隠れた影響力

人の人格形成に何が影響をおよぼすかとらえがたい。意外なところでは、人は日頃戦っている相手に似てくるということもあるらしい。
なぜなら、常々相手の立場にたってものを考えていると、相手に似てくるということだ。
作詞家・秋元康の造語「インフルエンサー」という言葉が浮かぶが、"触媒"のような存在によって影響が広がったり、本人も気づかぬうちに何かに染まっているというようなこともある。
さて、「万葉集」は、人々の思いを自然に託して歌ったものだが、農民や防人など普通の人々の歌があり、そこに人々の生活感情というものもある程度伝わってくる。
「令和」の元号で、自宅で「梅花の宴」が開かれた大伴旅人が脚光をあびているが、いわゆる"筑紫歌壇"には、もうひとりの代表的な万葉歌人がいる。
それは山上憶良(やまのうえのおくら)。大伴旅人にとってインフルエンサーというべき存在。
山上憶良が筑前”国守”として赴任して約1年後、大伴旅人が大宰府の”師(そち)”(長官)として着任してきた。
憶良にとっては上官の旅人は憶良よりは数年若かったが、高い家門の出であり、教養も深いものがあった。
その旅人と憶良とが、互いに親愛の情を抱いているのは、その歌によって伝わってくる。
大伴旅人が大宰府に着任してまもなく、旅人の妻が亡くなった。
旅人は大宰府での勤めが人生の最後になるかも知れぬと考え、長年連れ添ってきた老妻をわざわざ伴ったのである。それゆえ、彼女を失った旅人の憂いは深いものがあったと推測できる。
山上憶良は旅人の悲しみを思い、一首の挽歌を贈った。この挽歌を通じて、二人の関係がいっそう深まり、二人の作歌活動が盛んにもなる。
「泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず」。現代語に訳すと夫に随って来たあなたは、息を引き取ってしまった。この歌は憶良が、夫の旅人に代わって嘆きを歌ったものである。
その他にも、挽歌があり憶良の"共感力"の素晴らしさが伝わる。
さて、山上憶良には、「貧窮問答歌」という代表作がある。それは、まずしい人の立場に己を置いて歌ったもので、官人でありながら民の苦しみや嘆きを歌うなど、憶良がいかに稀有な存在であるかがわかる。
それも、役人(憶良?)が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠むというスタイル。
現在の松本清張が、「社会派推理小説」というジャンルを確立したといわれるように、山上憶良は、後継者のない「社会派歌人」といえるかもしれない。
「貧窮問答歌」のほんの一部を現代語に訳すと、「人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ」。
ところで現代にあっても、古代を想像できる素朴な風景と出会うこともある。太宰府の阿志岐野という地名が残っている辺りにいくと、そう感じる。
ここは太宰府に来る者・去る者を歓迎・送別をする際の宴を開いた駅(うまや)があったところ。
吉木小学校の東側を流れている宝満川を下った辺りに阿志岐という地名が今も残っていて、阿志岐小学校というのもあるが、昔は吉木も含めて「蘆城(あしき)」であったのだろう。
よしあしは別として、「よし」と「あし」が隣り合って併存しているのは、地名が「悪しき」につながることをヨシとしなかった人々がいたからではなかろうか、と推測する。
億良が旅人を送って作った歌が、万葉集にある。
「唐人の 衣染むとふ 紫の情(こころ)に染みて 思ほゆるかも」。
現代語訳では「韓・唐人の優れた染色の技で染めた高貴な紫色の衣が心に染ついて忘れ難く思われます」。
これは、旅人が赴任しての2年後の730年に、旅人は大納言となって都へと帰ることとなったので、その送別会を蘆城の駅家で行った時の歌である。
この歌は、阿志岐野の田に立つ歌碑に刻まれているが、"紫"は三位以上の者の礼服の色である。
大伴旅人は正三位であり、当時の大宰府で"紫色の衣服"を着用できたのは旅人のみであった。
それは、大伴旅人にとっては予想外の帰還であった。
それが決まると、憶良は、「あなたが都へ戻ったら、王の許しを賜って、是非私も呼び戻してほしい」と歌っているが、実際に714年”従5位”に叙せられて54歳にして貴族の仲間入りしたのは、二人の絆の強さによるものか。

数年前、東京都茗荷谷の"キリシタン屋敷跡地”において「人骨」が発見されたというニュースがあった。
その出土状況は、棺に体を伸ばしておさめるキリスト教の葬法に近い形で土葬されていて、宣教師「シドッチ埋葬」についての記述と一致している。
ちなみに、もうひとりのイタリア人宣教師キャラは、84歳で死去して小石川無量院で火葬されたと記録に残っている。
キャラはキリシタン屋敷に禁獄中に「転向」し、岡本三右衛門と名を改めて、幕府の禁教政策に協力し比較的優遇された生活を送った。
