日本人と南米

地球儀上で、棒をつきさすと南米のウルグアイあたりに棒がでてくる。
つまりそこが日本の裏側なのだが、明治以来、日本人の移民先"南米"で待っていた運命をについて知らなさすぎる気がする。
その点、ブラジル移民を描いた1997年の映画「汚れた心」は、衝撃的であった。
それは平凡な日本人夫婦の波乱の運命を軸に、戦後80年近くの時を経てブラジル日系移民社会の"暗部"をあぶり出した。
1945年8月15日、日本で戦争が終わったその時から、「地球の裏側」でもう一つの戦争が始まった。
それは、「勝ち組/負け組み」の戦いで、3万人が逮捕され、381人が有罪となった。
「勝ち組/負け組」といっても、今日の意味合いとは異なる。
ブラジルに住む日系移民の大半は、日本が戦争に勝ったと信じ切っていた。
当時のブラジルと日本は国交が断たれており、移民たちが日本に関する正確な情報を入手することは極めて困難で、あらゆる情報がプロパガンダめいたデマではないかという疑心暗鬼が広まる。
太平洋戦争終結後、放送やビラでどんなに「日本敗戦」を伝えても信ぜず、1970年代までもアジアのジャングルに潜んでいた旧日本兵を思いうかべる。
さて映画「穢れた心で」、日系人コミュニティの精神的リーダーである元日本帝国陸軍の大佐ワタナベは、大和魂の名のもとに”裏切りもの”の粛清に乗り出す。
裏切りものとは、日本が降伏したという事実を受け入れた同胞たち。
ワタナベ(奥田瑛二)によって刺客に仕向けられた写真館の店主タカハシ(伊原剛志)は、血生臭い抗争の中で心身共に傷つき、妻ミユキ(常盤貴子)との愛さえも引き裂かれていく。
日本の戦争勝利を断固として唱え続ける「勝ち組」の勢力は、それを信じようとしなかった「負け組」の人々を「汚れた心」を持つ国賊と断罪し、ブラジル各地の日系人社会で襲撃事件を引き起こしていく。
疑心暗鬼がもたらす、抑圧、不寛容、差別による分断と暴力。そのことを誰もが胸に秘めたまま、黙して語ろうとはせず、時間の砂にうもれていく。
ところで、日本人が戦争で負けたと信じることを「汚れた心」とよぶのは奇妙だが、日本人には「清き明るき大和魂」というのがあって、それを対比した言葉のようである。
そして、ブラジルの地には数多くの"足跡のない墓標"があるのだ。
2012年ブラジルの国連環境開発会議で、ウルグアイ大統領の演説は、会場を感動の渦にまきこんだ。
この大統領はホセ・ムヒカで、その質素な暮らしぶりから"世界で一番貧しい大統領"と評された。その「伝説の演説」の冒頭で次のように語った。
「昔の思想家たちエピクロス、セネカ、そしてアイマラ族も、"貧しい人"とは、少ししか持っていない人のことではなく、際限なく欲しがる人、いくらあっても満足しない人のことだと言っている。これこそ、文化を決めるキーで、今日の水資源の危機、環境危機は、我々が造り出した文明のあり方、生活様式の問題だ」と訴えた。
さて、漫画のキャラクターのような風貌のムヒカ大統領であるが、昔は武装ゲリラだったという。
ウルグアイにおける軍事政権下、60~70年代、平等な社会を夢見てムヒカ氏は都市ゲリラのメンバーとなり、武装闘争に携わった。
4回も投獄されたが、10年もの間独房暮らしだった。
長く本さえも読ませてもらえなかったが、独房で眠る夜、マット1枚があるだけ満ち足りたという。
そうした体験から「伝説の演説」が生まれたにちがいない。
近年、日本のテレビ局の招きで初来日し、素朴な人柄が他の出演者たちを魅了した。
ちなみに、現代の文明への警鐘を込めた映画「ジュラシックパーク」の舞台コスタリカは、ウルグアイに近く、美しい野鳥たちの楽園、"エコツーリズム"発祥の地である。

「日本で一番美しい星が見られる町」と銘うった福岡県星野村に「原爆の火」が燃えている。
1945年8月6日、人類史上はじめて広島市に原爆が投下されたその時、兵役の任務のために汽車に乗って広島近郊を移動していた一人の男性がいた。星野村出身の山本達男という人物である。
山本氏は今まで体験したこともない大地を震わす爆弾音に衝撃をうけ、広島市で書店を営んでいる叔父の安否を気遣かった。
現場に近づくがその惨状に先に進むことができなくなり、ひと月の間をおいてようやく叔父の営む書店の場所へ足を運ぶことになった。
だが、あたり一面焼け野原となった書店の跡地に叔父の姿があるはずもなく、遺品になるものさえ見つけることができなかった。
しかし山本氏は、そこでなおもくすぶり続けている火を叔父の魂の残り火として故郷・星野村に持ち帰ることにしたのである。
その原爆の火は山本宅でそれ以後11年あまり絶やさず灯し続けられたが、その火のことを知った星野村全村民は1968年8月平和を願う供養の火として永遠に灯し続けようという要望をだし、役場でその火を引継ぐことになった。
さらに、被爆五十周年を迎えた1995年3月には、「星のふるさと公園」の一角に、新しい平和の塔が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに平和の広場が整備されたのである。
