「意味」の反転

元号が「令和」に決定した。万葉集の歌人・大野旅人が開いた「梅香の宴(うめのはなのうたげ)」で32首が歌われたが、その序文からこの言葉がとられたという。
本来「令」は、「人々が集まって神のお告げを聞く」ことを表した文字。太宰府の閑静な住宅街の中に「令和の碑」が立つことが、予想される。
ちなみに近隣のJR二日市駅前には、元首相「佐藤栄作の顕彰碑」がある。ノーベル平和賞授賞時に立ったもので、東大卒業後に運輸省に入った佐藤は、一時国鉄二日市駅で駅長を勤めていたことによる。
さて福岡には「言葉の由来」を示す意外な石碑がある。
博多駅近く国道3号線沿い流れる石堂川横に立つ「濡れ衣塚」で、「無実の罪を負わされる」という意味の「濡れ衣」の語源で有名な碑。
8世紀前半に京都から博多に赴任した筑前守護職・佐野近世の後妻による「釣り衣を盗んだ」という噂で殺された先妻の娘が亡霊になって無実を訴えたという事件にまつわる逸話が残っている。
さて、「梅香の宴」が開かれたのは、大野旅人の邸宅があった坂本神社付近。
せっかくの「隠れ名所」が知れ渡った感じであるが、かつての「秋篠(あきしの)」の地を思い起こす。
皇太子・皇太孫以外の親王は、成年に達すると独立して「宮家(みやけ)」を創設するが、宮家の名はどのようにつけられるのだろうか。
例えば、大正天皇第二皇子の雍仁親王を「秩父宮」というが、武蔵国(埼玉)の秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことから選定されたという。
また、昭和天皇の第二皇子にあたる「常陸宮」は、古代の「親王任国」である令制国名「常陸国」からとられたものらしい。
また「万葉集」や「古今和歌集」などの「歌枕」となった地名からとられた「宮家」の名もある。
「三笠宮」は、奈良県磯城郡田原本町三笠。奈良盆地中央部に位置する。地名の由来は、当地より三笠山(若草山)が望見できることによる。
また、「高円宮」(たかまどのみや)は、奈良市白毫寺町の東方にある標高432.2mの山で、古くから数多く歌に詠まれており、高円山を題材として詠み込まれたものが「万葉集」では、30首以上に及んでいるという。
さらに、「秋篠宮」は、現天皇の次男・文仁親王が独立したときに創設された宮家で、宮号は和歌の歌枕として有名な奈良県奈良市の「秋篠」に由来する。
秋篠は、奈良県奈良市にある地名、かつては大和国添下郡に属しており、平城京の北西端にあった西大寺の北側に広がる地域にあたる。
秋篠の南側に秋篠寺が建立され、光仁天皇の勅願とか、秋篠氏の氏寺であったなどよくわかっていない。
「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模と「脱活乾漆像」の尊像が多く安置されていたところから、「官寺」並みの大寺院であったが、平安時代に兵火による悲惨な災難を被り、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は失われている。
礼宮妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ているという評判が起こり、多くの人々が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れた。
また2006年には、秋篠宮家の長男、「悠仁さま」が誕生されたおり、お寺は一時賑わったという。
さて「秋篠」の地をさらに遡ると、意外な事実につきあたる。
そこは、古くから「土師(はじ)氏」ゆかりの土地といわれており、782年に土師安人の姓が宿禰から朝臣に改められた際に、居住地にちなんで秋篠安人と改名している。
そしてこの「土師氏」というのは、我が居住の地・福岡とも縁が深い一族である。
実は「学問の神様」として太宰府に祀られている菅原道真のルーツは、意外にも、秋篠宮と同様に「土師氏」なのである。
ここで、「土師氏」のルーツをさらに遡ると、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰(のみのすくね)にいきつく。
野見宿禰が出雲から呼び出され、殉死者の代用品である「埴輪」を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられたといわれている。
このことは、当時も技術的には出雲の地が先進地であったことを示唆している。
古代豪族・土師氏は様々な技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。
大阪府藤井寺市、「三ツ塚古墳」を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。ちなみに「道明寺」は土師氏の氏寺である。
さて土師氏が元祖とする野見宿祢は、"相撲の元祖"として知られた人物である。
「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。
それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速(たいまのけはや)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と「相撲」を取らせた。
