「自分」とバッタリ

人間の顔の目と植物の芽、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)、鼻と花。これは偶然か?
顔と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれているのは。
漢字にすれば、まったく別の言葉のように見えるが、ある万葉学者の説によれば、これらは語源が共通しているからだと言う。
古代の日本人は、顔のパーツも植物のパーツも、「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じようなものと考えていたようだ。
たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、植物の枝先の"先端"に咲く。
その証拠に、薩摩半島の「長崎鼻」のように、岬の突端も「はな」と呼ぶ。がその一例である。
さらに「かわりばな」「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味ももつ。
「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がついたものである。
「から」が植物にも使われた例は、稲の茎の「稻幹(いながら)」、芋の茎の「芋幹(いもがら)」などの言葉に残っている。
古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んでおり、「手」「足」というように””えだ”わかれしたのは、奈良時代あたりからである。
つまり、我々の先祖は、植物も人体も同じものだと見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」として。
さて「花」といえば、大概の人は"あの名曲"を思い浮かべるに違いない。
とはいえ、あの名曲「花」といっても、三世代に分かれる。
我が世代では、♪花は流れてどこどこ行くの♪の「花」(喜納昌吉作詞・作曲)である。
上の世代では♪春のうららの 隅田川♪の「花」(瀧廉太郎)、下の世代ではオレンジ・レインジの♪花びらのちりゆく中で♪の「花」、というのが割と一般的なのではなかろうか。
次に小説の「鼻」といえば、芥川龍之介の「鼻」、外国文学好きならば、ロシアの文豪ゴーゴリの「鼻」をあげるかもしれない。
鼻は、風がふけば一番最初に感じ取る突端で、顏の中央に位置する。
芥川の「鼻」とゴーゴリの「鼻」は、かたちは違うが、鼻をとらわれがちな「自意識」と結びつけた点で共通しているような気がする。
芥川の「鼻」では、仏教の身分の高い僧正が鼻の大きさが気になって小さくしたら、逆に皆からかえって笑われて、結局は元に戻したという話。
この小説では、周囲から主人公が同じ笑われるでも、「笑い」の質が変わっているが、そこが芥川の描写力の素晴らしいところ。
、 ゴーゴリの「鼻」は、ある朝食事をしていたら、鼻が食事の中に落ち、その鼻が勝手に街を歩いているをの見かけるという奇妙な話。
両方の「鼻」とも、荒唐無稽な話とも思えるが、不思議に心にひっかかる話である。
さて、人間の視野で一番近くに見えるからだの一部はどこであろう。
眉毛はまったく見えない。瞼は閉じれば見えそうだが暗くて見えない。とすると鼻の一部がかすかに見えている。
だからこそ、鼻は人間の自意識と深く結びつくものとして、芥川の小説が、古典からその題材をえたのかもしれない。
ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びるように、鼻というのは「自意識」のシンボルといっていよいのではないだろうか。
(ついでに余計なことを言うと、日産のゴーン会長はレバノン系なので、あの鷲鼻こそはフェニキア人、いいかえると「ベニスの商人」(ベネチア=フェニキア)の末裔なのかもしれない)。
さてゴーゴリの「鼻」は、朝、一人の理髪屋が焼き立てのパンを食べようとしたら、その中から「鼻」が出てきたところから始まる。
男は「鼻」を捨てるために町中を歩き、ようやく河へ捨てることができた。ソコへ巡査がかけつける。
今度は、その「鼻」の持ち主が自分の「鼻」を求めて旅する話に展開するのだが、とうとう「鼻」を見つけたと思ったら、「鼻」はナゼカ自分よりも位が上の「お偉方」になっていた。
その鼻は会話もし、立派な馬車にも乗る。果たして現実か夢想か、本文では次のような描写がある。
「そこで彼は、くだんの紳士に向かって、お前は五等官の贋物だ、お前はペテン師で悪党だ、お前は俺の鼻以外の何者でもないのだと、単刀直入に言ってやろうと心を取り直した……。が、鼻はもう、そこにはいなかった。また誰かのところへ挨拶をしに、まんまと擦りぬけて行ってしまったのだろう」。
ゴーゴリが生きた時代をみれば、ひとことでいえば息苦しい抑圧の時代なのである。
しかし、1825年の即位前から「反動的」として知られたこの皇帝は、欧州の自由主義的な流れに逆らい、秘密警察を創設して、自分の意にそわない者達を次々と逮捕・弾圧したのだ。
ゴーゴリが生きたのは、ニコライ1世統治下のロシアで、官僚主義の強圧性や欲深さ、御都合主義が蔓延している時代であった。
自分の「鼻」が偉くなっているのは、鼻が自分を抑圧する側にまわっていることを意味する。
そんな夢想を描くのも、ゴーゴリが、官憲の側から表現者としての自分がどうみつめられているかを考える習慣が出来ていたからではなかろうか。
そんな緊張のなかで、「検察官」などの権力者を笑いものにした作品が生まれたのだろう。
