三人のレバノン系

昨年末、ルノー日産CEOのゴーン逮捕の報を聞いて、「風と共に去りぬ」の原題「ゴーン ウィズ ザ ウインド」という言葉が思い浮かんだ。
ゴーン(gone)が意味する「去る」と、日産CEOの名前の「ゴーン」(Ghosn)の発音が近いために、唐突にこのタイトルが浮かんだにすぎない。
ただ、ゴーンのルーツが中東のレバノンであることを知るに及び、「風と共に」という言葉に、ゴーンの祖父の生まれ故郷レバノンで造られた古代の帆船を思い浮かべた。
現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地で、レバノンの国旗に描かれているレバノン杉は、この国の象徴とも言える存在だ。
太古の昔、地中海東岸の山々は、鬱蒼たるレバノン杉の森に覆われていた。
BC2500年頃、地中海東岸を支配したフェニキア人は、このレバノン杉を使って船を作り、エジプトやヨーロッパとの交易によって大いに繁栄した。
古代のフェニキア人の拠点・シドンやチルスがあり、このあたりにとれるレバノン杉で作られた帆船は「風を孕んで」地中海を駆け巡った。
そしてそこで精油された香柏(もつやく)は、イエス生誕の時に東方の三博士が捧げたものである。
エジプトのファラオたちは、このレバノン杉を聖なる神木としてあがめ、宮殿などの建築物から、ピラミッドの梁、棺にいたるまで、大量のレバノン杉を使ったのだ。
この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成した。
その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた。
古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。
レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。
ゴーンの祖父ビシャラ・ゴーンは、レバノンで生まれ13歳でブラジルに移住し、ボリビア国境近くのロンドニア州の奥地サン・ミゲウ・ド・グアポレでゴム産業に参入している。
最終的には農産物を売買する会社のオーナーとなった。
レバノン系ブラジル人である父 ジョルジ・ゴーンはロンドニア州の州都ポルト・ヴェーリョに居を構え、同じくナイジェリア生まれのレバノン人の女性と結婚した。
カルロスが6歳の時、彼の3人の姉妹と母とともに、祖父の母国であるレバノン・ベイルートに転居した。
ベイルートのイエズス会系の学校で中等教育を受けた。
その後、パリ6区にあるプレップスクールからリセ・サン=ルイで学んでいる。
1974年エリート養成校の一つであるエコール・ポリテクニークを卒業した。
1978年にパリ国立高等鉱業学校で工学博士を取得し、卒業後の1978年に欧州最大のタイヤメーカー、ミシュランに入社する。
フランス国内で工場長、産業用タイヤ部門の研究開発ヘッドを歴任後、1985年、30歳の時に3億ドルの市場を持つ南米ミシュランの最高執行責任者に任命された。
生誕地であるブラジルに戻ったゴーンは、後に彼の経営理念の核となるクロス・カルチャーな経営スタイルと強さの基盤を形成した。
1989年、その南米事業部を「黒字転換」させた後、ミシュランの北米事業部の社長兼(COO)に選ばれる。
その後、家族を伴い米国サウスカロライナ州グリーンビルへと移転し、1990年にミシュランの北米の最高経営責任者(CEO)に昇格した。
1996年に、ルノーの上席副社長にヘッドハンティングされ、再びフランスへと居を移したが、1999年にルノーと日産の資本提携が行われた後、ルノーでの役職も維持しながら日産の最高執行責任者(COO)に就任し、家族とともに日本に移り住んだ。
ゴーンは、ブラジルとフランス両国の市民権を有している。また少年期10年の間居住し、初等ー中等教育を修了したレバノンとも、ワイン農場への出資など、レバノンとの強い繋がりも維持している。

映画監督デビット・リーンは、「人間の営み」を雄大な自然の中で謳いあげた。
「アラビアのロレンス」では波のようにうねる砂漠、「ライアンの娘」ではとてつもない海嵐、「ドクトルジバゴ」では果てしない豪雪といった、熱き人間ドラマをさえ呑みこんでしまいそうな自然の営み。
その意味で、映画の主人公は人間に立ちはだかる「自然」だったかもしれない。
ロシア革命を描いた「ドクトル ジバコ」の主演俳優のオマー・シャリフのルーツもレバノンである。
このオマーシャリフは、「アラビアのロレンス」にも準主役級として登場する。
