名品のキーパーソン

元号「令和」のもととなった8C大宰帥・大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」。この「梅花の宴」の想像図を一人の博多人形師が再現している。
その人形師・山村 延燁(のぶあき)は、すでに亡くなっているが、手のひらに乗るほどの複数の人形によってその時の宴(うたげ)をかくも臨場感をもって表現するものかと感心した。
さて、博多人形の制作方法は、まず粘土で人物像等の原型を造り、石膏で型を取りその型に粘土を詰めて型を抜き、生地(人形物等)を制作する。
型抜きは高級人形で50個程度、生地を900度ぐらいで焼成し、彩色して人形を完成させる。
このような近代的な制作方法が出来たのは、明治期の終わり頃である。
江戸時代の町人文化が栄えた19C頃、「型抜き」による大量生産が行われていたが、1890年第2回国内勧業博覧会の賞状に「博多人形」と記載されて以来、それまでの「焼物人形類」がら「博多人形」と呼ばれるようになった。
そこに至るまでに、博多人形師達は、九州帝国大学・医学部で「解剖学」を学んだり、色彩を洋画家の矢田一嘯、そして造形については博多出身の彫刻家・山崎朝雲の指導を受けたりしている。
そして明治後期から大正にかけて多くの優秀な博多人形師を育てたのが、白水六三郎である。
白水六三郎は一倍研究熱心で博多人形製作のために人体研究の必要性を感じ、九大医学部の「解剖実験」に立ちあった。
白水が解剖学を学んだことは、ゴッホやダビンチと共通している。
そして白水らの「温故会」の努力などによってそれまで土俗的なイメージでしかなかった博多人形が洗練された近代性をもつようになった。
そして伝説の博多人形師・小島与一は15歳の時、この白水六三郎に入門して、1890年に東京で開かれた「内国勧業博覧会」で銀賞をとり、博多人形の素朴で繊細な美しさが全国に知られるようになった。
なお現在、博多山笠の飾り山を製作する博多人形師達のほとんどが小島与一の弟子で、「梅香の宴」を制作した山村もその一人である。
なお小島の代表作「三人舞伎」像は、中洲の屋台が並ぶ「福博出会い橋」あたりに立っている。
さて、博多人形の白水六三郎のように「地域の名産品」誕生の裏には、必ずといっていいほどキーパーソンというべき人が存在している。
例えば、福井県鯖江(さばえ)で眼鏡フレーム生産は全国90パーセントを占めている。
「なぜ?」と思いつつ、この地のことを調べると、確かにキーパーソンとでもいうべき人がいた。
眼鏡フレーム生産が福井に誕生したのは1905年のことで、文殊山麓に位置する麻生津村生野(現福井市)においてであった。
その基礎を築いたのが、増永五左衛門という人物。
増永は1871年生野の豪農に生まれ、若くして村会議員などを務めながら村の発展に尽力してきた。
その一方で、農業以外で村の発展に寄与し収入に結びつく仕事を定着させることが永年の願いであった。
増永が最初に目をつけたのが「羽二重」であった。
1887年に桐生から技術者高力直寛を招聘することにより福井に羽二重織技術が伝わると、羽二重はまたたくまに嶺北全体に波及し、この頃には足利・桐生を凌ぐまで に成長を遂げていた。
だがまもなく、「明治33年恐慌」が福井の織物業界や銀行を直撃、この計画は失敗に終る。
さらに、この恐慌が生糸への投機が原因であったことも手伝って、織物業に対する熱は冷めたものとなってしまった。
しかし、織物に代わる新たな仕事は容易には見つからなかったが、転機は、1904年暮れにやってきた。
大阪に出ていた10歳下の増永の弟・幸八が、「眼鏡枠製造」の情報をもたらしたのである。
増永は再度の失敗は許されないため、自ら大阪に出向き、幸八の情報源である東区唐物町の橋本清三郎を訪ね情報収集するとともに、自分で地元工員の募集にあたるなど慎重に準備を進めた。
そして1905年6月大阪から三名の職人を招いて事業を始めた。
最初は安い真鍮枠から始めすぐに習得、その翌年には名工といわれた豊島松太郎を招いて引き続き技術向上に努め本格的な生産に乗り出していった。
この豊島が「銀縁枠」や「赤銅枠」を伝授したのである。
とはいえ生産体制が軌道に乗ったのは1908年頃で、この間の苦労は並大抵のことではなかった。
1911年8月内国共産品博覧会で「赤銅金ツギ眼鏡」がはじめて有効一等賞金杯を受け、ようやくその努力が陽のめを浴びることになる。
その後、増永は1932年には日本産業協会から産業貿易功労者として表彰を受けている。
増永工場の成功は初期の技術投資と「帳場制」といわれる独自の請負制度にあったとされる。
さらに「増永一期生」といわれる技術者の下に製造グループを編成し、切磋琢磨しながら品質向上に努めた。
この一期生が、次々と眼鏡事業を起こし次代の人材を養成したのである。