ところで、ゴーゴリが表現しようとした「鼻」は、現代的なテーマとして読み替えられるような気がする。
それをネット社会に反映させると、ネット上で「自分にまつわること」をコントロールできない状況に陥っているということに近い。
それは、中国の監視社会がその代表だが、自分に名前を隠していても、情報の断片を継ぎたしていけば、人物が「特定」され、人物像が再構成できるようになる。
そしてその存在が、ネット上でに「拡張」されたり、「矮小化」されたりして、拡散してしまう。
それを削除しようにも、有効な手段がなく、仮想空間で一人歩きしているような状況が起きている。
さて、ネットが普及する前の時代の話だが、ちょうどゴーゴリの「鼻」にでてくる主人公のように、もう人の「自分」と数奇な出会いをした男性がいる。
1968年、ミシガン州デトロイトの場末のバーで、ロドリゲスという男が歌っていた。
その姿が大物プロデューサーの目にとまり、満を持してデビューアルバムをリリースする。
実力的にもルックスも申し分なかったが、商業的には大失敗に終わり、多くのミュージシャン同様に、レコードもお蔵入り、跡形もなく消え去った。
しかしその「音源」は、本人も知らぬ間に反アパルトヘイトの機運が盛り上がる南アフリカに上陸していた。
そしてロドリゲスの歌に秘められたメッセージ性は、アメリカにおけるボブ・ディランをも凌いでいた。
それは、正規のレコードではなく「海賊版」に乗って流布し、彼のはいつしか「シュガーマン」と呼ばれるようになる。
しかし、シュガーマン・ロドリゲスとは一体何者なのか、情報も不確かな中ステージ上で自殺したという都市伝説までもが広がった。
そして一部のファンが、歌詞に登場する地名など数少ない情報を頼りにロドリゲスの居場所を調査したところ、ようやく本人にたどり着く。
その時ロドリゲスは3人の娘を肉体労働で養いつつ、どうにか生計をたてていた。
実は、「シュガーマン探し」のためにラジオで流れた「その声」が父親の声であることを通報したのは、ナントその娘達であった。
そして、ロドリゲスは、アメリカで陽の目をみることのなかった自分の「声」が、地球の裏側の南アフリカに飛んで「大ブレイク」いたことをようやく知るに及んだ。
そしてまもなく、シュガーマン・ロドリゲスは南アフリカに招かれ「凱旋ステージ」が実現する。本人の第一声「生きてたぞ!」に、待ちわびていた観衆の中から大喝采が湧き上がった。
各地での公演は「売り切れ」続発したものの、ロドリゲスはそのギャランティのほとんどを寄付にあてる。
そして、何事もなかったようにアメリカに帰国し、元の工事現場に戻った。
それでも娘たちは、父親が本物の歌手であったことを再認識した。

終戦直後、GHQのひとりの米兵がバスケットシューズを少年にプレゼントした。
その少年・木村利一はボールを大切に保管し、成長して早稲田大学に進学し、アジア比較法を研究する大学院生となった。
クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、フィリピンの若者と共に「街の復興」のために働くことになる。
1954年、25歳の木村は、YMCAのキャンプに滞在したが、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!!」と厳しい言葉をなげかけた。
現地の人々の脳裏には、日本兵に村を焼かれ、家族や友人知人、あまたの人が虐殺された第二次世界大戦の傷が生々しく残っていた。
現地のゲリラ活動を警戒するあまり、一部の兵隊が暴徒化したものだったのだが、木村はあまりにも無知のままこの地に足を踏み入れたことに気づく。
同時に、何も知らぬままでは帰れないと、現地の青年たちとトイレ作りなどを行っていくうち、敵意でピリピリしていた若者達ともうち解け合うようになった。
また木村は、幼き日に「バスケットボール」を教えてくれたアメリカ兵のことを思い出した。というのも、米兵がくれたバスケットシューズを持参してきていたのだ。
そして小学校にバスケットボール・コートを作る許可を得て一人黙々と草取りを始めた。
そうした木村の働く姿を見て、現地の人たちも次第に心を開き、コート作りに協力していった。
木村には、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につくが、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
聖書で見つけた「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(旧約聖書・詩編47編)という言葉にインスピレーションを得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そんな折、歌手の坂本九は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はの歌手としての行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かをもらった感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にし、「作曲者不詳」のままレコード化された。
なんと、作曲者の木村利人の耳に届いたのは、大学の研究室の外から聞こえる歌声であった。
それは自分がフリピンから帰国の際に作った曲を幾分アレンジしたものだった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
