サルベージ

新聞によれば「サルベージ・パーティ(通称サルパ)」が、大阪・ミナミで開かれ人気を集めている。
家庭の余り物の食材を持ち寄って、プロの料理人が調理する。まだ食べられるのに捨ててしまう「食品ロス」を減らそうという試みで、リピーターも増え毎回”満員御礼”なのだという。
大量のマロニーは「ちゃんこ鍋」用スープでチャンポン風に、缶詰の豆はフードプロセッサーでつぶしてクラッカーにのせて酒のおつまみに、といった具合。
参加者は調理を手伝いながら持参した食材がおいしい料理に生まれ変わっていく様子に驚く。完成するそばから食べて、会話がはずむ。
余りモノの活用といえば、NHKの番組で、チコちゃんが教えてくれた「カツ丼誕生秘話」。
東京・早稲田にある1860年創業の老舗の「三朝庵」は、早稲田大学の創設者、大隈重信もよく来ていたという。
最近まで、5代目が切り盛りしていたが今はない。
カツ丼は、大正時代(1918年)にこの店で生まれた。作ったのは、初代の加藤朝治郎である。
この店は、蕎麦の他にトンカツを出していて、それが大人気であった。
当時、トンカツはめったに口にできない贅沢品で、仕出し屋さんからとったものだった。
ある日、加藤が宴会の準備をしていたところ、突然のキャンセルの連絡が入り、仕出し屋さんに断わろうとしたところ、すでに時遅しで、トンカツが仕出し屋さんから届いてしまった。
高価なトンカツは、始末に困るものへと転じた。
あるお客さんが「卵丼みたいに、煮たらやわらかくなるんじゃないの?」この一言で、カツ丼が生まれた。
しかも、そばつゆのかつお節が、カツに良くあっていたことら、全国に広まった。
カツ丼にかぎらず「捨てるにはもったいない」ことから、新しい料理が生まれるのだろう。
それは料理にかぎられず、処分に困ったものの活用が衰退する村に活路を開いたケースもある。
岡山県北部の美作地方にある真庭市は、人口約4万7700人。
市内の8割ほどを森林が占め、江戸時代から「美作ひのき」の産地として知られてきた。
しかし高度成長期を過ぎると若者は、村を去っていった。
若者を中心に「勉強会」を開いて村の未来を「木質バイオマス」にかけることにした。
「木質バイオマス」とは、まき、木炭、チップ、ペレットなど木材に由来する再生可能な資源を指す。
これらをボイラーで燃やして電気を作るのが、木質バイオマス発電だ。
燃料としては間伐材などの未利用材、製材工場で出る樹皮やのこくずなどの残材、木造住宅の解体や街路樹のせん定で発生する「廃材」が想定されている。
木材を燃やして燃料にすれば大気中に二酸化炭素を放出するが、木材の伐採後に森林が成長すれば森の樹木が再び、二酸化炭素を吸収する。
このため、地球環境にやさしい再生可能エネルギーのひとつに数えられている。
東日本大震災のあと、国の再生可能エネルギー固定価格買い取り制度が始まった。
未利用材を燃料とする木質バイオマス発電は、2016年度で1キロワット時当たり40円の高値で買い取られている。
「木質バイオマス発電所」は全国で約60施設が国の固定価格買い取り制度の対象に認定され、建設ラッシュが続いている。
とはいえ、発電所の乱立が燃料不足による森林資源の奪い合いや森林の荒廃を引き起こしかねない。
そんな中、真庭市が成功事例として注目を集めるのは、みんながメリットを享受できるシステムを作ったからである。
官民共同の「木質バイオマス発電所」が運転を始めて1年。新たに市内の公共施設へ売電を開始した。
出力は1万キロワットで、未利用材を主な燃料とする木質バイオマス発電所としては国内最大級。
稼働から1年間で売電した売り上げは約21億円。
発電所の運転要員として15人が雇用されたほか、未利用材の集積なども含めると、約50人の雇用を実現した。
従来は山林に放置されるか、産業廃棄物として処分されてきた未利用材を活用することで、コスト削減の効果も大きいという。

冒頭の「サルベージ・パーティ」のサルベージの意味は、遭難した船の人命・船体・積み荷などを救助すること。もしくは沈没船の引き揚げ作業を意味する。
思い浮かべるのは、1954年の核実験によって被爆した「第五福竜丸」のエンジンの運命である。
