実録「移民国家」

学校の公民の授業では、「新しい人権」というものを学ぶ。環境権、知る権利、プライバシーの3つの権利をさす。
しかし、憲法上にはこういう人権は存在しない。だから「新しい人権」なのだが、憲法改正論議がマスコミの話題にのぼるたびに、こういう人権が国会の議題にのぼるのを期待するのだが、一向にそうした動きの気配さえない。
ひとつは、従来の法律で対応しているのに、為政者側からわざわざ、それらの権利を憲法で位置づけることを提起するのは、墓穴を掘ることに等しいことなのかもしれない。
もう一つは、「新しい人権」はあまりに複雑で多様な側面をもつ人権で、他の人権規定との整合性もあり、憲法的位置づけが難しく議論するにも時間がかかりすぎるということもある。
例えば、「環境権」ひとつとっても、眺望、静穏、景観、日照、アメニティなど様々な側面がある。
これらをまともに憲法上に権利として定めたりしたら、企業の開発などできなくなってしまう。
そこで、従来の人権”幸福を追求する権利”(13条)が、新しい人権に対応する法的権利としてあてられている。
ところが、「幸福を追求する権利」というほどわかりにくい権利はない。
ただ、その不限定さゆえに便利ということにもなる。
日本国憲法は、周知のとおりマッカーサー草案を下地にしたもので、「幸福を追求する権利」も合衆国憲法に規定されたものである。
そこで気になるのは、フランス革命の人権宣言では「自由、平等、財産」だったはず。
なぜ、アメリカの憲法起草者達は、私有財産の権利を幸福追及の権利に変えたのか。
「幸福を追及する権利」が登場するのは、アメリカ合衆国憲法だが、実は、この権利にこそ、合衆国憲法を起草した人々の思いがつまったような気がしてならない。
そもそも、誰しもが幸福を追求するのは当たり前、それを阻まれる力が働くからこそ、「権利」という観念が生まれるのである。
アメリカにやってきた人は、ヨーロッパの身分制社会や宗教的弾圧から逃れるため、ある部分で財産や親族をも捨て、いわば過去を振り切り、未来の幸福に賭けるために新大陸にやってきたのだ。
ここであらためて、幸福の追求を字義にそって考えると、実際に幸福になるかどうかは問わない。とにかく幸福を”追及”することに意味があるということに他ならない。
とするならば、幸福を追求する権利とは、機会の均等と選択の自由が認められているといいかえてもよさそうだ。
実際、アメリカに人々をひきつけたのは、その点においてであった。
さて、今の世の中、人間としての重要な幸せの要素は仕事と家庭であるが、正規の仕事に着いたり、結婚したりするなどの幸せが、本人の希望に反して得られなくなっている。
つまり、社会全体の「幸福追及の権利」が保障されていないという日本の最大の課題に向き合うことこそが、少子高齢化の問題克服へのカギである。
それを、さらに広い視点でいえば、日本社会の格差や差別の問題に向き合うということでもある。

政府は、アイヌ民族を「先住民族」と初めて明記したアイヌ新法案を今国会に提出する。
自民党の国土交通部会などの合同会議が法案を了承し、近く閣議決定し、今国会での成立をめざす。
法案は差別の禁止や、観光振興を支援する交付金の創設からなる。
新聞によれば、東京五輪・パラリンピックが開催される2020年に4千万人達成の目標を掲げる、訪日外国人客へのアピールが背景にあるという。
アイヌ民族は北海道を中心に居住し、独自の文化を持つ先住民族であることは周知のことだ。
それでも「先住民族」として国内法で位置づけられたことはなかった。なぜ今頃になってという気がする。
約150年前の明治維新以降、大勢の日本人が入植してからは、長らく差別や貧困に苦しんできた。
2020年4月には、「国立アイヌ民族博物館」などで構成するアイヌ文化の振興拠点「民族共生象徴空間」が北海道白老町に開業し、政府は年間100万人の来場を目標としているという。
もしも、アイヌ文化を観光資源とし、訪日外国人客数の目標達成の一助にすることが主眼ならば、それはカジノ法案と同列なのかという思いが起きる。
かつてのオーストラリアでシドニー・オリンピックの際に、少数民族アボリジニの存在が脚光を浴びたことを思い出す。
それ以前に、アメリカが征服した先住民族のひとつアパッチ族の酋長であったジェロニモが、観光地のお土産やの温厚な店主に収まっている写真をみて愕然としたことがある。
1899年制定の「北海道旧土人保護法」は狩猟中心の生活を送っていた人々(アイヌ系)に農業を奨励するなど、アイヌ文化を否定して同化政策を推し進めた。
1997年、ようやくこの法律が廃止され、「アイヌ文化振興法」が制定されたが、アイヌの人々が求めていた「先住権」は盛り込まれなかった。
今回の新法には「先住民族であるアイヌの人々」と初めて明記される。