木村は、坂本の楽屋を訪れ、"歌で世の中を平和にしたい、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という点で、すっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの「顔」として、世界的ヒットとなった「上を向いて歩こう」などを外国人を前に披露したが、それとともに「幸せなら手をたたこう」も歌った。
一方、木村利人はその後、スイスのジュネーブの大学教授、 エキュメニカル研究所副所長にもなり、木村によってヨーロッパにも、この歌は広がった。

荒川区は「紙芝居発祥」の地といわれ、当時二百人以上の業者がいて、子どもたちがいるところでは必ず「紙芝居」が演じられていた。
森下は、1952年の第1回紙芝居コンクールで優勝を果たしている。
紙芝居は、簡潔な物語展開、絵師による図柄、軽妙な語り口やゼスチャー、紙芝居の「めくり」の臨場感、ドラや太鼓、拍子木の音といった「総合芸術」である。
子供達は、駄菓子を食べながら、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる「勧善懲悪」の物語にジット見入っていた。
しかし、高度成長とともに街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していった。
テレビを始めラジオや漫画などの娯楽の普及につれて紙芝居は人気を失い、紙芝居師の数は激し、荒川でも次々に紙芝居師が廃業していく中、森下は伝統文化を守るため、現役の「紙芝居」師を貫き続けた。
夫人は森下の意志に理解を示し、困窮する家計を内職で支えた。
森下の家は駄菓子屋だったので、午前中にお菓子の仕入れや仕込みをする。
森下は、子供の夢とロマンを残すため、「紙芝居児童文化保存会」を結成した。
かつてのように街頭で紙芝居を演じるのではなく、公民館、老人ホーム、日本全国の祭りなどのイベントに自ら出向き、一つの「出し物」として紙芝居を披露するスタイルへと移行していった。
悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ、だがそのとき、高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつける。
そんなヒーロー「黄金バット」を名口調で子供達に語り続け、50年を経た1990年の春、森下は喉に異常を感じた。
声がカスレて出てこない。病院の診断は「喉頭がん」だった。
一時、声が出るまで回復したものの、医師からは「声帯の摘出」を勧められた。
紙芝居は声がイノチなので、「声帯」を取ったら「紙芝居」生活とも別れなければならない。
結局、森下は、家族の説得もあって手術を受けることにした。
手術を前にした1990年9月10日の夜の病室で、自分の最後の肉声を残すため、テープレコーダーを前に「黄金バット」を独演した。
語りが終わると、同室の患者たち5人から拍手が巻き起こった。
森下と同じように声を失ったこの患者たち五人が、期せずして森下の「肉声」での最後の客となった。
それでも森下が懸命にリハビリに取り組んでいた時、「送り主不明」のカセットテープが森下の元に届けられた。「消印」は四国の丸亀市であった。
森下はかつて巡業で訪れていた丸亀でのことが思い浮かんだ。
そしてテープには、黄金バットなどを含むかつての「名調子」で、六話が録音されていたのである。
また「これを使って子供たちに紙芝居を演じてほしい」との手紙が添えてあった。
森下は、この「自分の声の贈りもの」を受けた時、「感激で涙が止まらなかった」と語っている。
テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる可能性がある。
森下は音声に合わせて口を動かし「紙芝居」を行う新しいスタイルを考案した。
そして声を失った森下の「紙芝居」は以前より更に朗らかな表情や表現力に磨きがかかり、子ども達はもちろん大人達も引き込んでいったという。
80歳を過ぎてからも、子供たちに夢と思い出を残すため、自分と同じ病気の人々を励ますため、精力的に活動を続けた。
2008年12月、肺がんで亡くなった。享年85。

現在、息子である森下昌毅が父の跡を継ぎ「紙芝居」を演じている。 同時に「食道発声法」のリハビリにも励み「第二の声」での実演も目指したが、今度は肺がんを発症した。
1978年、ゴダイゴの「ガンダーラ」ヒットの背景には、当時の「シルクロード・ブーム」があった。
そんなオリエンタル・ブームの中で久保田早紀の「異邦人」が140万枚を超えるメガ・ヒット曲となった。
久保田は、東京・国立(くにたち)の通訳の父に生まれ、4歳頃からピアノを習い始める。
小さい頃から教会にかよい、教会音楽特にバッハが好きだった。
子供の頃、父が仕事でイランに赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」をともなう音楽性を養うことにつながった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
高校の頃に、詩を書く文学少女がいて、彼女に曲を書いてといわれて曲を作りはじめた。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」と。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