「第五福竜丸」は、3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって放射性落下物の被害を受け、機関長の久保山愛吉は9月23日に亡くなっている。
第五福竜丸は被曝直後の54年5月、文部省(当時)が買い上げ、改造されることになった。
船体の残留放射能は問題ないレベルだったが、「死の灰」を浴びた船の「改造工事」の入札に手を挙げる業者はいなかった。
いかし引き受けてのない木造船だからこそ意義があると、応札を決断したのは、三重県伊勢市大湊の造船所の社長であった。
第五福竜丸は、船名を覆い夜闇に隠れてひっそり運ばれてきた。当時の従業員によれば、その黒い船影はまるで「幽霊船」のようだったという。
放射能は除去されてはいたもの、従業員の不安はぬぐいきれず、合羽や長靴をまとっての作業となった。
また、この船が第五福竜丸と知った周辺住民の拒絶反応は強かった。
福竜丸の母港である「焼津に帰れ」という貼り紙があったり、銭湯から従業員には入りに来てほしくないといわれたりもした。
造船所は、医師を招いて安全性に関する説明会を開き、なんとか住民に理解を求めた。
そして、船底は元のまま、マグロを入れる魚倉を教室や寝室などに造り替え、同船は56年、旧東京水産大の実習船「はやぶさ丸」に生まれ変わった。
その後、およそ10年間、練習船として活躍したものの、廃船となったが、東京夢の島のゴミ処分場で発見された。
ところが、核廃絶のシンボルとしようという動きが起こり、夢の島に「第五福竜丸展示館」が創設されるはこびとなった。
その一方、第五福竜丸のエンジンは別の人物に買い取られていた。
そのエンジンは、その人物が所有する「第三千代川丸」にとりつけられたが、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
長い間海底に沈んで忘れ去られていたが、和歌山県海南市のミニコミ紙発行人らが中心になって、1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中からサルベージされた。
さらに、「核の悲劇を改めて訴えよう」と、生協や平和団体などとともに、船体と一緒に夢の島で展示するよう求める市民運動を進め、1998年3月に都に寄贈した。
東京都はエンジンの寄贈をうけ、2000年1月19日、第五福竜丸展示館に隣接する浜辺に展示することとした。
それぞれに数奇な運命をたどった第五福竜丸の本体とエンジンはこうしてひとつの場所に収まった。
「数奇な運命」といえば、1958年に完成した高さ333mの電波塔「東京タワー」である。
関東一円に電波を送るのに必要な高さが、これくらいは必要だったということだ。
一方、どうせ作るなら世界一の高さのエッフェル塔を超えるタワーを作ろうという考えもあったようで、当時世界一の高さだったエッフェル塔の300mを超え、完成した。
1958年からオスタンキノ・タワーに世界一を譲るまでの9年の間、東京タワーは「世界一の高さ」を持つ塔であった。
東京タワーが作られ始めたのは1957年で、その少し前に朝鮮戦争が起きた。
朝鮮半島の主権を巡っての韓国と北朝鮮の戦争で、韓国にはアメリカを中心とした国連軍、北朝鮮には中国・ソ連が付いて争い、民間人も含めると犠牲者は400~500万人にも上る激しい戦争であった。
その戦争にはアメリカ軍の戦車も参加していたが、激しい戦火を潜り抜けた戦車はボロボロになったものも多くあった。
それらをアメリカ本土まで持って帰るのはコストがかかるし、古くなってきたのでわざわざ持って帰るより「新型戦車」を作りたいというアメリカの思いがあった。
戦車装甲は戦車の砲撃を受け止められるほどに丈夫に作るので、とても質の良い鉄でできている。
スクラップとなっても溶かして使えば、建材としても優秀である。
良質な鋼材がなく鉄不足だった日本とアメリカの利害は一致し、日本はスクラップ戦車90台を建材として買い取った。
中にはろくに戦闘の機会がなかいまま日本に運ばれてきた戦車(M26パーシング)もあり、燃料や弾薬も装填されっぱなしだったようである。
そして戦車から作られた鉄骨は東京タワーの展望台から上の部分に使われることとなった。
およそ3分の1の高さ分が戦車から作られている計算になる。

人間を対象にしたサルベージ・ストーリーもある。
