日露戦争の際アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
日本からサクラが送られた直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れたことがあった。
その時上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた夫人が、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したという。
そして夫人の友人であるジャーナリストや、たまたまニューヨークに住んでいた"高橋・キャロライン夫妻"などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長の尾崎行雄に伝わった。
その後、ポトマック公園にジェファーソン記念堂が建てられてサクラの木が切り倒されそうになったが、日本はすでにアメリカの敵国に転じていたのだが、アメリカ市民が女性を中心に体をサクラの木に結びつけて反対したという。
そして、その桜の返礼として日本に送られたのが「ハナミズキ」であった。
国会側の尾崎行雄憲政記念館のハナミズキの並木は、友好の「お返し」に贈られた木であったのだ。
一青窈(ひととよう)が大ヒットした「ハナミズキ」を作った直接のきっかけは、911テロに彼女の友人が巻き込まれたからだそうだ。
彼女がアメリカより日本より送られたサクラのお返しにアメリカよりハナミズキが贈られたという歴史事実を知って、911テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくったという。
彼女の友人の命は助かったが、多くの人々の死を思い、みんなの幸せを願って「君と君の好きな人が百年続きますように」という思いを歌詞に書き込んだ。