野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えたという。
そして、野見宿祢はそのままそこに留まって天皇に仕えたのである。
やがて土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、「大江氏」・「菅原氏」・「秋篠氏」に分かれていったのである。

言葉や出来事は、意味が本来のものと逆転することがある。
兵庫県養父(やぶ)市は、「藪医者の産地」を看板にしている。実は「藪医者」とは、もともと名医として知られた養父医者だったのだ。
江戸時代のはじめに活躍した長島的庵は、死にそうな病人を生き返らせるほどの名医で、但馬国養父で地域医療に熱心に取り組み、後に将軍徳川綱吉の主治医になっている。
その評判は広く各地に伝わり、多くの医者が養父の名医を見習うようになり、「養父医者」は名医を示すブランドとなった。
しかしこのブランドを「悪用」する者が現われ、優れた技術がないのに「自分は養父医者である」といって信用をえる者が続出した。
「養父医者」の名声は地に落ちて「薮医者」となり、現在のように意味が反転したという。
また落語では、「風がふくと薮が揺れる」ということから「風邪をひくと薮医者にいく」という意味をかけた洒落がある。
さらに、薮の下にあるような医者を「土手医者」、薮に飛んでくるような医者を「雀医者」とも呼んでいる。
また、藪は先が見えるが土手は先が見えない、とかいった解釈で医者の水準を表すなどもしている。
また、春先に吹く強い南風の「春一番」。個人的には"幸せな門出"というイメージがあるのは、我々世代では、キャンディーズのヒット曲「春一番」(1976年)に負うところがおおきい。
ところが、この言葉が広がったのは、長崎県の壱岐島で起こったある不幸な出来事からであった。
壱岐の漁民たちは早春に吹く、「春一番」「春一」「カラシ花落とし」と呼ばれる南の暴風を恐れた。
この風が吹き通らぬうちは、落ち着いて沖に出られなかったからである。
1859年旧2月13日は快晴で、格好の出漁日和で、予定時刻に延縄をはえ始めたが、一船が南の水平線に黒雲の湧き昇るのを発見、「春一だ!」と叫んだ。
それを聞くや、ことごとくの船が、今仕掛けたばかりの延縄を切り捨て、帰帆の用意にかかったが、強烈な南風は海上を吹き荒れ、小山なような怒涛が漁船に覆いかぶさってきた。
漁民たちはなすすべもなく、船もろとも海中に消えていったのである。遭難者の数は53名。
1987年、郷ノ浦港入口の元居公園に、船の形をした「春一番の塔」が建てられ、塔の下には春一番海難者の慰霊塔もある。
毎年、旧2月13日は、どんなに天候が良くても沖止めとし、漁民など一同が集まり、海難者の冥福を祈念することを行事とし、今日に及んでいる。
さて、以上のように言葉の意味が反転するばかりか、出来事の意義さえも逆転することもある。
菅原道真のように、平安時代の怨霊がいつしか「学問の神様」になったりする。
また、「赤穂浪士の討ち入り」は、幕府からみたらテロ。テロを起こした47人は、藩に迷惑が掛からぬように脱藩してコトに及んだ。
テロ行為がついには”義挙”となり、日本国民が最も愛する物語になるのに、大きな役割を果たしたのは、ひとりの福岡県人である。
1702年(元禄15年)12月14日は、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の遺恨をはらし見事本懐を遂げた日である。
実は、自分が赤穂四十七士の映画を最初に見たのはアメリカ遊学中のことで、カリフォルニア・バークレーの映画館であった。
バークレーはカリフォルニア大学バークレー校で有名な学生街で、映画「卒業」の舞台となったところ。
この街には映画館がいくつかあり、私はここの映画館のひとつで映画「卒業」をみた。
映画館の周辺が、この映画の中の風景として登場するため、館内のいたるところから聞こえる口笛が鳴り止まない。
そしてこの同じ映画館で「赤穂浪士」を見たのである。その当時テレビドラマ「Shogun」が大ヒットして、日本のサムライに対する関心が高まっていたのである。
「赤穂浪士」をみているアメリカ人の反応が面白かった。
討ち入りに先立ち浪士の一人が、吉良家の隣家を訪れ「ただいまより討ち入りを果たす。しばらく御迷惑をおかけする」と言った場面に笑いがおこったのである。
討ち入りなどというものは、ふつう極秘にやるもので、官憲(この場合幕府)に知られてはまずい、そんなことを申し出ることの奇妙さと、わざわざ隣家にことわりをいれるといった律儀さが笑いをさそったのであろう。
しかし、実はこの討ち入りは江戸市民がひそかに今か今かと期待していたものであった。
当時つまり江戸元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の御法度を破ることにもなる赤穂浪士の討ち入りは、霧がはれたような爽快感を人々に与えたのである。
つまり江戸市民の密かなる支持のもとに打ち入りがおこなわれたのであり、討ち入りに際して隣家にわざわざことわりをいれるというのも、そうした時代背景があったためである。
赤穂の忠臣たちの行為は事件後、「義挙」とされ多くの芝居や劇となった。
