「顏」の使い途

「朝顔」という花は最もポピュラーな花だが、「昼顔」という花は、センセーショナルなドラマのタイトルにもなって広く知られた。
さらに、「夕顔」という名の花は、源氏物語に登場する女性の名としてもよく知られている。
さすがに、「夜顔」や「寝顔」や「すっぴん顔」という花は存在しないが、花は顏になぞらえられるようだ。
特に、万葉の頃から人々は、ひとの顔を花とみなしていたフシがある。
というのも、人間の顔の目と植物の芽、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)、鼻と花、といった具合に、顔と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれているのは、単なる偶然とは思えない。
漢字にすれば、まったく別の言葉のように見えるが、ある万葉学者の説によれば、これらは語源が共通しているからだと言う。
古代の日本人は、顔のパーツも植物のパーツも、「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じようなものと考えていたようだ。
たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、植物の枝先の"先端"に咲く。
その証拠に、薩摩半島の「長崎鼻」のように、岬の突端も「はな」と呼ぶ。がその一例である。
さらに「かわりばな」「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味ももつ。
ところで、化粧品会社の創業者・マックスファクターは、ポーランド系で、バレリーナのメイクアップの仕事をしていた人物である。
しばしば「もっといい表情をつくれ」という意味で「メイクアップ」と言っていたが、それがいつのまにか「化粧する」ことになっていった。
このように、一人のポーランド人がアメリカに亡命して名乗ったマックスファクターという名は、日本語に訳すと「最大要素」となる。
そこで思い起こすのは、心肺蘇生術用に使う人間の顔。そういう使用目的の顏は「普遍的な顔」、いいかえると「最大公約数的な顔」を合成して作ったものかと思っていたらそうではなく、実在する女性の顔だった。
1880年、パリの川で謎の女性死体があがった。
警察がすぐに引き上げ、検死官に渡し、身元を特定するため、検死官はその顔の「石膏型」を作った。
ところが、この石膏型の顔には人を引き込む何かが宿っていた。
この石膏をみた1人がその顔を気に入ってしまい、石膏型職人に手渡され、大量生産されたのである。
ヨーロッパ全土へと広がった彼女の顔は、さらに数十年後、ある玩具メーカーの目に留まり、ナント「心肺蘇生法」に使われるダミー人形となり、現在へと至っている。
ちなみに、水死体で上がった彼女は、当時16歳だったと言われているが、彼女が「誰だったのか」は今もって判明していない。
さらに、別の人物の顔が本人の顔として使われたケースとして思い浮かぶのが、上野の山のあの有名な西郷隆盛像である。
現在の上野公園の西郷隆盛像がある場所が、西郷が軍勢を率いて攻め込んだ場所だとされている。
ただ、この像をめぐっては、ちょっとした話が残っている。
完成した像を見た西郷の妻は「主人はこんな人じゃなかった」と落胆したとか。
風貌が似てないというより、浴衣のような軽装で人前に出る無礼な人ではなかった、と言いたかったようだ。
実は西郷の写真は一枚も残っていなかったという。一般的に我々知っている太い眉毛に大きな瞳の肖像画は、キヨッソーネという人物が西郷隆盛の弟西郷従道といとこの大山巌顔をモデルに描いたもので、本人の顔ではない。
そこで、銅像を制作にあたった高村光雲はキヨッソーネによる肖像画を参考に像を制作したのだ。
最初、軍服を着た陸軍大将の姿で制作されていたが、最終的には西郷隆盛が普段犬を連れて、野山で狩りをしていた時の姿に変更されたという。
西南戦争からまだそんなに時間が経っていない事もあって、いくら人望の厚かった西郷隆盛といえども、軍服姿の銅像というのは問題があったのだろう。
とはいえ、その像は、飾り気のない親しみやすさで、ますます庶民に愛されることになった。

パリの川に浮かんだ遺体のように、亡くなった人物の顔が別の目的で使われたケースは日本にもある。
それが驚きの、1966年に起きたアノ3億円強奪事件なのである。
犯人の白バイのヘルメットを被った男の「モンタージュ写真」は事件の象徴として広く知られるが、実は、この写真は「モンタージュ(組立)」ではない。 モンタージュというのは、沢山の写真の中から目撃者の証言に合わせて目や口のパーツを切り抜き、それらを組み立てて一枚の写真を作ることを言う。
しかし、かの有名な「モンタージュ写真」はすでに亡くなっていたSという男の写真を、ほとんどそのまま流用したのである。