東京・品川のソニー旧本社(「御殿山テクノロジーセンター・NSビル)の最上階に「キャリア・デザイン室」についての記事があった。
かつては大賀典雄名誉会長が執務室を構え、役員室が置かれていた由緒正しきフロアであったが、今や中高年の社員を集めてスキルアップや求職活動を行わせる部署に「衣替え」している。
そしてここの人々は「キャリア」とよばれている。
午前9時前に出勤すると、自分に割り当てられた席に着き、パソコンを起動させる。ここまでは普通の職場と変わりない。
違っているのは「仕事の中身」で、会社から与えられた仕事はなく、自分でやることを決める。
スキルアップにつながるものであれば、何をやってもよい。
「キャリア」という美名の下、人員削減のための部署であることは、社員ならば誰もが知っている。
多くの「キャリア」が取り組んでいるのは、市販のCD-ROMの教材を用いての英会話学習やパソコンソフトの習熟、ビジネス書を読むことである。
恵まれた環境にあるようにも思えるが、この室にいる期間が長くなるほど、給与がダウンする仕組みになっている。
彼らの多くは、自分が置かれている境遇に頭がいっぱいで、いくら勉強しても身につかない。
そして「上司」に当たる人事担当者と1~2週間に1度のわりで個別面談があり、その際に他社への就職活動の進捗状況などの説明を求められる。
もし会社に踏みとどまろうとするならば、PDFのファイル化など誰でもできる単調な仕事や下請け会社での清掃業務などしかないという。
つまり「キャリア・デザイン室」は、実質「追い出し部屋」で、「人生の大逆転」など起きそうもない。
当時、韓国ドラマ「逆転の女王」に描かれた特別企画室と、驚くほどピタリと重なっていた。
ドラマでは、リストラにあった夫婦のゴミ捨て場での会話が印象的だった。
妻にリストラがバレて責められた夫は、妻に代わってゴミだしに行ったまま、帰ってこない。
心配した妻がゴミ捨て場にいくと、「自分は役に立たずに捨てられたゴミだ」と涙を流す。
妻はそんな夫を抱きしめ、「世の中にこんなに素敵なゴミがあるか/そのゴミを好きになってくっついた女です/ゴミだってリサイクルされる」と慰める。
夫はトッポギ屋台をして事業を始めようとするが、妻の方はこの会社の「窓際」チームの班長として再雇用されることになる。
また経営者一族のハグレ御曹司がこのチームに興味を持って責任者となり「大逆転」がおきる。
ただし、これはいわばおとぎ話で、現実にはありえないと思っていたら、世界標準のVHSを生んだ窓際の男たちのサルベージの物語に出会った。
NHKの「プロジェクトX」で紹介され、2002年「陽はまた昇る」というタイトルで映画化された。
1970年、日本ビクターはビデオ事業に乗り出したが、赤字続きだった。
日本ビクターにあって高校卒業以来、開発一筋に歩んできた高野鎭雄(47歳)は、突如「お荷物」事業部ともいわれる部長に就任した。
そこには、本社復帰をめざす事なかれ主義のエリート経理マンと、やる気を失いリストラを待つだけの社員達がいた。
高野は、このままでは事業部は廃止となり、みんなダメになる、だれもヤメさせたくないと思った。
そして高野は、一人一人の人間を預かった財産として、何ができ、何ができず、何が得意で、何が不得意かを調べ上げ、家庭用VTRの決定版を作れないかという夢をうち出した。
そしてその夢をかなえるため、わずか3人の技術者で「極秘プロジェクト」を結成した。
そして日本ビクター横浜工場に起こった波は、本社社長の心を揺り動かし、通産省の思惑をもけとばし「奇跡の大逆転」を生み出していく。
本社の合理化方針のなか、プロジェクトを守り続け、6年の努力の末、「VHS」の開発に成功した。
自社の利益を度外視したこの戦略が、先行のソニー・ベータマックスを大逆転し、「VHS」を世界標準規格に押し上げるに至ったのである。
サルベージ・ストーリーには、様々な家族模様が描かれている。家をアケる父親に反発する家族や、「惚れなおした」と夫を支え続ける妻もいる。
ところで最近「フラリーマン」言葉を時々みかける。
2007年、ある社会学者が使った言葉で、家庭を顧みずにいたことから家庭内での居場所が失われ、フラフラするサラリーマンの姿からつけられた。
ところが現在、各企業による「働き方改革」を推し進める動きとともに、フラリーマンの意味合いも変わってきている。
