聖書の人物から(アビガイル)

源頼朝が、戦果をあげる源義経という存在に脅威を感じ決裂したのと同じように、ヘブライ王国初代のサウル王は、ダビデの存在に脅威を感じ始めた。
なぜなら、民衆は「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃つ」と語っていることが耳にはいったからだ。
そしてサウルは、狂ったようにダビデの命を狙うようになる。
サウルから逃亡していたダビデの下には、600人の生活困窮者や不満分子たちが集まり(サムエル記上22)、ダビデはその頭領として彼らの生活の面倒を見ながら、彼らに護衛の役にも当たらせていた。
ダビデの逃亡場所は、主として荒野であり、その間にはオアシスが点在していた。
家畜を飼う者は、この荒野に羊などを放牧していたが、時には、ベドウィンなどの攻撃を受け、家畜を奪われたり、命を奪われることがあった。
ダビデは、そうした敵から家畜を飼うものたちを守ってやることによって、食料や生活の必要なものをその代償として彼らから得て生活していた。
マオンに「羊三千匹、山羊千匹」を所有する非常に裕福な牧畜事業をしていたナバルという人物がいた。
彼に雇われ家畜の世話をしていた多くの牧童は危険な目にたびたび遭っていたが、ダビデは彼らを何度も盗賊たちの手から守り、余分な代償を求めることもなく、彼らの平和に大いに貢献していた。
ダビデはナバルが「羊の毛を刈っている」と聞き、10人の従者を送っている。
「羊の毛の刈り入れ」は、羊飼いの収穫祭にあたり、貧しい隣人たちに何がしかのものが振る舞われるのが常であった。
ダビデは、ナバルの家畜を飼う者の危機をたびたび救ってきたため、それにふさわしい扱いを受けることを期待した。
そのことはナバルに雇われていた羊飼いたちも認めていたが、ナバルはその言葉を真に受けず、ナバルは「ダビデとは何者だ」「わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」と答えて、ダビデの従者を追い返した。
彼がダビデのことをしらないはずがない。「最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった」という言葉も、サウル王のもとから逃亡して来たダビデの存在を意識して語られたことが推測できる。
聖書によれば、ナバルは「頑固で行状が悪い」人物であったのだ。
ダビデは予想に反する報告を使者から聞いて激怒し、直ちにナバルに報復の攻撃を加えるように命じ、400人がダビデに従って、直ちに進軍を開始した。
そのことばナバルの従者の一人によって、ナバルの妻アビガイルに伝わった。従者がいうには「御主人にも、この家の者全体にも、災いがふりかかろうとしている今、あなたが何をなすべきか、しっかり考えてください。御主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません」と切々と訴えた。
アビガイルはナバルの従者の言葉を聞き、夫の行動のもたらす結果がどのようになるかを即座に判断し、実に迅速で的確な行動を起こした。
アビガイルが用意した贈り物は、ダビデが10人の使者を遣わして期待したほどのものは十分にあった。
アビガイルは、それらの贈り物をロバに背負わせ、自分もロバにまたがってダビデのもとへと急ぎ向かった。
アビガイルは向こうからやってくるダビデの姿を認めるやいなや、急いでろばを降り、ダビデの前にひれ伏して、夫ナバルの非礼、自分がダビデの使いの者に会わなかった失礼を、大げさなほどの慇懃さで詫びる。
アビガイルは夫ナバルのことを、「名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」と言って、そんな愚か者の言葉や行動をまともに取って関わらない方が、ダビデの名誉のために良いと、彼の名誉心に訴えた。
「主(神)があなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人様(ダビデ)に成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられるとき、無駄に血を流したり、ご主人様(ダビデ)自身で復讐されたりしたことが、あなたの躓きとなり、ご主人様(ダビデ)の心の妨げとなりませんように。主(神)がご主人様(ダビデ)を幸せにされたなら、このはしためを思い出してください」(Ⅰサムエル24)。
ナバルとは、「愚か者」を意味するが、ヘブライ人はそういう災厄が及ばないようにと、あえてわが子にそのような名をつける習慣があった。
こうして主は、アビガイルを通して、ダビデを一つの危険から救った。ダビデがもし自分の思いのまま怒りに任せて行動していたなら、自分の運命を主なるヤハウエに任せることなく、自分の感情にまかせて振る舞ったという汚点を残すことにもなると説得した。
アビガイルは、このダビデの祝福を受けて、夫ナバルのもとに帰った。