特に人形浄瑠璃の竹本義太夫の「仮名手本忠臣蔵」の通称として、「忠臣蔵」が赤穂浪士の討ち入りを指すものとして定着した。
そして時代がくだり第二次世界大戦中、主君(天皇)に対する「忠義」が重要視された時代において「義士祭」という形で赤穂四十七士の「義挙」は全国に宣伝されたのである。
戦争中の「国民精神の作興」が叫ばれた時代にあって「忠」の象徴である赤穂浪士の精神は、時代の要請にそったものであったのである。
渋谷駅前の「忠犬ハチ公」の話が広まったのも、こうした時代の要求の延長線上にあるといって良い。
「忠臣蔵」を国民的ブームにしたのは福岡市出身の史論家で九州日報の編集局長兼社長であった福本日南なのである。
そこには幕末に佐幕か勤王かで揺れた福岡人の思いもあった気がする。
さて、東京駅を出て皇居に向かうと、終戦後マッカーサーがGHQ本部をおいた「第一生命ビル」がすぐに目につく。
実は我が地元の博多駅から大博通りを博多湾側に向かうと祇園近くに「第一生命ビル」がある。
そこに、「加藤司書(かとうししょ)」という人物の歌碑があるが、加藤は福岡の「勤王派」の代表的人物として弾圧の末、この場所で切腹している。
さて、この加藤司書の歌はどのように作られたのか。1863年3月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿も京を追放され、福岡の太宰府の「延寿王院」で藩が預ることになった。
翌年7月、蛤御門の戦いで長州は敗退するが、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集する。
藩主・黒田長溥(くろだ ながひろ)は「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という考えを元に、加藤に「建白書」を持たせ、徳川総督に提出している。
そして加藤司書と西郷隆盛が「参謀会議」を止戦へと導き、長州の恭順を条件に解兵が実現した。
この時に詠んだ歌が、第一生命ビルの歌碑「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき ただ身ににもてる赤心を君と親とに尽くすまで」である。
その後、福岡藩は、五卿を預かる微妙な立場から幕府の意向を過度に忖度したのか、1865年に勤王派の弾圧をはじめる。
世に言う「乙丑(いっちゅう)の獄」で、加藤司書はじめ野村望東尼など140数名もの維新で活躍が期待される有為な人材がことごとく断罪・流刑された。
実は、前述の福本日南は、この時処刑された平野国臣とも親交のある勤王家であった。
藩校修猷館に学び、後に長崎で漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、問題が起きて原敬・陸羯南らと共に退校処分となる。
その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぐが計画は頓挫し、帰国後、政教社同人を経て、1889年、陸羯南らと新聞「日本」を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。
1891年7月、発起人のひとりとなり、アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である「東邦協会」を設立し、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる。
1905年、玄洋社系の「九州日報」(西日本新聞の前身)の主筆兼社長として招かれた。
1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選し、同年「元禄快挙録」の連載を九州日報紙上で開始した。
そして日露戦争後の近代日本における「忠臣蔵」観の代表的見解を示し、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立するものとなったのである。
そこには、幕末に処刑された福岡勤王派の無念が、赤穂浪士とも重なるように思えるからだ。
福本は1916年、「中央義士会」を設立し、初代幹事長に就任する。
1921年、千葉県の大多喜中学校で講演中に脳溢血で倒れ死去している。
さて、福岡寺塚の興宗寺では毎年12月14日には福岡義士会主催の「義士際」が賑やかに開催されている。この通称「穴観音」という寺には、泉岳寺の本物をそのまま模した「四十七士の墓」が造られている。
福岡の篤志家・木原善太郎氏が1935年、青少年の健全育成と日本精神作興のために私財を投じて建立したものである。
これを機に義士会が結成され、討ち入りの日に祭典を執行することになった。
というわけで、「忠臣蔵」という言葉の碑ではないものの、東京・泉岳寺の「福本日南の碑」こそは、「忠臣蔵の碑」とみなせるのではなかろうか。
そして四十七士の忠臣たちの精神は、武士道の精華として語り継がれ、日本人の心に「忠臣蔵」として300年を超えて、親しまれ脈々と受け継がれている。
さて、このたび決まった元号「令和」の「令」は令息・令嬢のような「良い」意味として使われる一方、「命令」や「巧言令色」などにも使われるため、本来の意味と乖離する可能性がある。
それは時代の実相が、「令和」の意味を確定していくということである。