大手広告代理店の過労自殺問題が広く話題になったことも手伝い、各社で長時間労働の是正が進められつつあり、労働時間の管理が厳格化され、残業時間の削減が顕著な企業もみられるようになった。
とすると、あの「VHS」の逆転ドラマのようなことは、今後起きにくいのかもしれない。
今日の「フラリーマン」は、せっかく残業時間が減り早く家に帰れるようになっても、あえて帰らずに喫茶店やパチンコ、ネットカフェなどをフラフラし、残業して帰るときと同じ頃まで時間をつぶす。
彼らからすれば、仕事で疲れているから、子どもの世話をする前に気分転換として一人の時間が欲しいとか、これまで残業で遅く、子どもの世話をしてこなかったから、帰っても足手まといになりそう, なんとかいう言い訳もある。
一方で仕事ではなくフラフラして帰りが遅くなる夫に、”困る”を通り越して"怒る"という妻サイドの気持ちも想像できなくはない。
夫側にしても、政府の施策により急に「残業せずに仕事の効率化を図り、定時に帰宅せよ」などといわれてもと、困惑している面もある。
人の心にも「慣性の法則」が働き、余った時間こそが始末に困るものなのだ。
ことわざに「小人閑居して不善をなす」とあるが、こうしたフラリーマンこそサルベージが必要なのかもしれない。
ともあれ、働き方改革が「生き方改革」に行き着くには、まだまだ距離がありそうだ。
「サルベージ」~沈没しそうな船から人々を移動させること。沈没したものを引き上げること、今日の日本社会にとって含蓄のある言葉である。

日本の国土の約7割は森林。林野庁の推計では年間、約2000万立方メートルの未利用材が排出されているだけに、森林資源の有効活用が課題といなっていた。
特に、中山間地域は林業の不振と急激な人口減にあえいでいるが、金を払って産業廃棄物業者にひきとらせていた間伐材やおが屑を活用し、全国の村復興のモデルケースとなった地区がある。
政府の国の固定価格買い取り制度がそれを後押しした。
ピラフはトルコ料理で炒めた米を様々な出し汁で炊いた料理で、インドから中近東を経て南欧ギリシャにまで幅広く見られる米料理である。
語源となったピラヴはトルコでは一般的な料理であり主に付合せとして食べられる。
米のみのものや、様々な具材を炊込んだものがあり、入れた具材の名前を冠して「○○ピラヴ」と称される。
炒めた炒飯とは本来別物であるが、日本ではしばしば混同されている。
パエリア (paellaパエージャ、パエーリャの方が元の発音に近い) は、もともとはスペイン東部、バレンシア地方の代表料理のひとつ。
パエリェラ/パエジェラと呼ばれる専用のパエリア鍋(取っ手のある平底の浅くて丸いフライパン)で調理する米料理で、たっぷりの具を炒めて、米と水、黄色の色彩の元になるサフランを加えて炊き上げる。
この際、日本のように蓋はせず(いわば具を蓋の代わりにする)、パスタのアルデンテ同様、米に僅かに芯が残るようにするのがコツで、鍋の底にはソカレット(socarrat おこげ)が出来るようにする。
世界的に人気のスペインを代表する料理の一つで、 本場ではパエリアの祭りもあるが、アラブ起源である。西暦9世紀以後、バレンシアのイスラム教徒の間で作られてきた。
日本では魚介類を用いたものが一般的だが、オリジナルのバレンシア風パエリア (paella valenciana) は本来ウサギ、鶏、カタツムリ、インゲン豆、パプリカと山の幸を中心に用いて作る。
バレンシアの猟師が獲物を米と一緒に煮込んだのが始まりといわれる。
リゾット(Risotto)はもともとイタリアで食べられてきた麦類の料理に東洋から入ってきた米が融合した料理である。「リゾット」は米(Riso)と最高(ottimo)を合わせた造語である。
ヨーロッパには「賄い」に直接相当する言葉は無く、フランスでは「ペルソネル(personnel)(従業員)」、「マンジェ(manger)(食べる)」。イタリアでは「プランツォ(pranzo)(昼食)」、「マンジャ(manger)(食べる)」と呼ぶことが一般的である[1]。

ドイツほど過去と向き合った国はありません。
戦後、ナチス幹部は処断され、一般市民はナチスの蛮行を収めた映像を見ることを課されました。