この人物こそ、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったフェレイラ神父である。
1708年にフィリピンから屋久島に上陸したシドッチは、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸したといわれるほどに、日本での伝道に志を抱いた人物であった。
だが、背が高すぎて目立ってしまい、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになった。
幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ「宣教をしてはならないという条件」で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で「軟禁」された。
ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見される。二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移され刑死したと思われる。
その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのである。
一見、無駄な日本上陸にも思えるが、日本に与えた影響はきわめて大きいといえる。
シドッチは、時の幕政の指導者で儒学者の新井白石から、直接取り調べを受け、白石はシドッチの人格と学識に深い感銘を受け、敬意を持って接した。
シドッチもまた白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの"学問的対話"を行った。
この対話の中で得られた世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によってまとめられ世界地理の書「采覧異言」が書かれている。
ところで、最近豪雨で孤立者が出た屋久島の南端シドッチの上陸地点「恋泊」に屋久島カトリック教会がある。
その庭には「シドッチ上陸記念碑」が立っている。
その石碑に刻まれた内容からで、新井白石がシドッチから聞き出してまとめた書物「西洋紀聞」や「采覧異言」を読んだのが、八代将軍の徳川吉宗であったことが記されていた。
徳川吉宗は、享保の改革を行った8代将軍としてよく知られ、「米将軍」とよばれていた。
大学入試で、TV番組のタイトル「暴れん坊将軍」の”珍解答”で有名になったが、「享保の改革」で緊縮財政を布き、質素倹約を推奨していたが、町医者の小川笙船の意見をとりいれ小石川薬園の中に「小石川養生所」を設立し、これが現在の小石川植物園となっている。
とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した将軍であった。
そして、それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みたりした。
また、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
吉宗が行った「享保の改革」の中で、シドッチの影響を一番感じるのが「漢訳洋書輸入制限の緩和」である。
また吉宗は、将軍就任直後には薬草を研究する本草学者を登用し、全国各地の薬草調査を命じ、本草学者は全国行脚に出て、情報収集と人脈作りに励んだ。
また、調査結果を基に幕府直営、諸藩経営の薬園を整備している。
青木昆陽も徳川吉宗命により、漢訳洋書を通じて蘭学を学び甘藷(サツマイモ)の栽培法などを研究している。
福岡には享保の時代より少し前に貝原益軒という本草学者を生むが、こうした時代の趨勢から「薬院」の地名の由来となる「薬草栽培」もはじまったのだろう。
吉宗のこうした「進歩的」な理念の背景には、新井白石がシドッチから聞き取った文書に触れたことが大きな影響を与えたといわれる。
「西洋紀聞」などの著述は、西洋の知識、技術の優秀性を示しており、西洋の書を読むことが奨励される発端となったのである。
こうみると、幕末維新を準備した一つの要素が「シドッチ・吉宗」ラインであったともいえる。
また酪農も推奨し、珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。
1728年、吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、「発注し」取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
新井白石による「正徳の治」の時代、幕府は朝廷側に「閑院宮家」の設立を許すなどの「朝幕関係」の融和政策を行っていたが、象を天皇に「拝謁」させるのもその一環だったのかもしれない。
