死をみつめる人々

1964年 東京オリンピックの年に、あるカップルの交流が一世を風靡した。
軟骨肉腫という難病に冒された小島道子と、彼女を愛し3年間も支え続けた恋人高野誠との間で交わされた文通書簡をまとめた「愛と死をみつめて」は1963年に出版され、160万部を売り上げる大ヒット。
そんな「ミコとマコ」のラブストーリーと、悲しい結末が映画化された。
映画では、 吉永小百合・浜田光夫の純愛コンビの代表作となり、吉永小百合の、顔の左半分をガーゼで覆った静かな熱演に注目が集まった。
そして青山和子がせつせつと歌う「マコ・・、甘えてばかりでごめんね」で始まる「愛と死をみつめて」が、1964年の日本レコード大賞を受賞した。
実は、こんな昔の話題をとりあげたのは、京都アニメの被害者の名を伏せることへの違和感からだ。
病に冒された若き女性の死を恋人が見届けるドラマと、放火という凶行で突然に亡くなる人々とではまったく違う話なのかもしれない。
しかし関係者でなくても、亡くなった人の人となりを知ったうえで死者を悼みたいという思いは共通なのではなかろうか。
同じ死でも、一方では国民的に涙し、他方は一部を除き死者の数"35"しか伝わらない。
マスコミが実名報道を控えたのは、取材で暮らしが脅かされること、なによりも静穏にしてほしいという「遺族感情」に配慮したためである。
だがこれまで、放火によって新宿の雑居ビルで多くの人が亡くなった事件があったが、すぐさま実名報道がなされたことを記憶している。
そんな場所にいたことを知られたくないだろうに、という故人や遺族の気持ちはまったく無視されたものだった。
「SNSの発達」という時代背景の違いはあるにせよ、世界から弔文を寄せられるほどに、世界に作品をつくったクリエーター達なのだから、亡くなった人の名前とその業績を伝えることは、マスコミの役割であるにちがいない。
だが、事件から1か月半、ようやく多くの新聞各社が実名報道に踏み切った。その理由について、注目してみた。
朝日新聞は「おひとりおひとりの尊い命が奪われた重い現実を共有するためには、実名による報道が必要」、毎日新聞も「(実名報道が)事件の全貌を社会が共有するための出発点」と説明。日本経済新聞は、「検証や再発防止につなげるために原則、実名報道をしている」とした。
なかでも、朝日の大阪社会部長の言葉はわかりやすかった。
「ファンから愛されたクリエーター、夢を膨らませて入社した若い作り手…。失われた命の重みと尊さは”Aさん”という匿名ではなく、実名だからこそ現実感を持って伝えられると考えているからです」と語っている。
ところで個人的に、凶悪事件や災害がおきるたびに思い浮かぶのが、天童荒太の小説「悼む人」(2009年)である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人をも悼む。いわば自分と無縁な人の死を悼むことをする。
ただ「悼む」ために、故人のことを知るために、故人の遺族こう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死を愛しむ思いから自然に湧き出た問いにちがいない。
インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。それを映像でみると本来、もっと悼まれ看取られていいはずなのにそれがなされないことを痛感する。
とはいえ「悼む人」のいない死は、「無縁社会」と化しつつある日本も、よその国のこととして見過ぎすことはできない。
「孤独死」や「幼児虐待」に代表されるように、人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」に何も感じなくなっている。
大事故や事件に見舞われ、誰が死んでもよかったかのような死を、何も準備されずに強いられる人々がいる。
そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「いたましい」と思う。
というわけで、天童荒太の小説「悼む人」には、この社会に対する「異議」が潜んでいるように思える。

最近TVで、亡くなった人の死化粧をする納棺師や亡くなった人の部屋をきれいにする特殊清掃人などの仕事に携わる若者の姿を見た。
その中で印象に残った若い女性の言葉があった。
「自分は、どんな仕事をしても真摯な姿勢で臨むことができなかった。そこで、"人間の死"という厳粛な場に関わって生きたいと思うようになった。それで、"葬儀"に関わる仕事に自分が真摯に向えられなかったならば、自分は本当にクズだと思う」と。
こんなことを考える若者がいるとは、と感心したが、有名人の中にも、ある時期死に向かいあう仕事をした人々がいる。
世界的女優として輝く女優となった感のあるアンジェリーナ・ジョリーであるが、父親はジョン・ボイトである。