アイヌ民族初の国会議員、萱野茂さん(故人)の次男で萱野茂二風谷(にぶたに)アイヌ資料館館長の萱野志朗氏も「法律で先住民族であることを認めた点は一歩前進」と話す。
アイヌを先住民族とすることを法的に位置づけることの意味が、学者の意見などを含めて議論されていないようだ。
それは、日本が日本民族がユーラシア文化圏の一部であることを”公式に認めた”ということだ。
それは、日本国民と天皇という存在に対する歴史的認識を転換させるぐらいの意味があるのではなかろうか。
すくなくとも、新天皇即位の大嘗祭についての政教分離以上の問題ではなかろうか。
日本が無理してでも米つくりを保護していた時代には、日本人のナショナル・アイデンティがコメ作りにあるという意識は消えてはおらず、それと符合するかのように「単一民族説」が存在し、天皇の存在は世界的に見れば、ローカルな存在といってよかった。
ところが1980年代よりはコメ作りよりも、自動車や半導体の生産に日本人のものづくりの優位性があることを示すようになった。
また、アジアへの日本企業の進出に伴ない「日本人多民族説」が次第に主流となっていった。
当時、京都大学の梅原猛氏は日本人の基層にアイヌがあると唱えたが、それ以外にも日本人の基層が北方にせよ南方にせよアジアとの関わりが深いという学説が台頭してきたのである。
こういう学説は、日本人のアイデンティティの根源を必ずしも「農耕儀礼」には求めないという特徴がある。
1980年代に、国語学者の大野晋も、インド南方やスリランカで用いられているタミル語と日本語との基礎語彙を比較し、両者の共通点を指摘した。
また江上波夫の「騎馬民族渡来説」という学説が脚光をあびたりして、天皇が「アジア的な存在」として認識された。
このたびの法案の背景には、アイヌ民族をめぐる過去の経緯や、先住民族への配慮を求める国際的な要請の高まりがあることは当然あるだろうが、アイヌを先住民族として位置付けた以上は、それは国連が示す「先住民族の権利」に従わなければならないということだ。
その点法案は、アイヌの人々の民族としての「誇り」が尊重される社会の実現を目的に掲げることは評価できる。
伝統的な漁法への規制の緩和なども盛り込み、イヌ文化のブランド化推進やコミュニティー活動のためのバス運営への支援を想定する。
さらに、生活向上のための福祉や文化振興を中心にしたこれまでの施策から、地域や産業の振興、国際交流を見据えた総合的なアイヌ政策へ転換を図るとしている。

日本への移民の増加が予想されるなか、ひとつ参考にしたいのは、オーストラリアの歴史である。
なぜなら、オーストラリアは19世紀半ばに英国植民地として開拓され、さらに1901年英領オーストラリア連邦として成立したが、過去約150年のあいだ一貫して「移民政策」が国家運営の根幹であったことである。
学校でオーストラリアは「白豪主義」とならったが、実はその白豪主義が南アフリカのアパルトヘイトのモデルとなったことはあまりしられていない。
この白豪主義の実態を描いたオーストラリア映画が「裸足の1500マイル」(2002年)である。
この映画の中に、Stolen Childrenというものが登場する。
これは、特に白人男性とアボリジニ女性の間にできた混血児を”白人化”すべく、親元(アボリジニ居住地)から奪って”施設”に強制収容して英語を学ばせ、(多くは家事手伝いとして)白人社会に入れるという政策である。
実は、日本では、アイヌの子供たちを”日本人化”するために、やはり同じような政策がとられた。
1899年に作られた「北海道旧土人保護法」という法律で、アイヌを「旧土人」と規定し、それを「保護する」必要があるとしました。
その「保護」の実態は「土人教育所」であり、日本人化であり、そのために、アイヌ「土人教育所」、旧土人学校などがあったのである。
旧土人保護法の”保護”とはその文化を滅ぼすことだったのだ。
この法律が改正されたのは、なんと1997年のことなのだから驚きである。
最近、沖縄の辺野古基地反対運動で、自衛隊員が沖縄の反対派に「黙れ土人!」と言ったことが問題化したが、ごく最近まで法律の上で「土人」とよんでいたのである。
1997念い改正された新しい法律、いわゆる「アイヌ新法」で、アイヌは初めて”文化的”および”民族的”権利を認められたことになるものの、前述のように「先住民族」としてではない。
オーストラリアでは、最近、National Sorry Dayの制定などアボリジニの存在を国民的に位置づけることを始めている。
日本の法律では「土人保護」の名称は廃止しただけにすぎないといえる。
このことからも、オーストラリアは、白豪主義から多文化主義に移行していることがわかる。
