シューズの祭典

昭和初期まで、日本には人力車をひく人々がいて、こういう脚力のある人物を長距離界がほおっておくはずはない。
箱根駅伝第6回大会(1925年)では、歴史に残る「替え玉事件」が起きている。
日本大学は、3区の選手として「替え玉」を走らせたのだが、走ったのは大山という車夫。バイト代を出して走ってもらったという。
東京の人力車業界では有名な足の速さであったため、あっという間に4人をゴボウ抜きした。
ただ大山は、人力車の車夫だということが簡単にバレてしまった。
腕をまったく振らず、ピッタリ腰につける車夫らしい走り方だったから。
さらに抜くときは「アラヨーッ!」という、車夫独特の掛け声をあげていたためである。
日大による、悪質というよりお笑い「替え玉事件」であった。
この時代、長距離ランナーも人力車を引く男たちが履いていたのは、シューズではなく「足袋」だった。
日本でいえば、足袋のメーカーでいえば、京都の「福助足袋(ふくすけたび)」が思い浮かぶ。
「コント赤信号」のネタにも使われた「福助足袋」は、その高い縫製技術を生かして下着メーカーに転換している。
似たような経緯で世界的企業に成長したのが、同じく京都に本社をおく「ワコール」である。
さて、スポーツ選手とスポーツグッズの職人との関係はいくつか知られている。
大リーグのイチローとバット職人、ハンマー投げの室伏哲郎とハンマー職人の関係などだが、最近知られたのは 現在NHK放映中のマラソンランナー「韋駄天」こと金栗四三(かなぐりしそう)と「足袋職人」の関係である。
池井戸潤の小説「陸王」は、この足袋職人がランニングシューズ開発にチャレンジする姿を描いている。
東京高等師範学校の学生だった金栗四三は、近所の足袋店「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)に作ってもらった「特製マラソン足袋」をひっさげて、1912年、ストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場。
しかし、調整不足と日射病の影響で金栗は意識朦朧となり、レース中に失踪する大失態を演じてしまう。
捲土重来を誓った金栗は帰国後、黒坂と二人三脚でマラソン足袋の改良に着手する。
ゴム底の採用などで耐久性を高めた足袋は1919年、ついに金栗の足に履かれて下関〜東京間1200kmを走破し、その存在を天下に知らしめた。
そして「金栗足袋」と名づけられた製品は、金栗以外の長距離ランナーにも履かれ、各地の競技会で目覚ましい結果を残していく。
そして、金栗足袋でオリンピックで金メダルをとったのは日本人ではなかった。
1936のベルリンオリンピックでは、日本統治時代の朝鮮出身の孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得。銅メダルも同じく金栗足袋を履いた朝鮮出身の南昇龍が手にした。
金栗のストックホルムでの初挑戦から24年、ついに「ハリマヤ」の金栗足袋が世界を制したのだ。
しかし、戦争の拡大で次のオリンピックは中止となり、戦後初めての1948年ロンドンオリンピックには、敗戦国の日本は参加が許されなかった。
世界に後れをとったと思われたが、1951年のボストンマラソンに出場した田中茂樹が2時間27分45秒でまさかの優勝。戦後、GHQの占領統治下にあった日本に歓喜をもたらす快挙となる。
そして驚くべきことに、田中もまた「ハリマヤ」の「金栗足袋」を履いていたのだった。
この時、足先が二股に割れた「足袋」独特のスタイルが、アメリカ人記者には奇異に見えたらしく「指が2本しかないのか」と騒ぎになったほどだった。
こうして「金栗足袋」で実績をあげつも、黒坂は足先の二股割れは「キック力」を分散させてしまうのではないかとの疑念を抱くようになる。
そこで、黒坂はそれまでの自らの成功体験を一旦捨て去り、足袋型からシューズ型への改良を決断する。
そして開発されたのが、国産マラソンシューズ第1号ともいうべき「カナグリシューズ」で、さっそく結果を出す。
1953年、ボストンマラソン。金栗が才能を見出した選手の山田敬蔵に「カナグリシューズ」を履かせて、ボストンへと乗り込んだ。
すると小柄ながらも、2時間18分51秒という当時の世界最高をも塗り替える大記録で優勝した。
ゴールで待ち受けた金栗は、まるで自分の”アダ”を取ってくれたかのように喜び、東京・大塚でその知らせを受けた黒坂も感激で涙を流した。
金栗四三は、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場した。
1912年、日本人初出場のオリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなった。
金栗も日射病により、26、7キロ地点で棄権を余儀なくされる。スタートで出遅れた金栗は一度は最後尾になるが、その後疲れてきた他選手を追い抜き、17位まで順位を上げていった。
しかし、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われた。