そしてオマーシャリフの生涯も、彼の出演作同様にレバノンの現代史と深く関わっている。
さて、第一次世界大戦が始まる前アラブ地方はオスマン・トルコに支配されていた。
大戦が始まると、オスマントルコはドイツ側につき、英仏と戦う。
この時イギリスは、トルコ支配下のアラブ人を味方につけるために、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国家をつくるという約束を与えた。
これが「フセイン・マクマホン協定」で、イスラエル建国を約束した「バルフォア宣言」との「二枚舌外交」の一翼となる。
1916年これを信じたアラブ側によって独立が宣言され、トルコに対するアラブの反乱がおきる。
この時、アラブの反乱軍に加わり烏合の衆に近い諸部族を組織して率い、イギリスとの連絡にあたったのが、トーマス・ロレンス大佐である。
ロレンスはもともと考古学者として、アラブ人と早くから交流し、現地の情報に通じていたため、イギリス軍は彼の存在を見逃さず情報将校として用いたのだ。
さて、映画「アラビアのロレンス」ではピーター・オトゥールがロレンス大佐を演じたが、その実際の外貌は一人のカメラマンに焼け付くような印象を残している。
「アラブ人群集の中に一人、目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年の姿をみかけた。まるで中世十字軍戦争当時の戦士がそのまま抜け出してきたかと思えた」。
また、ロレンス大佐がアラブ人を操縦する「天才」は、彼らの感情を不気味なまでに感じ取る能力、あるいはまた彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力だったという。
そしてロレンス大佐と対峙したベドゥイン族の族長「アリ」を演じたのが、オマーシャリフである。
オマー・シャリフは、エジプトの裕福な「材木商」の家庭に生まれた。
少年時代はアラブ圏や東欧の王族の子弟も通ったアレクサンドリアのヴィクトリア・カレッジで勉学に励んだ。カイロ大学では数学を専攻していたが、卒業後はイギリスへ留学し、ロンドンの王立演劇アカデミーで演技を学んでいる。
帰国後1955年にエジプト映画界でデビューし、アラブ映画界の人気を確実なものにする。
両親がシリア系レバノン出身で宗教はローマ・カトリック。
俳優としてデビューした1955年にエジプト人女優で「アラブ映画の貴婦人」として知られたファーティン・ハママと結婚。ハママとの結婚のために、キリスト教からイスラム教に改宗した。
その後、1966年にハリウッド進出のため離婚している。
1962年に「アラビアのロレンス」のベドウィン族長アリを演じ、ハリウッドデビュー。
アカデミー助演男優賞候補にもなり一躍知名度を上げ国際俳優になる。
アラビア語以外にも、英語とフランス語、ギリシャ語を話すことが出来る。世界選手権に出るほどのコントラクトブリッジの腕前で、本も何冊か書いている。
その後「ドクトル・ジバゴ」など著名な出演作が続いたが、1980年代は映画から遠ざかっていた。
2003年頃から、俳優としての活動を再開したが、2015年7月10日、心臓発作のため83歳にてカイロで亡くなった。

ラルフ・ネーダーといえば、自動車の欠陥問題や消費者問題と戦ったアメリカの弁護士。彼もまたレバノン系である。
ネーダーは、コネティカット州ウィンステッド出身で、両親は正教徒(ギリシャ正教系)のレバノン系移民であった。
両親がアラビア語を母語としていたため、ネーダーもまたアラビア語と英語を話して育った。
1955年にプリンストン大学を卒業し、ハーバード大学ロースクールを1958年に卒業した。その後、ハートフォードで弁護士として働き始めた。
1960年代はじめ、ハートフォード大学の歴史学と政治学の教授を務めたが、1964年に突如ヒッチハイクでワシントンD.C.に行き、労働次官のアシスタントの職を得ながら雑誌への投稿を行っていた。
1965年、彼は「どんなスピードでも自動車は危険―アメリカの自動車に仕組まれた危険」において、米国の乗用車の欠陥を指摘し全米に衝撃を与えた。
アメリカの自動車産業がシートベルトなど安全装置の導入に抵抗し、安全性向上のための投資を渋っていると述べ、特にGM製「シボレー・コルヴェア」に欠陥が多いと告発した。
GMはこの本を徹底的に無視する一方、彼を貶める為に探偵をも雇って粗探しをしたが失敗し、逆にプライバシーの侵害であるとしてネーダーに訴えられて賠償金を支払うことになった。
また1966年には上院の自動車安全問題分科会への出席を余儀なくされ、ネーダーに一連の妨害を謝罪することとなり、その後コルヴェアは生産中止に追い込まれた。
