立像に込めた意図

春先に吹く強い南風の「春一番」。"幸せな門出"というイメージがあるのは、我々世代では、キャンディースのヒット曲「春一番」(1976年)のせいか。
ところが、この言葉が広がったのは、長崎県の壱岐島で起こったある不幸な出来事からであった。
壱岐の漁民たちは早春に吹く、「春一番」「春一」「カラシ花落とし」と呼ばれる南の暴風を恐れた。
この風が吹き通らぬうちは、落ち着いて沖に出られなかったからである。
元居浦は延縄漁を主とし、漁船は四、五人乗り組みの小型であるが、五島沖の喜三郎曽根は鯛の好漁場と言われ、月に一度か二度、天候を見定めて出漁していた。
1859年旧2月13日は快晴で、格好の出漁日和であった。
ほとんどの漁船が喜三郎曽根に出漁、各船は順風に恵まれ予定時間に到着した。
直ちに延縄をはえ始めたが、一船は南の水平線に黒雲の湧き昇るのを発見、「春一だ!」と叫んだ。
それを聞くや、ことごとくの船が、今仕掛けたばかりの延縄を切り捨て、帰帆の用意にかかったが、強烈な南風は海上を吹き荒れ、小山なような怒涛が漁船に覆いかぶさってきた。
漁民たちはなすすべもなく、船もろとも海中に消えていったのである。遭難者の数は53名。
1987年、郷ノ浦港入口の元居公園に、船の形をした「春一番の塔」が建てられ、塔の下には春一番海難者の慰霊塔もある。
毎年、旧2月13日は、どんなに天候が良くても沖止めとし、漁民など一同が集まり、海難者の冥福を祈念することを行事とし、今日に及んでいる。
さて、「春一番」がヒット曲によってイメージが変わったように、ヒット曲でイメージが変わった地名がある。
森高千里が歌ったバラード「渡良瀬橋」(1993年)。その下を流れているのが渡良瀬川である。
森高は熊本出身なので、渡良瀬橋は、森高の故郷にある橋のことかと思ったが、そんな橋は存在しない。
森高は橋をタイトルにした新曲を作ることにしたものの、なかなかイメージが湧かなかった。
地図を広げて「言葉の響きの美しい川や橋」を探し、渡良瀬川という文字が気に入った。
たまたま、森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋があることを知った。
その後、現地に再訪して橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いたという。
本人が知ってか知らずか、渡良瀬川は足尾銅山の鉱毒と戦うため田中正造による日本公害反対運動の起点となった川である。
その観点からすれば、恋人達の出会う場所に相応しい名前とはいえないかもしれない。
とはいえ、森高のこの曲に対する市民の盛り上がりは大きく、足利市からは感謝状を贈られた。
そして2007年には足利市の出資で森高・歌碑が完成した。
森高の「渡良瀬川」はしっとりした名曲ではあるが、大ヒットした曲ではない。しかしこの曲に対する足利市の力の入れようは少々異常な気がする。
ひょっとしたら足利市には、公害運動とも結びついた渡良瀬川のイメ-ジアップをこの歌に託したのかもしれない。
その一方、地元出身の国会議員で天皇にまで被害を直訴した田中正造の"顕彰碑?"は、調べた限りでは河川流域に見当たらない。

作家の森村誠一は、ホテルマンとして東京紀尾井町のニューオータニに勤務していたが、そのニューオータニのすぐ前の清水谷公園は、森村の代表作「人間の証明」の犯行現場として設定されている。
しかし、この場所は「実際の」犯行現場でもある。
それは、この公園に立つ「大久保利通殉難碑」によって知ることができる。
明治の三傑・大久保利通は、1878年この辺りを馬車で通行中に刺客に襲われて暗殺されている。
清水谷公園というのは、実は大久保利通を祀るいわば聖地として公園化されたのだった。
そして、この地はもと行政裁判所や司法研修所があった場所、いわば「司法権」の中心地のひとつであったのだ。
ところで明治の「大事件」といえば、岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らを中心に征韓論を決定したが、大久保利通らはいそぎ帰国し内地優先を主張して決裂し、西郷隆盛らが下野した事件、つまり「明治六年の政変」である。
それが江藤新平の「佐賀の乱」で、西郷の西南の役に先んじること3年であった。
岩倉使節団が外遊する間、初代の「司法卿」に就任したのが江藤新平である。
江藤は国政の基本方針、教育・司法制度など、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
学制の基礎固め、四民平等、警察制度の整備など推進し、司法制度に多大の貢献をした。
その実績からすれば、「内務省」を握る大久保利通と「司法省」を握る江藤新平は、「両雄」といってよいくらいの存在であったのだ。
江藤は、三権のうち「司法権の自立」をとりわけ重視したために、「司法権=行政権」と考える政府内保守派から激しく非難された。
そしてこれこそが、これが大久保と江藤の確執のポイントだったのである。
