「木」組の人

芥川龍之介には、庭の樹木の葉の色の変化から、近く大異変がおきると、実質的に関東大震災を予告したというエピソードがある。
これは、いにしへの日本人にとって特別なことではない。日本人は縄文の森で「もののけ」を全身で感じ取りながら生きていた。
人々は、自然の微妙な変化に様々なキザシを見逃すまいと生きてきたに違いない。
それは、自然の中に潜む精霊の「揺らめき」さえ感じとろうしたのではなかろうか。
こういう「交信力」に優れた人物として、木版画家の棟方志功を思い浮かべる。
棟方志功氏が木を彫っている時の姿をみると、目も悪いせいか板に向かって全身で格闘するようにノミを動かしている。
青森の貧しい鍛冶屋に生まれたが、ゴッホに魅かれ絵を志した。
画家仲間や故郷の家族は、しきりに有名画家に弟子入りすることを勧めたが、本来的にまつろわぬ人なのだろう。
「師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない」と抵抗した。
そして39歳の時には、「版画」という文字を使わず「板画」とすることを宣言した。
その理由は、版を重ねて作品とするのではなく、「板の命」を彫り出すことを目的とした芸術だからなのだそうだ。
さらに棟方は「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだ」ともいっている。
36歳の時下絵なしで仕上げた大作「釈迦十大弟子」で1956年に出展し、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、53歳にして一躍、”世界のMUNAKATA”となった。
そして、棟方の語る言葉に人々は驚いた。
「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」と。

狭い世界であっても「先生」はどこにでもいるといわんばかりに、木のサマに人生を読み人生を深めた人がいる。
法隆寺や薬師寺再建に取り組んだ宮大工・西岡常一である。
西岡はまず、宮大工の「仕事」の意味を掘り下げる。
仏にとって社寺はこの世の「借り住まい」ゆえに、社寺建築は地上で最高の建物を求められる。
飛鳥の彫人達は、単に仏さま、観音さまを彫ったのでなく、呼び出したのだ。
その仕事は実際に山深くに入り、木を選ぶことから始まるが、どの木に仏や観音様がいらっしゃるかを見定める。
そしてそこから出ていただくために神事を行い、木を伐採して、木を彫るのである。
宮大工の仕事もそれに等しく、数千、数万の名工たちが古来の木造建築技術を継承し、精魂を傾けて築きあげた「芸術世界」であると語る。
さて、神社の建設に限らず日本の木造建築は、日本人にとって当たり前でも、海外の目から見て驚くような工夫や仕掛けがしてある。
例えば、日本のふすまはローラーやベアリングは使わずに、どうしてスムーズに開け閉めが出来るのか。
ふすまの両端を2ミリ高くして摩擦面を減らすという実にシンプルなものだが、日本独自のものである。
何のために木にカンナをかけるのかというと、見かけを良くするのが第一の目的ではない。
自然な木目を生かすと水をハジキ、ニスやペンキで塗装せずとも長持ちするからである。
大工は紙のように薄い木片として削り取る基本のワザが必要だが、刃先の微妙な「角度調整」ができなければならない。
ちなみに、樹木の葉は雨水が根本に集まるように、ちょうどよく角度がついているのだという。
また、日本は湿気が多く金属では腐敗がすすむため、釘を使わない「木組み」や「軸組み」という仕掛けがある。
例えば、2つの木材をL字型につなぐとすると、スチール製の金属を補強するのが一般的である。
ところが「木組み」においては、木に別の木を嵌めこむ方式で、あらかじめつくっておいた隙間にシャチという木の楔を打ち込むことによって頑強に固定することができる。
驚くべきことに、人間がぶら下がってもビクともしない。
金具を使うと腐食するばかりか、一度曲がったら元へは戻らない。結局「木のみ木のまま」方式が一番長持ちするのである。
1970年、宮大工・西岡常一に託されたのは、名刹・薬師寺金堂の復元であった。
傷みが激しく、薬師寺金堂の再建は歴代住職(管長) の悲願で、それを実行に移したのが、1967年に管長になった高田好胤である。
さて薬師寺金堂再建の仕事を引き受けた時、西岡はすでに62歳となっていたが、実はこの時半失業状態だった。
わずかな畑を耕したり、法隆寺の厨房で使う鍋の蓋を作ったりするだけで、生活は妻が長靴を売り歩いて支えていたのである。
その理由は、普通の仕事をすると、「腕がけがれるから宮大工は町家の仕事をしてはならない」という宮大工の伝統を守っていたのだという。