帰って見ると、夫ナバルは、妻や従者の危機意識をよそにして、能天気にも、宴会を催し、話をできる状態ではなかった。
そこで仕方なくアビガイルは翌朝まで夫の酔いの冷めるのを待った。
そしてナバルは、妻の語る報告を聞くと、その報告はナバルの心胆を寒からしめるのに十分であった。
そして、聖書は「主はナバルを打たれ、彼は死んだ」とのみ告げている。
ダビデは、この聡明で主に対する揺るぎ無い信仰に生きる女性アビガイルを妻にすること願い、使いを遣わしアビガイルを妻に迎えたいとの意志を伝えた。
アビガイルは、ダビデの申し出を受け入れ、ダビデの妻となった。この未亡人との結婚が、ダビデを物心両面で支えたことは想像にかたくない。

歴史を動かした「妻の説得」といえば、フランク王国クローヴィスの妻・クロティルダを思いおこす。
481年に即位したフランク族の王クローヴィス。彼は493年、当時18才のクロティルダという、ブルクンド王国の王女を妻にしていた。
カトリック教徒の妻は信心深く、クローヴィスはアリウス派を信仰しており、夫妻に待望の男子が生まれた。
クローヴィスは妻の懇願に負けて洗礼式を行った。するとその直後、子のインゴメールは亡くなってしまった。
夫は「我が神々を信じていれば、息子はまだ生きていたはずだ。お前があんな神なんか信じて、妙な儀式をやったからだ!」と思ったかもしれない。
クロティルダは悲嘆にはくれたものの、495年またも夫妻には男児クロドメールが生まれた。
彼女はまた洗礼を行いたいと主張し、この時もクローヴィスは受け入れた。
しかしクロドメールは病気にかかり、息も絶え絶えになってしまったが、彼女は懸命に神に祈りクロドメールは徐々に回復した。
しかも回復後はすっかり元気な男の子として育ち、他の子よりも丈夫な男児に育った。
496年頃、クローヴィスはアラマン族と激しい戦いを繰り広げていた。戦況が不利になる中、クローヴィスの脳裏に妻クロティルダが祈る姿が思い浮かび、妻の神に助けを求めてみようと考えた。
そして、もしこの戦いで勝利をもたらせてくれるのならば、自らも洗礼を受けると誓った。
すすろフランク族は勢いを盛り返し、勝利をおさめ、クローヴィスは、その年のクリスマスに洗礼を受け、ランス司教セミギウスが王の背中に聖油を塗り、頭から聖水を授けた。
そもそも、クローヴィスのフランク族は、蛮族と呼ばれる中でローマ人に近い存在で、何世代もローマ軍兵士として戦ううちに、フランク族は「俺らはローマ戦士だから」というアイデンティティを持つようになっていた。
彼らはローマ領であったガリアを支配する際、ラテン語を話したくらいで、フランク族が乗り込んでいった先のガリアの人々との違いとは、宗教だけであった。
そして、クローヴィスの改宗によってその垣根は取り除かれた。宗教が同じになれば、通婚が増え、 戦う理由もいつの間にか消滅し、ひとつの民族として融合していった。
後年、クローヴィスは、「自分はローマ帝国の後継者である」と考えるようになり、彼が「ここは、ローマ帝国の流れを汲むフランク人の国である」と宣言するに至る。
そして、フランク人もガリア人もそれを受け入れた。
「フランク人の国」は、いつのしか「フランス」という言葉に変化した。
以後の展開を総括すると、「クローヴィスの洗礼」がホップ、「カール大帝の戴冠」がステップ、「ピピンの寄進」がジャンプの三段跳びで、いわゆる"ヨーロッパが誕生”する。

歴史上の「三姉妹」といえば、戦国「浅井三姉妹」を思い浮かべるが、外国では「宋家の三姉妹」がよく知られている。
三姉妹の実家は、中国近代に「浙江財閥」の代表といわれるようになる「宋家」であった。
三姉妹の父・宋耀如は海南島の商人の家に生まれた。
叔父に連れられてアメリカで茶や絹の商いを学んだが、13歳の頃、実質「養父」ともなったその叔父の家を飛び出した。
養父が学問をしようという本人の気持ちを、全く受け入れそうもなかったからである。
密航を企て乗り込んだ船長の好意で、敬虔なキリスト教メソジスト教会の信者に預けられ、バンダービルト大学神学部に学び、今度は逆に中国へと開拓伝道へと派遣されることになった。
1886年、宋耀如は14年間のアメリカ生活を終えて帰国し、上海に落ち着いた、
同じくメソジスト教会の女性と結婚して生まれたのが靄齢・慶齢・美麗の三姉妹および三兄弟(子文・子良・子安)である。
帰国した宋耀如は、伝道よりもしだいに企業経営に気持ちが傾いていったようだ。製粉業や製麺業などに投資したりする一方、聖書の出版・印刷で成功していった。
宋家の運命は、その家柄や血統によってではなく、財をなしつつあった宋耀如の元を孫文が訪れることによって大きく旋回していく。
中国は清王朝の末期で日清戦争で負けるなどして、予想外の「弱さ」が海外にも露呈されてしまった。このままでは中国は列強の「餌食」になると、清王朝を倒して近代的な国家をつくろうという革命を志す者達が各地に現われていた。
そんな中に孫文という人物が登場するが、革命に必要な軍資金を集める必要があった。