江藤は人権意識や正義意識の高さでは、閣僚の中でも群をヌイテおり、決して無視できなかったのが長州藩閥の汚職事件(山城屋事件および尾去沢銅山事件)であった。
薩摩の大久保は、長州の伊藤博文らと薩長藩閥を形成しており、こうした汚職問題を追及していた江藤をメノカタキにしていたのである。
というわけで実は、「明治六年の政変」の核心の一つはこの「江藤の放逐」にあったのだ。
江藤が下野すると、佐賀藩(肥前)ではすでに旧士族の不満が高まっており、江藤を奉っての反政府の急先鋒となっていく。
しかし蜂起はするものの、佐賀における反政府軍の軍備は不足しており、わずか二週間で鎮圧された。
そして江藤は、皮肉にも自らが整備した警察の「写真手配」によって逮捕される。
江藤は法にのとって東京での裁判を求めたが、大久保はそれを無視して佐賀裁判所のみで裁判を強行し、ただちに刑が執行された。
しかもこの裁判では、江戸時代の「刑法」が適用されて、江藤は刑場から四キロ離れた千人塚にその首がさらされたのである。
大久保の江藤に対する個人的憎悪も多分に含まれたような残虐さであった。
しかし1878年5月、大久保利通は自宅を出て馬車の乗って太政官に向かう途中、六人の刺客に襲われ、大久保は全身に刀をあびて倒れた。
刺客は、石川県士族らで、政治は天皇陛下の御心によるものではなく、一般人民の公議によるものではないということを「斬姦状」の中で語っている。
大久保利光が暗殺された場所すなわち清水谷公園だが、江藤新平が整備しようとした「司法権」の中心的な存在「行政裁判所」が建てられることになる。
行政裁判所は1890年、「行政の違法を裁く」特別裁判所として設立されたが、戦後の憲法では裁判所が一本化されたためになくなった。
しかしこの場所には1948年~71年まで「司法研修所」があったのである。
大久保の江藤に対する勝利は、日本における行政権の司法権に対する優位を確定したといってよいが、この大久保暗殺の地こそは、大久保が処刑した江藤新平がチカラを尽くした司法権の中心地となっていた場所なのである。
さて、「征韓論」で大久保と対立し、江藤と同じく逆徒とされた西郷の死後は、江藤とは随分異なる扱いがなされた。
西郷隆盛は大久保利通、木戸孝允と並び、維新の三傑に数えられる人物で、薩長同盟の締結や戊辰戦争の軍勢の指揮など、その功績ははかり知れないものがある。
なんといっても、徳川幕府の重役であった勝海舟と会談をして、江戸城を無血開城させたこと。
そんな新時代を築くのに大きな功績のあった西郷隆盛だが、新政府では大久保利通らとの意見の違いから袂を分かち、参議を辞職して鹿児島に帰ってしまう。
そして、鹿児島に帰った西郷は、不平士族たちに担ぎ出されるように西南戦争を起こし、明治政府に対する反逆者として最期を向かえる。
明治天皇が1899年に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で、西郷の汚名を解いて正三位の位を追贈されている。
また、大久保利通、木戸孝允らは西郷の本当の気持ちを理解していたのだ。
西郷隆盛は明治天皇や周囲の仲間たちからの信頼が大きかったため、そのまま逆徒として埋もれることなく、明治維新の功績を顕彰されることになったのである。
ところが名誉回復すると、人気の高い西郷の像を造る計画が持ち上がり、薩摩藩士が中心となって寄付を呼びかけ、集まった寄付金で建てられたものである。
ただし、政府内には西郷への反発もまだ強く、あまり威厳のある姿の像は許されなかった。
そこで作られたのがいわゆる「上野の西郷さん」として親しまれる像である。
それでは、なぜ西郷隆盛の銅像は上野公園に建てられたのか。実は上野公園には寛永寺という徳川将軍家の菩提寺がある。
西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城の会談を行った後、それに反対する徳川家の家臣たちが彰義隊という隊を結成してこの寛永寺に立て籠もった。
この時、長州藩の大村益次郎が新政府軍の指揮を執っており、西郷隆盛も軍勢を率いて彰義隊との戦いに参戦している。
そして、現在の上野公園の西郷隆盛像がある場所が、西郷が軍勢を率いて攻め込んだ場所だとされている。
ただ、この像をめぐっては、ちょっとした話が残っている。
完成した像を見た西郷の妻は「主人はこんな人じゃな かった」と落胆したとか。
風貌が似てないというより、浴衣のような軽装で人前に出る無礼な人ではなかった、 と言いたかったようだ。
実は西郷の写真は一枚も残っていなかったという。一般的に我々知っている太い眉毛に大きな瞳の肖像画は、キヨッソーネという人物が西郷隆盛の弟西郷従道といとこの大山巌顔をモデルに描いたもので、本人の顔ではない。
そこで、銅像を制作にあたった高村光雲はキヨッソーネによる肖像画を参考に像を制作したのだ。
最初、軍服を着た陸軍大将の姿で制作されていたが、最終的には西郷隆盛が普段犬を連れて、野山で狩りをしていた時の姿に変更されたという。