、 図面などはなく、史料は平安時代に書かれた「薬師寺縁起」など三冊しかなかった。
西岡にとって、素人同然の若者を率い、古(いにしえ)の名工と競い合うという挑戦となったのである。
そして西岡が木に学んだことは、未熟な宮大工をまとめるリーダーシップの中に生かされることになる。
その名言の一つが、「木の癖組は人組みなり。人組は人の癖組みなり」である。
プロジェクトが機能するためのチーム編成の本質、リーダーとしてその個性を見極める視点、この短い言葉にそのすべてが凝縮されていた。
木の癖を読み取とって「木組み」をするように、人の癖をよみとって人組みをせよという意味である。
それは、1人の職人が木槌で叩いて木組みを無理にはめ込もうとした時、「その木槌の音がおかしい」と、西岡が駆けつけた時だった。
「建物は良い木ばかりでは建たない。北側で育ったアテという、どうしようもない木がある。しかし、日当たりの悪い場所に使うと、何百年も我慢するよい木になる」。
木の性質を語ったこの言葉は、若者達の心をしっかりととらえた。
「私たちのようなアテの人間でも、西岡の親父はつかってくれる。自分みたいないいかげんなものでも生かせる場所があるのか」と。
次第に若者達は、西岡の一挙手一投足を見逃すまいとするようになっていった。

木と深く交流した人の一人が、マリナーズのイチローではなかろうか。それはバットへのこだわりというカタチで。
イチローから、バットの製作を託された職人・名和民夫は、身が引き締まる思いで、最高のバットを作れるようにあらゆる妥協を排除した。
名古屋市内から車で北西へ約40分ほど、養老山のふもとに広がる田園風景の中に、バットを製造している工場がある。
その応接室には、ピート・ローズ、落合博満、そしてイチローなど、往年のプロ野球選手から現役のメジャーリーガーまで錚々たるスラッガーのバットが並んでいる。
名和自身がもともと高校球児で、岐阜県養老町のスポーツ用品製造会社「ミズノテクニクス」に入社した。
1993年にバット製造課へ異動となり、イチロー担当の前任者でもある名工・久保田五十一の下、バット職人としての修行の日々が始まった。
バットの原材料となるアオダモの丸棒を、乾燥させるために組んで積む作業から始まる。
師匠・久保田から言われたのは、材料をよく見て、数ある木の角材の中から、良質な一本を選び抜くこと。
次に、丸棒を仕入れた時に、だいたい1mの長さがあるが、その中でも先端で作るのか根元で作るのか、どこで作れば一番いいバットになるのかを見極める。
それは、材料の状態からいかにバットの完成形をイメージできるかという訓練となった。
丸棒をバット削り機にセットして、大小のカンナで削り始めてからわずか20分。熟練の技であっという間に見本と同じ太さ、形状のバットが誕生する。
実は、「削る」作業よりも、むしろ丸棒をコンコンと叩きながら「選別」することに時間を費やす。
名和は、セ・リーグ担当として横浜ベイスターズのマシンガン打線の一角を担った選手らのバットを作ったという。
担当した選手が打つと嬉しい気持ちになるが、今の調子を維持してもらうためにもいいバットを提供し続けなければいけない、というのはプレッシャーともなる。
そして、名和が一番大切にしているのは、選手のバットに対する要望を忠実に再現すること。
選手に意見を求められたら答える場合もあるが、自分の考えをバット作りに入れることは基本的にはしないのだという。
イチロー選手がフル出場していた時代、1年間40本くらい、ゲームで使えるバットが欲しいと言われてきた。
そのために毎年80本から90本ほどのバットを渡して、その中からさらに厳選して試合に使ってもらっていたというから、イチローのこだわりも並ではない。
実際にイチローの要求は常に厳しく、これまでに何本か「これはダメですね」と言われたこともある。
その度にどこが悪かったのか意見を交わし、イチローの求める質に近づける作業を繰り返していった。
名和は、発送するギリギリまで、このバットで本当に大丈夫かという張り詰めた気持ちを持ち続けてきたという。
そして、次のシーズンに向けてもっと質の高いバットを提供するための戦いが始まるという、まるでイチロー選手に似てゴールなき職人なのだ。
名和は、バット職人にとってこんなも特別な経験をさせてもらって、イチローには感謝しているとという。
かつて、プロ野球勝手において、選手に周知せずにボールの質を変えていたことがある。
最近の政府の統計不正を思い起こさせるが、イチローのように日々バッテイングを細かくチェックして試合に臨む者にとって、それがどれくらい重大かがわかる。

近年、或る北欧家具のセンターを訪問した時、北欧の人々が日本人と同じように、木に対する「親和感」があるのを感じた。
単純で純粋なフォルムが尊ばれるところも、北欧と日本で共通した感覚がある。