どうしてそんなことが起きたのか。
三億円強奪事件の不思議さは、「真実」に近づこうとする力と「真実」から遠ざけるような両方の力が作用しているということ。
そのベクトルの合成した結果が「迷宮入り」ということである。
そこには、日本の組織の「縦わり行政」であったり、手柄争いであったり様々の要因が絡んでいたという側面を見逃すことはできない。
警察内部のエリート集団「捜査一課」と、相対的に地味な「鑑識課」の力関係も微妙に影響している。
その鑑識課にいた塚本宇兵という人物は、後に「指紋の神様」とよばれるようになるが、現場の状況から「どれが」犯人の指紋がなのかを見抜く点で、他を抜きんでていた。
1978年、東京の昭島市で小料理屋の女将が殺害された。
鑑識係による実況見分が行われるなか、塚本も指紋採取に取り掛かった。
出入口のガラス戸をはじめ、カウンター、テーブル、ビール瓶やコップなど、現場となった小料理店の店内から100個近い指紋を採取した。
その中で、塚本がひとつだけ「不可解」に感じた指紋があった。
それはカウンターの内側、従業員スペースの側面部分に付着していた。
もしこの指紋が、関係者のモノならば、カウンターにもたれかかった際、横向き、あるいは下向きにつくはず。しかし、その指紋は上向きに付着していた。
塚本は犯人が犯行を行う前後いずれかに、このカウンターの内側に潜り込んでいたと考えたのだ。
実際に容疑者が逮捕され、将殺しの犯行を否定していたが、カウンターの指紋と一致したことを突きつけると全てを自供した。
犯人によれば、女将を襲った後、外から物音が聞こえたので、とっさにカウンターに隠れて、逃げる機会をうかがっていたと証言。
それはまさに、塚本の読み通りの証言だった。
事件発生当初、特捜本部の関係者たちは犯人逮捕を楽観視していた。
犯行現場近くから、偽の白バイや、逃走用の乗用車など犯人が残したと思われる、150点もの遺留品を発見。
さらにそこから30個の指紋も採取されたからだ。
この時、鑑識課が特捜本部から受けた指示は、現場から採取された指紋と犯罪歴のある者の指紋、それらの照合作業だった。
だが、コンピューターなどまだなかった時代、それは、とてつもなく困難な作業だった。
警察庁に保管されていた犯罪歴のある600万人分の指紋を現場から発見された30個の指紋と照らし合わせ、ひとつひとつ確認していったのである。
その一方で塚本はあるひとつの指紋に注目していた。
犯行に使われた偽の白バイは、元々青色だったものを白く塗装していた。 実は、バイクのボディに塗装が乾く前につけられたと思われる指紋がハッキリとついていたのだ。
しかし、塚本は、特捜本部が指紋の捜査に重きを置いていないことに大きないら立ちを感じていた。
そこで、思いを直接、特捜本部を指揮する警部補にぶつけた。
しかし警部補は、偽の白バイの顕在指紋は、通行人が触ったモノかもしれないと言い、塚本の意見を突っぱねた。
だが塚本が注目した顕在指紋は、白バイの膝当てを剥がした燃料タンクに付着していた。
塚本は、自分で塗装でもしない限り、触れることなどまずありえない場所であった。
それゆえ、後から通行人や第三者がつけたモノではあり得ず、「犯人」の指紋だとにらんだ。
この時代、犯罪捜査において「物証」は二の次で、何よりも「刑事の経験と勘」が優先されていた。
刑事たちが事件の筋を読み、取り調べを通じ被疑者の自白を引き出す。
それが、捜査の王道だったのである。
多くの捜査員にとって、指紋は容疑者が犯人か否か、最終的に確認する道具でしかなかった。
そのため、鑑識課の塚本の意見が採用されることは決してなかった。
そして事件から7年後の1975年12月10日、時効が成立。 三億円事件は迷宮入りとなった。
鑑識課がこの時までに照合を終えた指紋は600万人の4分の1、167万人だけ。
実は、東芝府中工場の従業員のボーナスを支払う現金を輸送する車に乗った4人の社員は、だれも白バイの男の顔を覚えていなかった。
したがってモンタージュ写真など、作りようもなかったのだが、容疑者として浮上した当時19歳の青年Aがいた。
驚くべきことに、青年Aは、現職の交通機動隊中隊長の息子だった。しかも事件の5日後に自殺してしまった。
そのため刑事警察は青年によく似たSという無関係なすでに亡くなっている人間の写真を少しだけ加工し、モンタージュ写真として公表した。
そんないい加減なことをやったのも、忖度による「隠蔽工作」が働いたにちがいなく、それによって捜査が大きくねじ曲げられてしまったことは確かである。
ただ、この青年Aが犯人であるという決定的な証拠を見出すこともできなかった。
青年Aをめぐる事実は幹部クラスしか知るのみで、現場で聞き込みをする刑事たちは本物のモンタージュ写真だと思って捜査していた。