映画「裸足の1500マイル」で、ひとりの白人が「原住民を助けなければならない。彼らを、彼ら自身から守ってあげなくてはならない。そうしなければ、彼らは自分自身を滅ぼしてしまうから」と語る。
ところで、国連の先住民の国際会議に出席した日本人の青年が、各国の代表者は自分達が少数民族であることを自信をもって語れるのに、日本社会ではそれを隠して生きなければならないと語ったことが印象的であった。
アイヌに対する格差や差別は依然として根強い。
北海道がアイヌ民族の居住を把握している63市町村を対象に行った調査(2017年)では、大学進学率は対象市町村全体の45・8%に対し、アイヌの人々は33・3%と12・5ポイント低かった。
面接調査した671人のうち23・2%が「差別を受けたことがある」と答えている。
アイヌ民族である出自を公にしていない人もおり、アイヌの人々の正確な数は明らかになっていない。

オーストラリアという国は、英国の囚人流刑地として始まった。このことに対する国民意識はどのようなものか、興味あるところだ。
初代総督として有名なアーサー・フィリッ プを船長とした移民第一団が11隻の船でやって来たのが1788年なのだが、この時の移民約1000人ほどのうち772人が囚人であった。8ヶ月を要したこの航海におけるこの40人という死者数であった。
これら772人の囚人のほとんどが、ロンドンのスラムに住む貧しい人々で、貧困のために窃盗を働いた者達だった。
窃盗といっても、当時は砂糖ひとかけら、下着一枚、わずかな小銭を盗んだ程度でも重い刑罰を科せられてオーストラリアへ送られたのだ。そして植民地建設のために働かされた。
一方、植民地開拓時に治安維持のために派遣された「ニューサウスウェールズ軍団」の隊員の多くは腐敗しており、政治的特権を利用し、有力者達と組んで莫大な利益を得ている者もいた。
植民地行政を牛耳る彼らの権力は絶大で、それを規制しようとする総督に反乱を企てた「ラム酒の反乱」というのがある。
現在のシドニーは近代的なビルが立ち並ぶ大都市だが、最初は囚人たちが建てた小さな家から始まった。
囚人たちのほとんどは、刑期を終えて自由市民となっても本国に戻ることは叶わず、オーストラリアの地で一生懸命に働いて、農地を開き、家を建て、道を作り、鉄道を敷き、この国を作り上げていった。
その後、オーストラリアが牧羊や農業に適した土地であることや金をはじめとした資源が豊富であることが知られるようになって、オーストラリアへの移民は自由移民が中心となり、囚人の流刑は1868年に廃止される。
囚人は一定期間模範囚として刑期を務めると、仮釈放となりその後自由植民者となることができたようである。
当時の英国身分制社会では使用人や下僕が雇い主や地主に少しでも反抗的態度をとると犯罪者とされて流刑されることが常態化していたので、流刑囚の身分から刻苦勉励して自由植民者となった祖先を誇りに感じているということのようだ。
このタスマニアの郷土資料館ではパソコンで自分の祖先の名前をインプットすると祖先の罪名や釈放時期、入植地域等が検索できるシステムがあるという。
1850年代にはゴールドラッシュにより大量の中国人苦力(クーリー)が流入。さらには19世紀末頃にはオーストラリア北部での砂糖などのプランテーションの労働者として太平洋の島々からの労働者が流入。
こうした低賃金労働者の急増に危機感を抱いた英国系住民の反対運動が起こり、1901年のオーストラリア連邦建国と同時に、非白人系移民の流入を防ぐ「移民制限法」が成立し、連邦成立後の最初の議会で「白豪主義」が制度化されたのだ。
第2次世界大戦終了後人口700万人程度であったオーストラリアは広大な国土の国防及び経済発展のために積極的移民政策を策定した。
そして約70年かけて今では、2500万人に達している。
現在オーストラリアは「多文化共生により豊かな社会をつくる」という移民政策が国是となっている。
外国から移民を受け入れて人口増加により経済成長を持続するという基本政策は不変であるが、どのような移民を受け入れるか、どれだけの移民を受け入れるか(移民受入枠)は国際環境と国益を睨んで慎重に変更してきた。
そして最近では、中国人富裕層を制限するなど「多文化共生路線」にも翳りがみえている。中国による対オーストラリア住宅投資などにより、激しい価格上昇に見舞われ、中国からの移民や投資を制限する動きが起きている。
さて、オーストラリアといえば世界的に有名な映画人として、ニコール・キッドマンやメルギブソンがあげられる。
最近では、母親が日本人というサラ・オレインさんがバイオリン演奏や見事な歌唱を披露され、NHKの語学教室にも出演されている。
サラさんは、2019年1月、大宰府の国立博物館応援大使に就任されている。