北欧社会は、森林や湖などがもたらす自然資源により、独自の文化を築いてきた。
木の種類は、欧州赤松、白樺、樫などが多い。
北欧の人々にとって、今でも森と湖が生活を彩っている。 例えば、フィンランド人の生活にサウナは欠かせない。
ほとんどの家に木で作ったサウナがあり、サウナはフィンランド人にとって、「家族団欒」の場であり、リラックスして友と語らう「社交場」ともなる。
サウナの後に、森の湖に飛び込むのもさぞや爽快だろう。
フィンランド人も日本人もトモニ風呂好きである点では共通しているようだ。
映画「テルマエ・ロマエ」であったとうり、古代ローマ人も風呂好きだったようだが、大理石で創ったローマの大浴場では、日本人にはあんまり落ち着かないのではなかろうか。
日本人には、いかにも贅を尽くしたという派手なデザインよりも、どこかホッとさせてくれるデザインの方が合っている。
北欧特有の気候で木は固くシマリ、家具やサウナ製造にとって非常に適した環境となっている。
恵まれた北ヨーロッパの天然木の特性を利用して作られた北欧家具が存在する。
実は、北欧の家具は1950年代の頃からから日本人に好まれてきた。
厳しい自然の中で育まれた北欧家具の大切なコンセプトは、シンプルで機能的であることである。
北欧家具はそのシンプルなデザイン性が、日本の家やインテリアにもなじみやすく、買い足しても、他の家具とのコーディネートがしやすい。
また、木の端切れで創った「動物雑貨」というものに日本人の感性と似かよったものを感じた。
それらの素朴な可愛らしさは、子供にも大人にも好まれていて、動物をかたどったキッチン雑貨も可愛い物が沢山あるのを知った。
北欧の国々が世界の「幸福度」が世界一である。それは、「共生の意識」が強いことで樹木と共にあることと関係しているかもしれない。
ところで作家の大江健三郎は四国の山林に育ったが、森の斜面に住んでいたせいか、木の根元が家の上にあった。
祖母から人間にはそれぞれ「自分の木」があってその木の根元から魂が発して宿り、死んだらその木の根元に魂が環るという話を聞いて育った。
そしてその木々は、魂がまた別の肉体に「新しい人」になっていく。
そして、自分達の生活がマルデその木の根っこから「命」をウケながら生きているように思えたという。
この風景は、作家的イマジネーションの源泉であったにちがいなく、大江氏は木を「メタファー」として多くの作品を書いている。
最近、樹木葬が広がっているという。森があって、若い木々の根の先にパイプをいれてそこに「遺骨」を入れるという方式である。
頑丈な墓石に名前を刻むのではなく、自分の命の「残滓」が木々の命となって生き延びるという感覚が残る。
そして木が育っていくことが、亡くなった人がソノ命をドコカで保っているようで、人の心に「安らぎ」を与えるものである。
自分の命が木というカタチを通じて、色々なものと繋がってると感覚をも抱かせる。
「繋がり」といえば、最近、テレビ番組でチコちゃんに教えられたことがある。それは、なぜ人々は桜の木の下で花見をするのかということ。
「サクラ」の語源は諸説あるが、そのひとつに田の依代(よりしろ)という意味がある。
「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所という意味がある。
「サクラ」は田の神様が山から里に下りてくるときの依代を表すとされている。
また、サクラの花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしたため、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったということだ。
つまり、豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、感謝する行事。
その際に神様を迎えるための料理や酒を人も一緒にいただいたということが、本来のお花見の意味である。
日本のお花見は奈良時代の貴族の行事が起源といわれている。
奈良時代には遣唐使を介した中国との交易が盛んで、中国から伝来したばかりの「梅」が鑑賞されていた。
894年に遣唐使が廃止され、日本独自の文化が発展するにつれ、桜が花見の主役となっていく。
花見の宴は花の下に座ることによって花粉の生気を吸収する健康法であったという。
その一方、作家の坂口安吾は、桜の木に妖気を感じとっている。
「桜の森の満開の下」で、大昔は桜の花の下にいると人間が取り去られるという伝説があり、見渡す花びらの陰に亡くした子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう話を紹介している。
桜の樹木が人を惑わして気が変になるというのも、わかる気がする。