その音楽プロデューサーは、「魅せられて」の制作スタッフの一人で、久保田の声の「哀愁」に探していたものに「出会った」と感じたという。
金子文枝は、ポルトガルの郷愁を帯びた音楽「ファドの世界」に引き込まれていて、ファドに近い曲がデキナイカと久保田にファドの女王「アマリア・ロドリゲス」のレコード数枚を渡した。
そして、レコードを聴いた久保田は、何も「恋愛」を歌う必要はないと思ったという。
一方、金子文江の中には「次はオリエンタルなもので行こう」という思いがあり、オリエンタルの雰囲気を強く出そうと、萩田光雄に「編曲」を頼んだ。
萩田光雄は、中森明菜のエスニックムードの音楽を生みだした人でシルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さらに「異邦人」ヒットには、CMタイアップの「仕掛け」もあった。
シルクロードをコンセプトとする「企画」を狙っていたプロデューサーにより、「シルクロード」を背景とした大型カラーテレビのコマーシャルソングとして使われた。
そのオリエンタルで神秘的なムードのCMソングに注目が集まり、ジワジワと売上げを伸ばしてブ大レイクする。
久保田本人によれば、自分のデビュー曲がCMにも流れ「雲の上を歩いている」感じだったという。
この「夢の中」のような物語は、久保田にとっては大きな「悩みの種」となった。
次も売れる曲をつくってくれ、ヒットするとはどういうことかわかってるよね、とプレッシャーをかけられた。
電車の中で作った「白い朝」が、音楽や画像の専門家集団によって「異邦人」という曲に変えられてしまったのである。
久保田自身は努力をしたわけでもなく、ナゼ曲が売れたかわからないから、次に売れるものを作ってよと言われてもわからない。
次の曲を作っても、最初の輝きを越えることはできなかった。音楽がイツシカ「音苦」になっていた。
そして久保田は自分は何者か、自分のルーツは何かと自分自身に問うようになる。
そして久保田がタドリ着いたのは、幼い頃に聞いた教会音楽であり、賛美歌であった。
1985年に結婚とともに引退し、今は「音楽宣教師」として各地の教会をまわっている。
東北の被災地の教会でも賛美歌をピアノ演奏した。
リクエストがあれば「異邦人」を演奏するという。

「1枚の写真」が人の運命を変えるというのは、「撮られた側」ばかりではなく「撮った側」にも起きることである。
「戦場カメラマン」といえば、まるで「自殺願望」でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎は、その疑問を「1枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであった。
実際に自分が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
なにしろ、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、イツ、ドコデ撃たれたのか全くわかっていない。
そして、この写真の「真偽の解明」が始動したのは、この写真が取られる直前の「連続した40枚」近い写真が見つかったことによる。
この写真はスペイン内戦の時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、「山の稜線」からアンダルシア地方と特定することができる。
そして連続した写真の解明から「驚くべき真相」が明らかになっていった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかったのである。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」を撮ったのは、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローであった可能性がきわめて高いことが明かされた。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され「帰らぬ人」となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」といってよい。
そしてそのことにより「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに「帰す」ことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けたのは、あの「1枚の写真」に追いつきたかったからかもしれない。
キャパは、あの「1枚の写真」と彼の命を道連れにするかのように、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。

