聖書の人物(善きサマリア人)

旧約聖書「ヨナ記」は、神が自身の意思を実現するために、どのように人間を扱うかを教えてくれる。
BC8C頃ユダヤ人の預言者ヨナが、神様からアッシリア(今のシリア)の首都ニネベに行くように命じられる。
その内容とは、ニネベの町が悪徳が満ちているので滅ぼすという神の言葉を伝えよというものである。
ヨナの心情を推測するに、自分の国を支配するかもしれない大国などはやく滅びて欲しい。そんなことを伝えて彼らが身を正すようになったらかえって困るという思いであったろう。
ヨナは神様の言葉に従わずに逃げようとしたところ、タイミングよく逆方向のタルシシ行きの船が来て、それに乗り込んで逃れようとする。
ところが、ヨナが乗った船は嵐に遭ってしまう。
船員たちが、嵐の原因は誰なのかと、クジ引きをするとヨナに当たる。
ヨナは自分を海に投げ入れるように人々に言い、海に投げ入れられたヨナは大きな魚に飲み込まれてしまう。
大魚の腹の中で、ヨナは次のような祈りをする。
「わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた」(ヨナ書2章)。
これは、大魚によって命が守られたことへの感謝の祈りと解釈すべきであろう。
ヨナの祈りを聞かれた神様は、ヨナを大魚から吐き出させて救い出す。
その後、ヨナは神様の命じられたようにニネベに向かい人々に、悔い改めなければこの町は滅びるというメーッセージを伝える。
すると、その言葉を聞いたニネベの王と人々は、神様に助けてもらうよう切に祈りをはじめる。
神様はその人々の姿をみて、ニネベの町に災いを下すことを思いとどまる。
しかし、ヨナにはそのことが面白くない。ヨナは怒りがおさまらず、その後のニネベの町の人々がどのような振る舞いをするか、見届けようとする。
ところがニネベの町の日差が強く、それがまたヨナの腹のムシを刺激する。
そこで、慈愛に富む神様は、日差しからヨナの身を守るために、トウゴマの木を生えさせる。
ヨナは日差しから解放されて大喜びするが、神様は次の日に虫に命令して、トウゴマの木の葉を食べさせたため、再びヨナは暑い日差しに晒されるはめになる。
そしてヨナは神様に、 自分は「生きているよりも死ぬ方がましだ」と不満をぶちまける。
それに対して神様は次のように語る。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じて、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。どうしてわたしがこの大いなる都ニネべを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万以上の、右も左もわきまえない人間と、たくさんの家畜がいるのだから」(ヨナ書4章)と。
旧約聖書の「ヨナ記」はこれで終わるが、その後の歴史をみると次のとうりである。
このアッシリアは後にヨナの母国であるイスラエル王国(北王国)をBC721年に滅ぼしてしまう。つまり結果において、ヨナは自分たちの敵国を助けてしまったことになる。
北イスラエルにあたるサマリアの住民はアッシリアの捕囚の民となり強制的に他の土地に移され、この土地にはアッシリアからの移民がこの土地に移り住んだ。
このときイスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と、移民との間に生まれた人々が「サマリア人」と呼ばれた。
彼らは、アッシリアの偶像を持ち込んだり、独自の礼拝所を設けるなどしたばかりか、自分たちを都合によってユダヤ人と同族扱いしたり、逆に他からの移住者で関係ないとするなど、日和見的な人たちだとみなされていたらしい。
後にイエスがサマリアの地を訪問した時、井戸の水を汲みに来た女性に水を飲ませてくれと頼んだとき、女は「あなたはユダヤ人なのにどうしてサマリア人である私に話しかけるのか」(ヨハネ4章)という場面があるが、この言葉からユダヤ人とサマリア人は言葉もかけないほど仲が悪かったことがわかる。

海を挟んで隣に位置し、多くの共通点もあるのにしばしばモツレルのが日韓関係であるが、その理由のひとつに韓国には儒教文化があり、その本場・中国に近い自分達の方が日本より精神的に高いと思い込んでいることがあげられる。
一方日本は、はやくから近代化をすすめ自国の方が上だという意識があるから、相互に仲がいいはずがないのである。
ヨナが生きた時代のイスラエル情勢は、つまりユダヤとサマリアの感情的なもつれとアッシリアという大国の影響の大きさは、幾分今日の東アジア情勢を思わせるものがある。
日韓関係の悪化と、大国中国の存在である。
その状況の中で動いたヨナの立場から、明治時代の知識人・福澤諭吉という人物を思い浮かべる。
いうまでもなく、福沢は神から何か命じられたわけでもなく、その生涯にヨナのような物語性はないが、先入観にとらわれない自由人であり、同時に茶目っ気のある行動の人であった。
