「寅さん」再来

日本社会は、規制緩和などにより法的な意味ではかなり自由な社会になってきた。しかしそれが実感できず窮屈なのは、日本には法以前に「世間体」というシバリがあるからであろう。
個人的に想像するに、カルフォルニアで暮らして、初めて日本の夏の「蒸し暑さ」を実感できたが、「世間体」などというものも、長く外国で暮らしではじめて理解できるものかもしれない。
とはいえ、外国暮らしはせずとも、「世間体」の重みを知らず知らず教えてくれる手近な材料がないわけではない。
山田洋治監督の「男はつらいよシリーズ」は、日本人が「世間体」というものにいかに縛られているかを教えてくれる。
なぜなら、この映画をみると身が軽くなるのをおぼえるからだ。
寅さんは、世間の評価にとらわれず、ひょうひょうと旅をしながら自由に生きる。
我が高校時代に出会った「寅さんの世界」。その解放感にひたるべく、大学の卒業時点まで、それまでのほぼ全作を映画館で見てしまっていたのである。
日本では、親や教師の気持ちを忖度したりしているうちに、いつのまにか、小さな子供たちまでも「世間体」というものを学ぶ。
そのうち多くの日本人は、世間に対する「全自動忖度器」、別名「いい人」が仕上がる。
だがなんといっても、違う文化で暮らすことは、もうひとつの鏡と出会うことでもある。
「空気を読む」社会の湿っぽさは、はっきりとものを言って後腐れのない「ドライさ」と出会ってようやく実感できる。
今から30年以上も前、映画「卒業」の舞台となったバークレーの街のピザハウスで、我が隣席の男女がなにやら学問上の議論を始めた。
男女といっても、男性は大学教授風、女性は大学院の学生風で年齢差はかなりあった。
激しいやりとりだったので隣席にいること自体心細く思えたが、議論が終わるや二人は輝いた眼をしてこの時間を共有できてよかったと握手して別れていた。
推測だが、相手の反論によって、新しい着想が生まれたりしたのかもしれない。この出来事は、カルチャーショックに近いものがあった。
ところで、海外には既存の価値にとらわれず自由に旅する生き方に対して「ボヘミアン」という言葉がある。
「フーテン」に比べて高踏的なニュアンスを感じるが、日本では1960年代に駅前でシンナーなどを吸っていて仕事をしない若者を「フーテン族」という言葉で表したために、「フーテン」にはマイナス・イメージがつきまとう。
「フーテン・ラプソディー」ではサマにならない。
つまり、「フーテン」本人やそれを抱える家族にとって「世間体」は、よろしくない存在であることに違いはない。
そんな「フーテンの寅さん」が、オイ青年!とか、オイ!インテリとか、労働者諸君!などとよびかけ、うまくいったこともない恋愛作法を伝授したりする。
明らかに空気は読めていないが、言っていることに妙に説得力がある。
ところで近年、都内で行われた「男はつらいよ」の特別上映会の会場には、映画館で寅さんを見たことがないという若い世代が目立ったという。
この上映会は、渥美清の命日をしのんで企画され、 会場には監督の山田洋次や、妹役の倍賞千恵子らも集まった。
映画の中で「おじさん、人間は何のために生きているのかな?」は、そのまま会場にいる青年達の問いにちがいない。
それに対して寅さんは、「生まれてきてよかったなって思うことが、何べんかあるじゃない。そのために人間生きているんじゃないのか」と答える。
その若者はそんな寅さんの言葉に励まされてきたという。
ある女性は、「100点を目指して生きようなんて思わなくていいよ。ただ誰かが困った時に、手を差し伸べられる存在になろうよ」というメッセージを受け取ったという。
映画の中で、実家の団子屋のシーン。おじちゃんとおばちゃんと,隣のタコ社長とかが集まって寅の噂話をする。「どうしてるかね今頃」「本当だね,病気でもしてなければいいけど」。
そこへ、マイケル・ジャクソンのように帽子で顔を隠して寅さんが現れ、すぐに家族とケンカになって啖呵を切って立ち去ろうとするや、そこにマドンナが表れ、ムーン・ウォークするように後戻りする。
そして、ついつい長居していくのだが、マドンナには立派な彼氏がいることが判明し、寅さんは失恋。
それでも恋のキューピット役となり、最後に寅さんの方で「俺が居たんじゃ、家族が困ることになる」と自分に居場所がないことに気がついて旅に出る。
家族はそれで一旦はホットするのだが、寅さんが去った後、おじちゃんが独り言をいう。
「まったく困った奴だ。いなきゃいないで気になるし、帰ってきたらきたで大騒ぎになっちゃうし、全く難儀な奴だ」という言葉に、観客も笑いつつもほろりとする。
上映会の若者の中には、そんな家族と寅さんの関係に、誰もが認める誰もが羨む生き方ではないものの、みんなに愛されて必要とされている。そこにすごく憧れるという者もいる。
そして、「寅さんだったらこうするかな」とか考えながら、コミュニケーションをとっているという。