1938年12月に増永五左衛門は68歳の生涯を終えた。その顕彰碑は「福井県眼鏡元祖之園」として生野集落の南端に立っている。

「讃岐うどん」は、香川生まれの腰の強いうどんとして知られるが、香川がなぜ「うどんの里」としてここまで全国的に知られるようになったのか。
その背後にも、やはり一人のキーパーソンが存在していた。
ところで讃岐うどんの製法は「手打ちうどん」といわれるものの、もとは人が粉から水回しをして「足踏み」を繰り返し、生地を作る。
寝かした後、麺棒を使い生地を伸ばし、包丁で麺の幅に切っていく。
讃岐うどんは、座布団のようなうどん生地をゴザの上から、小麦粉生地を踏みに踏む、これでもかというほど踏んで生地を鍛えていたのだ。
これらの作業は、簡単にはできるものではなく、微妙な感覚が働いてこそより美味しいうどんができあがるのである。
讃岐でこれほど「足踏み」にこだわってきのかというと、香川県産小麦に問題があったからだ。
たんぱく量が少なく、またグルテン質も伸展性や弾力が少なく硬練りで、しかも踏みしめる工程を入れないと、満足のいく噛みごたえ、弾力が出てこなかったからだという。
そこで讃岐うどん作りとは、「グルテンの弾力性をいかに引き出すか」ということにつきる。
名だたる手打ち職人は、この生地の物性、つまり手のひらや指先で感じる「弾力」によって、うどんの食感と結びつけることができる感性の持ち主とも言える。
さらにもうひとつ大事なのは、鍛えた後の「熟成」(生地の経時による物性変化)である。
手打ち職人はこの物性の変化を指先、あるいは手のひらの感覚で感じ取って、うどんの食感と関連づける感覚を持っているのだという。
ところが、1968年頃、ある客が小麦粉生地を足で踏んでいるのを見て、「不衛生」だとばかりに保健所に通報して、ちょっとした騒動になった。
騒動になったのは、このお客が違和感を覚えるのは、一般的な感覚となっていたからでもある。
この一件で、県から禁止条例は発令されていないものの、麺類製造業の許可を与える条件として、より衛生的なうどん製造ができるように、必要な機械や器具を明示した。
讃岐うどんは、香川産小麦粉の不利を超えようと麺の腰の強さが生まれたように、いわば「足踏み禁止令」という壁をきっかけに、全国的な広がりをみせることなる。
香川菊次は、岡村(現川部町)で島屋という醤油屋に勤めていた。若い頃からうどん作りの名人だといわれ、大正15年にうどん店「香川屋」を始めた。
その子である政義は尋常小学校高等科卒業もそこそこに家業の「香川屋」に入り、菊次の頑固で厳しい指導を受け名人といわれるようになった。
東京オリンピック頃から「讃岐うどん」も有名になっていたが、前述のように食べ物を足で踏むことが問題になり「足ふみ禁止令」が出ることとなる。
そこで組合員が集まり「機械打ち」のうどんを作る「さぬき麺業」を立ち上げたが、「足ふみ」の伝統は根強く残り、「さぬき麺業」からうどんを仕入れるものは少なかった。
社長である香川政義は、財産を投げ打ち質屋通いまでしたが資金が続かず、もはやこれまでと「廃業」を決意した。
ところが思わぬチャンスがやてきた。
1970年大阪万博において、東京のすし屋「京樽」が万博に出店することになり、「うどん」常駐の職人 一人をと依頼される。そこで白羽の矢が立ったのが政義だった。
そして、これが最後と出店したところ、なんと1日に7千玉から8千玉も売れる大繁盛であった。
万博が終わり、その経験をもとに塩上町にセルフ店を出し、市内にも店を増やすようになった。
さらに政義はお土産用の「半生うどん」を開発し、全国に「さぬきうどん」を普及させることが出来るまでになった。
そこには、政義が「足踏み禁止令」をうけて、機械化にいち早く取り組んだことが大きくものをいった。
そして「讃岐うどんブーム」が起こり、香川県は「うどんの里」として日本中に知られ、その後瀬戸大橋博にも出店し好評を博したという。
政義の後を継いだ現社長は、「寝てもさめてもうどん」。
うどんを肌で感じ、自分の肌をうどんに伝える。 讃岐の地にうどんを愛する心と技術を伝えなければならないと思っているという。

阿蘇の山懐(ふところ)、緑ゆたかな山々に囲まれ、三十軒の旅館が集まった「黒川温泉郷」がある。
黒川温泉郷では、三十軒の宿と里山の風景すべてが「一つの旅館」、つまり「黒川温泉一旅館」というコンセプトで、常に全国でトップを争うほどの人気を誇っている。
この小さな山間の温泉街がなぜここまで多くの観光客を引き付けるに至ったのか。そこに一人のキーパーソンが浮かび上がってくる。
黒川温泉は阿蘇郡南小国町、田の原川渓谷に位置する阿蘇温泉郷の一つで、標高1330mの牧の戸峠を越えて1時間程の山間部とあって、交通の便は決して良いとはいえない。
黒川温泉は戦前までは、全国各地にみられる湯治客主体の療養温泉地であり、農林業と炭焼きとの半農半営であった。