また、ノーベル賞を受賞してからも一技術者として質量分析計(MS)の開発に取り組んできた田中氏を、「ノーベル賞会社員」と連呼していたのも違和感を抱きました。読者の皆さまならご存じの通りですが、田中氏はシニアフェローという肩書きで役員待遇です。番組放送後、島津製作所には「日本の宝をいつまで平社員あつかいしているんだ!」とお叱りの電話もあったとか。クレームの電話を入れるとしても、くれぐれも事前に調べてからにしたいものです。  それでも番組のテーマであった田中氏の「葛藤」は丁寧に描かれていたと思います。我々一般人には想像するしかありませんが、40歳代の前半で科学者としては世界最高の栄誉を手にしたプレッシャーはいかばかりか。世間の好奇な目と周囲の高まる期待。自分自身も「もうひと花咲かせたい」と思うのが自然でしょう。2018年にNature誌に掲載された論文(血中のアミロイドβ関連ペプチドをバイオマーカーとすることでアルツハイマー病の早期発見につながるという研究成果、国立長寿医療研究センターなどとの共同研究)は、15年以上かけて地道に基礎研究に取り組んできた田中氏らのチームの勝利です。  ここで「田中氏らのチーム」と書いたのにはワケがあります。NHKの番組を見て私が一番注目したのは、「田中氏が学会などで研究者に積極的に声をかけて、ポスドクなどポジションのない若手研究者を40人近く島津に招き入れている」というくだりでした。いくら役員待遇の田中氏をもってしてもそんなことが可能なのか、と驚いて島津の広報担当者に問い合わせたのです。企業関係者なら容易にご理解いただけると思いますが、人を雇うには、気が遠くなるような手間(社内調整)とお金がかかります。  広報担当者からの回答は「FIRST(内閣府の最先端研究開発支援プログラム)も含めて、40歳未満の研究者を様々な雇用形態で40人前後採用してきました。若い時にチャレンジさせてもらったので当たり前のこと」と田中が申しています、とのことでした。そして、田中氏ご本人から理由を伺えるとのことで、急遽電話取材が実現しました。私は02年のノーベル賞受賞直後にも田中氏にインタビューしているので、直接お話するのは16年ぶりでしょうか。今日も作業服を着ているという田中氏に、1時間近く、若手の雇用について熱く語っていただきました。  田中氏は、「最終的に成功した人はたくさん失敗してきた。だからこそ若手にチャンスを与えるのは当たり前のこと」と繰り返し仰っていました。田中氏のノーベル賞受賞は、試薬の配合量を間違えるという偶然の産物がきっかけとなったのは有名な話です。その経験があるからこそ、若手研究者には「失敗してもいいから何度でもトライしよう」と語りかけているのだそうです。  実際、田中氏は今も時間が許す限り学会に顔を出し、ポスター発表なども丹念に回る。面白そうなアイディアを持つ研究者を見つけたら「ウチと共同研究しませんか」と声をかけるそうです。2010年から3年間、FIRSTのプログラムに採択されたので、国の予算が付いたという追い風も受けましたが、元々は外部にいた研究者を40人近く雇ってきました(1年以上の在籍者の累積)。その中には能力が認められて島津の正社員になった人もいれば、大学に戻った人もいる。田中氏が所長を務める田中耕一記念質量分析研究所が投稿した論文数は100報を優に超えています(https://www.shimadzu.co.jp/aboutus/ms_r/doc.html)。  田中氏の話で印象的だったのは「自分も1人では何もできない」という言葉です。今や最先端の科学技術研究は、ノーベル賞級の「天才」をもってしても1人では成し遂げられないという現実があります。田中氏らが取り組む質量分析もそうです。その作業工程は、サンプルの前処理、イオン化、イオン分離、イオン検出、測定、解析(ソフト)などに分かれます。30年以上MSの研究開発に取り組んできた田中氏は、当然のことながらすべてのプロセスに精通されていますが、「世界初」「世界最高」の性能を出すためには「各プロセスで若くて柔らかいアイディアを多く取り入れる必要があった」と言います。  だからなのでしょう。田中氏は自分の部下に対するリスペクトが半端ないのです。部下の研究成果になると話が止まりません。「○○さんの論文は…」と部下を「さん」づけして、論文の内容や研究全体の中でいかに貢献したのかを1人ずつ丁寧にご説明いただきました。本稿ではお名前だけ紹介しますが、福山裕子さん、金城(中川)薫さん、金子直樹さん、西風隆司さん、高橋秀典さんらの多大な貢献があったそうです。  それだけではありません。田中氏は派遣会社から来る、いわゆるテクニシャン(技術補佐員)の貢献も高く評価し、論文のco-autherに名を連ねている人が何人もいるのだそうです。話を聞いていて「田中さんって、いいボスだなぁ」と感動しました。  電話の中で田中氏はNHKの番組に対して一言も不満は漏らしませんでしたが、自分だけがクローズアップされた番組構成について「研究の成果は1人では成し遂げられなかった」ことを伝えたかったのではないか、と電話を切ってから感じました。NHKの番組は近いうちに再放送されるでしょうし、NHKオンデマンドなら216円(税込み)で視聴できます。見逃した方はご覧になってはいかがでしょうか。

サラリーマン研究者がノーベル賞受賞! 受賞時43歳、無名の若きサラリーマンがノーベル賞を受賞した。 そのニュースは当時日本中を熱狂させた。 「初めは何かのドッキリかと思った。」と田中さん。 というのも、授賞理由となった研究は28歳の時(入社2年目)のもの。 現役サラリーマン初のノーベル賞受賞ということもあり、日本中のサラリーマンを熱狂させた。 しかし、この受賞こそがその後田中さんを長年苦しめることになる。 受賞後はメディアの取材を遠ざけてきた。 そんな田中氏が再び表舞台に登場したのが、2018年2月。 アルツハイマー病の原因とされる物質の発見により「認知症発症の20年以上前に早期発見できる」という研究が英科学誌ネイチャー電子版に掲載され、世界中で注目を集めている。 アルツハイマー病患者の脳には発症20年以上前から異常なたんぱく質が蓄積され始めるのだという。 プロフィール 1959年8月3日生まれ、富山県富山市出身。 実母は田中氏が生後一ヶ月の時に病死。 叔父夫婦のもとで養子として育てられる。 小学校時代は物静かながらも将来につながる片鱗を見せていたと言う。 東北大学工学部へ進学。大学時代にはじめて自分が養子だったことを知りショックを受け1年留学。 大学卒業後、1983年に島津製作所に就職。 妻の裕子さんとは95年にお見合い結婚。 2002年ノーベル化学賞受賞。 大学時代に幼いころ母が病死したことを知り「人の命を救いたい」という思いを抱くようになった。 現在は島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長。 2月17日(日)放送の平成史スクープドキュメントでは、ノーベル賞受賞後、苦闘を続けてきた田中耕一さんに迫ります。