そして、この「原爆の灯」をキューバに灯そうという運動をはじめた一人の日本人女性ジャーナリストがいる。
その女性・吉田沙由里さんはキューバに行ってすっかり魅了されでしまった。
貧しさにも関わらず人々のきさくや明るさにあふれた人々。カリブの海を映すかのような黒く澄んだ目の子供達の陽気さ。
そして、老朽化したバロック建築のアパートに1950年代のアメリカ製のクラシックカーが走る国。
貧しいとはいっても教育と医療は完全無料ですべての人々に保障されており、食料も配給所や国営市場で新鮮なものを皆が手にすることができる。
それは、ムヒカ大統領のいう「貧しさ」とは対極の人々であった。
キューバの人々は、誰もが背伸びせず、背伸びする必要もない開放的な国、そんな印象をうけたという。
その吉田さんが、キューバに居てもうひとつ驚いたことがある。
キューバでは核兵器などに対する意識がきわめて高く、広島・長崎などの地名をよく知っていることであった。
キューバには革命の英雄・ゲバラの似顔絵がいたるところに描かれているのだが、そうした核意識の高さの背景にこのチェ・ゲバラの存在があることを知った。
実は、ゲバラは、キューバ革命から半年後の1959年に広島を訪れている。
当時31歳のゲバラは原爆資料館を訪ね大きな衝撃をうけたという。
ゲバラはその時に撮った慰霊碑を写した一枚の写真を革命の朋友カストロに見せ、ぜひ広島を訪問するようにすすめたのである。そして実際に最近2003年3月にカストロ議長は広島を訪れている。
いうまでもなく核の意識の高さの背景には、カストロ政権下でおきた「キューバ危機」が忘れられない記憶として残っているからである。
キューバ危機は、1962年ソ連がキューバに核ミサイルを突然配備しそれに対してアメリカのケネディ大統領が、核ミサイルを撤去しなければ核戦争も辞さずと対抗し、ソ連は核ミサイルを撤去したという出来事である。
核戦争一歩手前にまでいったキューバにおいては、中学校の授業では、歴史の時間に日本の原爆を勉強したり、毎年テレビなどは朝から原爆関係の映像を流し、慰霊関係の行事も頻繁に行われている。
ところで、チェ・ゲバラは、アルゼンチンの経済的に裕福な家庭で育った。
ただ未熟児で喘息を患っていたため、両親は人一倍、ゲバラの健康には気をつかったが、ゲバラ自身はその病のおかげで強力な「克己心」を身につけている。
ブエノスアイレス大学で医学を学び、1951年~52年在学中に年上の友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験している。
オンボロのオートバイでの旅立ちは、あまりにも恵まれた自分自身との決別でもあった。
ゲバラの旅は金もなく行く先々で仕事をしながら、ゲバラの視線は常に下層で暮らす人々へと向かった。ある鉱山労働者は、賃上げを求めたり労働条件をよくするように頼むと、鉱山主は機関銃をぶっ放したと語った。
そして南米各地の貧困と鉱山での非人間的な扱いを見聞するうちに、次第に「社会正義」に目覚めていく。
大学卒業後には、別の友人とオートバイで再び南米放浪の旅に出て、革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行しグアテマラに行き着いた。
グアテマラで医師を続ける最中、祖国ペルーを追われ亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い共鳴し、彼女と結婚する。
しかし、ゲバラがラテンアメリカで最も自由で民主的な国と評したグアテマラの革命政権だったが、アメリカCIAに後押しされた「反抗勢力」によって瓦解してしまう。
1955年7月失意と怒りを抱いて妻ガデアとともにメキシコに移ったが、この地で亡命中の反体制派キューバ人のリーダーであるフィデルと・カストロと出会い、共産主義の思想に共感を覚える。
実は、カストロはキューバ、オリエンテ州の農場主の五番目の子として生まれており、ゲバラ同様にカストロもまた経済的に恵まれた家の出であった。
ただゲバラと違っているのは、ハバナ大学時代から学生運動のリーダーとして活躍していた点である。
キューバの独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争に身を投じることを決意した。
しかしゲバラは1967年にボリビア国軍に捕まえられゲバラは39歳で銃殺されている。
実は、ゲバラから彼のファーストネーム「エルネスト」を戦士名として授けられ、厚い絆で結ばれた一人の日系人がいる。
2017年、日本とキューバ合作で、ゲバラと共に戦った日系人を主人公とした映画「エルネスト」が制作された。
そのフレディ・マエムラ・ウルタードをオダギリジョーが演じ、映画は、ゲバラが広島の平和記念公園で献花するシーンから始まる。