また、思い描いていたような仕事に就けなかっ若者は、寅さんの「やっぱり真面目にね、こつこつこつこつやっていきゃ、いつか芽が出るんだから」というシンプルな言葉に前向きになれたという。
山田監督によれば、寅さんがいたら 俺なんかに憧れてどうするんだいうだろうが、自由に生きる寅さんが見直されている背景には、今の人々が直面する窮屈さが写し出されているのではないかと語っている。
その「寅さん」人気は、日本ばかりかと思っていたが、意外や海外にも飛び火している。
日本に来て日本文化を勉強する過程で、「寅さん」にはまり、自国で「男はつらいよ」の上映会まで計画しているという。
そのフランス人新聞記者は、「寅さんが日本人にしかわからないとか、その心情がとても日本的だとか思うのは日本人だけ」という。
そして日本文化への関心は、我々が想像している以上なのに、みんな内向き。
日本人が自分の姿を自画自賛しても、それを外に向けて発信しようとしないのは、もったいないことだという。

「男はつらいよ」がはじめて上映されたのは1969年。 以来49作が公開され、広く愛されてきたものの、寅さんの出生は意外と知られていない。
寅さんは帝釈天の参道の団子屋の軒先に捨てられていた。それが昭和11年2月26日、二・二六事件の当日だった。
道楽者の父親と売れっ子芸者のお菊の間に生まれたのが寅さんで、京都に身売りするお菊が父親の家の前に置いてった。
だから妹のさくらとは母親が違う。しかし、育ての母の光子ができた人で、寅次郎をわが子同然に育てた。
上に兄がいたけれど、戦時中に発疹チフスで亡くなった。
ちなみに、寅次郎が生まれ育った葛飾柴又の「帝釈天」は、「吉祥天」やや「韋駄天」などと並んでヒンドゥー教の神々のひとつで、雷神インドラである。
そのことを知っていはいそうもない寅さんだが、その存在が「カミナリ的」存在であるのは幾分あてはまっている。
父親に疎まれていた寅さんは最初っから居場所のないフーテンみたいなところがあった。
しかも少年時代の前半は戦争、後半は焼け跡闇市の時代。出征した父親の平造が帰ってきたのは敗戦の年の暮れだった。
平造の弟のあの「おいちゃん」と「おばちゃん」は3月10日の東京大空襲で家と子どもを失い、実家の団子屋を手伝うことになったのである。
そして「男はつらいよ」の成功は、以上のような家族関係を脚本として設定した山田監督と、渥美清という名優の思いが融合して出来た結晶なのにちがいない。
特に「役作り」には監督と役者の心がよく響きあうことが重要だが、山田監督と渥美清は一か所に根付かない流れ者の環境の中に育ったということがポイントになっている気がする。
例えば、寅さんが映画の中で啖呵を切ったり口上したりするのは監督の脚本だが,渥美が少年時代からテキ屋にあこがれていて、秋葉原から御徒町にかけていっぱいいたテキ屋の口上に聞き惚れたり、学校のノートに書きうつしたりして暗記したものであった。
山田洋次は1931年、大阪府豊中市生まれた。満州鉄道のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごし終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、青年期をを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。
流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響していると思われる。
旧制宇部中(現在の宇部高等学校)を経て東京大学法学部を卒業している。
1954年に東京大学を卒業して松竹に入社した。
松竹では大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が絢爛たる才能を発揮し独立していく中、山田はどちらかといえば地味な存在であった。
そして山田が松竹の伝統的な喜劇路線を受け継ぐ形で「フ-テンの寅さん」が誕生するのである。
そして高度経済成長と日本社会を内部から締め上げるように進行する管理社会の中、「寅さん」の人情味あふれる気ままな人生は、各地の風景とあいまって故郷回帰願望を刺激し多くの日本人の心を捉えていったのだと思う。
一方、渥美清の方は、1928年上野の車坂に生まれるも一家で板橋区志村清水町に転居するが小学生時代は所謂欠食児童であったという。
加えて、病弱でもあり学校は欠席がちで、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごしたという。
戦争の色濃くなる1940年に巣鴨中学校に入学し卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたことも寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗りになろうと退学したが母親に猛反対されたため断念。
知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになったのである。