その資金援助をしたのが、中国では浙江財閥として成長しつつあった宋家と、日本では炭鉱財閥と繋がる福岡県の玄洋社関連の人々であった。
孫文は医者を目指して、兄を頼ってハワイにいきキリスト教の洗礼を受けている。年齢においても「受洗」した点でも、宋耀如と共通したものがあった。
そして宋耀如は、孫文の気宇壮大な革命のビジョンに共鳴し、「伝道」よりも「革命」に命を注ぐべきことを決意し、事業の合間をぬって孫文を助けた。
孫文の秘書をしつつ、その資力を生かして辛亥革命のスポンサーともなったのである。
孫文夫人が三姉妹の次女の宋慶齢である。
孫文の後継者となって国民党を率いたのは蒋介石であるが、彼の夫人は三姉妹・三女の宋美齢である。
理想家であるとともに現実主義者という面をもつ孫文は、様々な形で国民党のパートナーを求めていた。
孫文の国民党がそうした援助をうけて次第に大きな力を得て、清朝を倒して「辛亥革命」を成功させてついには中華民国を成立させたのである。
国民党は「三民主義」に基づいて資本主義を目指すという方向性をもっていたが、その一方で資本主義の路線とは違う「社会主義」路線を目指す共産党も勢力を伸ばしていた。
また日本の勢力の伸長や、外国と結んで勢力を伸ばしつつある「北方軍閥」の存在もあった。
そこで、孫文は共産党とも組んで(人民戦線)、中国が「ひとつ」になることを目指した。
しかし1925年孫文は病に倒れ、59歳でこの世を去る。
ところでコミンテルン(ソ連の共産党の国際組織)はその指導のもとに中国共産党を成立させていたが、国民党にも積極的にはたらきかけていた。
何しろ封建主義→資本主義→社会主義という発展段階をへて社会主義は実現するという考えから、中国においてまず、封建制的な部分を倒す必要があり、その点では国民党にも期待していたのだ。
孫文はこれに応えてコミンテルンの援助を受け入れ、国民党にソ連式の「民主集中制」をとりいれるなどした。
また、共産党員が党籍を維持したまま国民党に入党することを認めた。
こうして最初の「国共合作」が成立したのである。
1925年に孫文はなくなったものの、1926年 国民党は中国の「軍事的統一」を目指して、革命軍を広州から「北上」させた。
北には国民党に服さない「軍閥」が割拠していたからである。
この時、「北伐軍」の総司令官に任じられたのが蒋介石である。
蒋介石は、孫文の遺志を受け継ぎつつ「北伐」を続けるヤに見えたが、上海に至るや突然にその矛先を共産党に向けたのである。
上海では、共産党に影響された労働者の騒動が絶え間なく起こっていたのは確かであったが、ここに至って蒋介石は、孫文とは明らかに違った路線を歩むことを内外に示すことになった。
これは同時に、故・孫文夫人の宋慶齢と蒋介石夫人となった宋美齢との間と大きな「亀裂」を生む結果にもなったのである。
上海で、蒋介石は「反共クーデター」にウッテでて700人もの血を流したのだ。
蒋介石は故・孫文夫人の宋慶齢に南京政府への参加をウナガシたが、宋慶齢は「三民主義」を否定して「軍事独裁政権」を作ろうとした蒋介石とクミすることは断固拒否した。
つまり宋慶齢はこの段階で、蒋介石と結んだ「宋一族」とは一線を画して歩むことになったのである。
ところで1931年満州事変がおこり、日本が満州を支配する勢いを見せたが、共産党勢力の拡大に脅威を感じた蒋介石は、相変わらず「反共」に徹し、日本との武力対決を避ける方針をとった。
蒋介石は、中国が明治維新に成功した日本に学ぼうとした時代に日本に留学し、新潟の高田の軍隊で「日本式」を学んだことがあり、その心理的抵抗もあったのかもしれない。
ところで、「抗日」よりも「反共」に走る蒋介石政権に対する抗議運動は、各地で燃え上がっていった。
そんな折、蒋介石が北方の視察のために西安にある楊貴妃の保養地(華青池)を訪問した時、「晴天の霹靂」ともいうべき大事件が起きる。
北方軍閥の雄・張学良によって蒋介石が拘束されてしまい、しばらくは蒋介石の生死さえ不明であった緊迫の時間が過ぎていった。
父(張作霖)を日本軍に爆殺された張学良の目的は、国民党が共産党と戦うのをやめて、まずは日本軍を大陸から除こうという「方向転換」を説得するためであったのだ。
その西安(華青池)には、共産党のNO2・周恩来もやってきたし、蒋介石の夫人・宋美齢もかけつけ"必死の説得"を行った。
監禁状態の中、突然現われた妻を見て、蒋介石がどんなにか驚いたかは、想像に難くはない。
拘束から約10日後に解放された時、蒋介石はドラスチックに「攻撃の方向」を転換した。
孫文がかつてそうした様に共産党と手を組み、日本軍と対決する(抗日)ために、第二次の「国共合作」が行われたのである。
ただ「第一次」と違うところは、張学良らの北方軍閥も「国民党」へと旗幟を変え「国民党」の旗(青天白日旗)を翻したという点である。
つまり、あの広大な中国で「抗日統一戦線」が実現したために、北方軍閥を利用して中国東北部への勢力を伸ばそうとした日本軍の目論見は外れることになる。