.飲んだくれで小市民的な理髪師 イワン・ヤーコウレヴィッチ 19世紀ロシアのペテルブルグ(今のサンクトペテルブルク)、ヴォズネセンスキー通りに住んでいる理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチがある朝目を覚まし、朝食に食べるパンを切っていると、パンの中に誰かの鼻が入っているのを発見する。 イワン・ヤーコウレヴィッチはいつも飲んだくれで、他人の髭(ひげ)は剃るが自分の髭は反ったことの無いような無精な人間である。 彼は、細君であるプラスコーヴィヤ・オーシポヴナに「どこからそんな鼻を削ぎ取ってきたんだ、人でなし」と小言を言われながら、パンの中に入っている鼻を指でつまみ上げると、毎週水曜日と日曜日に理髪店へ顔を剃るためにやって来る小役人のコワリョフの鼻であることに気がつく。 鼻をとっとと片付けないと警察へ突き出すと言うプラスコーヴィヤ・オーシポヴナの口やかましい小言を尻目に、イワン・ヤーコウレヴィッチは鼻を捨てようと往来へ出る。 どうしてこんなことになっているのか訳がわからないまま往来をゆくが、こんな時に限ってたくさんの知り合いに遭遇してしまい、なかなか捨てるタイミングがなかった。そのうち大小の店が開き始め、町を歩く人が徐々に増え、絶望しながらも彼は鼻を、イサーキエフスキイ橋の下に流れているネヴァ川に投げ込むことに決めた。 魚でもいるかと覗くふりをして、橋の欄干によりかかりざまにこっそりと鼻の包みを川に落とした。ヤーコウレヴィッチはニヤリとした。 首尾よく橋の下へ鼻を捨てることに成功したかと思いきや、橋のたもとに立っている巡査に発見されてしまった。 怪しむ巡査はイワン・ヤーコウレヴィッチを呼びつけ詰問する。 イワン・ヤーコウレヴィッチはこの危機をなんとか逃れようと、遠くの方から愛想良い顔をして近寄り、「これはこれは、ご機嫌様です、旦那」と巡査にお追従をする。 そんなことに誤魔化されない巡査は、今あそこで何をしてたのか話せと言う。 ヤーコウレヴィッチは途端に顔から色を失う。ところがこの一件はここでうやむやになってしまい、その先がどうなったのか、皆目分からない状態となる。 2.八等官の成り上がり者 コワリョフ コワリョフはコーカサスから出世のためにやってきた小役人であった。八等官になって2年がたっていたが、まだ自分が何者かを客観視できず、いつも少佐と自称し自分を大きく見せていた。 朝早くに目を覚ましたコワリョフは、昨日自分の鼻の頭にできたニキビの状態を見ようと鏡を取ったが、驚いたことに本来鼻があるはずの場所に鼻が無いことに気がついた。 これは何かの間違いなのではないのかと自分の目をタオルで拭いたり、手でさわって確認したり、自分の体をつねったりしてみたが、もと鼻のあった場所はのっぺらな平面となり、やはり鼻が無くなっていることを知り、武者震いする。そして(なぜ医者に行かず、警察に行こうと決めたのか分からないが)コワリョフは、警視総監のもとへ行こうと表へ駆け出した。 通りには馬車が見つからなかったので、彼は鼻血が出て困っている風に、ハンカチで鼻のあった場所を覆いながら、歩いて警視総監のもとへ向かったが、その途中に人気の無い菓子屋へ立ち寄り、鏡を自分の顔を見てみた。やはり彼の鼻は無かった。 菓子屋を出て再び通りを歩いているコワリョフに、奇妙奇怪な現象が起こった。 一台の馬車がある家の玄関にとまって扉があいたと思うと、その中から礼服を身につけた一人の紳士が出てきて、階段を上がって行ったが、それがほかならぬ、自分の鼻だったのである。 あまりの驚愕に体をブルブル震わせながらも、自分の鼻が馬車に戻ってくるまで待っていようと決心したコワリョフ。幸いにも二、三分で馬車に戻ってきた鼻を尾行しようとするコワリョフだったが、まるで何かの気配を感じたかのように、鼻は素早く馬車へ乗り込み、去ってしまった。 コワリョフは、この日起こった一連の出来事に思案を巡らし、自分の鼻が、自分の体から独立して馬車に乗ったり喋ったりするのが、理解できなかった。とにかく、コワリョフは馬車に乗って鼻の跡を追うことにした。 3.コワリョフと「鼻」との会話 カザンスキイ大伽藍(だいがらん)の前で鼻が乗っていた馬車を発見したコワリョフは、堂内へと入って行った。 信心深く祈祷をして、大きな立襟の中へ顔をすっかり隠してうずくまった鼻を見つけたコワリョフは「あなたは、ご自分の居どころはちゃんとご存知のはずです。」と単刀直入に、鼻に話しかける。 すると鼻は「おっしゃる意味が分かりませんな。僕はもとより僕自身です。お召しになっている略服のボタンから察するに、大審院か、少なくとも司法機関にお勤めのはずですが、僕は文部関係の者ですからね。あなたとは何の関係もございません。」とコワリョフに対しぞんざいな態度をとり、まるで何事も無かった様子で再び祈祷にうつった。 