そして、ネーダーの運動に刺激された幾百の若い消費者運動家たち(ネーダーズ・レイダーズ)と共に様々な消費者保護運動に携わり、政府や産業界の環境、福祉、健康、政治腐敗などの問題点を次々に告発した。
1971年にはこれらを傘下におさめる上部組織であるNGO「パブリック・シチズン」を設立した。
現在では15万人の会員を擁し政府や議会、産業界などを調査・監視しているほか、国民の健康を守ったり消費者の権利を保障したりするためのさまざまな法案を通したり政府機関の設立に寄与した。
ちなみにマイケル・ムーア(ネーダーの支持者)である。
1996年に続いてネーダーはウィノナ・ラデューク副大統領候補と共に選挙戦を戦ったが、「不都合な真実」を書いたアル・ゴアに票が流れた。
その後ゴアは、共和党のジョージ・W・ブッシュと大接戦を演じることになる。
倹約家でしかも反商業主義者であるネーダーは、1959年に除隊する際に、陸軍の交易所で靴1ダース(72ドル分)と、軍用靴下4ダースを買った。ネーダーはこれらを1980年代半ばまで使い続けていたという。
カルロス・ゴーンとラルフ・ネーダーは同じレバノン系で自動車と深く関わったが、生産者と消費者という真逆の立場であった。

ゴーンの一族を調べると、世界史の一端をいくつも垣間見る感じがする。
シェークスピアの「ベニスの商人」について調べると、ベニスという地名が「フェニキア」→「ベネチア」からついた地名であり、ベニスとは「フェニキア人の町」という意味であるとわかった。
フェニキア人は旧約聖書に「シドン人」として登場しユダヤ人と深い因縁がある。
実はフェニキア人との交流こそがユダヤ人の謹厳な信仰心を「変質」させていったといっても過言ではない。
全盛期のソロモン王はエジプトの女やシドン人つまりフェニキアの女を娶ったりして、バアル神や女神アシタロテを祭るようになっていった。
聖書にしばしば登場するカナン人とは、イスラエルがメソポタミアの地からこのパレスチナの地にやってくる前から住んでいた先住の人々で、「ヘテ人」として登場するヒッタイト族と、「シドン人」として登場するフェニキア人が主な人々であった。
チャールトン・ヘストン主演の映画「十戒」(1957年)では、モーセがシナイ山で「十戒」を授けられる時、山の麓で黄金の子牛を崇め神の怒りをかって地に呑み込まれる人々が登場する。
あの「黄金の子牛」こそが「バアル神」を表すものである。
ゴーンが日産での報酬を自ら決め操作していたことなどを見ると、「十戒」の中の「汝、貪るなかれ」という言葉を贈りたいが、ゴーンが少年時代に育ったリオデジャネイロのカーニバルはスペインやポルトガルの謝肉祭が伝わったものである。
それは、アフリカ系のサンバの踊りと融合したがバアル信仰との関連も指摘されている。
ところで、ゴーン一家は、前述のようにブラジルやフランスと関わり「市民権」を得ている。
オスマントルコの弱体化により、第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議で、レバノンはフランスの委任統治下におかれ、第二次世界大戦中の1941年6月フランス本土がドイツ軍の占領下にあり、亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア、レバノン共に独立宣言を行った。
第二次世界大戦後のレバノンは金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートは中東のパリと評されるほど中東及び地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いにぎわっていた。
しかしパレスチナ解放機構の流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975年〜76年にかけて内戦が発生し、足かけ17年に及んだ。
この内戦によって、ゴーン家はブラジルへと移住したのである。
ゴーンの一族は、ブラジルでのゴム産業と働くが、これは運命的なものだった。
なぜならカルロスが、最初に入社した会社はタイヤの会社で自動車と関わりが生じたからである。
ゴーンは、ブラジルに生まれレバノンに育ちフランスで教育を受けアメリカで頭角をあらわし、日本でトップにたった。
ゴーンは、アラビア語とフランス語、英語、スペイン語、ポルトガル語の5言語を流暢に話す。
ゴーンの「人は多様性から学び、共通性に安らぎを感じる」という言葉は、ゴーンの経歴に基ずく至言といってよいであろう。