映画「真夜中のカウボーイ」(1967年)では、ダスティン・ホフマン演じる「ねずみ」と共に、ニューヨークの片隅でドン底の生活を送る田舎出の若者の役柄を演じていたのが懐かしい。
したがってアンジェリーナは、ハリウッド俳優の家に生まれたというということから、さぞや恵まれた環境で育ったのかと思っていたら、実際は全く違っていた。
彼女の女優スタートは、両親の離婚後11歳の頃にロサンゼルスに戻るとアクターズ・スタジオで演技を学び舞台に立つようになってからである。
その後ビバリーヒルズにある高等学校の演劇クラスに進学するも、病弱な母の収入は決して多いとは言えず、アンジェリーナも度々「古着」を着用するほどだったたため、裕福な家庭が多いビバリーヒルズにおいて、徐々に孤立していったという。
さらに、アンジェリーナが極端に痩せていたことや、サングラス、歯列矯正の器具などを着用していたことが他の生徒からのイジメを受ける結果となった。
さらにモデルとしての活動が不成功に終わったことで、ジョリーの自尊心もズタズタとなり、「自傷行為」を繰り返した。
自傷行為の時ダケが生きているという実感が沸き、「開放感」に満たされ癒しを感じたという。
そしてアンジェリーナは14歳で「演劇クラス」を離れ、激しい自己嫌悪からか将来の希望を「葬儀の現場監督」とし、実際に彼女は葬儀会社へアルバイトとして遺体の「死化粧」を施す担当をするなどした。
つまり、アンジェリーナ・ジョリーは「おくりびと」として、「死」というものに身近に接していたのである。
また、常に黒の衣装を身に纏い髪を紫に染めたりして、「異様」としかいいようもない生活を送るが、母が住む家から僅か数ブロックだけ離れたガレージの上にあるアパートメントを借り、再び演劇を学んでナントカ高等学校を卒業したという。
こうみるとアンジェリーナ・ジョリーの出演作「17歳のカルテ」も、役柄と人生とが随分重なっている。
それが重なるからこそ「役柄」を引き受けたのであろうし、人にはできない「自分の舞台」を創りだすことができたのだと思う。
女優で「葬儀」の仕事といえば、壇密さんも葬儀社で「おくりびと」をしていたことがある。そのためか、壇も密も仏教と関係する言葉である。
壇は仏壇、密はお供え物を意味ているのだという。

最近の殺人事件で、殺人の動機が「人はどのように死ぬのかみてみたかった」というのがある。
それも自分の母親を殺そうとするのだから、にわかには信じられない動機である。思い浮かんだ言葉は、「冷血」。
アメリカの現代作家トルーマンカポーティの生涯を描いたのが「カポーテー」(2005年)である。
映画では、代表作「冷血」を書く過程を描いていた。
トル-マン・カポ-ティはルイジアナ州ニューオリンズでて生まれた。両親は彼が子供の時に離婚し、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマなどアメリカ南部の各地を遠縁の家に厄介になりながら転々として育った。
後に自殺する母に連れられて町々を渡り歩き、ホテルの部屋に一人閉じ込められ母の帰りを待つこともあったという。
引越しの多い生活のため、ほとんど学校に行かず、ほほとんど独学同然に勉強した。
彼にとって一つの出会いは、アラバマ在住当時、後年の女流作家として「アラバマ物語」を書くハーパー・リーと知り合ったことだ。
幼ななじみハーパー・リーとは「冷血」で描かれた事件を共に取材にあたっている。
カポ-ティは17歳で雑誌「ニューヨーカー」誌のスタッフになり23歳で出世作「遠い声、遠い部屋」を発表した。若き天才作家として注目を浴び時代の寵児となる。
「冷血」執筆の動機は、たまたまある殺人事件の記事を読んだのがきっかであった。
映画では「この犯人は自分だ」とつぶやいたのが印象的であった。
平和なアメリカの片田舎の町で家族4人が惨殺された。盗まれたものは、小型のポータブルラジオと僅かな現金だけ、恨まれるようなことなどいなかったお人よし一家を、何故、2人の青年は皆殺しするに至ったのか。
カポ-ティは6年に近い歳月を費やして綿密な取材を行い、そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けている。
被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。必ずしも殺害の必要もない衝動的な殺人にも見える。
理由なき衝動に見えてもそれにいたるまでに様々な要因が重なりあって生じており、その心の襞を解き明かそうとしている。
「ボヘミアン・ラプソディ」の主人公フレディ・マーキュルー同様に、カポーティも色々な意味でマイノリティの側の人だった。
カポーテイは、母親が先住民族のチェロキーであるという殺人犯ペリーに感情移入していく。