フレディ・マエムラは1941年ボリビア生まれた。父は日本人、母はボリビア人で5人兄弟の次男。1962年4月医師を目指し、キューバへ留学する。
革命前に6300人いた医者が革命後、米国に逃げて半減。急遽、医者を養成する必要があり、奨学金を与えてラテンアメリカ諸国から医学生を募った。
マエムラもその一人で、祖国ボリビアで起きていた抑圧や格差を嫌っていた。
映画では、炎天下のハバナ大学の正面階段。他の学生達に混じり、マエムラがゲバラの演説に聞き入るシーンがある。
大学に入学した10月にキューバ核ミサイル危機が勃発し、66年10月ボリビアへ密入国し、翌月ゲバラ部隊に合流した。
1967年8月、ボリビア軍に捕まり処刑される。 享年25であった。
マエムラの遺骨の行方は長年分からなかったが、死後30年以上経った99年に発見された。
今は、キューバのサンタクララにゲバラの遺骨と共に眠っている。

アルゼンチンには、多くの日本人が移民したが、一般の日本人がアルゼンチンで知る有名人といえば、サッカーのメッシやマラドーナぐらいではなかろうか。
そしてもうひとり、"エビータ"という名前には結構馴染みがあるかもしれない。
タンゴ歌手を夢見て、ドサ周りの路上生活から大統領夫人に這い上がったエバ・ペロンの生涯は、その役を切望した歌姫・マドンナの主演で制作された映画「エビータ」(1996年)によって、日本でも知られるようになった。
さて、アルゼンチンと日本との接点をいうと、意外にも日露戦争のハイライト・日本海海戦がある。
1905年5月27日、28日の両日で行われたこの海戦において、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、矢の如く北進してくるバルチック艦隊に対し、左へ敵前回頭して迎え撃つという、いわゆる「丁字戦法」をとった戦史はあまりに有名である。
宗像大社の神官とその小使いの少年が沖ノ島にいて、戦いが始まったその時、神官は必死の戦勝祈願。少年は木に登って海戦の一部始終を見て、後にその戦況を報告している。
さて、連合艦隊は6隻単位で編成されていたが、東郷司令官は第一戦隊の先頭を担う旗艦「三笠」に乗船、しんがりは巡洋艦「日進」が務めた。
連合艦隊がぐるっと左旋回を始めた時、バルチック艦隊からみれば、旋回中の艇は止まっているように見える。だから、ここぞとばかり旋回地点に猛攻撃を加えた。 甚大なダメージを受けたのは最後尾の「日進」であった。
ところが、翌朝、ロシア側のネボガトフ艦隊は連合艦隊に対し戦意をすっかり喪失する。日本側の艦の陣容にまったく変化がなかったからだ。
それでは、満身創痍の「日進」がなにゆえ翌日も戦闘に参加し得たのか。
実は「日進」にはアルゼンチン海軍所属のドメック・ガルシア大佐が乗船していたことが、大きな力となったことが、近年明らかになっている。
実は連合艦隊に編入された、「日進」「春日」という二隻の装甲巡洋艦は、開戦直前にアルゼンチンから購入したものであった。
20世紀に入るや、アルゼンチンはチリとの関係が悪化し、海軍力増強のためにイタリアの造船所に巡洋艦2隻を発注。ドメック・ガルシア大佐は現場監督として派遣される。
この2隻は「モレノ」「リバダビア」と命名され、1903年には竣工を迎えますが、イギリスの調停によってチリとの紛争は回避される。
この情報を得た小村寿太郎外相は、早速連合艦隊補強のために購入を決め、ついに最新鋭の巡洋艦を手に入れることに成功する。
そして、モレノは「日進」、リバダビアは「春日」と改名された。
面白いのは、日本海海戦に際し、各国は選りすぐりの海軍武官を我が国に派遣している。
中立の立場で艦隊に乗り込み、この一大開戦を観戦し、参考にするためであった。
そして42名のそうそうたる海軍武官が世界から集まったという。
ところが、いざ出陣となると、連合艦隊の潰滅を予想して殆どが降りてしまい、残ったわずかの武官の一人がガルシア大佐で、彼はみずから造った愛すべきモレノつまり「日進」に乗り込んだのである。
ところが、「日進」は集中砲火を浴び危機に瀕する。
この時、日露戦争の正義は日本にありと見ていたガルシア大佐は、観戦武官としての中立の立場を敢えて破り、砲撃を支援する。
ちなみに、大佐はのちのアルゼンチン海軍大臣を務めた人物でもあった。
この秘められた史実は、1999年にガルシア大佐の孫が初めて明らかにしたもので、「祖父は日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念をもって協力に踏み切った」と語っている。
同年11月、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにある日亜学校に秋篠宮殿下の名を冠した「秋篠宮文庫」が設立され、この開所式では明治天皇からガルシア大佐に贈られた「金蒔絵の文箱」と「菊の御紋章入り一輪挿し」が初公開されている。