阿蘇・杖立、別府などの大型旅館を抱える温泉地に客を奪われ、規模や利便性に劣る黒川温泉は、長い間、低落状態が続き、1970年代の2度のオイルショックと、建築設備への投資による多額の借金を抱えたまま、将来が危ぶまれていた。
そんな折、1975年頃に最初の転機がやってきた。
黒川へのUターンや婿入りが相次ぎ、30代を中心に旅館の二代目が集まって来たのだ。
彼らは都会生活の経験を活かし、観光客の立場から、新しい温泉観光の振興策を模索した。
そして目立つことを競って乱立する看板200本をすべて撤去し、統一共同看板を設置した。
環境班には、”変人”といわれた一人の男がいた。後藤哲也という「新明館」の当時24歳の息子である。
後藤は魅力ある風呂をつくりたい一心から、3年の歳月をかけてノミ1本で洞窟を掘り、風呂にして周囲のドギモをぬいた、というより奇人扱いされた。
そればかりか、後藤は、若い女性観光客の後をストーカーのようについて回り出した。その行動は、後藤がおかしくなったと黒川中の噂になるほどだった。
さらに、旅館の庭に塩を巻き、庭木を枯らしはじめたのだから、尋常ではない。
それから、およそ20数年の歳月が流れた。
黒川温泉の旅館も、多くが次の代に代替わりしていたが、客足は以前と変わらず少ないまま。
だが、後藤哲也の「新明館」だけは、黒川温泉で唯一、平日にも満室になるほどの人気旅館となっていた。
もちろん、洞窟温泉も人気となった理由の一つだが、20年前の怪しげな行動に、その答えがあった。
あの時後藤は、流行に敏感な若い女性たちが、観光に何を求めているかナマの声を聞くためだった。
その結果後藤は、客が求めているのは、整然とした人工の日本庭園などではないと感じた。
そして、自身の旅館の庭の植物を枯らすために、塩を撒き、山で自然に育った雑木を持ち帰ると、旅館のいたるところに植えた。
そして、日本人の原風景ともいえる、雑木林に囲まれた宿を生み出した。 すると、自然を感じる空間に癒やしを求め、都会で働く若い女性たちが殺到! 黒川温泉で唯一の人気旅館へと変貌を遂げたのだ。
ある若手の旅館の主が意を決して、旅館を立て直すため、後藤にアドバイスを求めた。
しかし、これまで後藤は、他の旅館の主人に馬鹿にされ、冷たい扱いを受け続けてきた。
しかも、アドバイスなどしたら、自分の客が取られてしまう可能性もある。
しかし意外や後藤は、「それを待っていた」とばかりにノウハウを教えるどころか、率先して旅館の改修を手伝い始めたのだ。
なぜなら、後藤の夢は黒川温泉がひとつになり盛り上がることだったからだ。
効果はてきめん、宿泊客が目に見えて増え始めた。かつて、魅力のなかった黒川温泉の旅館は、一軒一軒、それぞれの特徴を活かした露天風呂を持つ宿へと、生まれ変わった。
その一方、企画広報班は、敷地の制約からどうしても露天風呂がつくれない2軒の湯宿を救うため、1983年に黒川の全ての露天風呂が利用できる「入湯手形」を発案し、温泉街の仲間たちが結束した。
変人とまでいわれた後藤の情熱と、人々の絆が、後の黒川温泉の礎となる骨太な理念の形成につながっていったのである。
露天風呂と「入湯手形」の登場を契機に、黒川温泉は一つの運命共同体として、10年の歳月をかけて、存亡の危機を脱出した。
後藤は、「温泉は体だけでなく、頭を癒やす時代になった。日本人の心理を先取りして、お客さんに満足を提供したい」と語った。
そして、黒川温泉の評価を不動のものにしたのが、1994年に青年部により制定された活路開拓ビジョン「黒川温泉一旅館」である。
黒川温泉は一軒の繁盛旅館を生むよりも、「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」と見立て、全体を黒で統一し共に繁栄していこうという独自の理念を定着させた。
イチブと思っていたらゼンブに連なるという「黒川温泉一旅館」というコンセプト。つまり、イチブとゼンブの絶妙なハーモニー。
この「街全部が一旅館」の考え方は、全体の繁栄があってこそ、個が生きるというものである。
営業面では、まず料金体系の明確化、つづいて個性とサービスの質を高めるために、各旅館は個性ある温泉施設の充実を競い合う。
そのことにより全体が高い水準を維持し、現在、予約がとれないほどの人気ぶりとなった。
また、2002年の日経プラスワン温泉大賞(全国1位)の受賞に始まり、日本温泉遺産100、グッドデザイン賞特別賞、都市景観大賞、第1回アジア都市景観賞など、受賞歴を見るだけでも黒川温泉の組織的な取り組みが、いかに各方面から高い評価を集めてきたのかがよくわかる。
さて、日本全国をツバメの視点でみると、そこに浮かび上がる「地上の星」(中島みゆき)のようなあまたの人々がいる。
彼らが"星"たる所以は、既成路線にとらわれず新しいスタイルで危機を克服しようとしたこと、”地元愛”ゆえ同輩や後輩に知識や経験を伝授することを惜しまなかった点といえよう。