その時コワリョフは、中年の貴婦人と一緒に堂内へ入って来た、カステラのようなふんわりとした卵色のボンネットをかぶった、体つきのきゃしゃな娘に目をとめた。 あたりへほほえみをふりまきながら、そのきゃしゃな娘の方にじっと目を凝らしたコワリョフは突然、自分の顔についてあるはずの鼻が無いことを再び思い出し、目から涙がにじみ出した。 鼻は自分の鼻以外の何物でも無いのだということを、鼻に言ってやろうと決心したコワリョフだったが、鼻はもうそこにはいなかった。落胆したコワリョフは再び馬車に乗り、警察部長の自宅へ向かうのだった。 4.コワリョフ、「鼻」を探す 警察部長が不在だと聞いたコワリョフは、再び考えを巡らせた。 今までは、すべての秩序を統括する警察署へ助けを求めていたばかりであったが、鼻が勤めているといった役所の手を経由して、満足な結果を期待しようなどとは全く論外である。 あの悪党は初対面の時から、あんな図々しい態度をとったのだから、いい潮時を見て、まんまと逃亡するかもしれない。 そしてもし逃亡されたら捜査が長引きたまったものではない。 警察には任せられないと考えたコワリョフは新聞社へと赴くことにした。鼻の特徴を詳細に掲載した広告を出してもらおうと考えたのである。 新聞社へとたどり着いたコワリョフは、手狭で人がごった返し、空気のひどく濁っている部屋で、広告を受け付けている分別臭い係員に「自分はペテンに引っかかったのでその悪党を引っぱってきてくれた方には謝礼を出す。新聞に広告を掲載してほしい。」と言った。 しかし、係員にその悪党(鼻)の名前を聞かれ、回答に窮してしまう。 コワリョフは、オブラートに包んだ言い方で自分の身に起こった一連の奇怪な出来事を係員に話すも、「そういう荒唐無稽な与太話を新聞に掲載することはできません。新聞の信用にかかわります」と、ていよく断られてしまった。 しかも「鼻が無くなったのなら、それは医者の縄張りですよ。」と、もっともなアドバイスまで言われる始末であった。 そこで、この荒唐無稽な出来事を係員に信じてもらうべく、コワリョフがハンカチを払いのけて顔を見せると、それを見た係員はつくづく心を打たれたらしく「まったく、飛んだ御災難で。嗅ぎたばこでも一服どうです?」とコワリョフに嗅ぎたばこを勧める。 係員は器用にくるりと嗅ぎたばこの蓋を下へ廻すと、その蓋には、ボンネットをかぶった婦人の肖像がついていた。 そこにはコワリョフにとっての憧れであり、鼻の無くなった今となっては絶望感に押しつぶされる、煌びやかな社交界の雰囲気が広がっていた。 コワリョフは、「自分には嗅ぐ器官が無いのだ。」と係員に言い棄て、カンカンになり新聞社を飛び出し、その足で分署長のところへと出かけて行った。無論、広告は掲載できなかった。 ↑目次に戻る 5.見つかった「鼻」 そして突然元に戻った鼻 起こりえるはずの無い不合理 食事を終え、少し寝ようかと分署長が考えていた矢先に、コワリョフはそこへやってきた。 機嫌が悪い分署長は、食事の後で審理をするのは適当でないとか、ちゃんとした人なら鼻を削ぎ取られるなどあり得ないとか言い、まともに取り合ってくれなかった。 分署長にも適当にあしらわれたコワリョフは失望し、我が家へと立ち帰った。すでに黄昏時であった。 コワリョフは自分の部屋へ入ると、ぐったり疲れたみじめな我が身を安楽椅子へ落とし、ことの顛末を振り返った。 いろいろな事情を総合した結果、この一件の原因は、彼に自分の娘を押し付けようとしているポドトチナ夫人にあるのでは、と思い至った。彼の方でもその娘を好んでちやほやしていたが、結婚するなら花嫁に持参金が十二万ルーブルもあるような場合だと思っていたし、ポドトチナ夫人には、もう5年役所に勤めて42歳になってから考えたいと言ってから、お世辞でまるめてやんわりと断っていた。 今回のことは夫人が腹いせに魔法使の女でも雇ってやらせたに違いない、彼女のところへ乗り込んで、直談判してやろうと思っていたその時、不意にあらゆる扉からサッと光が差し込んで、コワリョフの思考を中断した。 そして下男のイワンがロウソクに灯りをつけて入ってきた。 イワンが自分の部屋へ戻るよりも前に、控室から「八等官コワリョーフ氏のお宅はこちらですか?」という聞き慣れない声がして、コワリョフは急いで飛び上がり扉を開けた。 そこにいたのは身なりのいい警察官で、実はこの物語の最初の場面で、イサーキエフスキイ橋のたもとに立って、コワリョフの鼻をネヴァ川に捨てた理髪師ヤーコウレヴィッチを問い詰めた巡査であった。 コワリョフは、鼻が見つかったとの知らせを巡査から受け取った。 巡査が言うには、鼻がリガへ高飛びする、際どいところを取り押さえたとのことだった。そして紙に包んだ鼻を隠しポケットから取り出した。 巡査が立ち去ってから、コワリョフは突然の知らせで放心のあまり二、三分ボーっとしてしまったが、冷静さを取り戻し、鼻を両手に乗せしげしげと眺めた。 コワリョフは「確かにこれだ!」とつぶやき、あまりの嬉しさに笑い出しそうになったが、次にこれをどうやって元の位置にくっつければいいのかと考えた。 鏡を見ながら、うっかり鼻を斜めにくっつけたりしては大変だと、両手がぶるぶる震えた。 鼻をそっと元あったところへ押し付けた。 しかし鼻はつかない。 次に鼻を口元に持っていき、接着したい部分を自分の息でそっと湿らせてから再び当てがったが、やはりくっつかない。 狼狽したコワリョフは、下男のイワンに医者を呼ぶよう言った。 同じ建物の中二階に住む医者は、鼻のあった場所を触ったり、顔を右に向けたり左に向けたりして鼻のあった場所を眺めてから、 「くっつけて差し上げることはできますが、下手に鼻をくっつけると余計に悪い。