拝謁した象は前足を折って頭を下げるなどの仕草をし、天皇はその感銘を和歌にも詠んでいる。
シドッチは日本でほとんど獄中にあったが、徳川吉宗を"媒介"として、少なからぬ影響を日本に及ぼしている。

イエス・キリストの十字架上の死と3日後の復活、そして復活のイエスが500人もの弟子にその御姿を現し、40日後の昇天。
そしてまもなく誕生した「初代教会」において十二弟子たちの働きを助けるために選ばれた7人の執事の一人にステパノという人物がいた。
新約聖書の「使徒行伝」7章に、ステパノが演説をふるっているようすが書かれている。
その時、ステパノは、アブラハムからイエスキリストまでのイスラエルの歴史を滔々と語り、「あなたがたは強情でいつも聖霊に逆らっている」と責め、ユダヤ人達を怒らせている。
その、ステパノが石打ちにより亡くなった時、その殉教の現場にいたのが、当時熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を異端として取り締まりする立場にあったサウロという青年であった。
「使徒行伝」の伝えるところによれば、ステパノの説教・弁論もさることながら、石を投げつけられているただ中で、ひざまずいて「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(使徒行伝7章)と祈った。
これはイエスが十字架上で祈られたものと同じような赦しと執り成しの祈りあるが、 事前にステパノ処刑の決定に賛成していたサウロは、刑の執行者たちの着物の番をしていたという。
パウロはその光景に接して、どう思ったか。クリスチャンを捕縛することが"神に仕える"ことだと信じて疑うことのなかったパウロの心にも、消すことのできない刻印を押したにちがいない。
その後、異端者を捕えるために鼻息も荒くダマスコに向かう途中で光にうたれ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声をきく。
3日間目が見えなくなりアナニヤといわれる信者の祈りの下、視力が回復に向かうが、なにしろそれまでは迫害者であったため、なかなか信者に受け入れてもらえなかった時期がある。
パウロはトルコ南部のタルソで生れたユダヤ人であるが、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、将来はユダヤ教の祭司になることが嘱望されていた。
その人が「疫病」といわれるまでのキリスト教伝道者となっていくのだから、何か直接的な神の働きを体験をしたという以外の説明は、しにくい。
あのパウロがキリスト教の伝道を始めたことについては、ユダヤを管轄するローマ帝国にとっても問題となり、ユダヤ人でありながらローマの市民権をもつパウロは、自分が述べ伝えるイエスにつき弁明するために、ローマに護送されて獄屋兵に入れられる。
ところが、そこに大地震が起き、獄屋の扉が開いてしまった。
獄吏は囚人たちが逃げ出したものと思い、自殺しかけたところ、そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」と。
獄吏は、パウロにひれ伏して「自分たちが救われるためにはどうしたらいいのか」と逆に尋ねる。
パウロは獄吏に「イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」と応えている。
パウロが逃げなかったのは、それがローマ皇帝の前でイエスを証する絶好の機会だったからである。
その弁明の中でパウロはステパノの殉教を引き合いに出している。
「主よ。私がどの会堂ででも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです」。
パウロやステパノがそれほどの迫害を受けた"異端の教え"とは、イエスの復活つまり「死人の蘇り」が核心である。
「使徒行伝」には、パウロが復活について語った時の人々の様子を次のように書かれている。
「ある者はあざ笑い、またある者達は、”このことについては、いずれまた後で聞くという」(使徒行伝17章)。
ところが、パウロは自分の信仰がすべて「復活」にかかっており、それがなければ"無益"とまでいいきっている。
「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります」(第一コリント15章)。
パウロの究極の"希望"とは、その身が贖われて「神の国」に入るということであった。
パウロはネロ皇帝の時代に殉教したと伝えられる。
そのパウロが語った「救い」とは復活にあづかることであり、「罪の許し」のためにイエス・キリストの名による洗礼と、復活の保証としての「聖霊を受ける」ことであった。
オリジナル(初代教会)のキリスト教では、パウロやペテロによってシンプルに力強く「救い」が語られており、その原点にステパノの殉教があった。