ただ、ゴーンが経営トップとしてやったことは極めてシンプルなことだった。
当時日本では、バブルで拡大した人員、設備が重荷になり、過剰な融資は不良債権になっていて、国にも企業にも「何とかなるのでは」という空気があり、中途半端な対策を重ねた。
そんな時に、日本にやってきたゴーンは、声高に無駄を省きリストラを断行した。
日本では、企業内で昇格した人が社長になるのが当たり前で、取引先、下請け、従業員という「大きな家族」の長だという意識があった。
ゴーンは、そういう文化と異質な人だったからこそ、工場を閉鎖し、系列を見直す大胆な改革ができたともいえる。
ゴーンが日産の経営をV字回復させたといわれているが、それは日産に技術力があってのことである。
ゴーンの特質はブレなかったこと。倒産しかけていた日産には、「和の精神」ではどうにもならず、ワンマンなタイプが必要だったともいえよう。
こうして風を孕んで進んだゴーンに、突如逆風が吹いたのは、日本で導入された「司法取引」による側近からの情報であった。
このことは、逆にいえば、ゴーンへの適切な助言者がいかに不在であったかを物語っている。

瀕死(ひんし)の日産の再建、。そして突然の逮捕。日産自動車前会長のカルロス・ゴーン容疑者(64)の19年は、変転をたどった。この間、日本経済を見つめてきた作家に事件の受け止めを聞いた。 神の怒りをまねいた。
その結果、ソロモン王の死後にイスラエルは南北に分裂する。
実はソロモンの栄華を最もよくあらわすエルサレムの神殿は、その資材がレバノン杉という良材に恵まれたツロ・シドンの地すなわちフェニキア人の地からもたらされたものであった。
皮肉なことに、このフェニキアの神々への信仰(バアル神、アシラ女神)の混入こそが神の怒りをかうことにより、「イスラエル南北分裂」のきっかけをつくったのである。
▼1面参照  ■トップも追及免れない時代 江上剛さん    ――ゴーン前会長が来日した199ログイン前の続き0年代後半は不況のまっただ中でした。  経営を再建しました。国内の経営者と何が違ったのでしょう。    「ハゲタカ」シリーズの次回作では、主人公の鷲津が仏企業を買収する話を書こうと考えていました。仏政府は国益を生む企業をどんどん国有化する貪欲(どんよく)さがある。日本の企業が、仏政府の息のかかった仏企業とやりあったら大変だろうと思っていました。今後、ルノーの筆頭株主である仏政府が、日産を強制的に買収するよう求める可能性もあります。そのとき日本政府はどう動くのか。長い目で見なければなりません。(聞き手・高野遼)=おわり      *  まやまじん 1962年生まれ。中部読売新聞(現・読売新聞中部支社)記者などを経て、2004年に外資系投資ファンドによる企業買収を描いた「ハゲタカ」で小説家デビュー。近著に「シンドローム」など。 ロス・ゴーン(Carlos Ghosn、1954年3月9日 - )は、フランスの自動車会社ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)にして、日産自動車の前会長・社長、三菱自動車工業の前会長。
またルノーと日産は、2010年以降全世界自動車市場の約10%のシェアを保っているが、ゴーンはルノー、日産自動車、三菱自動車工業の株式の相互保有を含む戦略的パートナーシップを統括する「ルノー・日産・三菱アライアンス」の社長兼最高経営責任者(CEO)を兼務していたが、2018年11月に日本の検察に金融商品取引法違反の容疑で逮捕され、その後解任された。
両親はレバノン人で、ブラジルで誕生。幼少期をブラジルで過ごし、中等教育は父の母国であるレバノンのベイルートで受けた。
フランスの工学系グランゼコールの一つであるパリ国立高等鉱業学校を卒業した後、フランス大手タイヤメーカー、ミシュランに入社し18年間在籍。
ミシュラン社での業績を評価され、ルノーに上席副社長としてスカウトされ、同社の再建にも貢献した。
1999年3月、当時経営と財政危機に瀕していた日産がルノーと資本提携を結び、同年6月、ルノーの上席副社長の職にあったゴーンが、ルノーにおけるポジションを維持しつつ、日産自動車の最高執行責任者(COO)に就任。
後に日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)、ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)、ルノー・日産アライアンスの会長兼最高経営責任者(CEO)に就任。