この鼻は瓶に詰めてアルコール漬けにしておくのが良い。そうすれば、相当うまい金儲けができますよ。もしあなたがそれを捨てようと考えているのであれば、私に売ってください。」と言った。 言われたコワリョフは、やけっぱちになって「絶対に売るものですか!」とのたまい、堂々と帰って行く医者の姿を茫然と見送った。 翌日、ポドトチナ夫人に抗議と今日中に鼻を本来の場所に戻すよう手紙をしたためたコワリョフだったが、その返事はこの一件にポドトチナ夫人は全く関係無いという内容であった。 ポドトチナ夫人は手紙で、鼻のことが書かれてあったが、コワリョフの鼻を明かすどころか、今でも正式に申し込みがあれば娘をコワリョフへ嫁がせたいとのことだった。 そうこうするうちに、この稀有な事件は都の内外へと広がった。 こういう話にはよくあることで、いつかそれにはあられもない尾ひれがつけられていた。コワリョフ氏の鼻が毎日きっかり三時にネフスキイ通りを散歩するという評判が立ったり、ユンケル商店に鼻がいるとの噂が立とうものなら、忽ち店の周りには黒山の人だかりがして、押すな押すなの人だかりができるほどであった。 また、鼻が毎日散歩するのはネフスキイ通りでは無く、タウリチェスキイ公園だとか、その公園の管理人にわざわざ手紙を出して、是非私の子供にその珍しい現象を見せてやってほしい、などど言う貴婦人まで登場する始末であった。 四月七日、コワリョフが目を覚まして何気なく鏡を除くと、あれほど世間を騒がせていた当の鼻が、まるで何事も無かったかのように、突如として元の場所に、つまりコワリョフの頬と頬の間に姿を表した。 びっくりするコワリョフのもとへ、ちょうど下男のイワンがやってきたので、鼻がちゃんとついているか確認してもらったが、イワン曰く「何ともありませんよ。ニキビなんか一つもありません。きれいなお鼻でございますよ。」とのことであった。そこに理髪師のイワン・ヤーコウレヴィッチがやってきたので戦々恐々としたコワリョフは、鼻に触れないように顔をあたるよう、イワン・ヤーコウレヴィッチに命じた。 その後コワリョフは菓子屋へ出かけて、大きい態度で店員にチョコレートを所望したり、娘を連れたポドトチナ夫人に会って、彼女たちの前で堂々と嗅ぎたばこを二つの鼻の孔に詰めて味わったり、何事も無かったかのようにネフスキイ通りや、その他いたるところへ遊びに出かけた。ポドトチナ夫人の娘とは、相変わらず遊びには相伴するが、結婚する気はなかった。 同じように鼻も、何事も無かったかのように彼の顔に落ち着いて、他所(よそ)へ逃げ出そうなどという気配は少しも見せなかった。 6.まとめ この作品は、本来取れるはずの無い「鼻」が、主人公の体から分離して逃げ出し、役人になったり、喋ったり、リガへ高飛びしようとしたり、およそ現実世界ではあり得ない、一見超現実的な出来事がテーマ(主題)になっているかと思われる。 しかし、そうでは無い。作者ゴーゴリは巻末にこう記している。 ― 不合理というものはどこにもあり勝ちなことだ(中略)こうした出来事は世の中にあり得るのだ。稀にではあるが、あることはあり得るのである ―『外套・鼻』ゴーゴリ 平井肇訳 岩波文庫 1938年 P.123 ゴーゴリは、なぜコワリョフともあろう人物が、新聞に尋ね人「鼻」の広告など出せるものでない位のことが分からなかったのだろう、と書いている。 それに、この一連の事件が何故起こったのか分からない、とも書いている。 また、世の作者(文学者、作家)がこのような題材をよくも取り上げるものだ、とも書いてもいる。 おそらく『鼻』はこうした作家たちに向けて書いた「風刺」の物語なのであり、現代の「おとぎ話」なのである。そして自虐を込めて、このような作品を書いた自分をも、そのような作家の中の一人なのだと言っている気がしてならない。 『鼻』からおよそ80年後の1915年に、プラハの作家フランツ・カフカが発表した『変身』にも、同じような不合理な出来事が描かれているが、『変身』の主人公であるグレゴール・ザムザが、突然毒虫に変身して感じた絶望感ほど『鼻』の主人公であるコワリョフは、自分の「鼻」が無くなっていることに絶望感は感じていないかのようである。 むしろ「鼻」を無くしたコワリョフの焦燥感や、擬人化した「鼻」氏の人物像に、ささやかなユーモアが感じられる。そこがゴーゴリの特色であり、同時代の作家の中でゴーゴリが抜きんでた存在になったゆえんであろうと感じる。 ところで、沢木耕太郎には、「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年について追跡したものである。
誰に撮られたのか「刺殺シーン」が見事に写真に映し出されている。壇上にあがり浅沼氏を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼委員長の表情は、どんな言葉によっても表現できない。
そして少年の動きを阻もうとする人々の姿が「臨場感」いっぱいに捉えられている。
この写真が「正真正明」の本物であることは、その周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
さて我が世代の”花”は、作詞した喜納昌吉だが、1964年東京五輪のアナウンサーの実況「すべての人の心に花を」というフレーズはがもとになっている。
実況のアナウンサーの、「泣いています・・・笑っています」という言葉とともに、この日の感銘が歳月の中で喜納の中で発酵して生まれたという。