福沢は勝海舟の咸臨丸に乗ってアメリカにわたるが、船の修理の合間にサンフランシスコの写真屋で現地の娘とのツーショットで写り、船がでたあとにその写真を取り出し、皆をうらやましがらせたというエピソードがある。
当時まだ26歳だった福沢の面目躍如といったところ。
さて、福沢諭吉の立場とヨナとの共通点というのは、将来自国の敵ともなりうるかもしれない隣国の朝鮮を文明化しようとした点でである。
福沢諭吉といえば「脱亜論」が有名でアジアとの関係を軽視したように誤解されているが、その心情はかなり違っている。
福沢は西洋列強のアジアへの帝国主義的な侵略にたいして、明治維新によって近代化の道を拓いた日本こそが、中国や朝鮮にたいして力を貸して共に連帯して抗すべきであると考えていたのだ。
特に、隣国朝鮮をアジア同胞として清韓の宗属関係から脱却させ日本のように文明化させることの必要性を説き尽力したのである。
そこで朝鮮内の腐敗した絶望的な国を変革しようとした「開化派」を福澤は積極的に支援し、そのリーダーであった金玉均らの青年を個人的にも受け入れ指導教育を惜しまなかった。
また朝鮮に慶應義塾の門下生を派遣する行動を起こし、清朝の体制に取りこまれるのをよしとする朝鮮王朝の「事大主義」の変革をうながしたのである。
清仏戦争が勃発し、清国軍が京城から退却したのを機に「開化派」がクーデターを企てるが(甲申事件)、それが失敗に帰したことから、朝鮮における清国の影響力は決定的となった。
福澤のなかにあった日本による朝鮮の文明化の期待も潰えたのである。
福澤に「脱亜論」を書かしめたのも、朝鮮の開明派、独立派の人々への必死の支援がことごとくその固陋な中国従属の封建体制によって無に帰したことによるものだった。

新約聖書には、有名な「善きサマリア人の譬え」というのがある。
ユダヤ人達がイエスを陥れようと、ある律法学者が一番大切な律法は何かと問うと、イエスから「どう読むかと」逆に聞かれる。
律法学者が、「全身全霊をもって神を愛することと、自分と同じようにあなたの隣人を愛すること」と答えると、イエスは「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と応じている。
しかし、この律法学者は、「そのとうり行いなさい」といわれて少々意表をつかれたようだ。
彼は自分を弁護するように、「では自分の隣人とは誰か」とわざわざ聞き返しているからだ。
そしてイエスは「善きサマリア人」(ヨハネ10章)の譬えを語る。
あるとき、追はぎに襲われ半死半生の傷を負ったユダヤ人がいた。
ところが、祭司とレビ人が道端に倒れている人を見ると、道の反対側を通って去って行った。
そして次にサマリア人は、倒れた人に信じられないほどの愛の心をもって手当をする。
傷の手当てをするばかりか自分のロバに乗せた。つまり自分は歩いて行った。
そして宿屋に連れて行って介抱し、一泊した後の翌日、宿屋の主人にお金を渡して手当を頼む。そして足りなかったら帰りがけに寄るからその時支払うとまで言って、宿屋の主人にお願いする。
イエスは律法学者に、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」と聞く。
それに対して律法学者は「サマリア人です」と答えてもよさそうなのに、「その人に慈悲深い行いをした人です」と、あくまでもサマリア人という言葉は口に出そうとはしなかった。
このエピソードはイエスがいかに人々の心を見抜いていたかをもの語るが、この「善きサマリア人の譬え」を困っている人を助けましょうのレベルで捉えるのは、本質からはなれている。
この譬え話は、救いが「異邦人に伝えられる」という「新しい契約」の型を示すものであろう。
イエスは刑死後の3日目に復活し地上にとどまり、弟子たちにその姿をみせるばかりか、疑う弟子に体まで触れさせたりして40日後に昇天する。
その最後に残した言葉とは「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章)である。
大事なことは、聖霊は民族を超えて下るという「福音のメッセージ」に、最近こじれてしまった日韓関係において、その壁を乗り越えた日朝双方の二人の人物を思い浮かべる。
ところで、キリスト教の文化を詩や絵によって表現した18Cのイギリスにウイリアム・ブレークという思想家がいる。
この人の思想に多くのインスピレーションを受けた現代作家がノーベル賞作家の大江健三郎であるが、ブレイクに傾倒したもう一人の知識人がいる。
柳宗悦(やなぎ むねよし)は、1889年東京生まれ。1910年、学習院高等科卒業の頃に武者小路実篤らがはじめた文芸雑誌「白樺」の創刊に参加し、この頃より、神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレークに傾倒する。
ブレイクは対岸のフランス革命を讃え、そして批判した。ラファイエットとロベスピエールの両方を睨んでいた。神と悪魔は現実社会の中にそいることを見ていた。