以後、浅草で活躍1956年テレビ出演し喜劇役者としての地位を不動のものとしていった。

2018年の冬、岡山県津山を旅した。
津山は、織田信長の小姓・森蘭丸の第五男が築いた城下町。宇田川溶庵など洋学が盛んなところ、そしてB’Sの実家「稲葉化粧品」などにも興味があり、また横溝正史作「八つ墓村」の舞台となった。
「八つ墓村」は、1938年に実際起きた津山事件をモデルにしているだけに、西洋と土俗の入り混じった山間の街として以前より興味を抱いていた。
津山駅から歩いて20分ほどに位置する津山城の遺構を見学した後、予想した以上に整備された長い城下町を歩いていくと、そこで出会ったものは、なんと「男はつらいよ」の撮影地を示すいくつかのの石碑。
「男はつらいよ」第24作は、津山を舞台に行われている。
それにしても、寅さんの撮影現場をここまで大切にしているとは、驚きであった。
驚いたといえば、2018年9月「男はつらいよ」の最終作の制作が決定され、公開日が2019年12月に決定したという。
新作の仮タイトルは「男はつらいよ おかえり、寅さん」。
寅さんは、1996年に68歳で亡くなっているだけに、どのような手法で構成するのか興味深いところである。
しかし、こういう映画が出来るのも、もう一度寅さんに会いたいというファンの気持ちの表われであろう。
そしてなんといっても見どころは、以来23年ぶりに銀幕復帰を飾る後藤久美子が登場することである。
そして、この後藤がかつて出演したこの作品「男はつらいよ  寅次郎紅の花」(1995)こそは、津山を舞台にしたものであった。
さて、寅さんが街にいて物を売っいたりしていたら、いつのまにか寅さんの口上「けっこう けだらけ ねこはいだらけ」を素直に聞いてしまって、瞬時にせよ渥美清という役者の存在を忘れてしまうのではないか。
フ-テンの寅さんはそれほどまでに渥美清という役者に貼り付いていたのである。
役柄の「寅さん」、それほどまでに渥美清という役者を限定してしまったともいえる。
そのことについて、「寅さんばかりは、つらいよ」という思いはなかったであろうか。
実は、国民的スターとなった渥美清は、「寅さん」のイメージを守るために、芝居仲間にもプライベートを明かさず、弟子すら取りたがらなかったのだという。
だが、付き人として4年間を渥美の下で過ごした渥美の素顔を知る数少ない人物がいる。
彼が「毎年寅さんをやっておられますが、他の役はやりたくないんですか?」と、ずっと気になっていたことを渥美に尋ねたという。
なにしろ、毎年同じような構成で公開される同作に、マンネリという声も囁かれはじめていた時期だった。
そのぶしつけともとれる付き人の問いに、渥美はかんで含めるように答えた。
「寅さんのファンは、浅草や地方に行くとまだまだたくさんいるんだ。それになあ、この映画を作るのに、大勢のスタッフがいて、みんなに家族がいる。俺が簡単に”やめる”とは言えないだろう」と語ったという。
そして、役者には「好きなもの」と、「向いているもの」があると語った。
そして渥美は、浅草の劇場出身だから、本当は舞台の芝居が「好き」である。
若い頃は、舞台での下積みより、映画に出たいとばかり思ってたが、年齢を重ねると台本をもらって数日で本番というものより、1ヵ月近くじっくり稽古をして役柄を身体に染み込ませる舞台のほうがしっくりくる。
とはいっても、自分は肺が片方しかないので、「向いている」のは映画なのだという。
映画であったからこそ、ファンに対して長く元気な姿を見せることができた。
とはいえ、「男はつらいよ」シリーズは、浅丘ルリ子が出演した第15作あたりから、コメディ路線から人情もの路線に変わったような気がする。
第1作では41歳だった渥美清は、生前最後の作となった48作目「寅次郎紅の花」に出演した時は67歳であった。
しかもこの時、医師から「出演は奇跡に近い」と言われるほどガンが進行していた。
渥美は、痩せてしまった首筋をマフラーで隠したり、ほぼ座ったり寝転がったりしての演技をしていた。
「役作り」にどれくらい徹するエピソードをあげれば、篠田正浩監督は、「女優、厨房にいらず」で、夫人の岩下志摩に台所仕事はさせなかった。
また、「不良番長」の異名をもつ俳優が休憩時間に、自分の赤ん坊をあやす姿をみた映画監督が、これでは「役作り」が出来ないと怒り出して、監督を降りるといった例を思い出す。ちなみに、この赤ん坊は「梅宮アンナ」である。
日本人としては最初で最後の、いわゆる「ボンドガール」を演じた浜美枝は、「007」映画制作陣の「作品」へのこだわりを肌で知ることになった。
1日の撮影が終わっても、自分の部屋以外ではボンドガールのイメージを保つつように求められ、それにふさわしい洋服が5~6着届いていたという。
とはいえ、それらは作品の制作期間に限定しての話である。
生涯プライベートを消してまで、車寅次郎と同化していった渥美清は、稀代の俳優だったといえそうだ。