「冷血」では、カポーティは作品を書き上げるため、不憫な育ち方をしたペリーとの面会を繰り返し、自分の身の上を明らかにして次第にに信頼関係を築いていった。
友人リーが、なぜペリーを取材するかという問うと、カポ-ティは新しい小説を書くための「金づる」と答える一方で、彼自身の生い立ちとペリーの生い立ちが重なりあい死刑囚を深く理解し、死刑囚の「最後まで友」であって欲しいという願いに応えているようにも見える。
作家は死刑囚に言う。「もしも私が君を理解できなかったら君は怪物で終わっていしまう」と。
カポーティは良い弁護士をつけて彼を死刑から免れさせようと働きかけなどもするが、実際に、死刑執行が何度も延期されると、それまで5年もの歳月をかけた小説がいつまでも完結できないということに苛立ちを覚える。
そして、まるで生殺しに合ったかのように苦しむのである。
友人が、死刑囚を本当に愛しているのかと問いかけると、カポ-ティは「それには答えられない。ただ同じ家で生まれた、一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た」と答えた。
また死刑執行に立会うか否か葛藤の末、死刑囚の死を見届け、「何もしてやることができなかった」と苦しむのである。そして、友人リーは彼に「本当は助けたくなかったのかもしれない」という言葉を投げかけている。
カポーティは一作ごとに華やかな話題をふりまきセレブリティの一員となり、ゴシップ欄にも話題を提供していく。
「冷血」を完成させノンフィクション小説という新分野を切り開き名声を高める一方、それ以降アルコールと薬物中毒に苦しみ、1984年に亡くなっている。

2014年10月6日、梶田隆章とカナダ人物理学者のノーベル物理学賞の共同受賞が発表された時、世界中の物理学者が「残り一枠」の名前を思い浮かべたのだという。
2008年に大腸ガンで逝去した戸塚洋二氏(享年66)の名前である。
岐阜県神岡町の山中にカミオカンデを作り、世界で初めてニュートリノを観測した小柴昌俊氏(02年ノーベル賞)の愛弟子として、後継施設スーパーカミオカンデ建設を主導した人物だ。
小柴氏の兄弟子が戸塚氏で、梶田氏が弟弟子という関係で、カミオカンデの観測から「ニュートリノ振動」の可能性に気づいた梶田さんと、それを実証するスーパーカミオカンデを作った戸塚氏。
二人を中心に100人を超えるスタッフが力を合わせて成し遂げた、世紀の大発見である。
なにしろ、ビッグバンの際に起きた微細な振動を実際に記録させたのだから、宇宙の始まりを”逆証明”した形にもなるからだ。。
仕事場で〝鬼軍曹〟と言われた戸塚氏は、家でくつろぐこともほとんどなかった。
だが2000年、そんな戸塚氏にガンが見つかる。折悪しく翌01年、スーパーカミオカンデに大規模事故が発生。すべての実験が停止した。
戸塚氏は病身を押して現場に駆けつけ、「1年で再建する」と活を入れ続けた。
戸塚氏は無理を押して再建に尽力し、夜はウイスキーを身体に流し込むようにして眠った。
ガンが04年に左肺、05年に右肺と転移して、2年半ほどした時には余命を宣告された。
奥さんは、「ノーベル賞は残念だったけど、あなたは大きな業績を残せたんだから幸せじゃない」と語りかけると、 「ノーベル賞なんて、いずれ誰かがもらえるからそれでいいんだよ。無念なのは、もっともっとやりたい実験があることなんだ」と、「重力波の解明」のことに言及したのだという。
この戸塚氏とガンとの戦いを描いたNHKドキュメンタリー「あと数か月の日々を~物理学者・戸塚洋二」についつい見入ってしまった。
戸塚氏は、がんに侵された晩年、自らの病にも科学の目で向き合った。がん専門医も驚く病状の分析、刻々と近づく死への恐れなどをインターネット上のブログに綴っていた。
科学者らしく、自身の病気についても綿密に綴られており転移した脳のCT画像を入手し、データ化したり分析したりして、その内容には医者も驚くほどだったという。
同時にそれは恐るべき精神力を物語るものでもあった。
奥さんは、自分の死を詳細に語ることにより、死への恐怖をやわらげようとしているのでないかと語っている。
戸塚氏自身は死の恐怖について触れ、それを克服しようと、見る、読む、聞く、書くに今までよりももう少し注意を注ぐと言っている。
見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞くときはもう少し注意を向ける、するとよい文章になる、その充実感が死の恐怖を和らげるといっている。
TVを見ながら、戸塚氏は自分の身体状況と心理状況を刻々と記録しておくことこそ科学者としての自分の使命であり、そのために身を捧げたよう感じた。
つまり自分の死を無駄にしたくないという思いが、最後まで伝わった。
ひとは死んだら表情がなくなって、個々の判別が難しくなるらしい。それにも加え、数や記号のように扱われる死が、人々の気持ちを荒ませる。