彼の描いた「ヨブの書」の挿絵では、なんと神を退場させて、そこへイエスを登場させた。旧約の中にイエスがあらわしたのだという。
大正3年4月に「白樺」はブレイク特集するが、その中で柳宗悦が137頁におよぶ「ウィリアム・ブレーク」論を書いている。
柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業するが、このブレイクとの出会いを契機にして、柳の関心は、しだいに東洋の老荘思想や大乗仏教の教えに向けられていった。そして、真理を求める熱いまなざしは、ほぼ時を同じくして、宗教的真理と根を同じくする「美」の世界へと注がれていったのである。
大学卒業の翌年、韓国で小学校教師をしていた人物が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ねた。その美しさに魅了された柳は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになった。
そして、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。
1921年、日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催し、1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設するなどをしていった。
そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判したのである。
同時に、李朝工芸との出合いによって開眼された柳の目は、自国日本へと向けられていく。
まず、柳の目を引きつけたものは、木喰上人という遊行僧の手になる木彫仏であった。
「木喰仏」と呼ばれるこの江戸時代の民間仏の発見をひとつの契機として、柳の目は民衆の伝統的生活のなかに深く注がれ、そこに息づくすぐれた工芸品の数々を発見していった。
そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。
「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工藝」の「藝」を指す。
彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのであった。
1936年、「日本民藝館」が開設されると初代館長に就任。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれている。
その一方に、韓国側にも、日韓の壁を超えた人物がいた。
それは日本人女性の「シェルター」ともいうべき「ナザレ園」を創設した金龍成(キム・ヨンソン)という人物である。
新羅時代の都、慶州にある「ナザレ園」は、日本人観光客もよく訪れる仏国寺に近い田園地帯にある。
現在も日本人女性9人がいるが、彼女たちは日本の植民地だった朝鮮半島出身の男性と結婚した人たちで、平均年齢は90歳を超える。
創立者である金龍成(キムヨンソン)はキリスト教信者で、もともと咸鏡道(ハムギョンド、北朝鮮に位置)で福祉施設を経営していて、1950年に勃発した朝鮮戦争後に慶州に移った。
そのときの戦争孤児や戦争未亡人、シングルマザーらを保護するために1972年に「ナザレ園」を創設した。ちなみに、ナザレはイエス・キリストが育った地である。
そして“真の愛の尊さと人間に国境はない”をモットーに、その救護対象に日本人女性も含まれていた。
直接のきかけは、韓国の刑務所に窃盗や放火の罪で服役していた日本人妻2人の存在を知ったこと。
女性たちが釈放されると、金は「貧しさゆえに罪を犯した」と身元を引き受けて面倒をみた。
当時は反日感情が激しく、「なぜ日本人の施設をつくるのか」と抗議されたこともあったという。
厳しい境遇の妻も多かった。夫が朝鮮戦争で徴兵されて戦死したり、極貧のあまり山の洞窟に住んだりした女性もいた。日本で結婚し韓国に渡ったら本妻がいた、ということもあった。
金は「女性に罪があるとすれば、韓国の青年を愛したことだけだ」といつも話していたという。
朝鮮半島に取り残された日本人妻の多くは当時の強い「反日思想」のため日本人であることを隠して生活していた。
そのため、日本政府もその実態を把握しておらず、死亡扱いされていたり、国籍を失っていた。
または生きるために朝鮮戦争の混乱を利用して韓国籍を取得していたりしていたために、その身分を証明することは容易ではなかったが、金龍成をはじめとする支援者の協力で直接間接を含めて百数十名を日本に帰国させている。
金龍成は2003年3月に亡くなり、海の見える小高い丘に眠っている。
作家の上坂冬子は、慶州を旅行していて、日本人妻がたくさんいる不思議な福祉施設があることを偶然知り、「慶州ナザレ園―忘れられた日本人妻たち 」(中公文庫1984年)を著している。
日本の柳宗悦、韓国の金龍成は、日韓の壁を超えた「善きサマリア人」であったといえよう。