レバノンとブラジルとフランスの多重国籍を有する。2004年には法政大学名誉博士になっている。2005年には、快進社、ダットサンで竹内明太郎と縁があり、早稲田大からも授与されている。
極度の経営不振と経済的危機の状態にあった日産自動車を立て直したということで、他社の社外取締役に招聘されたり、大学の委員なども務めたりもしている。また、自らコマーシャルに出演するなど、マスメディアにも積極的に登場。漫画誌・ビッグコミック・スペリオールに「カルロス・ゴーン物語」が掲載されるなど、広く知られる存在となっている。

○9世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。
キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、大レバノンとすることになった。
この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会と、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。
現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。
1923年9月29日に連合国の最高評議会はシリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた。
そのフェニキア人が信じるバアルの神への信仰は、「金の子牛」を作って拝んだ姿として、映画「十戒」にも印象的に描かれている。
今日の「金の延べ棒」の崇拝者であるウォール街の人々と、バアルに膝を屈したユダヤ人が重なるのは、的ハズレのことだろうか。
そのフェニキア人とユダヤ人が「貿易商人」と「金貸し」という立場でイタリアのベニスの地で再び出会うというのが「ベニスの商人」の歴史的背景なのである。
バチカンのキリスト教会がユダヤ人をほとんどの職業から追放し農業をも禁じていたため、ユダヤ人にとって数少ない収入源として残っいたのが、高利貸し、両替商(貿易決済業)など利子を取り扱うことが多い「金融業」であった。
聖書では同胞から利子を取ることを禁じている。
ユダヤ人に「金融」を教えたのは、新バビロニアを立てたカルデア人である。
しかしユダヤ人が新バビロニアに捕囚として連れ行かれた時代に、カルデアの神官たちが参詣する信者達から金その他の貴金属を預かり書を発行し保有し、一部を引き出し請求のために残してて残りは「利子」をとって貸し付けているということを学んだのである。
またユダヤ人だと分かっただけで財産を没収されることがあったので、ユダヤ人にとって自らの名前を書かねばならない記名型の証券は安全ではなかった。
そのためユダヤ人の金融業者たちは、無記名の証券(銀行券)を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していた。
この技術は、やがてヨーロッパ諸国が中央銀行を作り、紙幣を発行する際に応用された。
国家の運営に必要な資金を最も上手に調達できるユダヤ人は、ヨーロッパの各国の王室にとってなくてはならない存在となった。
各国政府の中枢に食い込むことは、差別されやすいユダヤ人にとっては安全確保の手段でもあった。
ところユダヤ財閥の頂点にあるロスチャイルド家の血統はもともとはユダヤ人ラビであたるが、ベニスの貴族(フェニキア系?)の血統とも結びつきその後ドイツのフランクフルトに移住して高利貸し業をはじめ成功した。
1793年に始まったナポレオン戦争の後、ヨーロッパで多発するようになった国家間戦争のための資金調達をあちこちの政府から引き受けることで、急速に力をつけていった。
一族のうちの一人は1797年、産業革命が始まっていたイギリスに進出し、綿花産業への資本提供やドイツなどへの販路拡大を引き受けて大成功し、イギリス政府に食い込んで資金調達を手伝うようになったのである。

2016年10月より、ゴーンはルノー・日産アライアンスに加わった三菱自動車工業の代表取締役会長に就任。
2017年2月23日、日産自動車は同年4月1日付で副会長兼共同CEOの西川廣人が代表取締役社長兼CEOに就任することを発表した。
ゴーンは引き続き日産の代表取締役会長を務め、アライアンス全体の経営に注力する。
2018年11月、東京地検特捜部に逮捕され、日産、三菱の会長職を解任される。
Gone With the Wind)は、マーガレット・ ミッチェルの長編時代小説。題名は南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」事を意味する。