朦朧とする中26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまう。
地元の人に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰ったため、正式な「棄権」の届出が本部に届いていなかった。
このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになった。
1967年、75歳になった金栗のもとに、スウェーデン五輪委員会からストックホルムオリンピック55周年記念式典への招待状が届いた。
金栗を招待するにあたり、スウェーデン五輪委員会はある”舞台”を用意していた。
式典に出席した白髪の金栗に、競技場を走れというのだ。仕方なく金栗はコート姿のまま競技場を走り、そのままゴールテープに飛び込んだ。するとそのとき、場内にアナウンスが響き渡った。
「日本の金栗選手、ただいまゴールインしました。タイム、「54年と8カ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了いたします」。
心憎い演出に、マイクを向けられた金栗の言葉もまたウィットに富んでいた。「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫が10人できました」。

坂口喜八郎、1918年鳥取県生まれ、実家は農業の傍ら和紙、因幡紙の仲買人なども行っていた。
1939年に鳥取一中(現鳥取西高)を卒業し、姫路市の陸軍配属となり、見習士官から将校へと昇格している。
この見習士官の時代、上官にあたる上田中尉が養子縁組を結ぶ予定であった鬼塚清市、福弥夫妻とも知人となる。
その後、連隊はビルマ戦線に参加するものの、坂口は留守部隊指導のため残留となり、戦地に赴く上田中尉から、自分が帰るまで代わりに鬼塚夫婦の面倒をみてやってくれと依頼される。
1945年8月の終戦を迎え、鳥取へ帰省したところ鬼塚夫婦から連絡があり、面倒をみてもらえないかとの相談を受け、上官との約束を果たすために、神戸三宮の商事会社に勤める。
その後、上田中尉の戦死通知が届き、鬼塚夫婦からの願いもあり「男の約束」を果たすとして鬼塚家の養子となった。
坂口が勤務していた商事会社はヤミ屋のような会社で、愛想を尽かして3年後に辞職、どのような仕事をするかを思案している時、兵庫県教育委員会の保健体育課長から「青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作ってほしい」との助言を受ける。
その後、体育課長の力添えで兵庫県下の小中学校や警察にズック靴や警ら用靴を納める配給問屋の資格を得て、1949年3月に個人事業の「鬼塚商会」を始める。
ただ、スポーツ用シューズの製造技術は素人であり、仕入れ先に見習いとして雇ってもらい、特訓を受けたという。
1949年9月に社員4人で「鬼塚株式会社」を設立し、兵庫県バスケットボール協会理事長で神戸高校監督の松本幸雄に相談し、バスケットシューズの開発に乗り出した。
暇があるとコート通いをし、選手から希望を聞き改良品を作った。
1951年、キュウリの酢の物にあったタコの足に目がとまり、タコの足の吸盤にヒントを得た全体を吸着盤のようにした凹型の底を考案し、「鬼塚式バスケットシューズ」として販売する。
神戸高校バスケットボール部の優勝などもあり次第に売れ行きを伸ばした。
その後、スポーツシューズにふさわしい強さと敏捷性を表すものとして「虎印」とし「ONITUKA TIGER」の印を横につけた。
1953年にはマラソンシューズの開発を目指し、当時のトップ選手や大阪大学医学部の教授にに助言を仰ぎ、風通しを良くし、着地した時に足と中底の間にたまった熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込むという空気を入れ替える構造のシューズを開発し特許を取得した。
1956年に「オニツカタイガー」がメルボルンオリンピック日本選手団用のトレーニングシューズとして正式採用された。
そして坂口にとって大きな意味をもつ出会いが、ローマオリンピックと東京オリンピックを二度制したアベベ・ビキラ選手であった。
アベベは1960のローマオリンピックにおいて、たまたま靴が壊れたため”裸足”で走ることとなった。もともとアベベは子どもの頃から裸足で野山を駆け回っており、足の裏の皮は厚く、裸足で走ることに慣れていた。
そして当時の世界最高記録となる2時間15分16秒で優勝した。
レース前には全く無名で、アベベが先頭集団に加わると「あれは誰だ」という声が沿道からあがり、各国の報道関係者も騒然となった。アベベはゴール後に「まだ余力はある。走れと言われればもう20kmぐらい走れる」と語った。
オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界からレースへの招待状が届いたが、そのひとつが日本の毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン。当時は大阪府で開催)であった。