また、現金輸送車を奪う際に乗り捨てた偽の白バイや、輸送車から現金を移し替えた逃走用の車両など、153点もの遺留品が発見されたが、それが逆に足かせになった。
しかも、あの「モンタージュ写真の顔」すなわちSの顔立ちはよくある顏で、その顔に似ているという電話が数限りなく寄せられた。
遺留品が多かったので、必然的に多くの捜査員が投じられるが、自分の掴んだ情報を捜査会議の場で出さない。他の捜査員に手柄を取られるのが嫌で、幹部にだけこっそり報告して点数を稼ごうとする。
そして当初の「楽観ムード」を象徴する出来事として、事件発生直後の記者会見で、盗まれた500円札の番号2000枚分を捜査本部が公表したのだ。
犯人がこれを知ったら、その札を使わないか、処分してしまったに違いない。
そして塚本宇平は、1987年に有楽町で白昼堂々と起きた第二の三億円事件を、独特の嗅覚による指紋照合で犯人をつきとめただけに、かえすすがえすもあの白バイの不可解な指紋が見逃されたことが悔やまれる。

三億円事件と並んで、戦後最大の謎の事件といってよいのが帝銀事件である。
1948年、東京都衛生職員を名乗る男が銀行員に薬を飲ませ12人が毒殺された事件である。
平沢貞通という画家が逮捕され死刑判決がでたものの、平沢を犯人と断定するにはいまだに不可解な点が多く、歴代の法務大臣は死刑執行の印をついに押すことなく、平沢は医療刑務所にて亡くなっている。
この帝銀事件が起きた豊島区長崎の地から歩いて20分ほどで、多くの画家が若き日を過ごしたいわゆる「池袋モンパルナス」という地域がある。
そこで画家として出発したのが、野見山暁治(のみやまぎょうじ)である。
野見山は、1920年福岡県穂波町生まれ、嘉穂高等学校(1938年3月卒)卒業である。
1943年 東京芸術学校(現東京芸大)油画科卒業し1952年渡仏し1964年に年帰国する。
1976年に糸島市志摩の丘陵中腹にアトリエを構え、今も1年の約3分の1を糸島で過ごしている。
野見山暁夫は満州に出征し、多くの美学校の学友達が命を落としたことを思い彼らが最後に命を燃焼させた絵を集め画集にしたもの「祈りの画集」であった。
その画集に触発されたのが、窪島誠一郎である。
窪島は、戦争によって実の父と生き別れ、父親の方も息子は死んだと思っていたところ、息子の窪島が父親を探し当て、それが作家の水上勉であったという運命の再会を果たしている。
窪島自身はもともと中学時代に東京都知事賞などを受賞するほどに絵画の嗜好をもち、現在も窪島が創設した「キドアイラックホール」が京王線の明大駅前駅の近くにある。
窪島は戦争中に実の両親と生き別れ靴屋を経営する養父母に育てられてきたが、うすうす自分の親が本当の親でないことを確信するようになっていく。
窪島の中にいいようがなお空白感が広がる。高校時代の自分について次のようなことを書いている。
高校を卒業すると色々な仕事をし放送局勤めなどもやり、その後酒場や喫茶店の経営をし軌道に乗っていった。
貧乏から何とか抜け出そうと必死だったが、自分が金儲けに専心していた時に、野見山の「祈りの画集」に出会い、命を戦地で落とした学徒達の絵を通じて自分を見つめ直していく。
たとえそれが未熟な若い学徒の絵ではあっても、彼らの作品が風景にせよ人物にせよ「遺作」として描かれているということである。
つまり戦争が彼らの絵に価値を与えたのだ。
そこに純粋な命の燃焼があり、彼らは最後にこの絵をもって自分の生の「証」としようとしたに違いないのだ。
窪島は野見山との対話の中でそのことに気づかされ陽を見ることのなかった遺作を求め全国を歩み遺族と会い遺族の話を聞いてきた。
「私は死んでいった画学生のどの絵にも、あふれるような存命の歓びと肉親への感謝を発見して瞼がぬれたのだった。親が生きているうち、何一つ孝行せず、すべてを子の手柄のように考えてきた自分の姿をふりかえってやるせなかった。同時に、父や母の背後にあった"戦争"をも一顧だにしようとしなかった自分がなさけなかった」。
そして窪島自身が自分というものを意識しはじめたころからいつのまにか養父母をも知らず知らず苦しめてきたことに気がつくのである。
そして家族を引き裂き、養父母を苦しめた戦争のことを思った。そして窪島は戦没者画学生の画を集めた美術館の創設を思いつく。
そうして蒐集された絵が長野県上田市に窪島が創設した美術館「無言館」に展示されている。
以前、NHKの教育番組で「戦没者学生の画」というものをみたことがある。
特攻兵として戦地にむかう美術学校の学生が未来の自画像を描いたのだが、印象に残ったことは画の表情には「顔がない」ということ。目も口も鼻も描かれてはいない、ということである。
自分の表情が最もよく焦点を結ぶところの心のありかは一体どこに。生きたい思いと死地に向かう気持ちが交錯して、自画像を描けないということだろうか。
窪島にとっての「無言館」の創設とは、自身の「顔のない絵」を描き撮ることだったのかもしれない。