西南戦争からまだそんなに時間が経っていない事もあって、いくら人望の厚かった西郷隆盛といえども、軍服姿の銅像というのは問題があったのだろう。
とはいえ、その像は、飾り気のない親しみやすさで、ますます庶民に愛されることになった。
その一方で、上野の西郷隆盛像と正反対の軍服を着た姿の西郷隆盛像が、故郷鹿児島には建てられている。
また、長州藩の大村益次郎は、薩摩の西郷隆盛は、共に、明治維新の主役であるが、明治維新後は、文字通り、軍権の全権を担い、軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築いた。
この大村益次郎像は、東京九段の靖国神社の入り口に堂々と建っている。
大村益次郎は、戊辰戦争後に、同郷の過激な攘夷派の長州藩士に襲撃された傷が元で死ぬことにあるが、死の間際に、 「必ずや足利尊氏のごとき人物が九州より反逆の狼煙を上げるだろう」と予言している。 その予言は、明治10年に起こった西郷隆盛率いる「西南戦争」で現実のものとなる。
今でも、大村益次郎の銅像は、国内最後の叛乱「西南戦争」の指導者・西郷隆盛の銅像が立っている上野方向を睨み付けているというのである。
大村益次郎像は、異様に高い台座の上に建立されているが、それは丁度、上野山に建立されている西郷隆盛像の目線に合わせる様に建てられているともいわれている。

異様に高い台座の上に建立されている像で思い浮かべるのが、福岡市の亀山上皇像で、福岡県庁と並んで福岡県警察本部があるが、その目の前の東公園に立っている。
この東公園こそ千代の松原とよばれた元寇の戦場であるために、 それを記念して、当時の亀山上皇像と国難到来を予言した日蓮上人像が立っている、ぐらいの理解では不十分である。
そこに隠された意図があるのは、建てられたタイミングからもいえることである。
実は、この東公園にシンボルとなる「亀山上皇像」を作ったのが、湯地丈雄という警察幹部である。
「亀山上天皇」建立のきっかけとなったのが、「長崎事件」である。
亀山像を作ったのは、上野の西郷隆盛像と同じ高村光雲で、台座がたかいばかりか、冠の後ろに立つ「巾子(こじ)」が幾分高いのは、近くに立つ日蓮上人像より高くしたためである。
もともとは、高くから博多湾を見据えて立っていたのだが、今は福岡県庁の建物が視線をさえぎっている。
日清戦争の10年ほど前に、清国の定遠、鎮遠という大型戦艦が長崎港に入港し、その大きさに長崎市民が圧倒された。
というのも、定遠は7700トンの大型艦で、かたや日本海軍の当時の一番大きな船でも2000トンクラスしかなかったからである。
長崎市民がその大きさに度肝を抜かれていた頃、清国兵が長崎の町で乱暴狼藉をはたらき現地の警官と衝突した事件があった。これを「長崎事件」という。
福岡の警察署長であった湯地はその事件の応援に行き、この事件は日本人の「平和ボケ」からきていると思い始めた。
そして、いつ外国が攻めてきてもおかしくないと危機感を持つべきだと思うようになった。
そして、この福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意したのである。
元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所で、現在の東公園こそが元との戦いの舞台となったところで、その時のて朝廷方のトップが「亀山上皇」であった。
亀山上皇の「敵国降伏」の文字のある篇額が筥崎八幡宮の門に掲げてある。
湯地は、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めていったが、なかなか集まらず生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけながらも20年の歳月をかけて福岡市の東区に亀山上皇の立派な銅像を建立したのである。
亀山上皇像のどこにも湯地の名前は刻まれていないが、ただ苦労をかけた妻と子の名前を書いた石を下に埋めたのだという。
その一方で、亀山上皇像の台座には、福岡市が生んだ首相・廣田弘毅の父親などを含む数名の制作者(石工)の名が刻んである。
太平洋戦争期に福岡県出身首相であった廣田弘毅は、東京裁判で"A級戦犯"として巣鴨で刑死するが、その廣田弘毅像が、福岡市中央区大濠公園内にある。
さて、福岡県にも明治元年に福岡藩主の黒田長知が戊辰戦争に殉じた藩士を祀るために創建した招魂社をはじめ、県内の旧藩主等が創建した護国神社が複数存在したが、1943年4月、現在地の福岡城址横の練兵場跡に、県内の護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定「護国神社」となった。
護国神社は、明治維新から大東亜戦争に至るまでの約13万柱の英霊を祀ったもので、靖国神社のいわば地方支社のようなものである。
廣田弘毅の銅像は、正面向かい側の護国神社をしっかりと見据えて立っている。