アベベ側は、次回のオリンピック開催国を下調べするチャンスという意図があったと思われるが、このレースでは気温・湿度とも高く、レース中に人が侵入し立ち往生するというアクシデントもあって、優勝はしたもののタイムは2時間29分27秒と平凡だった。
このレースの際、アベベは裸足で走ることを主張したが、オリンピックは「シューズの祭典」でもある。ちなみに音楽祭のことを「ミューズの祭典」という。
アベベを表敬訪問した「オニツカ」社長の鬼塚(旧姓:坂口)喜八郎が「日本の道路はガラス片などが落ちていて危ない。裸足と同じくらい軽いシューズを提供するから履いてくれ」と説得したことにより、アベベはオニツカ製のシューズを履いて参加した。
1977年、鬼塚株式会社は他会社と合併し、株式会社「アシックス」となり、鬼塚が社長に就任。
1992年4月に会長に就任したものの、1995年に経常赤字、無配転落の責任をとり、代表権を返上したが、2007年に亡くなるまで会長職にあった。

2005年、「エリザベス・タウン」というアメリカ映画があった。副題は「すべてを失った僕を、待っている場所があった」というサブ・タイトルであった。
ある男が、会社で大きな損失をだして会社を首になり、恋人にも別れを告げられ、死にたい思いに駆られていた時、父の訃報が届く。
自分が生まれ育ったケンタッキーの山懐にあるエリザベスタウンに帰郷したところ、自然豊かさや思わぬ人々の暖かさにふれる。
帰郷した失意の男が、心癒されていく奇跡の6日間を描いた映画であった。
そして新たにできた恋人から「無難に生きてきた者には、大失敗は起こらない」。
「大失敗しても根性でしがみつくの、笑って見返してやるの、それが偉業ってもんよ」なんて言葉に励まされる。
この映画で、主人公は新進気鋭のシューズ・デザイナーという設定だが、こんな設定が生まれるのも、当時一躍注目されたシューズメーカー「NIKE」の存在が大きいであろう。
その「NIKE」の成長に大きく関わったのが、日本人商社マンであったことはあまり知られていない。
「ナイキ」、社名の由来はギリシャ神話の勝利の女神「ニーケー (Nike)」からきている。
この女神像は、高校「世界史」の教科書では、「サモトラケのニーケー」として写真掲載されている。
「NIKE」本社は、アメリカ西海岸のポートランドにある。
創業者のフィル・ナイトは大学院を修了して、「ブルーリボン」を設立した。そして1962年に、鬼塚株式会社(現・アシックス)を訪問し、オニズカの靴を輸入してアメリカで販売したい旨を語らった。
当時、アメリカや世界の市場ではドイツの「プーマ」や「アディダス」が市場を独占していたが、なぜ日本のシューズに注目したのか。
ナイトは、スタンフォード大学ビジネススクールで、日本のカメラがドイツのカメラより売れるのなら、日本のスポーツシューズも、ドイツのスポーツシューズのように売れるのではないかと考えるようになった。
そこで東京で靴屋を回り、オニツカの靴が一番だと実感し、彼らに連絡したのである。
「オニツカ」訪問時に、ナイトは靴についてたくさんのことを話し、オニツカの靴をアメリカで売りたい。そしてオニヅカ側もアメリカに輸出したいという話を聞くことでき、両者の思いが一致した。
その後、300足のオニツカのスポーツシューズを発注し、アメリカの西部13州での販売を許されたものの、その頃のナイトのビジネスは自転車操業そのものだった。
そして「ブルーリボン」は、2度資金繰りで窮地に追い込まれることになる。その危機を救ったのが、同じポートランドに支店をおく日本の商社「日商岩井」であった。
ナイトは、売り上げや自分の給料をすべてつぎ込まなければならなかったほどの窮地に陥っていたが、当時、ベンチャーキャピタルのような存在がなかった。
また、銀行を説得するにも、当時アメリカ国内での銀行融資など相手にもされなかった小さな企業ナイキ。
対照的に、日商岩井はナイトの会社が急成長していること、そして利益の伸びが良好であると判断し、数人の社員が活発に動いて話を進めてくれ、100万ドルの融資を提供してくれた。
ナイトは、1970年代の日本の商社が、ブルーリボンにとってのベンチャーキャピタルのような振る舞いをしてくれたこと、成長するビジネスを資金面で支える投資家のような役割を担ったことを振り返りつつ、その思いを「SHOE DO」という本にした。
「SHOE DOG」によれば、ナイトが日本の商社に賭けたのは、「フォーチュン」誌で”日本株式会社”の成り立ちについて読んだことが大きかったという。
その中で、日本の商社が世界中のあらゆる市場で非常にアグレッシブだという印象が残り、日商岩井もその内容にたがわぬ会社であった。
「NIKE」の本社には、アスリートが靴を試着して走るグランドがあり、その中心に日本庭園があり社員の憩いの場になっている。
その庭の名は「Nissho Iwai Garden」(日商岩井ガーデン)。春になると桜並木が満開になる日本庭園は、ナイキと日本人とのキヅナを物語っている。