その一方、敗戦から数年後にもう西ドイツは「過去との決別」を宣言し、将校や公務員の過去調査を打ち切りました。
官庁幹部、会社経営者、医師、教師など重要な職業で彼らはすばやく元の地位に返り咲いています。
たとえば1951年の時点で、ある州では判事、検事の9割が元ナチス党員で、大蔵省職員でも7割がそうでした。
復興には元ナチス党員の力が欠かせなかったからです。ドイツは、ヒトラーを(悪者として)世界に差し出すことで、処罰も道義的責任も逃れた。
フランスでは、「ビシー政府症候群」と呼ばれる現象が起きました。南仏ビシーにあったナチス傀儡政府に協力したフランス人たちが、ナチスに協力した記憶を封じ込めてしまったことを指します。
フランスに限りません。ナチスと妥協してしまった国では戦後どこでも、暗い記憶から目をそむけ、あるいは好都合な方向に記憶を変えるという現象が起きた。
戦後の欧州は「悪いことは何も起きなかったことにしよう」という集団的記憶喪失の道を選んだのです。復興のためには、他に方法がありませんでした。
こう述べたように、ドイツおよびナチスドイツに協力した国において、必ずしも誇れるものでなかった時期がありました。
「反省がなかった」というのは、ナチス協力者でなくても同様のようで、たとえば、イタリア人作家のプリーモ・レーヴィが、彼がアウシュビッツからトリノに帰還中に(少なくない)ドイツ人達から反省を込めたまなざしではなく、下げずむような視線を送られたことを記しています。
また、現在もネオナチがいたり、「ホロコーストを知らない」なんて言うドイツ人の子供、若者もいるというような話もあったりするので、過度にドイツを美化する必要はない。

さて、ビキニ環礁は核実験の場所ばかりではなく、敵艦船の処理場もしくは"公開処刑場"であった。
太平洋戦争中に活躍した戦艦長門の「始末」は、戦勝国・アメリカと敗戦国・日本の思惑が絡んだものとなった。
戦艦長門は、1945年8月30日に、連合国軍のひとつの国のアメリカ軍に接収される。
「長門」は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されて、アメリカ海軍による詳細な調査の後に武装解除された。
そして、1946年3月18日にクロスロード作戦の「標的艦」として参加するため、マーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。
「クロスロード作戦」とは、要するに"核実験"のことで、この時「戦艦長門」の艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。
しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ、「長門」は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄ったほどだった。
1946年7月1日の「第一実験」では戦艦ネバダが中心に配置され、「長門」は爆心予定地から400mのところに配置された。
爆弾は西方600mにズレてしまい、その結果爆心地から約1.5 kmの位置となった。
この時「長門」は、爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題はない程度の被害で済んだ。
7月25日の「第二実験」では爆心地から900~1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。
しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が「長門」のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。
7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。
ただ、「長門」が2度被爆してなお4日後まで沈まなかったことについては、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。
川越と薩摩イモは隅田川経由で浅草を通り日本橋に向かう。 大阪と奈良の境目には、生駒山があり電波塔がある。